意見陳述書
一九九八年四月二十八日
輿石正
五○四名の原告団の一人、輿石正と申します。
十三年前の三月二十八日、私は家族とともに飼っていた犬とネコと小鳥を連れて東京から沖縄に移住してきました。移住先は山原名護市の東海岸にある嘉陽という小さな集落です。住んで四ヵ月ほどだれ一人口をきいてくれる人もなく、住めないかなと思っていました。小学生の娘二人いたのがひとつのキッカケとなり嘉陽はじまって以来の内地の人間の移住が可能となったのです。三十年前沖縄を訪ねたときからの夢をかなえたわけです。私が二十年近くの東京ぐらしをやめて沖縄で生涯の半分をくらしたいと思ったのは、もっと人間として豊かなくらしをしたいと思ったからです。時間と金で追われ、人と人とがゆったりとつき合うことが東京では私にはできないと感じられたからです。
沖縄山原の嘉陽に住んで私たち家族はどんどん元気になっていきました。所得は、半分以下なのですが私はキビ倒し、キビかつぎ、たび重なる部落行事に出ながら、自分のなかにゆとりがどんどん広がっていくことにあらためて驚きました。娘や妻は家の横の県道を行ききする米軍車輛に驚きM16を肩にした米兵の行軍に目をまるくしていたとき、私は嘉陽の人たちと海にもぐり、家をたて、墓をたて、豆をもぎ、酒をのみ、体全部を開いていて生きていくことの楽しさに酔っていました。時にいがみ合いののしりあうことがあっても助けあうこと(ユイマール)のすばらしさのなかで私は十三年間を過ごしてきました。
経済的には貧しい嘉陽でのくらしの根っこにある豊かさは、東京での予備校講師の私を少しずつ変えその変わりゆく自分の姿が私には嬉しくてしょうがなかったし、今でもそうなのです。
ひょんなことから、名護で予備校を始めることになり、今も私は一週間で30コマの授業をしています。十二年間、山原の子供たちを教え、子供たちから教わりながら、私は自分が「沖縄」というものから学んでいるのを感じできています。それは沖縄の歴史であり、沖縄にすんできた人々の知恵であり、沖縄の心というものです。そういえば、私は東京に住んでいたとき「東京の心」と口にしたこともないし、聞いたこともありませんでした。それはなぜたったのか。いま沖縄の山原でくらしでみて、私はすなおに「沖縄の心」ということばを口にすることができるのです。名護市の東海岸、旧久志村の嘉陽で私は、戦後日本本土が捨て去りそれがために漂流しはじめた人間のチムグクル(心)をミサコ姉さん、又吉のおじい、初っちやん、ノリオたちから体をとおして教えてもらっています。その嘉陽の海のすぐ近くに巨大な海上ヘリ基地がつくられようとしているのです。私たちが魚をとり、夏の夜には体をやすめそして浜下りをする海に、世界のどこにもない海上ヘリ基地が建設されようとしているのです。私は喜陽の海を毎日見ています。苦しいことや悲しいことのすべてを海にむかって投げ、いやされていく自分の心を感じています。その心が、へり基地を拒むのです。弱い所、もの言わぬ所に押しつけるその手法を拒むのです。法の下の平等を望むのです。人魚伝説の国際保護動物ジュゴンのすむこの沖縄東海岸の海亀のあがってくるその海は、数億年の厚みをもって海上へリ基地に無言のやさしい拒否を私たちに伝えています。私は嘉陽でくらしていて本当にそう思うのです。そう思える心を私は沖縄から学びました。名護市にくらす人々のヘリ基地移設に関する思いが出されたことがあります。それを読みます。
日米安全保障協議委員会は、去る四月十五日に「沖縄米軍基地の整備・統合・縮小に関する日米特別行動委員会(SACO)」の中間報告を正式決定した。その目玉である普天間飛行場の全面返還に伴う代替へリポート建設の有力侯補地としてキャンプ・シュワーブが提示されている。現在、その移設先の一体化に向けて、日米両政府間で協議が進められており、今月中には沖縄県に正式提示される予定である。今回の日米安全保障協議委員会の決定は、「普天間飛行場返還」と引き替えに「有事の際の日米防衛協力の強化」を約束するもので、決して恒久平和を願う県民の心・意思に沿うものではない。キャンプ・シュワーブが代替へリポートの建設候補地として提示されたことも、名護市民にとって寝耳に水であり、住民無視もはなはだしい。
名護市民は、これまで50年余に渡り、米兵による女性刺殺事件、米軍機墜落事故、砲弾落下事件、機関銃乱射事件、タクシー被弾事件等々、度重なる事件事故に脅え、更には爆音や飛行騒音など、基地被害に我慢に我慢を重ねて耐えてきた。
キャンプ・シュワーブには久志、豊原、辺野古の各集落と子供達の教育の場である久辺小学校、久辺中学校、更に、市民の生命の源である辺野古ダム、辺野古浄水場が隣接し、基地内の森林はその水源函養林である。もしも、キャンプ・シュワープ地区にへリポートを新たに建設することとなれば、基地機能の拡大と強化、更には固定化につながるものであり、基地に起因する事件事故及び基地被害が増えることは日を見るより明らかである。特に配置される戦略へリコプターの飛行による被害は、地域住民に耐え難い苦渋を強いるばかりでなく、子供達の教育環境も著しく悪化させることは明白である。
去る6月28日には、名護市議会においても「普天間基地の全面返還に伴う代替ヘリポート移設に反対する決議」を全会一致で決議している。へリポートなど基地機能の移設は小手先のその場しのぎにしかすぎず、決しで基地の整理・縮小にはつながらないということは、全市民の一致した認識である。従って名護市民は、市民の生命、財産及び環境を守る立場から、これ以上の基地機能の拡大・強化、更には固定化につながるようなヘリポートの建設に市民総ぐるみの運動で断固反対する。また、日米地位協定の見直しと基地の整理・縮小を求め、跡地の平和利用を推進することを、ここに決議する。
平成八年七月十日、名護市民会館前庭で読みあげられた大会決議案です。大会名は「名護市域への代替ヘリポート建設反対市民総決起大会 断固反対!」です。主催は名護市域への代替へリポート建設反対市民総決起大会実行委員会。構成団体は、名護市、名護市議会、名護市区長会、名護市教育委員会、名護市商工会、名護市婦人会、名護市老人クラプ連合会、名護市PTA連合会、自治労名護市職員労働組合、北部地区労働組合協会、連合沖縄北部地域協議会。実行委員長は名護前市長比嘉鉄也です。
この前後二回にわたって名護市議会による「代替ヘリポート建設に反対する決意」と、さらに再度の市民総決起大会で名護市長はヘリ基地N0の意志を表明したのです。それが比嘉鉄也名護市長の<苦汁の選択>という判断でヘリ基地候補地調査容認へとつながり、にわかに「振興策」とのひきかえというもとに、ヘリ基地移設自体の容認へと傾いていったわけです。「市民投票」は、そうした市長、議会のなしくずし的変質に対して、名護市民の意志をはっきりさせる最後の民主的手段でありました。その結果がヘリ基地移設に対しで「反対多数」と明示されたのです。三日後の比嘉鉄也前市長の市長辞任とのひきかえの「ヘリ基地容認」は、こうした文脈で出されたものでした。市長に命令できるのは、市民と議会であると言い続けた比嘉前市長の口から出たものでした。汗みどろになって署名を集めて、そして市の予算を使って議会決議の「条例」に基づく正式な市民投票の結果が一市長の辞任とひきかえにくつがえされたことを、比嘉鉄也前市長が敬愛する程順則はどのような思いで見ていたのでしょうか。私は、この裁判をするにあたって、程順則の父、程奉則の墓を訪ねに中国蘇州に出かけました。比嘉鉄也前市長への散意と、大和人(ヤマトンチュー)の私の礼儀の証でした。
比嘉鉄也前市長のキーワード<苦汁の選択>。この言葉の中身こそ実は、名護市民の知りたいものの一つです。一体なぜ市民を守るべき首長が、自らの発言を変質させたのか。何がそうさせ、そして何が語られないままに名護市民をおいてけぼりにさせたのか。その結果、どれほど基地の重圧を受け続ければいいのか。その疑問符に、五百四人の名護市民、とりわけ四百名の旧久志付の市民は傷つき、苦しみ、怒りを爆発させたのです。そして日本の民主主義と子どもたちも傷ついたのです。法の下の平等が沖縄に通用しなくなってしまうのです。一体「私たち市民を誰が守ってくれるのか」、「私たちは何によって守られるのか」という根本的な問いの声を声として出すなかで思想・信条を自由に発言することを否定した比嘉鉄也前名護市長及び名議市当局を裁判に訴えるものであります。
沖縄の歴史にとって忘れることのでさない、一九五二年四月二十八日。まるで天の声のごとく四十六年後のその同じ今日、四月二十八日。責任と自覚とユーモアをもって、この裁判とともに成長したいと願っています。終ります。