globul1d.gif (92 バイト) 7  カンボジア・ベトナム戦争をめぐる井川一久さんとのやりとり(続) 井川さんから吉川への回答と、それについてのとりあえずの意見 (1999年9月8日掲載) 

 本「論争」欄の 3. で、今年の4月に私が井川一久さんに出した質問に対する井川さんからの回答が、9月8日、[aml]の上でようやく公開されました。私宛ての回答ですので、それを全文、以下に転載するとともに、これの仲介にあたった佐々木嘉則さんのコメント、井川さんの佐々木さん宛ての添え状も合わせて以下に掲載します。そして、最後に、私のそれに対するとりあえずの意見も掲載します。

 私とは別に、山下眞さんも、井川さん宛てに質問を出しており、それに対する井川さんの回答も公開されていますが、それについては、以下の「1.佐々木嘉則さんのコメント」のなかを参照してください。インターネットでよむことができます。

 本欄に掲載した文書の目次は以下のとおりです。以下は、すべて9月8日の[aml]に載ったものです。

1. 佐々木嘉則さんのコメント

2. 井川一久さんから佐々木さん宛ての添え状

3 井川一久さんの吉川宛回答 

4 吉川のとりあえずの意見


1. 佐々木 嘉則さんのコメント

井川一久氏の回答文公開にあたって

 (一部、メールの文字化けしている部分があり、そこは吉川がおぎないました。)

1999年4月7日にAML上で公表されたカンボジア大虐殺報道をめぐる井川一久氏の 一連の書簡集は諸方の反響をよび、その内容に関して吉川勇一氏および山下真氏から井川氏に対し質問が提起されました。今回ここに公表いたしますのは、それに対して井川氏が寄せられた回答と関連文書です。(井川氏は現在インターネットにアクセス可能な環境におられませんので、前回同様私が仲介役を勤めさせていただきました。)

書簡・回答
1─1.井川一久氏からの添状
1─2.井川一久氏から吉川勇一氏への回答
1─3.井川一久氏から山下真氏への回答

資料
2─1.「61人声明」(吉川注: この声明全文は、このホームページ「論争」欄の 3. にのっています。)
2─2.吉川勇一氏アンケート回答(『虐殺と報道』(すずさわ書店80年11月刊
)所載)(吉川注: これも、このホームページ「論争」欄の 3. にのっています。)
2─3.井川一久氏「国境を超えるということ」(『記録』81年4月号所載)

【このうちAMLでは1─1.〜1─3.の書簡/回答文を掲載します。資料は下記のサイトにのみ収録します。】

「井川書簡コーナー」
http://www.geocities.com/Athens/Rhodes/8399/ikawa/

前回同様、書簡・資料の公表は私の名義でおこないますが、井川氏が特定の団体や個人に対する私の見解・評価に何らの責任を負われるものでないことは従来のとおりです。(このことは井川氏から山下氏への回答にも明記されていますので、併せてご参照ください。)逆に、井川氏の御証言の個別内容に的確な論評を加えるだけの識見・能力が私にはないことも、あらかじめおことわりしておきます。

ただし、ここに公開する井川氏の回答に対するご感想を私宛に御寄せいただければ、井川氏まで伝達させていただきます。この件に関しては、井川氏より9月4日づけのファックスで次のような態度を表明する旨、ご連絡いただいております。以下、御本人からの依頼を受けて公表します。

「政治的・党派的・イデオロギー的立場からの批判や、誹謗に類する人格的非難には絶対に応じないが、私の事実認識に間違いがあると具体的に指摘する方々には、その事実を再調査したうえで率直にお答えしたい。明白に間違いとわかれば、ジャーナリストの職業的モラルに従って直ちに訂正する。」

なお、吉川・山下両氏から井川氏への質問は、下記(AMLアーカイブ)に収録されています。(吉川注: 私の質問は、このホームページ「論争」欄の 3. にのっています。)

Alternative Mailing List
http://www.jca.ax.apc.org/aml/index.html

吉川勇一氏から井川一久氏への質問
【AML11749】「Re:井川一久氏の書簡録公開にあたって」
http://www.jca.ax.apc.org/aml/9904/11749.html
(吉川注: これも、このホームページ「論争」欄の 3. にのっています。)


山下真氏から井川一久氏への質問
【AML12130】「…質問1:人名関連」
http://www.JCA.ax.apc.org/aml/9905/12130.html 
【AML12188】「…質問2:共同通信石山氏について」
http://www.JCA.ax.apc.org/aml/9905/12188.html 
【AML12190】「…質問3:『カンボジアはどうなっているのか』関連」
http://www.JCA.ax.apc.org/aml/9905/12190.html
【AML12200】「…質問4:イエン・サリ」
http://www.JCA.ax.apc.org/aml/9905/12200.html 
【AML12201】 「…質問5:カンボジアへの入国申請」
http://www.JCA.ax.apc.org/aml/9905/12201.html 
【AML12214】「…質問6:79年ごろの共同通信電」
http://www.JCA.ax.apc.org/aml/9905/12214.html 
【AML11749】「…質問7:馬淵氏および和田氏関連」
http://www.JCA.ax.apc.org/aml/9905/12287.html 
【AML12352】「…質問8:75年の本多氏の文章(完結)」
http://www.JCA.ax.apc.org/aml/9905/12352.html

最後に、井川氏から寄せられた書簡・資料の電子テキスト化にあたっては山下真氏のご協力をあおぎました。この場を借りて御礼申し上げます。

1999年9月7日

佐々木 嘉則

 

2. 井川一久さんから佐々木さん宛ての添え状

佐々木嘉則様

 1999/7/15

 井川一久

 吉川、山下両氏への回答が大幅に遅れて申し訳ありません。体調不良ながらさまざまな仕事に追われて超多忙だったこと(今もそうですが)、またインドシナに関する70─80年代の取材メモ、交換書簡、文書記録、各種出版物のたぐいが余りにも膨大で、保管状態も乱雑を極め、回答に必要な事実確認にひどく手間取ったことが、この遅れの原因です。この回答はそのまま公表していただいて結構です。その際、御面倒でしょうけれども、下記3文章(コピー同封)も合わせて全文流して下さると幸甚です。

 「61人声明」(『世界』79年5月号所載の日高六郎氏の文章から)

『虐殺と報道』(すずさわ書店80年11月刊)所載の吉川氏のアンケート回答文

『記録』81年4月号所載の私の「国境を超えるということ」

 「国境を超えるということ」には文字抹消と文言挿入がそれぞれ2カ所ありますが、前者は印刷ミス、後者は原稿段階での記入漏れを復元したもので、文意と文脈に変わりはありませんから、山下氏のいわれる「原文改訂」ではありません。

  傍線と疑問符をつけた3行の記述(4頁目)は、今となってみれば明らかに間違っています(中国でポル・ポット政権の動きに最も深く関与していたのは、いわゆる文革派ではありません)。また、この文章には、カンボジアヘの中国の軍事的関与(例えば78年のミグ配置、空軍基地建設など)に関する具体的説明が乏しいとか、ポ政権中枢の人的構成や意志決定機構を少々誤解している(例えばイエン・サリの役割を誇大視)とかの欠陥があって、当時の情報収集のむずかしさを物語っています。

 井川一久氏署名

 

3 井川一久さんの吉川宛回答 

1999-7-15
井川一久
 急ぎの仕事が多かったうえ、あなたや旧べ平連に関連した私の記述についての事実確認に手間取ったため、佐々木氏経由のお手紙(4月9日付)への回答がひどく遅れたことをお詫びします。さっそく本題に入ります。

1.あなたが「79年春に某中央紙バンコク支局長の斡旋でポル・ポット派と接触し、その後も同派支援の運動を続けた」という記述の前半は、当時の取材メモや友人の追想などをさまざまに検討した結果、明らかに私の事実誤認であることがわかりました。あなたがポル・ポット派と接触したというのは、私の記憶違いによる誤解でした。この点、まず率直に訂正し、深く陳謝します。

 あなたとバンコクでお会いしたのは、中越戦争やポ政権崩壊後のカンボジア情勢の取材をひとまず終えて同市に出た翌日か翌々日、あなたと面識のあるジャーナリスト某氏の設けた会食の席上だったと思います。そこではポ政権時代のカンボジアの大虐殺も話題になりましたが、その話はごく短時間(10分間程度)で終わったと記憶しています。

  当時の取材メモには、タイでの見聞として、ポル・ポット派とカンボジア国境地帯で接触する日本人(NGO関係者やジャーナリストを含む)が少なくないこと、前記ジャーナリスト某氏も時折接触していること、その某氏が「私の会ったポル・ポット派の最高幹部たちは流暢にフランス語を話すインテリだったから、自国民の大量虐殺なんてとても想像できない」という意味の言葉を口にしたこと、あなたがこの問題について現地取材を試みてきた私の言葉にほとんど耳を傾けなかったことなどが乱雑に書かれています。しかし、あなたとポル・ポット派の接触を明示する言葉は全くありません。「べ平連も困る」という言葉があるのみです。

  そのころ私は、カンボジア大虐殺という文明史的大問題が日本で余りにも疎略に扱われていて、旧べ平連の関係者を含む多数の指導的知識人までがポル・ポット派を支援するという状況に内心極度に苛立っていました。その思いに、この会食のときのネガティヴな印象が重なったためか、私はあなたもポル・ポット派との接触を試みるのではないかと推測し、それが後日、接触したという思い込みに変じたようです。

  ようです、という言い方は甚だ無責任ですが、思い込みというものの経緯は、本人にも、いや本人にこそ、しかとはわからないのが常ですから、誰しもこのように表現するほかはありません。

  これまで私は、あなたがポル・ポット派と接触したと確信していました。それは誤解であるとの御指摘を受けて、79年秋か80年初頭に日本のポル・ポット派支援運動と旧べ平連を含む革新勢力の関係について友人の某ジャーナリスト(カンボジア問題の認識をほぼ同じくしてきた人物)と長時間話し合ったこと、そのとき私があなたとバンコクで会ったと話したことを思い出し、その友人に「あのとき吉川氏がポル・ポット派と接触したとか接触しなかったとかいう話が出たか」と問い合わせたところ、吉川氏もカンボジア国境へ行ったんじゃないか」という推測ないし想像を双方が口にしたような記憶があるとのことでした。私の確信は、実は推測か想像にすぎなかったわけです。予断と思い込みは私のいかなる仕事からも極力排除してきたつもりですが、それを現実に避けることができなかった以上、長年ジャーナリスト稼業で飯を食った者として恥じ入るほかはありません。

  2. 前項の陳謝と反省は、私があなたに対する批判的視点を放棄するというようなことをいささかも意味しません。私は次のような理由で、あなたが実質的に、または少なくとも結果的に、ポル・ポット派を支援していたと今でも思っています。第2次インドシナ戦争(ヴェトナム戦争)を史上最大の局地国際戦争に仕立てた地球規模の諸要因(冷戦=イデオロギー対決、米中両国の世界戦略とヴェトナム・ナショナリズムの相剋、諸大国の軍産複合システムなど)が75年以後もさまざまな形で存続し、そこから第3次インドシナ戦争(ヴェトナム・カンボジア戦争、中越戦争、カンボジア武力紛争)とカンボジア国内の超異常事態が生み出されたからには、インドシナでの流血停止を求めて公的に発言していた日本の知識人(少なくとも運動体の指導的メンバー)には、引き続きインドシナの平安のために発言する責任があったはずです。この責任を果たそうとした人は余り多くはありませんでした。それはそれとして批判的検討に値する問題ですが、引き続き発言していた人々の姿勢も同じく問題です。

  インドシナ問題に関する公的発言の最低限の条件は、まずもって現地状況を客観的に知ること、少なくとも知るために客観的な情報の収集と真偽確認に努力することでしょう。しかし私の見聞した限りでは、ヴェトナム反戦運動にかかわっていた知識人のうち、その努力を惜しまないで発言していた人はごく少数です。発言者の多くは、なぜか現地へ足を運ぼうとせず、現地取材と研究に日常的に努めてきた専門ジャーナリストの話を聴くことすら怠り、客観的妥当性の疑わしいインドシナ域外発のマスコミ情報、米中両国やASEAN諸国を製造元とする虚偽情報、インドシナを専門的に研究した形跡のない自称研究者のお粗末な見解や、間違いだらけの通説に頼りがちでした。お手軽な推測、いや想像だけでインドシナの状況を嘆いてみせる人もいたように思います。

  私はその人たちの善意を信じています。しかし、正確な情報の収集・分析・評価を怠ったために、彼らの多くがインドシナの状況を見誤り、その核心ともいうべき部分で大きな錯誤を犯したことは否めません。残念ながら、あなたもそのような錯誤と無関係ではありませんでした。

  その一例は、小田実氏とあなたの起草した79年3月の『61人声明』です。この『声明』は、(1)当時すでに日本を除く西側諸国の常識となっていたポ政権の自国民大量殺戮(これは社会主義や民族自決の問題とは次元を全く異にする文明史的問題、人間の本質と実存の双方にかかわる根源的問題です)に直接には言及せず、(2)ヴェトナム・カンボジア戦争の経緯と構造に関する誤解から、ヴェトナム軍によるポ政権打倒を一方的な民族自決権の侵害(侵攻)とみなし、(3)極めて特異な歴史的・文化的・イデオロギー的構造を持つ中越対立やヴェトナムと民主カンブチア(ポ政権)の対立を、国家エゴイズムに問題があるという一般論でお手軽に片づけ、(4)「全世界の人々」に「国境をこえて」人民レヴェルで新たに連帯しようと抽象的に呼びかけていて、その全文を紹介した日高六郎氏の文章(『世界』79年5月号)と同様、ポ政権下の大流血と文明破壊に対する日本知識層の関心を遮断するに等しいもの、少なくとも全体の印象としてポ政権を免罪するものでした。

  ポ政権倒壊後、カンボジア国内での住民救援活動を多少とも組織したのは、ヴェトナム共産党の友党だった日共の関係団体を除けば保守系の団体(日赤など)だけで、いわゆる革新主流の人々はほとんど何もしませんでしたが、この冷淡さをもたらしたものの一つとして、『61人声明』に典型的に見られたような革新系知識人の実質的なポル・ポット派支援姿勢を挙げることができるかもしれません。あなたは別の文章(私の記憶では80年の『国境を超える運動』)では、「ヴェトナムとカンボジアの対立では、小さい側すなわちカンボジアの方に相対的に言い分がある」という形で明確にポ政権を擁護しています。

  また、あなたは『虐殺と報道』(すずさわ書店、80年11月)所載のアンケート回答文では、「かなり大量の虐殺はあった」と認めながらも、それは「200万とか300万という数ではなく、数十万という数ではなかろうか」(これは故菊地昌典ら明白なポ政権擁護者の挙げていた数字と同じです)、「ベトナム=ヘン・サムリン軍のカンプチア侵攻以後の大移動の過程でもかなりの餓死者が出たはず」(そういう事実は皆無でした)などと、現地調査を怠らなかった各国のカンボジア研究者やジャーナリストの報告とはまるで違う根拠不明の推測を行っています。唯一の根拠らしいものは、この回答文の中であなたの推奨しているS・へーダーの『黒書─ベトナム支配下のカンプチア』(『世界から』80年6─8月号に記載)ですが、彼は米CIAにつながる人物といわれていて、まともなインドシナ研究者には相手にされていません。

  このレポートも実に作為的で、客観性と専門性を装った記述の中にカンボジア問題の基本構造にかかわる多くの偽情報を織り込み、読者の目をポ政権の悪から巧妙に遠ざける(いわば相対化する)ものとなっています。

  あなたは彼のレポートに関して「くどいほどの綿密な記述から、私はずいぶん多くのことを学びました」と書いていますが、世論操作(欺瞞)を意図する言説は、大衆に向けては極めて単純明快、知識層に向けては極めて複雑晦渋なのが常です。偽情報を随所に潜ませたこのレポートの「くどいほどの綿密な記述」からは、そのような政治的意図がありありと感じ取れます。

  反権力ないし権力からの独立を口にする知識人と半知識人には、権力機構の公式情報、権力機構の一部を構成している(と彼らの信じている)マス・メディアの情報、権力機構に容認されて取材したジャーナリスト(例えば79年と80年代にヴェトナム外務当局の許可を得てカンボジアに入国したライターやカメラマン)の情報、要するにメジャーな(と彼らの考える)立場からの情報を信用しないという、多分に心情的な傾向の持ち主が少なくないようです。しかし、私の見聞によれば、その種の人々は、まさにそういう選好ないし嗜好ゆえに、マイナーな立場からの研究や報道にみせかけたメジャーな勢力(とりわけ米国)の情報工作の罠に落ちることが珍しくありません。あなたやアジア太平洋資料センターの人々が、そういう傾向と無縁だったのであれば幸いと思います。

  3. あなたは『61人声明』について、今なお「大筋、訂正の必要を認めません」と書いています。その「大筋」は、ヴェトナムが一方的にカンボジアを侵略し、中国もまたヴエトナムヘの一方的な軍事的懲罰を試みたという判断に立って、「社会主義を自認する国々」と「第三世界」の人々に「無用な対立、抗争に一刻も早く終止符」を打って「国家エゴイズムを超えた人類解放という普遍の大義に立て」というものです。これは私の第3次インドシナ戦争観とは180度違っています。ヴェトナム・カンボジア戦争と中越戦争に関する私の見解は、極度に簡略化していえば次の通りです。

  文革期の北京指導部は米ソ・中ソ対決・米中実質同盟という二重冷戦のもとで、東南アジアを世界革命戦略の主舞台とみなしていたが、ヴェトナムは独自のナショナリズムからこの戦略に従わず、文革にも同調せず、64年以前とは違って中ソ等距難の外交方針を維持した。そのため北京指導部は、伝統的な対越支配意識ゆえに、第2次インドシナ戦争後半の米国の錯誤によってたまたま中国の衛星国=属国となったカンボジアを使って屈服させようとした。それがポ政権の先制攻撃に発したヴェトナム・カンボジア戦争であって、それは中越対決の一環をなす二国間戦争だった。

  ヴェトナム側は77年まで中国の直接軍事介入を恐れて国境地帯での防衛に徹していたが、78年に中国がポ政権への軍事援助(武器供与、軍事顧問団派遣など)を強化し、軍用機をカンボジア西部に配置したばかりかコンポンチュナンに大空軍基地を建設、さらに中越国境に人民解放軍を集結し始めるに及んで、国防上の危機感から遂にポ政権打倒を決意し、カンボジア人亡命者(ポ政権離脱者)からなるカンプチア救国民族統一戦線を育成したうえでカンボジア領内への総攻撃を敢行、プノンペンにカンプチア人民共和国政府を擁立した。中越戦争は、これに対する中国の回答(ヴェトナムヘの軍事的懲罰)だった。ヴェトナム・カンボジア戦争と中越戦争はこのように構造的に一体のものである(『声明』のいうような別個のものではない)。

  米国と西側主要諸国(日本を含む)は、この中越対決に中国の側に立って関与し、国連のヴェトナム制裁決議と民主カンプチア政府のカンボジア代表権承認を主導、またタイ国境地帯へ逃れたポ政権の残党を中国とともに物心両面で支援した。それが10年に及ぶカンボジア武力紛争につながったのだが、これはヴェトナム南北分断の固定という72年の米中秘密合意に反して(形式上はヴェトナム和平協定にも違反して)サイゴン政権を武力で打倒したヴェトナム共産党への懲罰をも意味していた。私はこの見解を、今ほど整理されたものではなかったにせよ、80年代から少なからぬ文章で表明してきました。その一部はあなたも読んだはずです(例えば後記の「国境を超えるということ」)。してみると、あなたが『声明』の「大筋」を訂正する必要がないと公言することは、今なお私の見解を真っ向から否定していること、いわば私を嘘つきジャーナリストとみなして非難していることを意味するでしょう。そこにはいかなる客観的根拠があるのでしょうか。客観的根拠がないとすれば、あなたは社会的に極度に不誠実かつ傲慢な発言を重ねていることになりますが、そのことを認めますか。ついでですが、「第三世界」というのは社会科学上のタームではなく、毛沢東の世界革命戦略すなわち「三つの世界」論に発した戦略用語ですから、まともな研究者や報道・言論人は使うべきではないと私は考えています。

  4. あなたの「国境を超える運動」を批判した私の文章は、『記録』81年4月号に掲載された「国境を超えるということ」です。佐々木氏を通じてその全文をお見せしますが、これは「『国境を超える』などという無意味なことをつぶやいても仕方がない」というような軽いものではなく、あなたを一典型とする善意の実質的ポル・ポット派支援者すべてを根底的に批判したものです。文中の「某氏」はあなたです(間接的には『声明』署名者全員です)。私はこの文章について、今も「大筋、訂正の必要を認めません」。

  5. 私が旧べ平連の人々を強く批判していて、そのために「表現は感情的」になるというのは、それこそ感情的な判断でしょう。私は集団(機構、組織、団体)と個人を混同したり、私と意見を異にする集団なり個人なりを嫌ったりするような性癖の持ち主ではないつもりです。現に私は、少なからぬ旧べ平連関係者と親しくしていますし、あなたにもネガティヴな感情を全く抱いていません。そのことは、前記「国境を超えるということ」でも強調しました。

  以上、簡単ながら、私なりに誠実に回答し、陳謝しました。今度はあなたが回答し、陳謝する番でしょう。ただし、私ではなくて、日本国民とインドシナ諸国民に対して。

4 吉川のとりあえずの意見 [aml]に載せた文章)


吉川勇一です。
 井川一久さんから私宛ての回答が公開されたことについての私のとりあえずの意見とお知らせです。ある程度長くなりますが、これ以後は、この問題を[aml]の上で論じませんので、今回だけ、ご容赦ください。

 今年の4月7日、この[aml]の上に佐々木嘉則さんが公開された井川一久さんの文章の中で、私の言動について事実無根の虚偽の記載がしてあったので、私は、井川さんの文を仲介された佐々木さんを通じて質問を出しました。

 本日、5ヶ月ぶりにようやくそれに対する井川さんのご返事が[aml]の上に公
開されました。(佐々木さんが[aml]に載せられたこの回答は、7月15日付けとなっておりますが、私の手元に佐々木さんから個人メールとして送られてきたのは、9月2日のことでした。)

  まず、仲介の労にあたられた佐々木さん、そして山下眞さんのご苦労に謝意を表します。井川さんはインターネットもe−mailも使われず、通信はFAXで送られるか、郵送されてきたようですから、これを[aml]に載せるには、OCRで読み取らせ、かつ、校正をするのに、大変なご苦労をされたと思います。(私のところに来たのも佐々木さんからPDF文書として送信されたもので、OCRで読み取らせてみた結果は誤字だらけ、ほとんど打ち直しといってもいい作業でしたから)。

  さて、井川さんの回答ですが、まず、私が某大新聞のバンコック支局長の斡旋でポルポト派と接触し、その後もポルポト派支援を続けた、という事実無根の主張の前半部分を全面的に撤回され、詫びられたわけですから、その限りでは、この問題は私にとって決着がついたはずでした。それで終わりならよかったのですが、それに続けて、今度の回答では、井川さんは、別の問題を新たにお出しになりました。

  そもそもの4月7日の文の中では、井川さんは、私を「大虐殺の事実を認めず、ポル・ポット派擁護の超党派運動に参画した政治家、著名な知識人、マスコミ関係者など」の中に加えられました。私はそういう事実はないと言い、その根拠について質問しました。
  今度の回答の中で、井川さんが誤りを認めたのは「ポルポト派と接触した」という記述の点だけでした。私が大虐殺の事実を認めなかったことなどない、あるいは、ポルポト派を支援したことはない、と言ったことについては、何も訂正せず、謝罪もされておらず、「あなたは……『かなりの大虐殺はあった』と認めながらも」、と主張を変更し 、今度は、数の問題や、餓死者があったかなかったかという問題にすりかえて、私を非難されています。最初に、私を「大虐殺を認めず」と断定されたことはどうなったのでしょう?

  また、ポルポト派支援についても、今度の回答では、「あなたが実質的に、または少なくとも結果的に、ポル・ポット派を支援していた」と言われています。これも事実のすり替えだと思います。「実質的に、少なくとも結果的に」というのは、誰でも認めうる客観的な事実ではなく、ある立場に立った人の評価の問題です。最初の文では、明白に「大虐殺の事実を認めず、ポル・ポット派擁護の超党派運動に参画した」人々の中に私を加えていたのですが、これは、客観的な事実(つまり、私がいつ、どこで、どんなポルポト派擁護運動に参画したのかというような事実)がなければ言えない筈の断定です。それについては、何の証拠も出せず、否定も、謝罪もなく、今度は、「実質的に、少なくとも結果的に」と言い換えておられます。井川さんはこの部分の回答を避けておられ、問題をすりかえられている、と私は思います。

 おまけに、私が、61人の共同声明について「大筋、訂正の必要を認めません」という言葉をのべたのをとらえて、それが、井川さんを「嘘つきジャーナリストとみなして非難している」ことだと断定し、私を「社会的に極度に不誠実かつ傲慢な発言を重ねている」と非難され、それを認めるか、と私に迫り、そして、ご自分は感情的な性格の持ち主ではない、とご自分で保証され、最後に、自分は「誠実に回答し、陳謝したのだから、今度は、あなたが回答し、陳謝する番」だといわれ、かつ、この陳謝要求を、日本国民、インドシナ諸国民を代理して私に要求されています。

  問題は別の次元に発展しました。井川さんが感情的な人物であるか、どうかはどうでもいいことです。それこそ、個人、個人の受け取り方はさまざまでしょう。井川さんの文をお読みになる方の評価にお任せします。しかし、井川さんが新たに提起された問題については、私はお答えするつもりです。ただし、これは、場合によると、かなり長文になり、しかも、議論として続く可能性もあります。

  [aml]は、その性格上、情報の交換の場で議論の場ではないとされています。しかも、井川さんは、直接e-mailをお使いにならず、 [aml]もご覧になれないわけで、ここでやりとりするのは現実的ではありません。それで、私は、この問題についての私の意見発表の場を、私のホームページの上に移します。そして、井川さんにお伝えする必要があると思った場合には、それをプリントアウトしたものを、井川さんに郵送することにします。また、井川さんが同意されるなら、私のもとに送られる井川さんのこれまでの、あるいは今後の文書も、そのホームページの上に公開します。ですから、以後、このやりとりにご関心をお持ちの方は、私の下記のホームページをご覧下さるようお願いいたします。

  ただし、少々、時間をいただきます。というのは、私のこの問題に対する関心は、井川さんからの非難や糾弾にどう応ずるかということではなくて、また、どっちが正しいか、間違っているかなどという判定の問題でもなく、どちらにせよ、今から考えて、間違っていたとしたら(私は、これまでも判断を間違ったことがあり、今度の場合も、自分が間違っている可能性がない、などというつもりはまったくありません)、それは何故なのか、どうしてそういう誤りが生じ、どうすれば今後の運動がそういう誤りをくりかえさずにすむかという、実践的なところに主要な関心があるからです。私は、このベトナム・カンボジア戦争についての問題は、現在のコソボ問題とも大きな関連があると思っています。ですから、まとめるのには、時間がかかりそうです(しかし、5ヶ月はかからないと思いますが)。ホームページにそれを掲載したら、掲載の事実だけを[aml]の上でお知らせすることにします。

  ただ、最後に一言だけ、私の今の思いを述べさせてください。井川さんの最後の、日本国民とインドシナ諸国民に対する私の陳謝要求についてです。私は、かつての差別糾弾闘争の際の、ある党派のやり方や、一部ノンセクト・ラディカルのグループのやり口を連想せざるを得ませんでした。(「連想」といったのです。井川さんの文から、それを想起させられたということで、井川さんがそれと同一だといったのではありませんので、念のため。こんな表現で、また新たな論争をはじめたくはありません。)それらの人びとは、一応自分なりに自己批判した上で、次は、自分が被差別者の側、正義の側に立てたかのように勘違いをし、被差別者を代理して今度は他の人びとの糾弾に移り、謝罪を要求しました。相手をたじろがせ、打倒するために、政敵を相手にそういうやり方が効果をもったことがあるかもしれませんが、実りある討論をし、今後に何らかの益をもたらすには、役に立たない、あるいはマイナスになったやり方だった、と私は思っています。私は、こうしたことについての思いを、拙著『市民運動の宿題』(思想の科学社)で詳述しました。
 
 以上、長くなって失礼しました。

yy@mine.ne.jp
http://www.jca.apc.org/~yyoffice/ 
(吉川の個人サイト)
http://www.jca.apc.org/beheiren  (べ平連のサイト)

(以上)

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