16 『論座』3月号の小論と関連ある議論について(7)――斎藤まや・「デモかパレードかピースウォークか ――世代間対話の試み――」を終えて (2004年6月8日掲載)
その光景を前にして
あるのはただ沈黙だけだ
何年も
何百年も
何千年もかけて
話し合ってきたのに
理解しようとしてきたのに
ただ単純な質問を
聞き続けてきたのに
わたしたちの心からの質問には
誰も答えてはくれない
ごっそりとえぐられた
混沌へ通ずる穴の前で
あるのはただ沈黙だけだ
これは、9・11事件後初めてWTC跡地を訪れた時に書き付けた言葉だ。事が起こった後の穴を見てさえ絶望しそうになるのだから、事の渦中にいた人、そして今世界中で暴力や圧制の渦中にいる人たちの気持ちは想像を絶する。
その後アメリカ政府から送られた若者たちがイラクでしていること、イスラエル政府から送られた人々がパレスチナでしていることを見るにつけ、そこでむざむざと拷問を受け殺されている人たちに向かって、対話を、などと安易に言えるものでもない事は確かだと思う。実際、今の段階ではまだ安全なところに住んでいる私たちが、特に私たちが止められなかった戦争のために苦しんでいる方の人たちに向かって抵抗の手段として暴力を使うのはやめろなどと要求する権利があるとも思えない。私たちは、一般的にいって国同士で対話を拒否して暴力を振るい合うことに反対しているが、そういうところで全体のバランスというものを考えずに原則を振り回すわけにはいかないと思う。そこで、できることのひとつは、自分たちのレベルで可能性として提示されている対話をあきらめずに実践していくことではないだろうか。
私たちのすぐ側にも、タブー化されていることや、アンタッチャブルとなっている事柄がある。もちろん、何事にも「時」というものがあると思うが、外のことに対して声を上げたりすることと同時に、私たちのすぐ側のこういった問題からも逃げずに対していくこともとても大事だと思う。このような作業がなかったら、いくら外に対する反対運動をしても、私たちは、「それ相応の」(注1)
政府しか持てず、社会は結局変わらないだろうと思うからだ。
ますます混迷を極めていく情勢の中でしっかりと立っているためにも、わたしたちは特に身近ですぐに可能な他者との接触からさえ逃げて、ある意味では居心地のいい断絶を選ぶのではなく、そのような接触から生じる揺さぶりを、よりしっかりと自分の根を張るきっかけと考えるタフさをもたなくてはいけないと思う。
正当な批判に対してさえとにかくディフェンシブになるという以外どう接していいのかが分からないというのは、個人的な事情など以外の苦労らしい苦労を知らずに育ったわたしたちの世代の特徴なのかもしれない。平和運動をしているものの中でさえ、「仲良く」あることを重んじてお互いに対する批判をせず、近い者に対して批判をする者のことをトラブルメーカーと見る傾向があるように思う。これは残念だけでなく危険なことだと思う。中の批判を封じると、ある集団が全体として向かっている方向に対するチェック機能がなくなってしまう。また、表明されなかった怒りや疑問を不健康な形で外に投影してしまう原因となると思うからだ。多くの場合、中での「仲良し」を保ち、自分たちを善いものの側に置いておく構造を維持するために、すべての悪を投影するための集団や人間がつくられる。それらは悪以外であっては困るので、よく知らないで置くことが必要なためアンタッチャブルにされる。日本社会に対してのオウムもそのようなものだったと思うし、アメリカ社会に対しての「テロリスト」もそうだろうと思う。平和運動をしているからといって、そのような構図に陥る危険性を免れるわけではないだろう。今も平和運動の中で「オウム」的な位置におかれているものに対してどうするのかも、考えていかなければならないと思う。そしてそもそもそういうものをつくらないために、外に向かって声を挙げていくこと同時に自分自身に対する批判にも耳を傾けていかなければいけないと思う。外に対しての批判ばかりに偏って自分に対する批判から逃げてしまう傾向はあるいは、人間の一般的な特徴なのかもしれないが、世界的に見て特に多くの特権を持っている人間がそのように振る舞うとき、それは控えめにいってもかっこよいと言えることではないことは自覚していたい。
幾筋かの流れが重なって関わることになった4月11日の討論会「デモかパレードかピースウォークか」を企画しながら、こんな事をいろいろ考えた。そもそもそのようなことを考えて、「よし対話を企画しよう」と思い立ったわけではなく、考えの進行と同時にこの討論会が自ら起こってきた、というのが正直な感覚である。きっと起こるのにふさわしい「時」なのだろうと思って、その出来事が起こるためのできるだけよい通路のひとつになろうと心がけた。
当日、何か確かに頼りになるもの(鶴見俊輔さんの仰る「ぼんやりとして確かなもの」とはこのことなのかもしれないと思った)が討論者とフロアの人たちの間で形成されお互いに伝わっているのを見たように思う。(注2)
今後、もちろん、また「時」がくればの話しだが、平和運動の中で多くの人々にとって「アンタッチャブル」となっているように思われる問題などについても様々な方々のご意見をお伺いしたいと思っている。
最後に、この企画の実現を可能にして下さったみなさま、特に、一番初めに企画を私に持ちかけてくれたChance
pono2の鳥山敦さんにはこの場を借りてお礼申し上げたい。
------------------------------------------
(注1 )「一般の人々の魂の力こそ、いついかなる時でもいちばん大切なものである。政治形態は、そうした魂の力が形となって現れたものにすぎない(中略)ここにおいて、結局のところ国民は、それ相応の政府を持つものと私は考えている」とは、マハトマ・ガンディーの言葉である(みすず書房「私の非暴力」p.34)。国同士の関係も、わたしたちひとりひとりが他の人間と持っていく関係というのを反映していくのだろう。
(注2)4月16日付け夕刊文化欄に「『デモかパレードか論争』」という記事を書いた朝日新聞の記者さんにはこれが伝わらなかったようでとても残念だ。
(さいとう・まや)
『市民の意見30の会・東京ニュース』No.84(04年6月1日発行)より