13 『 朝日新聞』4月16日号夕刊文化欄「Shot04」の記事「『デモかパレードか』論争」に異論あり (2004年4月17日掲載)
『朝日新聞』4月16日夕刊の文化欄「Shot04」に、「『デモかパレードか』論争 平和運動 世代超えて公開討論」 という記事が掲載されました(全国版として掲載されたのか、それとも東京本社版だけなのかはまだ聞いていません)。 このサイトの「News」欄 No.113で簡単にご報告した4月11日の公開討論集会についての記事です。比較的大きな紙面を割いて、この集会を記事にしてくれたことは、関係したものの一人として、ありがたいことだと思ってはいますが、しかし、その記事の基調には賛成できません。
この記事は、今のイラク反戦運動の中で活発な行動を展開している若者たちと、それより年齢的にずっと上の年配者の世代たちの間に、論争・対立があり、この討論集会でも、その違いが浮き彫りになったというニュアンスのものになっているからです。記事の最後は「スタイルの違いは、権力観の違いであることも浮かび上がった」という言葉で終わっています。現在および過去の反戦運動に関して、たしかに、世代間に意見や感じ方の違いはあり、討論集会で、この記事の中で紹介されているような意見が出され、議論があったことは事実であり、それ自体は嘘ではありません。しかし、この集会では、相違や対立が浮かび上がったことが主要なトーンではありませんでした。私はすでに No.113
の中で、この会についての評価を述べてあります。前日、この記事を書いた記者から電話があり、私の年齢などの確認があるとともに、この会についての感想を求められたので、それはすでに私のサイトの上に書いたので、それをぜひ見てほしいと要望しました。しかし、私の評価は、この記事にはまったく反映されていません。
マスコミとしては、反戦運動の中で、世代間の対立がある、あるいは意見の違いが激しくなっている、という記事のほうが、読者の興味をかきたてられる、と思うのかもしれません。しかし、この公開討論会のことを報ずるのであるならば、この討論によって、存在していた対立がどうなったのか、この集会が今後どのような影響を運動にあたえることになるだろうか、ということも当然触れなければならないはずです。パネリストの4人のうちの誰にせよ、こういう形で直接的に議論をしたことはそれまでになく、公開された形で顔を見ながら直接意見をやりとりするということは初めてのことです。ですから、運動の圏外にあって、この間の運動の実態を知らない人が、あの集会での議論を聞いたら、どのような点で、どのように意見が違っているかが、かなり具体的に理解出来たことだろうと思います。しかしこの間の運動の経過の中で位置づけてみれば、あの集会は、対立や相違を浮彫りにさせ、激化させたのではなく、まったく逆、それまでにあった相互の誤解や思い込みがかなり解消し、相互の間の理解が非常に深まり、信頼感も強まったという点にこそ、重要な意味、意義があったと私は思うのです。もちろん、一度や二度の討論で、相違が解消するはずはありません。今後の更なる努力が必要なことは当然です。しかし、集会の後、私のところに寄せられた意見は、すべて、その意味で集会は大きなプラスの役割を果たしたという評価を伝えるものばかりでした。
この集会の後、13日、16日と2回、イラクの新聞に意見広告を出そうという計画をめぐる相談会がありました。そこでは、討論集会に若い世代のパネリストとして参加した小林一朗さんやこの討論集会を最初に計画して準備の中心にあった斎藤まやさん、そしてそれよりさらに若い人びと多数と意見を交換することになりましたが、そういう場が出来たこと自体が、この討論集会のもたらした成果の一つと言えるものでした。
WORLD PEACE NOW
の実行委員会も、そういうメンバーが集まる機会ではありますが、そこでは当面の大きなカンパニアの実務的な準備についての相談が大部分で、一人一人のまとまった思いを率直に交換し、議論するということは時間的にも無理でした。13日と16日の2度の相談会では、出席した年長者は、みな、この自分たちよりずっと若い世代が、それぞれ自分の考えを率直に、真剣に表明し、しかもそれが政治的にもかなりしっかりしたものだという印象を受けて、心を打たれたのでした。
また、11日の討論集会では、運動についての意見や感じ方の相違は、必ずしも世代間の相違としてだけにくくれないのではないか、という指摘を、私もいいましたし、会場からの発言にもありました。そして「世代」や「年齢」という基準ではない、別の範疇の「選別」「排除」の論理が生じつつあるのではないか、という指摘も出されていました。これはかなり重要な問題点だと思いました。
『朝日』文化欄の記事は、そういう流れ、方向がまったく報じられておりません。私が『論座』3月号の小論でのべたのは、運動の中に議論が少ないということだけではありません。まず、論壇、マスコミの中に運動論がほとんどないことを指摘したのであって、その背景の一つには、運動の中で討論がないこともあるだろうと書いたのです。マスコミの記者が、その場かぎりの記事を書くために取材をすることはあっても、運動の流れをじっくりと追い、運動の傾向、趨勢、問題点などを勉強しようとする姿勢がないということも批判しました。ごく最近になって、運動に触れる論や運動論に関する記事が比較的多くなってきていることは歓迎すべきですが、その内容は決して満足できるものではありません。以上、昨日の『朝日』夕刊の記事を読んでのとりあえずの意見を書きました。