globul1d.gif (92 バイト) 2 佐高信さんの「久野収先生の死」をめぐるやりとり (1999年3月〜4月)

  佐高信さんは、週刊誌『金曜日』1999年2月5日号に「久野先生の死」という文を載せられた。これは、99年2月9日になくなられた哲学者,久野収さんへの追悼文だが,そのなかに次のような一節があった。
 「……常に敵への目配りを忘れない精神は、やはり、戦争中に二年間も投獄されたことによって、より強固になったのだろう。先生とほぼ同年代の竹内好や丸山眞男と、その後の日高六郎、加藤周一、鶴見俊輔といった人々を分かつ大きな違いは、味方よりも敵の動きを注視しているかどうかだ、と書いたことがある。もちろん、日高、加藤、鶴見の三氏も戦争中にはイヤな思いをした。しかし、それゆえに戦後は、より敵の動きに目を配るといったようにはならなかった。……」
 それに対し、私は、同誌の「論争」欄に批判文を投稿し、それは3月12日号に「佐高氏の日高・加藤・鶴見評に違和感」と題して掲載された。
 佐高さんは、この私の文について、翌3月19日号の「風速計」に「目くばり」という文を載せ、反論された。その中では、鶴見、日高、加藤氏らに対して、佐高さんがどういう批判をもっているのかの具体例が述べられてもいた。
 それに対し、私は、同誌投書欄に再度「違和感は消えません」と題して投稿した。
 『金曜日』編集部は、最初、「『論争』欄を含め、一度投稿が掲載された場合は、2ヵ月間は同一人の投稿は載せない規定になっているから」という理由で、掲載できないと通知してきたので、私は、このホームページの「最近文献」の欄にそれを掲載した。
 ところが、そのあと、本多勝一さんとの別の件での電話の中で、本多さんは、その規定は論争については当然ながら別だと言われ、編集会議では、そのことを徹底させたということだった。同誌編集部からは、あらためて、この投書を掲載したい、という連絡があり、それは、4月9日号の「投書欄」に掲載された。
 同じ6日号の最後の「金曜日へ」の欄では、この投稿の規定問題への一読者からの意見とともに、論争に関しては、「2ヵ月間規程」は適用しないという、編集部の文も掲載された。
 佐高さんの文は、まだ、ご本人の了承を得ていないので、ここには掲載しない。『金曜日』の各号で見てください。私の2つの文は以下に掲載します。また、それぞれ、上のタイトルをクリックしても、読むことができます。

[論争] 佐高氏の日高・加藤・鶴見評に違和感
             
 (『金曜日』1999年3月12日号)

佐高 信 様
 久野さんが亡くなられた日の夜、久野さんを収めたお棺の前で、親しくお話できて幸いでした。しかし、今日は、その佐高さんに一言、苦言を呈したく筆をとりました。
 翌日、久野さんを伊東市川奈の火葬場でお送りしてからほんの数日後、久野さんの遺影を先頭に、都心での反ガイドラインのデモに参加したことは、本誌の別項に書きました。その原稿を『金曜日』編集部に送った直後、届いた本誌二月一九日号の佐高さんの文章を拝見して、驚いたのです。
 久野さんの「一番弟子」「直弟子」「愛弟子」……と思っておられる方はたくさんおられます。久野さんはご自分より若い人びとを心から愛され、ときには激しく叱責し、ときにはやさしく慰め、ときには熱く激励されましたから、そういう久野さんのお人柄のなせることだと思います。久野さんの弟子と自認する人びとが、久野さんを尊敬し、あるいは賛美し、自分こそ、久野さんをたたえる気持ちを誰よりも強くもっていると思うのもよく理解できます。私もそういう何十人目か、何百人目かの一人だと思っています。
 しかし、久野さんをたたえるのあまり、日高六郎、加藤周一、鶴見俊輔と固有名詞まであげ、しかもそういう人びとが久野さんとは大きく違って、戦後、「より敵の動きに目を配る」ようにならなかった、とまで言われているのには、強い違和感を覚えました。
 私は、加藤周一さんとは、反戦運動の場でごいっしょしたことが多くありませんが、日高、鶴見のお二人とはべ平連やその他の反戦運動で、多くの場をともにしてきました。そういうなかで、お二人から、政府・支配層、あるいはさらにもっと深い世の動きにひそむ危険な動向やきざしを指摘されたことは、実に数多くあります。加藤周一さんのお書きになるものからも、敵の動きの危険さを教えられたことは少なくありません。私は、久野さんとならんで、日高六郎さんや鶴見俊輔さんらからも数々のことを学んできましたし、これらの方は、久野さんととともに、戦後反戦運動で重要な役割を果たしてこられてきたと信じています。もし、竹内・丸山・久野さんらと、日高・加藤・鶴見さんらとの間を分かつそれほど大きな違いがあったら、あの教えられることの多い『思想の折り返し点で』(久野・鶴見さんの対談、一九九〇年、朝日新聞社)などは成立しなかったでしょう。
 佐高さんが、久野さんをたたえようとする心情のあまり、久野さんとかなり重なる時期を、反戦・民主主義・平等などを求めて行動されてきた日高、加藤、鶴見という方がたが、「体制側の動きに目を配」ってこられなかったような文章を書かれたのは遺憾です。それは、亡き久野さん自身も決して自分への嬉しい誉め言葉などとは受け取られないことだろうと、私は思います。 
                       (東京都保谷市・市民の意見30の会・東京会員、67歳)

 

[投書]欄    違和感は消えません 
       (『金曜日』1999年4月9日号)    

                                 東京都・保谷市 吉川勇一
                                             文筆業(68歳)

3月19日号「風速計」で、佐高さんの文章を拝見しました。
 『現代人物事典』は、私も市民運動の分野で編集の一端にかかわりました。その人選については、刊行直後からいろいろな意見を聞きました。私個人に関係することだけに限りますが、私の人物評を武藤一羊氏が書き、武藤氏の評を北沢恒彦氏が書き、そしてその北沢氏を私が書くという循環ができてしまっていることなど、どう考えても美的にうまくありません。「仲間ぼめ」批判は当たっている側面もあると思います。しかし、欠陥は欠陥として、あの事典は画期的なものだったと思っています。とにかく、議論はあるでしょうが、それは『現代人物事典』論としてなされればいいことで、それが久野収さんあるいは竹内好さんと鶴見俊輔さんとを大きく分ける拠り所にはなりません。
 日高六郎さんや加藤周一さんのことについてもそうです。一、二のエピソードで人物全体の評価はできません。それと反対の事実を示すエピソードだってあげられるからです。また、久野さんについても、あげつらえば、「久野さん、あれはまずかったですね」と言いたいようなエピソードもあるでしょう。しかし、それをもって久野評にすることはできません。やるのだったら、もっと説得力のある論拠をもって鶴見俊輔論、あるいは日高論、加藤論として展開されるべきで、少なくとも久野さんを偲ぶ短い文章の中で触れるような問題ではないと思います。
 私の意見は、前回の「論争」欄で述べたことでつきていますので、これ以上佐高さんとやりとりするつもりはありませんが、今度の「風速計」の文でも、違和感は消えていないということだけは申しあげたく、再度投稿いたしました。

以上

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