13 クリントン・ドクトリンについて の フランク・バーデキー論文の翻訳
(1999/07/30 掲載 09/23に一部訳文訂正)
War as Executive Privilege by Frank Bardacke
死ななくてもよい戦争
『市民の意見30の会・東京ニュース』の8月1日号掲載。
フランク・バーデキー
――戦争と指導者の雄弁――
これまで、戦争には犠牲がつきものだった。集団であれ、部族であれ、国家であれ、戦争ということになれば、兵士や市民は、相手を殺す覚悟をするとともに、自分が死ぬことも覚悟せねばならなかった。したがって、民衆に戦争をやらせるためには、指導者はそれが犠牲に値するものであることを説得する必要があった。民衆を納得させて、最後まで耐えぬかせ、長期にわたって殺し、殺されることを受け入れさせるということは、政治家たるもののなすべき偉大な行為の一つとみなされていた。アテネの市民に語りかけ、その文明が守るに値いするものであることを説得して、ペロポネシアの民衆を戦争へと駆りたてたのは、かのペリクレスであった。北部諸州の連合が、累々たる草むす屍に値いするものであることを合州国の市民に説いたのは、ゲティスバーグでのリンカーンであった。そしてまた、イギリス国民に訴えて、ヒットラーを阻止するために「血と汗と涙」に耐えさせたのは、ロンドンのチャーチルであった(*1)。
だが、こうしたことの一切を変えてしまおうというのがクリントン・ドクトリンの意図するところなのである。これからは、戦争になっても殺す気構えをとるだけで、死ぬ覚悟はしなくていいというのだ。金銭上の負担を別とすれば、もう犠牲はいらない。となると、兵士たちを説得したり、国民を納得させる必要もなくなる。為政者は、政治家としての見事な手腕などなくても戦争がやれる。殺したり、殺されたりすることが必要だということを、自国民に説明する必要がなくなるからだ。戦争は、雄弁な話術も美辞麗句もなしに行なわれることになる。それはもう、単に政策上のもう一つの手段に過ぎなくなる。国連での議論などいらない。議会での議論もいらない。国内での議論も必要ない。市民は、ただ相手を殺すことだけを受け入れればいいことになる。われわれは、殺される心配など、誰もしなくていい。そして、戦争が終ったとき、為政者は「アイム・ソリー(遺憾である)」と言えばいいわけだ(*2)。
――戦争での兵士の危険――
こうなるまでには、ずいぶんと長い経過があった。だが、バルカンでの戦争は、恐るべき未来を垣間見せてくれた重大な出発点であり、20世紀の野蛮な歴史の中でもこれにまず匹敵するような前例はごく僅かしかないような、道徳的な破局である。「アメリカの時代」と今呼ばれているものが始まってこのかた、空軍力は、殺人者を被殺人者から守るものだとされてきた。空から運ばれる死は、まず植民地において、ささやかに始まった。イギリス人は(チャーチルを指導者として)、アフリカとメソポタミアの部族を爆撃して、彼らを屈服させようとした。ムッソリーニも同様に、エチオピア人を恐怖に陥れた。つぎはフランコとナチで、この実験をヨーロッパの舞台に持ち込み、空軍力を共和制スペインに対して行使した(*3)。だが、これらの爆撃は――初期におけるその他の予行演習的なものも含めて――、地上軍の行動と連携してなされるものと考えられていた。ドレスデンと東京に対する焼夷弾攻撃は恐るべきものではあったが、数百万の兵士が参加する戦争のさなかに行なわれたものであり、飛行士にとってもいくらかの危険を伴っていた(*4)。広島と長崎への原爆投下は、空軍兵士には何らの危険も伴わずに大量殺戮を行なえるという技術的可能性を示したものだった。だが、この技術は、荒っぽく、洗練されたものではなかった。ベトナムでは、ベトナム人側の勝利が決定的になった後、キッシンジャーとニクソンは、解放民族戦線が支配権を握る以前に「しかるべき時間的余裕」を得ようと必死になり、この地域一帯に爆撃を続けたが、それは基本的に撃墜不可能とされたB-52爆撃機によるものだった。だが、これとても、撤退する米軍兵士に代わる南ベトナム軍兵士との連携作戦が必要だった。イラクでは、空軍力の新技術が初めて誇らしげに展開されたが、しかしブッシュはまだ以前のやり方を断ち切れていなかったために地上軍も動員して、それを使用し、国連とアメリカ議会を説得して戦争を支持させることに成功した(*5)。だが、今やクリントン・ドクトリンの登場である。地上軍はもう必要とされない。そして形式的な議論は、――国連、米国議会、そして国内一般のいずれのレベルにおいても行なわれなくなる。戦争の実施は、今や行政府の特権となっているのだ。
――クリントンの政策の本命――
われわれは、こうした事態の登場をもっと以前に見ておくべきだった。だが、私的関係についてやたらに饒舌をまきちらすルインスキーの証言などによって、注意を逸らされてしまったのだ(*6)。クリントンは地上軍を介入させることなく、スーダンを、アフガニスタンを、そしてイラクを爆撃し、彼の行動を支持するような何らかの権限の付与を求めるような試みは、これといって何らしなかった(*7)。われわれは、これらの爆撃が、クリントンが国内で抱えていたトラブルから国民の注意をそらさせるための行動にすぎないと思ってしまった。だが、そうではなかった。それこそ、彼の戦争に対する新しいやり方の開始だったのだ。だが、このとき、まだこの方針は完成してはいなかった。クリントンは依然として爆撃についての国内の支持を得ようと試みていた。彼は議論をさせるために自分のチームを地方に送り出した。そして、オハイオ州コランバスの公会堂でのデモが、彼にその戦略を変更させた(*8)。このときから、戦争政策が正しいものだということを一般の人びとの誰にせよ、納得させようとする試みはほとんどされなくなる。その必要がなくなったのだ。要するに、アメリカの青年の誰であれ、危険にさらされることはなくなるのだ。クリントンが自分の行動について弁明した数少ない公式演説の一つ、米軍関係家族に向かって行なった演説の中でのべたように、「アメリカは自身の面倒を責任をもってみる」のである。この演説は、必要とされる政治家としての手腕と雄弁の範囲に入るものだ。そして、それには、大規模な惨事の終ったときに陳べられる素晴らしい釈明の言葉がさらに加わる(*9)。
今、われわれには、クリントンが、不評を買ったレーガンの「スターウォーズ計画」を遅まきながら是認していることを理解できる(*10)。レーガンにとっては、最初、それは見せ掛けだけの無駄な軍事計画にすぎなかったが、クリントンの戦略にとっては、決定的に重要なものとなっている。彼は、人工衛星を用い、大気圏外からレーザー光線で敵の都市を壊滅させることを将来の夢として描いているのだ。そうなれば、空軍兵士さえ不要となる。必要なものはヒューストンの司令センターと、そこでコンピューターを操作する数人の技師だけだ。それこそが、クリントンが二一世紀への掛け橋として約束しているものなのである。
――個人的性格に見合った政策――
クリントン・ドクトリンは彼の個人的性格ともぴったりと見合ったものだ。今となっては、われわれは彼のことがよくわかっている。彼は、殺すことは何とも思わないが、死ぬ用意はない。彼は自分の選挙を少しでも有利にさせようというだけのために、アーカンサス州では一人の精神障害者の処刑を認めた(*11)。彼の徴兵忌避は、原理に基づくものというよりは臆病によるものだった。彼は、戦争も、他のすべてを巧妙に乗りきれたように、うまく操れると思っている。タバコをふかしてもいいが喉の奥深く吸いこむことは許さず、フェラチオはいいが性交はいけないとする論理は、兵士なしに戦争をやれる国という考え方と、完璧に合致するものだ(*12)。クリントンには、個人的犠牲についての意識がなく、歴史についてほとんど関心をもたないから、昔の指導者が自国民を動員するのに用いてきた堂々たる弁舌の才を振るう能力はない。だが、こと弁明にかけては得意中の得意だ。だから彼は新しい戦争にむいた完璧な人物なのである。
いかなる戦争にせよ、それを正しいとする議論は、これまでつねに血腥く、残酷なものだった。そこには目的と手段とについての恐るべき計算、邪悪の度合いの多少をおし量る微積法の暗い計算が含まれている。だが、ときに、それが説得力を持つ場合もこれまでにあった。しかし、こうした議論の中では、広範囲な議論が、つねに、もっと小さな、倫理的な考慮を押し隠してきた。進んで相手を殺そうとする兵士の立場は、殺されることも受け入れるという姿勢と釣り合いがとれていた。それはカントの言う定言的命令の一バージョンであって、戦争に対する道徳的対称性の尺度を与えるものである(*13)。だが、クリントン・ドクトリンは、この兵士の道徳的基盤を粉々に砕いてしまい、いかなるものであれ、正義の戦争についての大きな計算法などすべてを、このように、ますます信じがたいものにさせてしまうのである。われわれが安全な場所から相手を殺戮するとき、われわれは一切の道徳的視点を失ってしまうのだ。
――アメリカの道徳的白痴――
わが国の政策によって引き起こされたすさまじい人間的な悲惨などは脇において、テレビがかき立てた3人の米兵捕虜に対する国を挙げての憂慮の様子を直視してみよ。命の危険を冒した兵士たちへの支持を表してきた黄色いリボンは、今やわれわれの道徳的白痴を計るあさましい尺度となっているのだ。
われわれは、他の人びとの人間性をこのように根本的に否定するという帰結を受け入れることになってしまうだろう。こうした人間同士の日常的な疎外は、今後増大することだろう。わが国の中での暴力も着実に増加してゆくことだろう。閉ざされたわが国の共同体は、すでに、閉ざされた道徳性に見合ったものとなっており、そこでは、外部からの危険についてはガードマンにまかせ、ひたすら自分の利益と安全だけを考えている。クリントン・ドクトリンは、こうしたことのすべてを、さらにひどくさせるだろう。遠からず、「道徳的に戦争に見合うだけの価値」(moral equivalent of war)などという古い言葉を誰も理解できなくなるだろう。一体、それはどんな意味だったのかね? 戦争は人びとを互いに一つに結ぶことはなく、共同体としての共通感情を生み出すこともなく、ただ、政府がやる小うるさい、金ばかり使う単なるもう一つの政策ということになってしまうのだ。
――タキトゥスの論理――
クリントン・ドクトリンにも、ひとつだけいいことがある。それは、おそらくこの政策がうまく働かないだろうということだ。これまで、空軍力は、たとえそれが技術的に最先端をゆく空軍力だったとしても、戦争の最終的勝利をもたらしえたことはなかった。バルカン半島においても、現在のところ、それが勝利を得られていないことは確実である。もしも、地上のあらゆる物が破壊され、タキトゥスが最初に明かにした論理のように、レーザー光線が砂漠をつくりだし、政治家がそれを平和と呼ぶならば、おそらく戦争は勝利を得たと言えるのかもしれない(*14)。だが、確かに、アメリカの中にいるわれわれ、クリントン・ドクトリンと称せられるものの展開の中におかれているわれわれは、そんなことが起こるのを許さないだろう。本当かな?
(『アンダーソン・ヴァレー・アドヴァタイザー』紙1999年4月21日号の”War
as Executive Privilege” by Frank Bardacke
の全訳。同紙は、カリフォルニア州北部で出ている地方新聞だが、「アメリカ最後の真のラディカルな新聞」と言われている。
筆者フランク・バーデキーは、同州ワトソンビルの成人学校教授、現在、カリフォルニア農業労働者の歴史についての著作執筆中。来日して日本の反戦市民運動と交流したこともある反体制活動家。)
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訳注
(*1)「アテネの市民に……」以下は、431年のアテナイとスパルタの戦争。ペリクレスは古代ギリシャ、アテナイの政治家で、スパルタとの開戦に際し、雄弁でアテナイ市民を説得した。
ゲティスバークの演説とは、南北戦争中の1863年、ペンシルバニア州のゲティスバークで行なわれたリンガーン大統領の演説。ゲティスバークは南北戦争の激戦地で、演説はこの激戦の4ヵ月後の11月15日に行なわれ、自由のためには身を捧げなければならないと強調した。結びの「人民が、人民のために、人民を治める政治」という言葉でも有名。
ウィンストン・チャーチルは第2次世界大戦の時のイギリスの海軍大臣、のち首相兼国防相。ノーベル文学賞受賞者。第二次大戦中の1940年5月13日に行なった演説で、彼はイギリス国民に、勝利のために「血と労苦と汗と涙」を求める訴えをした。(本文のもとのところに戻る)
(*2)「アイム・ソリー」とは、 クリントンが、謝ってばかりいることを指す。1980年代にグァテマラで何万という農民が殺戮された際、アメリカが果たした役割についてクリントンは誤ったし、ルワンダで大虐殺をともなう部族間戦争が起こった時にアメリカが介入しなかったことについても誤ったし、奴隷貿易については全アフリカに対して誤った。モニカ・ルインスキー(訳注6参照)との情事については自分の家族とアメリカ国民に何度も謝り、モニカにも公的に謝罪した。対ユーゴ戦争では、中国大使館爆撃で誤った。そのたびに彼は「アイム・ソリー」を繰り返した。(本文のもとのところに戻る)
(*3)イギリスのアフリカ、メソポタミア爆撃。1898年、イギリスはスーダンのマフディー主義者の軍を攻撃した。オムデュルマンの戦闘で勝利したイギリスは、スーダンへの支配を確立、エジプトとの共同統治下においた。チャーチルはこの戦いに参加、翌九九年に書いた『河畔の戦い』で文名を挙げた。
第一次大戦の際、イギリス・インド軍はイラクに上陸、1918年に同地のトルコ軍を制圧しイラクの大部分を占領した。イラクでは民族運動が高まり、多くの地域で反乱が生じたが、イギリスはこれを抑圧、イラクを委任統治領とした。
ムッソリーニのイタリアは、1935年、エチオピアを植民地とするために侵略した。エチオピアは激しく抵抗したが、圧倒的な軍事力、大規模な空軍による爆撃、さらには毒ガスまで使用したイタリアの勝利に終り、イタリアはエチオピアを併合した。その他の大国はこれをほとんど放置した。
1936年以降のスペイン市民戦争で、米英仏などは「不干渉政策」をとったが、ヒットラーのナチス・ドイツとムッソリーニのファッショ・イタリアは公然とフランコ反革命側を支持し、武器援助をはじめ、空爆や地上戦にも参加した。1937年4月26日、スペイン北部の町ゲルニカに対して行なわれたドイツの空爆はこの町を徹底的に破壊した。この悲劇を描いたピカソの絵「ゲルニカ」で有名。(本文のもとのところに戻る)
(*4)ドレスデンはドイツ中東部ザクセン州の首都。第二次大戦中の1945年2月、連合軍の大規模な「絨毯爆撃」により、市の中心部が壊滅した。東京に対しては、その他の各地都市と同様、1945年に入ってから大規模な夜間焼夷弾絨毯爆撃が続き、とくに3月10日のB-29爆撃機300機による爆撃では下町を中心に1665トンの焼夷弾が投下され、約10万人が死亡した。(本文のもとのところに戻る)
(*5)1991年1〜2月の湾岸戦争。アメリカを中心とする多国籍軍はまず、イラクに対して大規模な爆撃を行なったが、最後には地上軍も派遣し、米軍兵士の中には、このとき使用された劣化ウラン弾による後遺症で悩むものが多く出ている。(本文のもとのところに戻る)
(*6)モニカ・ルインスキーは、クリントン大統領との情事について暴露した元ホワイトハウス実習生。その証言や露骨な捜査報告書はインターネットの上でも流され、大きな話題となり、1998年12月には米下院は、この大統領「不倫問題」で弾劾訴追を決定した。(本文のもとのところに戻る)
(*7)1998年8月、アメリカはスーダンとアフガニスタンにミサイル攻撃を加えた。ケニアとタンザニアの米国大使館が爆弾テロの標的となり、多数の死傷者が出たことへの報復措置で、米国は、両国に「テロ組織の拠点がある」とし、この攻撃は「自衛のため」だとした。同年12月には、「イラクが大量破壊兵器関連施設への国連査察を拒否した」との理由で、湾岸戦争以来最大の空爆を実行した。これらに対しては、国連アナン事務総長をはじめ、批判の声が強かった。これらの攻撃は、大統領「不倫問題」が大きな話題となっていた最中に行なわれた。(本文のもとのところに戻る)
(*8)昨年12月のイラク爆撃の際、クリントンは、オルブライト国務長官ほか政府要人を各地に派遣し、一連の「公会堂集会」(タウンホール・ミーティング)を開催して、政府の方針への支持を訴えようとした。オハイオ州立大学での集会では、学生や教授たちが政府の政策を厳しく批判し、政府側は立ち往生した。この事件は各紙のトップ記事として報道され、それ以後のすべての「公会堂集会」は取り止めにされた。(本文のもとのところに戻る)
(*9)釈明の言葉とは、(訳注2)にあるクリントンお得意の謝罪のこと。(本文のもとのところに戻る)
(*10) 「スターウォーズ計画」とは、1984年に開始された宇宙空間で弾道ミサイルを撃破しようとするアメリカの兵器研究計画。(本文のもとのところに戻る)
(*11)アーカンサス州での処刑とは、クリントンがアーカンサス州の知事だった1992年の大統領予備選挙の際のこと。その前の大統領選挙のとき、ジョージ・ブッシュと争ったマサチューセッツ州知事のデュカキスは、婦女暴行罪に問われた黒人ウィリー・ホートンの仮釈放を認めたが、その直後にホートンはまたも婦女暴行と殺人を犯した。ブッシュは選挙戦ではこのホートン仮釈放の責任問題を全面に押し出してデュカキスを攻撃したということがあった。そのため、クリントンは、大統領予備選挙の中で死刑の執行に弱気だという批判が出るのを恐れた。それで、アーカンサス州内で殺人を犯し、その後自殺を図った黒人に対し、クリントン知事は死刑執行猶予の訴えを却下し、処刑させた。この被告は精神障害者で、自分が死刑になることも自覚できず、最後の食事のときにも、看守に対し、残りは明日食べるからとっておいてくれ、と頼んだほどだった。(本文のもとのところに戻る)
(*12)米下院に提出され、後、公開されたスター独立検察官の「捜査報告書」によると、1995年からクリントン大統領はルインスキー実習生にオーラル・セックスを繰り返したという。だが、大統領は、宣誓証言で、「性的関係」とは性交を伴うものであり、ルインスキーとは性交していないのだから「性的関係」を否定しても偽証にはならない、などと主張したと伝えられる。(本文のもとのところに戻る)
(*13)定言的命令とは、カントにおける道徳法則の形式。仮言的命令と異なり、行為そのものに無条件に価値がある命令。(本文のもとのところに戻る)
(*14)タキトゥスは、ローマの政治家(西暦55〜120)。彼の著作『歴史』の第W巻に、「略奪、殺戮、窃盗、こうしたものごとのことを彼らは帝国といい間違えている。そして、そこでは、彼らは砂漠をつくりだし、それを平和と呼んでいる」という言葉がある。(本文のもとのところに戻る)