1. 和田春樹さんとの公開論争――朝鮮戦争下の日本平和運動の評価とユートピアをめぐってなど (1995年3月〜11月)
この論争は、最初、私が、和田春樹さんの著書『朝鮮戦争』(1995年1月、岩波書店)の書評として、「朝鮮戦争
下の平和運動評価には反対」という文を『市民の意見30の会・東京ニュース』No.28(1995年3月25日号)に載せたところから始まった。
これに対し、和田春樹さんは、同誌No.30 (95年8月10日号)に『朝鮮戦争下の日本平和運動の評価について――吉川勇一氏の『朝鮮戦争』書評に反論する」という文を寄せられた。
私は同誌No.33 (99年11月30日号)に「『現実的』と『ユートピア的』をめぐって――和田春樹氏の『反論』への再反論」と題する文を載せた。
論争は終っていないのだが、和田さんからの希望で、この誌上での討論は中止することになった。同誌No.35 (1996年3月31日号)には、そのことについて記した「編集部からのおことわり」が掲載されている。
以下にそれらの文書を掲載する。この公表は和田さんのご了承を得ている。
[書評] 和田春樹著『朝鮮戦争』(岩波書店95年1月刊 4200円)
――非武装中立は「ユートピア平和主義」など――
吉 川 勇 一
(『市民の意見30の会・東京ニュース』No.28 1995年3月25日号)
戦後五〇年間を総括するさまざまな動きがある。反戦・平和運動の歴史も、もちろん、あらためて問い直されなければならない。いうまでもなく、一九五〇年からの朝鮮戦争の位置はベトナム戦争と並んで非常に大きく、また、その際の反戦・平和運動の総括はとりわけ重要だ。
★「北」による「南進攻撃」の実証★
つい最近、岩波書店からだされた和田春樹著『朝鮮戦争』は、ごく最近明らかにされた旧ソ連の秘密文書や当時の重要人物の証言なども合め、膨大な資料を詳しく検討した上での歴史書である。
私的なことになるが、私は、学生時代にこの朝鮮戦争を迎えた。共産党幹部の追放、その機関紙『アカハタ』の発禁、自衛隊の前身である警察予備隊の創設、そして各部門で強行されてゆくレッドパージ……。こうした状況は多くの青年に戦争への危機を実感させた。三〇年以上に及ぶ私の反戦運動とのかかわりも、この時に始るものだった。
私も、かつてよく読まれたI・F・ストーンの『秘史朝鮮戦争(上下)』(内山敏訳、新評論社)を読み、それを信じこんだし、信じようとした。
すでに当時から、これに対する疑念や反論も、例えば三好十郎「清水幾太郎さんへの手紙」(『群像』53年3月)のように、あったのだが、私の目には入らなかったし、入ったとしても「反動の言論」と無視したことだろう。
和田氏は、本書の「歴史としての朝鮮戦争」の章で、北朝鮮軍が「解放戦争の命令を受け」「南進攻撃を開始した」としている。この戦争が北からの攻撃によって開始されたとする説は、これまでにも多くの人によって論じられているが、和田氏の、その断定にいたるさまざまな実証的検討は説得的だ。教えられること、はじめて知ることがたくさんある。しかし研究者ではない私には、こうした数々の資料や文献を含めた事実究明の努力の結果を検討、分析する力はない。
★「ユートピア平和主義」への批判★
だが、この書物の「戦時下の日本と北朝鮮」の章の「革新の平和主義」の項にある当時の平和運動への評価には異論がある。和田氏は、岩波文化人を中心にした平和問題談話会の動きやその声明をもとにした社会党、総評などの「平和四原則」(@全面講和、A中立堅持、B軍事基地反対、C再軍備反対)などの運動を「ユートピア平和主義」として批判している。氏は、ほとんど同じ言葉を使って、すでに昨年の雑誌『世界』4月臨時増刊でもそうのべている。ただ、『世界』での報告では、討論の材料として「多少、論争的に問題を提起」するとあった。つまりオーパーな表現もあるという趣旨と解された。だが、今度の歴史研究書でも繰り返されているところを見ると、これは和田氏の掛け値のない主張と受け取らざるを得なくなった。
和田氏は、当時の非武装中立の主張が「手前の現実から身をもぎはなして、米ソ冷戦という一段上の現実にのぼって、その中にはらまれている未来の可能性を取り出して、手前の現実を批判するという姿勢」だと批判する。そして仮に社共連合政権などができて、非武装中立の路線を日本が追求しようとしたら、米国の武力介入は必至であり、それと闘うためには、「社会党政権は非武装にはとどまりえなかったろう」とまで論じる。
★福田恒存『平和論への疑問』との通底★
和田氏の方法論は、かつて福田恒存氏が「平和論の進め方についての疑問」(『中央公論』54年12月)その他一連の論文で当時の平和論者を相手に展開した議論の方法と同じものだ。ただ、今この「平和論論争」を読返してみて、必ずしもそれは決着がついていないのだという思いがする。だから、ふたたび今「典型的なユートピア平和主義」批判という装いをつけて、この批判が再登場してきたのだろう。
和田氏は、『世界』では「新しいユートピアは必要だと思う」とものべていて、必ずしも「ユートピア」自体を否定していないように受け取れるところもあるのだが、しかし文脈全体から見ると、運動が「ユートピア」あるいは「理想」を主張するのは無意味、あるいは反対勢力への「補完」的意味しかもたないという意見のようだ。
私は、これにはまったく与し得ない。中学生、高校生などにならいざ知らず、これまで長くさまざまな運動の中で行動をともにする機会をもった和田氏に対して、人間が理想をもつことの意義を説くなどとは何ともやりきれないことだし、ここで論ずる紙面もない。しかし、要はそういうことになってしまうのだろう。
★現在の運動の姿勢とも直結する★
この問題は、実際の運動上の姿勢にも直接結びつき、和田氏らが一昨年提案した「平和基本法」提案や、今年三月号の『世界』で提案している「戦争・植民地支配反省の国会決議を」の提言などとも関連する。この後者では「国会決議は慣行により全党全会派一致で行うことになっている。今日もっとも重要なことはそのような一致が得られる内容をつめることにある」として「太平洋戦争を侵略戦争とよぶことについては、……これに固執する必要はない」としている。この提案も先の「平和基本法」と同じく、政府と世論の動向をひたすら後退させるための「理論」的道具立てを提供するにとどまるだろうと、私は危惧する。
こうした姿勢は、阪神大災害を契機とした「自衛隊活用論」とも関連してくる。(この点にかんしては、『ニュース』のこの号の井上澄夫氏による問題点整理を参考にしていただきたい。)
★陰にこもった議論ではなく★
『世界革命』の紙上では、すでに同紙の高島義一と京都の「反戦ドタバタ会議」の柚岡正禎氏との間で、危機管理への自衛隊活用論をめぐって議論が展開されている。市民運動の分野では、「平和基本法」提案の時に一部に見られた歯切れの悪い賛同や陰にこもったような批判ではなく、スカッとした気持ちのいい議論を展開したいものだ。
「存在したものが現実的」「これまで経てきた歴史は結局なるようになった歴史だった」(前出『世界』臨時増刊)と、およそ歴史家の発言とも思えぬようなことを言われた和田氏だが、そうだとすると反戦平和運動の意味などまったくなくなってしまう。
かつてベトナム反戦運動の中で、和田氏は「われわれは、いま、ベトナムの民衆の闘いに呼応して、米軍解体の努力をさらに強化しなければならない。そして、その状況を自衛隊=日本軍の中にもち込むことによって、自衛隊=日本軍の解体をめざすことができるのだ」と書いたことがある(和田春樹他編著『米国軍隊は解体する』三一新書の清水知久氏との共筆の「まえがき」)。
ベトナム戦争時の運動の評価も、和田氏からぜひ聞きたいと思う。
――吉川勇一氏の『朝鮮戦争』書評に反論する――
(『市民の意見30の会・東京ニュース』No.30 1995・8・10号)
和 田 春 樹
本誌23号に吉川さんが私の本『朝鮮戦争』の書評を書いて下さったのを拝見しました。率直に批判して下さったことに感謝します。しかし、私の考えていることが吉川さんに十分には伝わっていないように感じますので、反論を書かせていただきます。
朝鮮戦争は、日本の平和運動、革新運動にとって避けて通れない問題だと思います。日本共産党は長くこの戦争は米国と韓国による北朝鮮攻撃からはしまったものと説明してきましたが、今日では、この戦争が北朝鮮の武力統一の意志に発し、ソ連と中国の支持のもとにはじまったことは明らかになりました。そうなってみたとき、あの戦争の時代の人々の選択をどのように評価するかが、あらためて問われます。私は本の中でそのことに立ち入って論じました。吉川さんは、朝鮮戦争が北の攻撃から起こったことについての和田の検討は説得的だと認めて下さったのですが、そのことと当時の平和運動の評価とを切り離してみておられます。しかし、共産党系では、米韓軍の侵略という認識をもって、米軍は朝鮮から手を引けと主張していたのですから、戦争の評価が変わるということは反戦運動の評価にも影響せざるをえないと思います。
朝鮮戦争に対する米軍の介入、参戦は日本を直接の基地として行われました。日本政府も共産党主流派もこの戦争に中立ではありえないと主張しました。米韓の側に立つか、北朝鮮中国ソ連の側に立っか、です。私は、それぞれが現実的選択だと考えました。しかし、共産側に立って日本で武力革命路線をとることは政治的には不可能だと考えた人々が、反米的平和運動に力を入れたのでしょう。
さて、日本社会党と平和問題談話会の動きは、異なった論理に立っていました。朝鮮戦争は無視するというものです。私はそのことを発見して、正直なところショックを受けました。日本は米軍の基地なのですから、ここで戦争をやめさせるように真剣かつ深刻な闘争をすると、相手方、共産陣営を助けることになります。のちベトナムの場合と違って、戦争の最重要基地日本で「戦争の機械をとめよう」と叫んだら、大変なことだったでしょう。それが北朝鮮中国を助ける効果をもっということを自覚しなければできなかったと思います。おそらく革新派の非武装中立論が朝鮮戦争との関連を回避したのはこのためではないでしょうか。
社会党、平和問題談話会の立場を、私は「ユートピア平和主義」と呼びました。「ユートピア的」というのは非難ではなく、性格規定にすぎません。吉川さんは、あの朝鮮戦争のさなかで、非武装中立論が日本政府、共産党の線と並ぶ、第二の日本の現実的選択肢だったと考えておられるのでしょうか。そのような政府ができれば、米国は許さず、介入し、社会党政権は非武装中立にはとどまれなかったろうという私の推論は間違いですか。
いずれにしても中立をとるなら、武装中立しかありえなかったろうと考えるのは、ごく自然のことと思います。
しかしながら、非武装中立という革新系の立場は、私自身の立場でした。一九五四生高校生のとき憲法擁護国民連合の地元の組織にはいって再軍備反対の運動をしたときから、ずっとそうでした。そのことを私は後悔していませんし、歴史的にみて、意味ある立場であったと考えています。「存在したものが現実的」「これまで経てきた歴史は結局なるようになった歴史だった」という私の言葉が人人にショックを与えているようですが、私は続けて「戦後の日本に与えられた現実的枠組みの中では政権が親米で、革新野党が反米でバランスをとるという以外の選択はなかったのではないかと考えます」と述べています(『世界』臨時増刊)。私は歴史の傍観者として言っているのでも、現実肯定の立場で言っているのでもありません。私は私なりにそのときどきの現実の課題に取り組んで、できるところまではやってきたといういささかの自負をもっております。自民党政権下で、自衛隊の拡大、社会の軍事化にブレーキをかけ、米国のアジア戦争に参加するのを阻止するというのが革新派がやりえたぎりぎりのことだったと思っています。しかし、こんにちからみればもちろん反省点があります。
吉川さんにまで、和田のように言えば、「反戦平和運動の意味などまったくなくなってしまう」と言われたのは、驚きでした。私ももちろん年をとり、保守化しています。しかし、過去におこなったベトナム戦争反対の運動も、韓国民主化闘争連帯運動も、基本的に肯定しています。アメリカのベトナム侵略だけでなく、全世界のべトナム反戦運動も歴史の重要な一部であり、それがあったからこそ、べトナム戦争は終わったのだということを疑うはずはありません。しかし、ベトナム人の抵抗は共産主義者によって指導されており、戦争に勝った瞬間に共産主義者が指導したから勝てたのだと、狭い考えに落ち込み、あの勝利を小さくしてしまいました。別の可能性も夢見ましたが、あのようになった結末もふくめて、歴史はなるようにしかならなかったと考えています。
一般に理想をもつこと、存在していない状態、ユートピアをめざすことは人間の行動の大きな動機です。私はそれを一度も否定しません。朝鮮戦争のさいは、現実的になったら、運動ができない状況であったと思います。だから、現実から目をそらして、はじめて非武装中立論が主張できたのです。その時代にこの立場の非現実性を指摘する議論、たとえば福田恒存のような主張があっても、耳をかすことはできなかったのです。それ以外に道がなかったからです。
しかし、冷戦が終わり、国家社会主義が終わったいまは、問題点は問題点として認め、世界戦争の時代の終わりを一層の平和の拡大に進める現実的な道を考えることが必要でもあり、可能でもあると思います。ですから、長期的には新しいユートピァが必要ですが、当面の現実的な改革の道も必要なのです。平和基本法は明らかに現実的な改革の道として提案しました。戦争・植民地支配反省の国会決議も同様です。吉川さんはこれでは、「政府と世論の動向をひたすら後退させるための『理論的』道具立てを提供するにとどまるだろうと危惧しておられます。ここが理解できません。
ユートピアを掲げて現実を批判するという運動もあっていいし、現実的改革の運動も必要だと、私は先の『世界』臨時増刊で指摘しました。問題は、二つの運動の間の相互理解です。相互批判は当然ですが、ユートピア派が改革派を現実妥協派、原則放棄派と批判することに安住するのも、改革派が現実の枠を画定的に受け取って、それからはみでる批判を非現実的観念論として反発だけするのも戒められるべきです。
(わだはるき)
*タイトルは編集部でつけました。
――和田春樹氏の「反論」への再反論――
(『市民の意見30の会・東京ニュース』No.33 1995・11・30号)
吉 川 勇 一
私の『朝鮮戦争』書評(本『ニュース』28号)への和田さんの反論が5ヵ月後の『ニュース』(30号)に載り、それから3ヵ月後の本号でそれへの反論というのでは、なんとも間延びのしたやり取りで具合が悪いのですが、和田さんが外国旅行をされていたり、私が入院、手術をしたりなど、やむを得ぬ事情もありました。
★多岐にわたりそうな論点★
それにしても、これだけ時間が経過すると問題点は最初の書評でのべた点にとどまらず和田さんと議論をしたり、和田さんにお尋ねしたりしたい点が大分増えてきました。例えば、@今年の四月五日に開かれた「国会決議にかんするシンポジウム」での、和田さんの「戦争による死者への思い」の問題(出席されなかったニュース読者の方のためにごく簡単に紹介すると、正確な記録はないのですが、和田さんはその時、アジア・太平洋戦争での死者は、日本軍の戦死者であれ、その犠牲となったアジアの人たちであれ、死者としては区別がないのであって、あの世では同じ立場から私たちに平和を呼びかけているのだろう、というような趣旨の発言をされたと記憶します)にしても、またA『世界』二月号にある和田さんほか三氏の「韓国知識人との往復書簡」にあるいろいろな評価(その中で和田さんたちは6月の衆議院決議を「一歩前進」とのべられています)にしても、また、岩波講座『日本通史』第21巻にある『世界体制の変容と日本』の中で和田さんが展開されている論点や評価、例えば、(3)戦後「日本の独特な経済システム」とは「働く者の能力を十二分に会社に吸収し、会社としてはその働きにしかるべく報いるというシステムである」(!)という評価とか、とくに(4)「今日避けて通れない大きな問題」である「憲法と自衛隊の存在とをどのように調整するか」ということについて和田さんが挙げられる四つの「論理的」選択肢の内容(そこで和田さんは、(1)社会党を支持していた人々が諦めて、自民党の合憲の論理を受入れる、(2)これまでの自民党の主張ではなく、新しい自衛隊合憲の主張を見いだして、国民のコンセンサスをうる、(3)自衛のための最小限防御力は合憲だとし、自衛隊をその方向に縮小していく過程が開始されれば、合憲と認めていいという「平和基本法」の論者の案でいく、(4)自衛隊の存在を認めるよう憲法九条第二項を改正する、の四つの案を挙げておられますが、そこで「自衛隊の存在が時代の要請に合わぬ誤ったものであり、かっ違憲であるとして、その解体を主張する」という立場が考慮もされていないというのは驚きでした。これはまったく「論理的」どころではない、恣意的な挙げ方です)などなどですが、これらを言い出すと長い文になってしまいます。それは別の機会にゆずるとして(12月4の「フォーラム’90」総会の全体会議では、ご一緒に討論する機会があるようですね)、なるべ最初の私の批判の範囲に限ってのべることにします。
★「現実的」ということの定義は?★
まず議論をすすめるために、言葉の定義をはっきりさせる必要があると思います。
和田さんのいわれる「現実的」という言葉が、私にはよく理解できないからです。和田さんは朝鮮戦争下の日本共産党の路線を「現実的選択肢」だとされ、それに対して社会党や平和問題談話会の非武装中立論はそうではなかったとされます。升味準之輔さんは朝鮮戦争下の共産党の実践を「絶望的な武装闘争」と表現していますが(岩波書店『戦後日本』第2巻『占領と改革』22ページ)、こうした「絶望的」闘争も「現実的」選択肢の一つであったとされるなら、非武装中立路線はそれよりもずっと実現可能性をもった選択肢だったのではないでしょうか。「現実的」「ユートピア的」という和田さんが対立的に使われる用語は『朝鮮戦争』の237ぺージにも出てきますが、ここでも「共産党の現実主義」という表現があります。和田さんは共産党の当時の方針を吉田内閣のもう一つの「現実主義」と並ぶ「現実的な実行可能な政策的オールタナティヴ」であったとされるのでしょうか。他方、前回の「反論」では、「ユートピアを掲げて現実を批判するという運動」と「現実的改革の運動」とを対比されていますが、ここでは「現実的」という言葉が違う意味で使われているようにも思えるのです。朝鮮戦争下の共産党の運動は後者だったのですか。どうも混乱してきます。
「ユートピア」とは、およそ実現しえざる「どこにもない場所」への空想をさすのだと私は理解しています。和田さんは「ユートピア的」というのは非難ではなく、「性格規定」にすぎない、とのべられています。しかし「現実から目をそらして、はじめて」ユートピアがもてるのだ、とも言われます。私は、「現実から目をそらす」ことは、卑怯な逃げの態度か、あるいはニヒリスムであり、「非難さるべき」ことだと思います。現実を直視しつつ、理想を主張することによって、現実を変え得ることがありうるからであり、それが運動の立場だと思うからです。こう考えると「ユートピア的」という表現は、私には単なる「分析」や「性格規定」ではなく、非難の意味があるとしか受けとれないのです。
ベトナム戦争下の1972年、神奈川県相模原の米軍補給廠からべトナムヘの戦車輸送に反対する運動が展開されました。その闘争について、かつて和田さんは、「相模補給廠をとめることは、義務だと思えた。しかし、それは夢物語であった」と書かれ、そして「村雨作戦」で、「夢物語が現実となったのである」と続けられました(『エコノミスト』1972・11・21号)。つまりあの闘争は「夢」(ユートピア)を「現実」に変えたわけです。とすれば、運動を「ユートピア的」と「現実的」に分ける意味はなくなります。
★「非武装中立路線」について★
「社会党は非武装中立にはとどまりえなかったろう」という和田さんの推論は、えらく荒いものだと思えます。非武装中立をとった社会党が武装中立になって、そしてどういうことになるのでしょう。その社会党政権による武装とは、どんなものと想定されるのですか。社会党政権下の日本が武装して、米日戦争がおきるのですか? そして武力によってアメリカに征服された日本の中でのゲリラ武装抵抗路線をとるようになるのですか? そうだとして、それが当時として、「自然」のなりゆきだというのですか? かりに共産党単独政権が成立していたら(こんな
If
はほとんど無意味、あるいは遊びの領域でしょうが)、そうなったかも知れませんし、さらに、日本も舞台となった米ソ中の全面戦争ということになったかも知れません。和田さ人は「社会党政権は非武装中立にはとどまれなかったろうという私の推論は間違いですか」と問われています。しかしどう考えても、そこから社会党政権は「武装中立」になったはずだ、冷戦の時代に中立を追求するのなら武装しなければならなかったとみるのが現実的という説には賛成できません。「武装中立」は非武装中立よりもずっと現実性のなかった設定だったでしょう。つまり、和田さんの推論は「間違いだ」と私には思えます。
★「歴史は結局なるようになった歴史」★
「存在したものが現実的」「これまで経てきた歴史は結局なるようになった歴史」という言葉が、「人々にショックを与えている」ようだがと和田さんは書かれています。
似たようなことは、さきに引用した升味さんの文章の末尾にもでてきます。升味さんはその感想を「不思議な想念」と表現し、最後は「こうして可能性の潰し合いが、つぎつぎと決着し、不可避的な歴史に織り込まれ、そうしながら人類の滅亡に至る。そこで歴史が終結し、あとは自然だけである。」とえらくニヒルな記述で締めくくっています。
升味さんは「起こったことはすべて、そうなるべくしてそうなった」と和田さんそっくりの言い方をするのですが、そう考えれば、つまり運動――理想を現実に変えさせようとする人間の営為――の意味などまったくなくなり、「あとは自然だけである」と諦観することになってしまうのではないですか。
(『市民の意見30の会・東京ニュース』 No.35 1996・3・31号)
昨年三回にわたって連載し、好評だった吉川勇一・和田春樹両氏による紙上の討論は、和田さんからのご希望で、一応終了することになりました。編集部では、次の機会をとらえて、是非この種の場を本誌の上でつくりたいと考えております。なお、この両氏の議論は、その後も別の場では続行されており、例えば『月刊フォーラム』96年3月号紙上では、「ユートピア性と現実性」と題して両氏を含めた討論会の議事録が掲載されています。 (編集部)