globul1d.gif (92 バイト) 14 『 労働情報』3月15日号の座談会「平和のために 多様な訴求力をどう発展させるのか」に対する批判 (『労働情報』04年05月01日号)  (2004年5月1日掲載) 

 以下は、『労働情報』04年03月15日号に掲載された座談会への反論です。これは、本欄No.9に掲載した『市民の意見30の会・東京ニュース』No.83(04年04月01日号) の「共同行動の原則について」という文に、僅かの追加をつけたほとんど同文のものです。(吉川)
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経験の継承について                    (『労働情報』04年05月01日号に掲載) 
『労働情報』3月15日号の座談会への意見
吉川勇一●市民の意見30の会・東京

本誌3月15日号(643号)の「座談会 平和のために 多様な訴求力をどう発展させるのか」に対して、吉川勇一さんから反論を述べたい旨のお申し出があり、今号への掲載となりました。      (編集部)


 月刊『論座』3月号に、私は「デモとパレードとピースウォーク」という小論を書きました。また、『現代思想』の昨年6月号にも私のインタビュー記事が載りました。それをめぐる反響が出ています。私の文章は、反戟運動についての議論が少ないという意見、そして、運動の経験がうまく継承されていない、ということを述べたものですから、それへの批判や反論を含め、議論が起こることは大歓迎です。ただ、どうも本意がきちんと伝えられなかったらしく、私の論は「的はずれ」(『労働情報』3月15日号での座談会)だとか、「時期尚早な」「性急な批判や反論」(『朝日』4月18日夕の千葉眞さんの論)というものもあります。
 とくに『労働情報』3月15日号に載った「WORLD PEACE NOW」の中心メンバー3人、筑紫建彦さん、角倉邦良さん、八木隆次さん(それに司会の安田浩一さん)の座談会での、以下のようなやりとりは、私の名前こそ出ていませんが、この『論座』や『現代思想』などでの私の意見を村象としたものであることは明らかです。

(以下、引用)
八木 「運動が継承されていない」と言われてしまった若い世代は、戸惑うしかないでしょうね。継承というのは、上の世代から提示されたものをどのように引き継ぐのか、といったことだと思うけれど。何も提示されていないのに引き継ぐことはできない。
筑紫 いや、提示したと思ってるんだよ(笑)。結局は『今の若いヤツは』といった意識に近い。
角倉 継承できるような「運動」と人を育ててきたのか、と言いたい。上の世代の人たちの中には、デモをパレードと言い換えるだけで目くじらを立てる人もいる。最近の反戟運動を「物足りない」と思う人は、「物足りるような運動」をやってみればいいじゃないかとも思う。……(引用、終わり)

 こうした表現は、運動参加者同士の議論のありようからは外れ、揶揄に近くなっており、残念に思います。運動への参加者ならば、もう少しきちんとした議論らしい議論をやってほしいと要望します。
 「何も提示されていない」と言われたので、ここでは、当面、今の反戦運動の局面で検討されていいのでは、と思われる運動の経験を一つ「提示」しておきます。これはかつて、国民文化会議で6・15デモの準備に一緒にあたった筑紫さんなら、よくご存知のはずと思うのですが……。
 共同行動の原則についてです。1960年代末〜70年には、ベトナム反戦の3万〜7万人という大結集が何度か行なわれました。その中で、さまざまな思想や行動形態を持った多数のグループがどう結集するのかということをめぐつて活発な議論が行なわれ、そこから共同行動の原則が生み出されていきました。
 1968年の最初の共同行動の中心にいた一人、日高六郎さんは「多様性の中の統一」という運動の思想を提示されました。これは筑紫さんが座談会の中で、今のWPNの性格について言っている「多くの思想や関心領域が『混在している』」という状況と、同じなのか、違うのか、違うとすればどう違うのか、そしてその経験は今、検証され、引き継がれるべき運動の思想や理論ではないのか、というあたりを論理的に述べてもらいたかったと思います。
 このときの共同行動には、最初、共産党系の大衆団体も多数が参加していました。ところが、実行委員会に加わっていた新日本文学会が「反共」団体であり、排除すべきだという主張がそうした団体から強く出されました。議論の中では、「もし新日本文学会を除外するなら、民主文学同盟(共産党系)を外してもよいがという「取り引き」案まで出されて、市民グループがあっけにとられるという場面もありました。もちろん、その提案は受け入れられず、共産党系の団体はほとんどが脱退していきました。そうした経験を経ながら、市民運動は、当時の「反戦青年委員会」の労働者や学生たちの運動とともに、相互の思想や信条、行動形態の選択を尊重しつつ、しかし、自己の意思に反して、ある思想や行動形態を強要されたり、不本意に巻き込まれたりすることなく、それぞれに創意を発揮して全体の中に積極的に加わっていく道筋をつくっていきました。実行委員会に参加した大小のグループの数は、なんと300近くにおよび、それが大きな統一を形成していったのです。この経過は、福富節男さんの『デモと自由と好奇心と』(1991年 第三書館刊)の中に詳述されています。「継承できるような運動があるのか」などと思っている人は、ぜひ読んでいただきたいと思います。
 当時の運動がかなり腐心したことの一つは、いわゆる「内ゲバ」をどのようして阻止するかでした。内ゲバに関わり、それをいまだに公然と反省し
ていないようなグループと共同した行動が認められないのは、今も同じですが、これは「排除」の思想ではありません。共同で行動を行なおうとするものたちの間の信頼の問題なのです。
 『赤旗』3月13日号の「主張」欄に載った「3・20国際共同行動にあたって」で述べられている「共闘の原則」なるものは、先の市民運動などがつ
くり出したものとはかなり違い、過去の経験が学ばれていないようです。
 3月20日の東京、大阪などでのイラク反戦行動は、会場がいくつかに分かれました。主要な原因は、参議院選挙を前にしての各政党の思惑もあったでしょうが、労組間の意見や立場の相違が指摘されるでしょう。
 私は、かつて1960年の反安保国民会議の実行委に出ていたことがありますが、実質的に大きな勢力を占めていた共産党を正式メンバーとせず、最後まで「オブザーバー」という地位にとどめ、しかも、議論では、社会党、共産党、総評といった当時の大組織の間で、誰を演壇に乗せるか、誰に挨拶させるか、Aを入れるのならBも入れろ、Cを降ろすからお前の方もDを降ろせ、といった取り引きがなされるので、私はびっくりしたのでした。そうした状況を思い起こさせるような場面もあるようです。『労働情報』は、そういう実態にこそ切り込んで、あるべき共闘への道を探り、提起すべきではないでしょうか。
 私は今の反戦運動に村して「性急な批判」をしているのではありません。しかし歴史や過去から学ぶことを拒否するような姿勢からは、新しい運動の思想や理論は生まれないということは少なくとも言っておきたいと思います。
(この間題に関連した情報や意見は私のホームページに多数載っております。http://www.jca.apc.org/~yyoffice) 

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