9 共同行動の原則について――『論座』3月号への反響、とくに『労働情報」3月15日号の座談会について (2004年3月28日掲載)
以下は、まだ発行されていないのですが、私の参加している反戦市民グループ「市民の意見30の会・東京」の『ニュース』No.83(4月1日号)に載せた意見です。ただ、それは紙面の制約上、短くしてあるので、ここでは、それを少し補ってあります。
月刊『論座』3月号に、私は「デモとパレードとピースウォーク」という小論を書いた。それをめぐる反響が出ている。私の小論についてだけでなく、『世界』3月号に載った辺見庸さんの文章や、北沢洋子さんの文章への批判や反論も出されている。以下で触れた千葉眞さんの文章には、私の名も明示されているのだけれど、もう一つ、ここでとりあげた『労働情報』の座談会では、私の名も、『論座』という雑誌名も出てこない。しかし、内容は明らかに私の小論のことを指していると理解できるので、それを取り上げて感想を述べることにする。
私の小論は、一つには、運動についての議論が少ないという主張をのべたのだから、それへの批判や反論を含め、議論がおこること自体は大歓迎だ。ただ、どうも本意がきちんと伝えられなかったらしく、私の論は「的はずれ」(『労働情報』3月15日号での座談会)だの、「時期尚早な」「性急な批判や反論」(『朝日』4月18日夕の千葉眞さんの論)と言われている。
とくに『労働情報』の「WORLD PEACE NOW」の中心メンバー三人、筑紫建彦さん、角倉邦良さん、八木隆次さん(それに司会の安田浩一さん)の座談会での、以下のようなやりとりは、揶揄に近いものと感じざるを得ない。
八木 「運動が継承されていない」と言われてしまった若い世代は、戸惑うしかないでしょうね。継承というのは、上の世代から提示されたものをどのように引き継ぐのか、といったことだと思うけれど。何も提示されていないのに引き継ぐことはできない。
筑紫 いや、提示したと思ってるんだよ〈笑〉。結局は『今の若いヤツは』といった意識に近い。
角倉 継承できるような「運動」と人を育ててきたのか、と言いたい。上の世代の人たちの中には、デモをパレードと言い換えるだけで目くじらを立てる人もいる。最近の反戦運動を「物足りない」と思う人は、「物足りるような運動」をやってみればいいじゃないかとも思う。……
私は、運動の参加者の一人として意見をのべた。だが、上の座談会でのこうした表現は、運動参加者同士の議論のありようからは外れていると思う。残念なことだ。もう少しきちんとした議論らしい議論の登場を期待したい。
「何も提示されていない」と言われたので、ここでは、当面、今の反戦運動の局面で、検討されていいのではと思われるかつての経験を一つ「提示」しておこう。これはかつて、国民文化会議で、6・15デモの準備に一緒にあたった筑紫さんなら、よくご存知のはずだと思うのだが……。
共同行動の原則についてである。かつて一九六〇年代末〜七〇年には、ベトナム反戦の三万〜七万という大結集が何度か行なわれたが、その中で、さまざまな思想や行動形態を持った多数のグループが、どう結集するのかという点で活発な議論が行なわれ、そこから共同行動の原則が生み出されていった。一九六八年の最初の共同行動では、その中心にいた一人、日高六郎さんは「多様性の中の統一」という運動の思想を提示した。これは筑紫さんが座談会の中で今のWPNの性格について言っている「多くの思想や関心領域が『混在している』」という状況と、同じなのか、違うのか、違うとすればどう違うのか、そしてそれは運動の思想や理論ではないのか、というあたりを論理的にのべてもらいたいと思う。
このときの共同行動には、最初、共産党系の大衆団体も多数が参加していた。ところが、実行委員会に加わっていた新日本文学会が「反共」団体であり、排除すべきだという主張がそうした団体から強く出された。議論の中では、もし新日本文学会を除外するなら、共産党系の民主文学同盟をはずしてもよいがという「妥協」(とりひき)案まで出されて、市民グループは唖然としてしまったのだ。もちろん、その提案は受け入れられず、共産党系の団体はほとんどが脱退していった。そうした経験を経ながら、市民運動は、相互の思想や信条、行動形態の選択を尊重しつつ、しかし、自己の意思に反してある思想や行動形態を強要されたり、不本意に巻き込まれたりすることなく、それぞれに創意を発揮して全体の中に積極的に加わってゆく道筋をつくっていった。実行委員会に参加した大小のグループの数は、なんと三百近くにおよび、それが大きな統一を形成していった。この経過は、福富節男さんの『デモと自由と好奇心と』〈1991年 第三書館刊〉の中に詳述されている(とくに、「共同行動と連帯の条件」「六・一五に結集する反戦市民運動」「六月行動委員会の軌跡」の3点)。「継承できるような運動があるのか」などと思っている人は、ぜひ読んでいただきたいと思う。(注1)
当時の運動がかなり腐心したことの一つは、どうしていわゆる「内ゲバ」を阻止するかだった。内ゲバに関わり、それをいまだに公然と反省していないようなグループと共同した行動が認められないのは、今も同じだ。
『赤旗』3月13日号の「主張」欄に載った「3・20国際共同行動にあたって」を読むと、そこで誇らしげに述べられている「共闘の原則」(注2)なるものは、先の市民運動の作り出したものとかなり違い、過去の経験が学ばれていないようだ。市民運動はそうであってはならないだろう。私は今の反戦運動に対して「性急な批判」をしているのではない。しかし歴史や過去から学ぶことを拒否するような姿勢からは、新しい運動の思想や理論は生まれないということは少なくとも言っておきたい。
(注1)この福富さんの著書の中では、当時の共同行動の原則について次のように書かれている。
……参加団体は、さまざまな団体の思想的な多様性が現実的な与件であることをいやでも認めないわけにほいかなかった。だから、統一行動なのだから、統一できる形式でという、行動の共通部分の探求方式に固執しなかった。私は統一行動という言葉がきらいで、いつも共同行動といっていた。私たちほ「スジを通すか、幅広く多くの団体を参加させるか」というたぐいの議論はしてこなかったように思う。
1 それぞれのグループが責任をもって選択する行動形態の自主性を尊重する。同時にそれらの行動が両立しうるようにし、各グループ、個人の意に反して、特定の行動形態を強要したり、他のグループの行動に介入妨害をしたりしない。
2 団体、個人相互の批判は自由だが誹誘中傷をしない。
ことを約束し、その趣旨を、前記の要項の五、行動形態の2共同行動のところに書いた。(実際の文面は下線をつけた部分)。さらにその前提となる原則として、
3 当面の行動目標で一致する場合、それに賛同するすべての団体、個人と協力する。
4 その場合、参加する団体、グループ、個人の政治的見解、思想などの相異をみとめ、相互の立場を尊重する(まして差別や選別などをしない)。
という趣旨を認めあった。この1から4までを共同行動の単なるたてまえでなく、現実的な原則として確立しようと、以後毎年の実行委は努力して来たのだといえるだろう。……(同書115〜6ページ)
(注2)『赤旗』「主張」は、…… 戦後、日本の国民的な運動のなかでは、一致点での運営、対等平等、妨害者の排除という共闘の原則が確立されてきました。この原則は、安保破棄中央実行委員会や「軍事費を削って、くらしと福祉・教育の充実を」国民大運動実行委貞会、陸海空二十労組と文化人・知識人、宗教家の共同行動などの前進にみられるように、国民運動の正しい発展と共同の拡大にとって法則的なものといえます。
そして、これは、この間の国際的運動の重要な教訓の一つともなっています。…… とのべている。