沖縄県収用委員会 第10回審理記録
内間清子(土地所有者)
土地所有者(内間清子):
皆様こんにちは。私は浦添市字城間に住んでいる内間清子と申します。私は牧港補給基地に約310坪を所有している契約拒否地主です。
私が契約を拒否した理由ですけれども、1961年3月、中部地区にある高校を卒業し、その年の6月、民間有限会社に就職しました。1961年8月、兄が基地内で働いていて、仕事に行く途中交通事故に遭い、それがもとで肋膜炎を悪化し、肺結核になり死亡しました。そして1963年ごろ姉が結婚して、1963年以後より私が家計を支えるために働きました。母は兄の死亡のショックで毎日床に伏すようになり、喘息ぎみでした。少しでも給料のよいところと思い、政治的にも目覚めてないときでしたので、米軍基地の牧港補給基地資料統計局にキーパンチャーとして就職しました。
当時のキーパンチャーの勤務ですけれども、深夜、夜の11時から明朝の7時までの 勤務でした。1年半で約100種類の書類作成方法を暗記するためと、キーパンチャーの文字の配列を覚えるために、深夜作業に就いていました。そして軍職場ではキーパンチャーの作業管理基準も無視した、休憩室もなく、連続作業最長時間が2時間半とい う劣悪な労働条件のもとで、休憩時間も午前10時に10分、3時の休憩時間に10分、そ して昼食時間ですけれども、20分で、40名の女子従業員が一度にトイレに行きますので、トイレの使用に時間がかかり、実質お昼時間が10分間ということでした。
この職場は、IBMからコンピュータを借りて三交替のフル可動をし、復帰前後も変 わることのない労働強化でした。1日のタッチ基準は、4万回と労働基準法に決められていますが、牧港補給基地のキーパンチャーは、タッチ数は8万回、実に2倍の重労働です。連続作業時間基準では、45分以内に15分間の休憩に対し、牧港補給基地のパンチャーは1時間、最長2時間というすごい労働強化です。
機械を置く広さですけれども、4平方メートルに1台が基準ですが、牧港補給基地では2台で基準以下である。コンピュータの油が流れないためとして、年間の四季を通 じ、室内温度が18度になっている。そのために死産、流産、結婚して10年も子供ができない人がいるということでした。
病休とか、産休、退職者が出ても、人員の補充がなく、休憩時間以外にトイレに行くと、キーパンチャーの米軍婦人が後から追ってきて、様子を見に来て、「あなたは美しいから鏡を見なくてもよい」と言う。仕事中に隣の同僚との短い会話もだめ。そして1分間の遅刻を3回すると1時間の減給。病気で仕事を休むと、医師の診断は1月間の診断書が出ても28日間で打ち切るというような状態でした。
劣悪な労働条件の下で40人中、16人の罹病者が出、特に体調の悪い3人、私を含め あとの二人、病院まわりが1968年の5月から始まったのです。中部地区、那覇地区の 良心的な医者を探しました。仕事を得て3年で病院探し、結果は軍作業員であるとい うことで、上腕神経痛でした。どの医者も仕事をかわりなさいとのことでしたが、那覇の開業医院で「仕事からきたものとは書けない」と言われました。「なぜですか」という問いに、「あなたたちは軍作業員だから、そんな診断書を書いたら今夜のうちにこの診療所は取り壊される。あとの60人の患者が放り出されることになる。米軍には逆らわないほうがいい。どうしても仕事上の理由という診断書が必要なら、明日から病院に来ないでほしい」と断わられました。
その後、那覇市にある民主的な診療所を見つけて二人で受診しました。そこの医師は31種類の自覚症状を診断書1枚にずらっと書き、仕事が原因で業務上の診断と書いてくれました。
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これが沖縄タイムスに記載された業務上の疾病と認定された沖縄タイムスの記事です。
どうもありがとうございました。
それから続けます。
「あなたは仕事を休んで病気を直すことを考えなさい。米軍には私たちが医学上の説明をするので、何かあればすぐこちらに連絡しなさい」と言われました。やっと救われたという思いでした。
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その治療を開始したころから、米軍の嫌がらせが始まりました。管理者が家庭訪問をして、「本当に病気か、病院に行くことができるのであれば、1時間でも職場で働 きなさい。私病にしてやめなさい」と退職を強要されました。職業病でやめるなら、認定申請のための書類は出さない。陸軍病院の診断を受けてきなさい。私が病院までエスコートする。診察は5分で済むなどと言われました。
職場の管理者、私たちはスーパーパイザーと呼んでいましたが、陸軍病院の受診に行っても、私が英語が不自由なので、意思の疎通がうまくできないので行けないと断わりました。すると命令不服従による解雇との通告を突き付けられました。私はその受け取りを拒否しました。
次に届いたのが身体障害。それは私が沖縄戦でヤンバルに避難した4、5歳のころ、台風により飛んできた屋根瓦が左目に当たって失明したことによる理由でした。解雇通告。戦争がなかったら、失明することはありませんでした。なぜなら浦添城間にあった私の家は茅葺き屋根だったと母がよく話していてくれたからです。
私が育った戦前の屋敷は、とても静かでいいところだったとのことでした。私より4歳年上の柿は、昔の屋敷内のことをよく話題にしていました。そのときの姉の目は キラキラ輝いていました。クバの木が残り、ビワやバナナが植えられた庭に、アヒルの遊ぶ大きな池があり、30羽のアヒルが遊んでいたとのことです。
身体障害者を理由とする解雇通告は、何の理由にもなりません。私が基地従業員として採用されるときに履歴書に左目失明を明記し、米軍は承知の上で私をキーパンチャーとして採用したからです。
当時、私の所属していた米軍牧港補給支部は、不当解雇撤回を共に闘ってくれました。苦難の未解雇撤回を勝ち取りました。米軍は米軍にとって都合の悪いものは、あの手、この手の理由をつけて追い出そうとしました。口先では民主主義は自由だと言って、アメリカは弱い者をただ一人さえ使えなくなったらボロぞうきんのように排除しました。それは1973年祖国復帰の翌年のことでした。
戦前のお墓は約40坪の広さでしたが、現在は基地に取られ、母も実家の土地を借りて小さなお墓を置かせてもらっています。
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これが、戦後の墓です。戦前の墓は約40坪の広さで、私も覚えていますけれども、終戦直後に行ったときは40坪の広さでした。現在はそこも基地に取られましたので、母の実家の小さい土地を借りて、そこに置かせてもらっています。
スライドありがとうございました。
私はこれ以上、米軍に土地を使わせたくありません。一日も早く土地の返還をお願いします。以上で私の意見を終わります。
当山会長:
はい、ご苦労様でした。では、次に中村博則さん。
スライド写真提供:違憲共闘会議