news-button.gif (992 バイト) 37 報復戦争と日本参戦に反対するシンポジウムでの私の発言要旨 (2001/11/27掲載)  

 「ご案内」欄 No. 48  でお知らせした11月10日のシンポジウムでの私の発言の要旨を以下紹介します。なお、
 この日のシンポジウムの全体の状況は、その下に転載した『かけはし』(新時代社発行、2001年11月26日号)の記事を参照してください。

 
918日は『満州事変』の開始から70年だった。日本の新聞はそれをどう報道するか、注目していたのだが、すくなくとも『朝日』は一行も触れておらず、その代わり、『あれから1週間……』として、9・11事件のことだけだった。日本人総体はあの15年戦争から何も学んでいない。だが、ベトナム反戦に関わった人々は様々なことを学んだ。

 湾岸戦争の時もそうだったが、今回も、『反戦運動はベトナムの時のように盛り上がっていませんね』とよく聞かれる。だが、その認識は事実ではない。

 1965年、東京で反戦市民デモが初めてあったのは2月14日の北爆開始から46日目、べ平連が初のデモをしたのが79日目だった。だが、湾岸戦争はイラクへの攻撃が開始されてから戦争が終了するまで僅か39日間だった。その短い間に、反戦の行動は各地でおこなわれた。ベトナム戦争の時、ベ平連はアメリカの『ニューヨーク・タイムズ』に全ページの反戦意見広告を出したが、それは北爆開始から8ヵ月後のことだった。湾岸戦争のときも、市民の意見30の会などがやはり『ニューヨーク・タイムズ』に『国際紛争は武力では解決できない』という意見広告を載せたが、それは戦争開始から58日目だった。だが、今回はわずか1週間後に、日本の運動が『ニューヨーク・タイムズ』に反戦の意見広告を載せている。集会やデモなど、各地でつぎつぎと自発的に行なわれている。インターネットの発達もあり、その上での呼びかけだけで、数百のデモが数日間で行われるなど、運動側の反応のスピードは実に速くなっている。

 だが、アメリカも日本政府も、ベトナム戦争の教訓から学ぶべきことを何も学んでいない。だから、ベトナムのときにベ平連がかかげた3つのスローガン(1)アメリカはベトナムから手を引け! (2)ベトナムはベトナム人の手に! (3)日本政府は戦争に協力するな! の『ベトナム』を『アフガニスタン』に変えればそのまま現在に通用するし、湾岸戦争のときの意見広告のタイトルもそのまま、現在でも言わねばならぬことだ。

 しかし、ベトナム戦争や湾岸戦争のときと、今回との間には、大きな違いがある。第一に米国の傲慢さが極まったということだ。アフガニスタンへの宣戦布告もなく(ベトナムでもそうだったが……)、その国の体制を破壊し、あらたな政権のありようを勝手に決めようとしている。これはベトナムでもイラクでもやらなかったことだし、また、ビン・ラディンを捕まえた場合に、証拠の開示も公開も必要としない軍事裁判で裁くなどとしているのは、コソボでも行なわれなかったことだ。第二にソ連と社会主義圏が崩壊して存在しなくなったことだ。今やアメリカはどの大国からも掣肘を受けることなく、好きなように振舞っている。そして第三に、――これが私たちにとっては最も重大な違いだが――日本の加担が質的に変わったことだ。ベトナム戦争のときは、日本の存在なしに戦争は不可能だったとアメリカの高官が認めたように、日本は沖縄をはじめ全土の基地を攻撃のために提供し、また物的・人的資源をあげてアメリカの戦争を支えたが、軍隊は派遣しなかった。また、湾岸戦争のとき、日本は巨額の戦費を供与したし(610億ドルの米軍コストのうち、日本、ドイツなどが負担したのは540億ドルで、アメリカに支出は日本の支出を下回った。)、また掃海艇などを派遣したが、しかし戦場に軍隊は派遣しなかった。今回はそうではない。戦争が行なわれている最中に、法律を変えてまで積極的に軍隊を戦場に派遣しようとしている。日本の『戦争当事者性』は、以前と比較にならぬほど増大した。

 ベトナム戦争の時、ベ平連は、アメリカの兵士に脱走をよびかけ、事実、何人もの脱走兵を支援をして国外に送り出した。その後、方針は変わって、在日米軍兵士に軍隊内で反戦・抵抗の行動を起こすように訴え、それに協力した。岩国・佐世保・横田・沖縄・横須賀などの日本のほとんどの米軍基地内に兵士による反戦の組織が作られ、地下新聞が発行された。岩国の海兵隊空軍基地では、航空機の燃料タンクに砂が入れられたり、懲罰で入れられた営倉内で大規模な暴動が起きたりした。侵略の当事者である軍隊内でのこうした行動は基本的に重要なことだと認識していたからだった。さて、現在、日本自衛隊が、まさにこうした戦争の当事者になろうとしているのだ。私たちも、日本の軍隊=自衛隊に『死ぬな、殺すな、殺人に協力するな』と呼びかける責務がある。すでに京都、横須賀(そのご佐世保でも)などでは、自衛官ホットラインの電話が市民グループによって開設され、自衛官からの相談を受け付けようとしている。

  周辺事態法に反対するとき、宗教者、全労連、市民団体、社共両党を含めた5万の集会が行なわれた。また、共産党の不破哲三さんと社民党の土井たか子さんが並んで街頭演説に立つ機会もあった。今回はまだそういうことができていない。12月上旬に、そういう勢力が結集した大きなデモの機会がつくれないか、という動きもあったようだが、今のところ、実現の見通しは出てきていないようだ。ひとつは全労連が、連合とのある種共闘を希望しているため、この面での意欲を持っていないという話や、今年前半の参議院選挙での大きな後退が、共産党の動きを鈍くさせているとか、いろいろな観察、推測もあるようだ。

 しかし、いずれにせよ、それが当面無理ならば、市民運動は、そうした動きを追求しつつも、まずは市民運動だけでも、最低限の提携を組み上げ、なるべく早い機会に結集の力を見せるひとつの場を用意すべきではないだろうか。ベトナム反戦のときでも、7万人のデモができるようになるまでには、3年、4年と市民の独自の運動が積み重ねられてきたのだ。

 市民運動は、少数派であることを恐れず、非暴力に徹して市民的不服従の行動をも辞さず、戦術的には自衛官への働きかけを含む行動を積み重ね、何らかの市民運動の核を形成する必要があるだろう。また、長期にわたる行動を保障するためには、定例の行動も考えられてよい。

 現在、中東、西アジア問題や、イスラム教、あるいはアフガン情勢など、学習会、話を聞く会、シンポジウムなどが実に多く行なわれている。今日の会もその一つだ。それ自体は決して悪いことではないのだろうが、しかし、それは知識を増やす勉強会に終わって、必ずしも行動へのバネになっていないのではないか。それは、全体を通じて大きく結集しようという目標が明確に高く掲げられていないからだと思う。

 これまで圧倒的にアメリカの武力報復を支持しているとしか伝えられてこなかった北半球諸国の世論の動向もようやく、違う面の報道が出始めた。圧倒的小泉支持にも、たじろがずしかし、少数派であることを恐れず、基本的な主張を引き下げることなく、行動を持続させ、大きな結集の機会を追求してゆく。各グループがそういう展望を共有しつつ、中堅世代活動家によるイニシアティブ・グループの形験が必要ではないか。

 様々な人たちと協力して運動をしていかなければならないが、協力、提携にも、最低限必要なルールがある。内ゲバ=異なる思想の対立を相手の肉体的抹殺によって解決しようとした人たちは未だにそのことを自己批判していない。その誤りが明確に認識されない限り、このような人たちと一緒に運動する気はない。

 いろいろなことを言ったが、1965年、ベ平連を始めた時、代表の小田実は32歳、私は33歳だった。そのとき54歳だった久野収さんもおられたが、私は、ずいぶんお年寄りもおられるな、と思ったものだった。そのときの久野さんの歳をすでにはるかに過ぎてしまった。若い世代の人たちが、今日のシンポジウムを知識を増やしただけの勉強会に終わらせず、ぜひ、積極的な行動が切り開けるよう努力してくださるよう、希望する。

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国の報復戦争と日本の参戦に反対してシンポジウム
どのようにとらえ、いかに闘うか
『かけはし』 (新時代社発行、2001年11月26日号)より

 十一月十日、東京・文京区民センターで「アメリカの報復戦争と小泉政権の参戦に反対する11・10シンポジウム」が行われ、百三十三人が参加した。主催は、九月十八日に三十一人の呼びかけで発せられた「共同声明――米国のテロ報復戦争に反対し、日本政府の戦争支持の撤回を求める」の呼びかけ人会(注・同共同声明の全文は本「市民運動」欄のNo.24に掲載)。この共同声明は二千八百人以上の賛同がメールや手紙で寄せられ、十月十八日にブッシュ米大統領と小泉首相宛に提出されている。
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中東史――石油・軍事・イスラエル

 中山千夏さん(作家、元参院議員)がコーディネーターとしてシンポジウムの進行役をつとめる中で武藤一羊さん(ピープルズ・プラン研究所)が最初に報告。武藤さんは、テロに対してその百倍のテロによって「報復」するアメリカの対アフガン戦争を厳しく糾弾した。そして、アジアの草の根民衆組織がアジア平和連盟を結成し、「アフガニスタン民衆の飢餓と凍死が迫る状況の下でただちに爆撃でやめよ!」と訴えて十二月九日と十日に各地のアメリカ大使館や領事館に抗議行動を行う計画を明らかにした。
 「九月十一日と中東・パレスチナ」というテーマで報告した藤田進さん(中東研究)は、今回の事件・戦争の背景にあるパレスチナ問題について報告した。藤田さんは、戦後の中東の体制が、欧米が石油資源を確保するための軍事的体制として構築され、その中に周辺のアラブ民族との共存を一切拒否するシオニスト・イスラエル国家が「埋め込まれた」ものとして特徴づけた。
 この「石油・軍事・イスラエル」という「三点セット」の戦後中東体制を根底的に揺り動かしたものこそが、自らの土地を奪われ、難民キャンプから立ち上がったパレスチナ解放闘争だったことを藤田さんは強調した。そして今回の事態に立ち向かうためには、戦後の中東史がパレスチナ人民に強制した差別と絶望の境遇を捉える必要がある、と指摘した。

 運動の原則をあいまいにせず 

 インパクション編集委員会の田浪亜央江さんが「イスラームをどう捉えるか」というテーマで報告した後、吉川勇一さん(市民の意見30の会・東京)は、一九六六年にベトナム戦争に反対してワシントンポスト紙に掲載した意見広告、一九九一年に湾岸戦争に反対してニューヨークタイムス紙に掲載した意見広告の二つを示しながら、反戦運動の力量に悲観することはない、と述べた。
 「ベトナム戦争の時に比べると反戦運動は盛り上がつていない、という人が多い。しかしベトナム戦争の際に日本で最初の大きな反戦デモが起こつたのは、アメリカの大規模北爆が開始されてから四十六日後のこ
とだった。湾岸戦争は始まつてから三十九日で終わった。それでも多くの反戦デモが繰り広げられた。そして今回は、テロ事件の直後から二カ月たらずですでに十波のデモが毎週のように行われ、ニューヨークタイムズへの反戦意見広告もただちに掲載された。決して市民の運動は小さなものではない」。
 吉川さんは、アメリカの傲慢さと日本の戦争加担が極限にまで進んでいる中で、もう一度スローガンを再検討し、方向性をはっきりさせた上で市民の独自の動きを強化していく必要性を強調した。そしてその中でも、内ゲバ・テロを行ったグループについて絶対にあいまいにすることない原則を打ち立て、議論を回避することなく行動の統一をめざそう、と訴えた。
 最後にもう一度、武藤一羊さんが発言し「テロリストネットワークを根絶するという名目で進められている今回の戦争は、二十一世紀がきわめて暴力的な世界を生み出していることを告げている。多国籍企業や大国が進めている資本主義的グローバリゼーションが、その背景にある。われわれは長期的なスパンで世界の舵を切り換える力を作りだしていかなければならない」と主張した。
 米英のアフガニスタン侵略戦争は、膨大な民衆の犠牲を生み出しながら、ますます激化の一途をたどつている。そして小泉政権は、この不正義きわまる戦争に自衝隊を参戦させているのだ。労働者市民は、核兵器なみの殺人兵器を使ったこの暴虐を即刻ストップさせるために全力を上げなければならない。  (K)