月刊 『宝石』 1969年7月号 に掲載された佐木隆三さん執筆のインタビュー
急進・ べ平連の“軍師”、吉川勇一
反博、週刊アンポ、反戦フォークソング花束デモ……奇抜な闘争を組織する男の素顔 佐 木 隆 三 (作家)吉川さんは、べ平連の事務局長である。べ平連の活動がこのごろ特に注目されるようになって、この二人の名前がジャーナリズムのあちこちでみかけるようになったが、それまて地味な存在であったといえよう。
初期のべ平連は、文化人のべトナム祭り、というような陰口をきかれたものであり、そういえは小田実さんをはじめ、開高健、いいだもも、小松左京、鶴見俊輔、小中陽太郎さんら、ジャーナリズムで賑やかに活躍している人たちが多い。吉川さんの場合は、しかし、派手な存在ではなく、だいいち作家でも評論家でも教授でもないようで、本職がいったいなにかわからない。
――あなたは、何者ですか?
「べ平連の事務局長です」
――すると、月給いくらですか?
「タダ働きです」
――じゃあ、なんで食っていらっしゃるんですか?
「通信社に週に一回出かけ、翻訳して日当二千円。ほかにも翻訳と雑文書きがあって、まあ全部あわせて平均月収が二〜三万円というところです」
――それでやっていけますか?
「やっていけません。ですから、さる貿易会社で秘書をしている女房の給料で家計をまかなっております」
インタビューを申し入れたとき、自分なんか面白くもおかしくもないですよ、と吉川さんは当惑した様子だった。それでも会ったら、
「アメリカ軍の脱走兵をどこに隠しているかという質問以外なら、なんでも答えますし」と言ってくれた。で、のっけから右のようなやりとりになった。
だがこれだけでは、吉川さんがべ平連の事務称局長というほか、なにもわからない。では、ありふれた事務局長かというと、決して
そうではない。世間が忘れっぽいだけであり、吉川さんは一七〜八年前の、東京大学自治会中央委員長という”輝ける”経歴の持ち主なのであるが、このことについては後でまたふれる。
オダテン(小田)とハゲボス(吉川)
よく、「べ平連は、小田実のアイデアと、吉川勇一の官僚制でもっている」という言い方をされる。
いうまでもなく小田実さんはべ平連の代表であり、三千枚近い大長編小説を書きあげるかたわらエネルギッシュに平和運動を統ける、およそ日本文学の常識からハミ出した行動的人間である。『ニューヨーク・タイムス』に反戦広告を出し、アメリカ軍脱走兵を援助し、七〇年安保にそなえて世論をもりあげる狙いの『週刊アンポ』発行など、べ平連の運動はいちいち独創性に富んているが、その多くは小田さんのアイデアであるようだ。
べ平連には、ややこしい規約のようなものはなく、いくつかの約束ごとがあるだけといい、そのひとつに「なにをやろうとその人の自由だが、すべて言いだしっぺが責任をもつこと」というのがある。大阪万国博のむこうを張った”反博”にしたところで、大阪の活動家のアイデアであり、その試みに賛成の人たちが力を貸すやりかた。
したがって、なにかと個人プレーが目立つのが、べ平連の体質でもある。「とにかく、よくもわるくも事務局長、伝票を切ったり、会合の連絡をコマメにやったりが、性に合っているのです」とは、ご当人の弁である。
べ平連にあって小田実さんは、「彼がなにか言いだせば、なんでも認めたくなるようなふんい気を持ち、いってみれば小田天皇」(小中陽太郎さんの弁)で、ニックネームが”オダテン”。そして、吉川さんもニックネームをもち、どうやらヤングべ平連の悪童たちの命名らしく”ハゲボス”とか。
昭和六年三月一四日、東京は飯田橋、詳しくいえば東大病院産科の生まれだから、いま38才の働きざかりということになるが、写真でご覧のとおり、だいぶ禿げていらっしゃる。どこか、愛国党の赤尾敏総裁に似た風貌だが、それにしても”ハゲボス”とは、ひどす ぎないか。わたしが、おそるおそるニックネームの件を持ちだしたら、「ええ、どういうわけか禿げはじめましてね」と、ご当人はケロリとしたもので、むしろ”ハゲボス”よりも”官僚的”と言われるのを気にかけている様子であった。
官僚的といわれる理由は、たとえば次のエピソードからもうかがえる。
四月二十八日の”沖縄デー”では、べ平連の行動が大きな比重を占めた。土壇場になって統一集会をひらくことを決め”整然たる”デモをおこなった社共にくらべて、〈首都制圧・首相官邸占拠〉を合い言葉に結集した全学連や反戦青年委員会などの激しい行動は、なんといってもこの日の圧巻であったが、べ平連は主戦場になった東京駅−有楽町−銀座−新橋をデモコースにしていたため、機動隊とのぶつかりあいの現場にまともに行き あたってしまった。
午後八時すぎ、東京駅八重洲口から鍛冶橋にさしかかったものの、前方で市街戦さながらの衝突がはじまっているので、べ平連のデモ隊は前進できない。やむをえず道路に座りこんでいると、反戦青年委員会のデモ隊を追いかけてきた機動隊が、 べ平連にも突っこんできた。
吉川事務局長が、先導のニュースカーによじのぼってマイクを握る。
「機動隊の諸君、べ平連のデモは、許可されたコースを整然と行進して、憲法に認められた、表現の自由を行使しようとしているのです」
隊伍を整えて、デモ隊はやがて前進しはじめる。投石用に砕かれたコンクリート破片がゴロゴロして、催涙ガスが充満した一帯を、五列に並んだべ平連のデモ隊が行く。しかし、数寄屋橋交差点あたりで、機動隊のジュラルミン楯が行く手をふさぐ。
吉川事務局長が、ふたたびマイクを握る。
「機動隊の諸君、われわれはべ平連のデモ隊です。ふつうの市民が、憲法に保障された表現の自由を行使するために、許可されたコースを行進しているにすぎません」
わたしは、その現場にいた。機動隊は吉川さんの声を黙殺するわけにいかず、道をあけた。まわりの群衆の拍手につつまれて、デモ隊はさらに前へ進んだ。若い娘のグループが、ニュースカーの上に仁王立ちの吉川さんを指さして口ぐちに言う。「あのヒト、カッコいいじゃん」
しかし、かならずしもカッコよくはないのだった。
吉川さんは、あとでヤングべ平連の若者たちから、次のように批判された。「あの場合、機動隊に道をあけさせたから、それでよかったといえるだろうか。”無届けデモ”の学生たちは、いくら申請しても許可されないから、やむをえず無届けでやるようになったのであり、事務局長のあのときの発言は、われわれべ平連は違うのだから学生たちとは別扱いしてくれ、と機動隊に懇願したかたちになる。こんな順法闘争的なやりかたで、はたしていいだろうか。全学連や反戦青年委にくらべて、いい子になろうと、したのではないだろうか」
この批判を前にして、吉川さんは頭をかかえているようすであった。追い打ちをかけるように、べつなヤングベ平連の若者が言った。
「あの人はコミュニストだけど、共産主義者的というより、共産党員的人間だな。官僚主義といわれても、しようがないさ」
東大自治会の第一線活動家
官僚的かどうかはべつにして、吉川さんがどうしようもなく共産党員的体質を残しているのは確かなようである。第一、党歴が長い。
昭和二十四年に、旧制浦和高校から東大へ入学、小田実さんの一年先輩である。高校時代の同級生であった大野明男さん(現在評論家)はたちまち教養学部自治会委員長になったが、吉川さんはどちらかといえばノンポリ学生であった。二年生のとき、レッドパージ旋風で哲学者の出隆教授らが東大を追われることなり、学生が反対闘争に立ち上がるが、吉川さんはそのときクラス代表というかたちで参加しはじめる。
このときは、ノンセクトラジカルというところ。大野さんは、当時分裂していた共産党の国際派て、党内では反主流派だったが東大では多数派。吉川さんは、しかしハネ上 がり気味にみえる国際派よりも、東大では少数派の所感派に接近する。レッドパージ反対闘争はジリ貧になって、駒場の共産党細胞はやがてガタガタになってしまう。そして、多数派だった国際派にかわり、少数派の所感派が東大細胞の再建にのりだす。
吉川さんが入党したのは、三年生になってすぐ、メーデーがきっかけであった。民俗学に興味をもち、柳田国男門下生として駒場に民俗学研究会をつくったりしていたから、もし共産党に入らなければ、おそらく民俗学者への道を歩んでいただろう。とまれ、入党した吉川さんは頼りになる存在として、所感派の中心人物になってゆく。なにしろ、駒場では衰退した国際派だが、本郷では依然として力をもち、安東仁兵衛、武井昭夫(いずれも現在評諭家)さんら一二〇人余りの勢力 で、対する所感派はわずか十分の一だった。
少数派として、キリキリ舞いをさせられるが、やがて昭和二十六年夏のコミンフォルム批判で、宮本顕治、志賀義雄さんら国際派が自己批判して復党する。東大細胞においても、圧倒的多数の国際派が詫びを入れたかたちで、十分の一の勢力の所感派が突如として浮か びあがる。その年の十月、東大の自治会役員改選を迎えるが、旧国際派は役職につかせないという党中央の指示だったから、委員長候補に吉川さんがまつりあげられた。
当時は、活動家といえば共産党一色だったから、党中央の意向がそのまま学生運動に反映する。だから、なれあい選挙で、吉川さんはあっさり当選した。
文学部三年生の彼は、五月に入党して十月には、東大学生自治会中央委員会議長になる、異例の”スピード出世”をしたのであった。
ポポロ事件で退学処分
委員長になってまもなく、有名な”ポポロ事件”を迎える。これは昭和二十六年二月二十日、東大の教室でおこなわれたポポロ演劇研究発表会の会場にもぐりこんでいた警官に学生が気づき、警察手帳を取りあげた事件である。裁判はまだ続いているが、事件の直後に吉川さんは矢内原総長とともに国会で参考人として発言したりしている。この事件でくたくたになった直後、こんどは”血のメーデー事件”を迎える。
昭和二十七年五月一目、メーデー参加者が皇居前広場へ結集したところを警官隊に囲まれて、ピストル乱射をふくむ弾圧で多数の死傷者を出したこの事件は、十四年たってまだ裁判が続いている。東大の自治会委員長なら、当然このとき起訴されているはずだが、実はその直前に、吉川さんは街頭デモの指揮者として 逮捕されていたため、メーデー事件の被告にならずにすんだのである。
ついていた、というべきだろうか。とにかく、メーデー事件の直後に釈放された吉川さんを待っていたのは、退学処分であった。さて、学生でなくなった吉川さんは、 どうしたか。わずらった病気がよくなってから、ぼつぼつ大学へ通う。処分を認めないから、依然として”活動家学生”であったわけで、盛んになった火炎ビン闘争や山村工作隊にも、ある程度は加わったとか。翌年の秋、北京でひらかれる予定のアジア太平洋地域平和会議の代表団の一人に選ばれるが、下関から漁船で密航する”人民艦隊”ルートが摘発されて、行くことができなかった。
しかし、このとき夫人と知り合う。獣医のお父さんに従い四才のとき中国大陸に渡った彼女は、戦後の革命政府樹立後の北京大学卒業生で専攻は国際法、引き揚げた直後に吉川さんと会ったのであった。そして、昭和三十三年に結婚する運びになる。
子どもはなく、都下保谷市の自宅で二人暮らし。SFとマンガを愛読するものだから、配達の本屋さんが中学生くらいの坊やがいると思いこんでいたそうだが、夫婦以外には庭の池に金魚がすんでいるだけ。
話をもどせば、東大の自治会委員長を交替した吉川さんは、全学連の平和対策部として平和運動に足をつっこみ、昭和二十九年一月から日本平和委員会に專従して、共産党を除名されるまでここにいた。
――除名されたのは?
「昭和三十九年四月五日付けで、党中央委員会幹部会からの除名通知が配達証明で郵送されました」
――除名の理由はなんですか?
「要するに昭和三十八年の部分核実験停止条約を支持する私の態度が、よろしくなかったということです」
――除名されなければ、党内にとどまっていましたか?
「さあ。自分としては、党をよくするにはあくまでも党にとどまって、改善の努力をすべきだと考えて来たのですが、それは思いあがりだったようです。規律に縛られて、党の中央が白いといえば、あきらかに黒いものでも白いと言ってきたことを、むしろ自己批判しなければならないと考えています」
神経を使いすぎ、さらにハゲる
黒を白と言いくるめるのも、官僚主義の性格のひとつだが、吉川さんはそれを自己批判しているという。それでもなお、官僚主義的だと批判される。なぜだろうか。
吉川夫人は、次のように彼を語る
「人物としては、誠実で几帳面です。時間なども、几帳面すぎるくらい。べ平連時間というのがあって、会議など真夜中にはじまって明けがたに終わるのがザラですが、昼間から事務所に詰めている吉川には、たいへんな労鋤だと思います。夫婦ゲンカといえば、そのことで健康を気づかう私が文句をつける程度ですが、吉川は”朝帰り”のときなんか、私を起こさないように足音を殺して……。あれでは神経をつかいすぎて、さらに禿げるのじゃないかと心配です」 東大当時から吉川さんと一緒に運動をやっていた、やはりべ平連の中心人物である武藤一羊さん(評論家)は、次のように言う。「駒場にいたころは、日本文化研究と称して、落語や謡曲、それに祭り太鼓のたたきかたなんかを、一生けんめいにやっていたんだなあ。柳田国男さんからも目をかけられていたけど……。運動を一緒にやっていて思うのは、あらゆることを事務化できる人だということですね。綿密な計算をするが、決して策を弄することがない。骨惜しみせず、マメで、きちんと事務を片づける。管理能力があるから、有能な官僚といえるが、べ平連に吉川さんタイプの人かもう何人かいればいいのにと思いますよ」
前『現代の眼』編集長で、こんど『週刊アンポ』編集長になる野田祐次さんは、かつての仕事のうえでのつきあいをふりかえっていう。
「誰もが認めているように、べ平連は吉川さんがいるから、変なことにならずにすんでいるんです。官僚的かどうかをいえば、たとえば編集部からべ平連になにか頼むと、小田さんや小中さんは”なんとかなるだろう〃と言ってすぐ引き受けてくれるが、吉川さんは決して安講け合いをしない。そのへんが、官僚的といわれるゆえんでしょうかね」
さて、小田天皇の”ハゲボス”評は、と大阪旅行中を電話で追いかけて聞いてみた。
「いい人です。一言でいえば、まさに、いい人です、に尽きる。いい人です、と言えば、阿呆と違うかと思われるかもしれんが、掛け値なしに、いい人なんだから。つけ加えれば、信頼に値する人です」
さて、吉川さんにインタビューの申し入れをして日取りを打ち合わせていたら、「まあ、この日は夜になったら会議があります。ちょうどいいから、会議に出席しませんか」と言われた。
咋年の秋から、二度も警察の捜査を受けたべ平連だというのに、このあけっぴろげぶりは、どういうことなのか。もし吉川さんが、コチコチの官僚的人物なら、とてもそんなことは言わないはずである。
――わたしは、べ平連の会員じゃないですから。
「べ平連には、そもそも会員なんていませんよ、よく、入会金はいくらで会費はいくらか、規約はどうなっているのかという問い合わせをいただきますが、そんなものはないんです」
――だから、べ平連は屁みたいな団体だとか、ルーズな組織だとか言われるんじゃないですか?
「そうらしいですね……。いわゆるべ平連方式なるものが、世間に理解されにくいのは、こうした市民運動の伝統がないからじゃないですか。つまり、平和運動というのは、運動であって組織ではない、という考えかたなんです」
――ちょっと、わかりにくい。
「原水爆には反対だが、軍事基地はあったほうがいい、という人もべ平連にいます。つまり、そのときそのときの政治目標に結集しうる最大限の人を集めて、もっとも効果をあげようとする運動です。だから、べ平連のかかげる目標に賛成のときだけ、参加すればいい。。次から来なくなっても日和見主義とは言わないし、まして裏切り者なんて言わない。また来たいときに来ればいいのです」
――そのべ平連方式が、だいぶわかってきました。わたしも、べ平連を見直したから、こないだのデモに参加したんです。
「ちょっと待ってください。そんなふうに。べ平連が変わったとか、見直したとか言う人が多いけど、べ平連は四年前の発足いらい、べつに変わってはいないはずです。変わったとすれば、あなたのほうでしょう……」
――しかし、ラジカルになってきた。だからこのルポに”急進・ぺ平連の……”というタイトルをつけるつもりです。
「もしそうだとすれば、既成の政党や組織などがあまりにも停滞ないし後退したから、べ平連が急進的にみえるだけじゃないですか。日本共産党がこのごろ、べ平連は反日共的になってきた、と言っているようだけど、それは話が逆で、日共が反べ平連的になってきただけのことですよ」
反安保の六月行動へ
吉川さんの表情が、いっそう輝いてきた。ついこないだまで、〇〇は反共団体だから一緒に行動しない、というのがお得意の日共にいて、黒を白と言いくるめることも余儀なくされていた人だから、その種の”鉄の規律”などクスリにしたくてもないべ平連方式で、大いに自己批判にもとづく反省をこめて、実践しようという気持ちらしい。
べ平連事務局長になったのは、昭和四十一年二月からで、もう三年以上になる。大衆団体であるはずの日本平和委員会から、共産党除名の直後に追放され、常任理事の肩書きを失っただけでなく、月給三万五千円の事務局員もクビになった。その後社会党系の平和団体の仕事に専従したこともあるが、昭和四十年暮れにそれも終わった。そのころ、二代目事務局長の久保圭之介さん(映画ブロデューサー)が辞意をあらわし、後ガマを探していたところだったので、吉川さんにおハチがまわってきたというわけである。
一年間でやめる約束で引き受けたが、「もうすぐべトナム戦争が終わるから」と言われてしかたなく再任し、三年目にやめるつもりだったら、「やめるなら退職金として三〇〇万ほどべ平連に置いて行け」と脅迫されてしかたなく四年目にさしかかった、と吉川さん
は説明する。むろん冗談であるが、吉川さん自身が何度か”事務局長交替動議”をだしたのは事実である。そして、そのたびに否決されて、やむなくとどまっているというが、その説明はさっきの言葉と矛盾する。
なぜなら、やめたければさっさとやめて行くのが、べ平連方式のはずだからである。後ガマのことなんか、心配する必要はない。それでいて、やはり吉川さんが無給の事務局長のイスにとどまっているのは、いまの運動に自らを賭けたいからにほかならないだろう。
「そう、実をいえば、楽しみながらやっているようでもありますな」
吉川さんは、渋々これを認めた。日本の反体制運動に、かつてない斬新なスタイル――たとえば、通行く人にチューリッブを配りながら、おいでおいでをするデモ隊。反戦フォークソングを歌って大衆に呼びかける若者たち。アメリカ兵に脱走を呼びかけて、実際に国外逃亡を助けたりする運動(もっとも、これからは国外逃亡をさせず、国内でかくまうとか)。前進する必要があれば、機動隊の壁があってもひるまない決意。いくらなんでも、楽しみばかりではないが、吉川さんがあえてその言葉を用いたのは、あくまでも個人の自発性を重んじる市民運動に身を置いて、初めてわが道を行く喜びをおぼえたからではないか。
六月十五日にテスト版を発行し、いよいよ九月から定期刊行される『週刊アンポ』は、直接べ平連とは関係がない。これまた申しあわせどおり、言いだしっぺの小田さんが責任をもつかたちで、週刊アンボ社の社長に就任する予定だとか。吉川さんはしかし、自分のことのように『週刊アンポ』をなんとか成功させたいと、熱っぼく語る。”オダテン”と”ハゲボス”の名コンビたる所以であろうか。
この週刊誌は、三千万円程度の資金でスタートする。毎号表紙に「あと二千五百万円」というふうに刷り込んで、金がなくなったところで終刊するそうだが、だいたい半年は続くはずで、キャッチフレーズは”週刊アンポで安保粉砕!”だそうな。大江健三郎、野坂昭如、高橋和巳さんら、これまでべ平連とあまりかかわりをもたなかった人たちも執筆するといい、稿料ゼロは承知のうえである。
――売れ行き快調で、半年たっても残金があったらどうします?
「弱りましたな。どうしましょう。しかたがないから、続けますか……」
すでに『ベトナム反戦と反安保の六月行動』は、五月十九日からはじまっている。体制の側は、新宿駅西口で土曜日の夕方おこなわれている、フォークソンググループにまで機動隊による親制をくわえる逆上ぶりだから、べ平連もこれから困難な道にさしかかるだろう。
しかも、六〇年安保にくらべて、既成の革新政党や労組が、さらにおざなりな行動しかとらないことが予想されるだけに、発足五年目のべ平連に寄せられる期待はそれだけ大きくなる。
渋谷区神宮前三ノ三一ノ一八のべ平連事務所での、三時間あまりのインタビューは、電話で十回近くも中断された。手弁当で働いているヤングべ平連の若者たちが、あれこれ用事をもってくる。吉川さんは、てきぱきさばきながら、ふっと言った。
「敗戦の年、中学三年でした。東京大空襲で、飯田橋のわが家は焼け落ち、焼夷弾の破片が尻に突きささってケガをしましたが、なによりも強烈に記憶しているのは、そのとき工事用の鉄板の下に死体をまたいで逃げこみ、落ちた焼夷弾の熱でだんだん赤くなってくる鉄板を見上げて、死にたくない、こんなことで死にたくない、としきりに思ったことです。自分がいま、多少なりとも反戦平和の運動に身をおいているのは、やはりこのときの記憶がバネになっているからだと思うんです」
(月刊『宝石』1969年7月号)