【1996年1月26日号の 『読売新聞』 の 「あの人は」欄による紹介】
あの人は
元べ平連事務局長
べ平連 正式名称は「ベトナムに平和を!市民運合」。ベトナム戦争が激化する1965年に活動を開始し、戦争終結翌年の74年に解散した。会員も会費もなく、「やりたい人がやる」という運動方針が多くの支持を集め、一時は全国に約300もの支部的なグループが誕生した。脱走米兵の国外への脱出の援助、ニューヨーク・タイムズ紙への意見広告の掲載などユニークな活動を続けた。
多数決で答決めるな
"昭和ひとけた"魂
英語授業で発揮
東京の代々木駅に近い大手予備校の教室。高校二年生対象の冬期講習で、ワイヤレスマイクを首から下げ、英語のテキストを滑らかかに読み上げる。「They だから、彼らという意味に決め付けるな。もっと日本語を大事にして」と声に力を込める。
講師としての仕事ぶりは「英語嫌いが英語好きになると生徒に好評」(同校教務課)という。ノートを取っていた女子高生(17)も「教え方がすごく丁寧」と認める。「でも、ちょっと偉そうな感じ」
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「今では信じられないだろうけど、予備校にもべ平連のグループがあったんだ。学内の立ち食いそば屋の値上げなんかに反対してね」
アメリカが北ベトナムヘの爆撃を本格的に開始してからまもなく、「ベトナムに平和を」をスローガンに結成された反戦団体「べ平連」。終戦から二十年がたとうとしていた。
世間の注目を集めたのは、六七年十一月、横須賀港に停泊中の米海軍の空母から脱走してきた米兵四人をかくまったと公表してからだ。右翼からの妨害が続く一方、毎日、励ましの手紙がダンボール箱数個分も寄せられたという。
四人は旧ソ連を経由して、スウェーデンに渡った。べ平連がかかわった米脱走兵は最終的に十八人に上った。「米軍と日本の警察の目をくぐるのはたいへんでした」。尾行をまくための技術を覚えるために、外国のスパイ映画をみんなで見に行ったこともあつた。
水面下の活動の一方、毎月、定例デモを行っていたべ平連の会議は、しばしば深夜にまで及んだ。
「徹夜して最後まで起きていたのは吉川さんと僕だった」と語る元代表で作家の小田実さん(六三)は、「彼はいつも僕の意見に苦虫をかみつぶしたような顔をして異論を唱えていた。それがうまくいった理由の一つだと思う」と振り返る。
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結成当初からべ平連に参加したわけではない。というのは、共産党からの除名という過去が自身を縛っていたからだ。
入党したのは、東大三年の五月。二年の時、朝鮮戦争が起こる一方で、戦没学生の手記を集めた「きけわだつみのこえ」が映画化された。「空襲の体験とダブった。政治的良心を体現するのは共産党しかないと思つていた」
が、同党系の平和団体の事務局員で常任理事だった三十二歳の時、人生の転機が訪れた。理事会の席上、「中ソ対立の中で平和運動が政治的に利用されることが許せない」と、原水爆禁止運動世界大会の運営方法を公に批判。その後、てんまつを雑誌に掲載したことから党を除名された。
べ平連の二代目事務局長に、と知人から声をかけられた時も、党のことを考えて迷った。「そんなこと気にせんとって」という小田さんの言葉で決めた。
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ベトナム戦争の終結をもって、べ平連は解散したが、その後も、予備校の講師を続ける一方でいくつかの市民団体にかかわってきた。
戦後五十年という節目の昨年八月十五日、四十一の団体と千四百六十六人の個人から約千二百万円の賛同金を集めて、「市民の不戦宣言」という意見広告を全国紙に掲載、「いまこそ、不戦と非武装の原理を見すえるべきではないでしょうか」と呼びかけた。
「こういう意見を持つている市民も、日本にいることを知ってもらいたかった」と語る夫を、妻の祐子さん(六四)は「生き方としては損だと思うが、まじめで筋を通す人」と言う。
予備校の授業で「語学の解答は多数決じゃないよ。少数だって正しいことがある」と、なかなか手を挙げない生徒たちに呼びかける。この言葉は、戦後民主主義の洗礼を受けた”昭和ひとけた”の思いを伝えているように聞こえた。
(坂本 浩)