連帯とネットワーク
東 一 邦
小熊英二さんの論文のタイトルを拝借した「『左』を忌避するポピュリズム」という文章を、第82号に掲載していただいた。この私の文章が、あるメーリングリストでとりあげられているという。感想や批判がかわされているのだと思ったのだが、まったくそうではなかった。「あなたの言い方は」「いや、あなたの言ったことこそ」といった、不毛とすら言えないようなやりとりがかわされた末に、やがて立ち消えになって終わってしまったのだ。
私は先の文章でこう書いた。
『「忌避される『左』」が恣意的に規定されるように、必然的に(それに対置される)「ふつう」も恣意的に規定される。もともとが好みの問題だから、そこでは論議が成立しない。「自分がそう感じるからそうである」という気分や気持ちをぶつけあうということになる。』
まさに、そのとおりのことが、よりによってそう書いた私の文章をめぐってメーリングリスト上で起こっていた。
こういう傾向は、私の体験的な感想では、どうも80年代の半ばごろから始まったように思う。86年にチェルノブイリの事故があり、翌87年ごろから日本でも反原発運動が盛りあがる。「市民運動のニューウェイブ」などという呼ばれ方もあって、たしかに新しい装いで登場した運動だったと思う。しかし、このころの反原発運動には肌が合わない思いが、私にはあった。
「原発を原子力発電所のこととは知らなかった」という、無知を売りものにした主婦の登場が象徴的だった。「こういう『普通の主婦』が立ちあがることが、原発を止める」という見え透いたやりくちには鳥肌がたつ思いだった。そんなやりくちは、実は人々をも自分たちをもバカにしているのに過ぎないということに気づかない鈍感さがいやだった。「命が大事」という、実は何ごとにもつながらない呪文のようなスローガンを、いい若い者が叫び続けるという退廃にも辟易させられた。
この反原発の運動のころから、語られ始めたのが「ネットワーク」という言葉である。
「あなたはあなた。私は私。お互いに、できるところだけでいっしょにやればいい」という希薄なつながり方への指向は、バブルに向かって浮ついていく世の中にあふれはじめた薄っぺらな人間関係を、市民運動にも持ち込むものとしか、私には思えなかった。
「あなたはあなた。私は私」という関係のあり方は、当然のことながら「あなたの意見はどちらなのか」などという「議論」を成り立たせない。あらかじめ批判を受けつけない。
「ネットワーク」という言葉が定着し始めるのと相対的に、「連帯」という言葉が消えていった。東欧革命のはしりとなったポーランドの労組の「ソリダリティ(連帯)」はすでに懐かしい響きを持ち始めていた。
ベルリンの壁が崩壊したあとの90年代はじめの湾岸戦争のころには、「デモ」はやめて「パレード」と呼ぼうという「『左』を忌避するポピュリズム」が生まれ始める。このころは市民運動になだれ込んできた「反省したレーニン主義者たち」がそういう主張の主役だったように思う。90年代の終わりの
NPOの時代になると、完全に「連帯」は消え、「ネットワーク」一辺倒になっていく。あろうことか、最近は、私さえも「ネットワークを広げ」などと口走っている始末である。
──という話をしていたら、NPOでいっしょに理事をしている大学の先生が「う〜ん」とうなりながら、「リップナックスとスタンプス夫妻の『もうひとつのアメリカ』に刺激されて70年代の終わりに『ネットワーキング研究会』や『日本ネットワーカーズ会議』を作ったときには、東さんが言うようなことは想定していなかったんだけどねぇ」「それは『連帯』という内容の別の表現の必要性ということだったんだけど」と言う。
そうだったのだろう。しかし、言葉は勝手な思い入れを許し、一人歩きをはじめ、やがて人の意識を変えていく。
「確かな関係」に期待できなくなった果てには、「自分の気持ち」を受けいれてほしいという渇望だけが残る。果てしなく「気持ち」を語り合いながら、決して「意見」を交わすことはなく、お互いに「自分の気持ち」だけを大事にしあうという、実は殺伐とした関係に、ネットワークという言葉は、実にうまくフィットする。
こういう構造のなかで語られる「ネットワーク」という言葉には体温が感じられない。
だから「連帯感」という言葉はあっても「ネットワーク感」という言葉は成立しない。
「行政ともネットワークして」などと平気で言えるのは、単に関係を表す言葉だからだ。
「行政と連帯して」とは言わない。「連帯」は「こちらがわ」を結ぶ言葉だからだ。
「こちらがわ」をイメージできない現状が、「ネットワーク」を跋扈させ「連帯」を失わせる傾向を生んでいるということなのだろう。それはそのまま「好みや気持ち」を優先させ、「論理や理念」をないがしろにして、「議論」を成り立たせない傾向と軌を一にしている。
──しかし、そう嘆いてだけいても始まらない。
こうした風潮のなかで、増殖する「気持ちが大事のネットワーク派」の人々と、いったいどうつきあっていけばいいのだろう。
「ケアとホスピタリティが大事なんだ」と言う友人がいた。
「こちらが意見を交わそう、議論をしようとしても、『ネットワーク派』の人々はそんなことは望んでいない。自分の気持ちを聞いてくれるという相手を捜している。そういう時間と場を共有することをこそ望んでいるんだ。だから、まず、あなたを無視したり、相手にしないなどと、思っているわけではないですよ。自分の意見を押しつけようなどと考えていませんよ。ところで、あなたはどんなふうな『想い』をもっているのですか。どんな『気持ち』でいるのですか。わたしには、あなたの『気持ち』を受けとめるつもりがありますよ、ということをアピールし続けるのだ。決して大きな声を出してはいけない。『左』を忌避するポピュリズムだなどと決めつけてはいけない。『あなたの意見はどうなんだ』と問いつめてはいけない。『君は間違っている』などと言ってはいけない」──
思えば、これまで「あなたの意見はどうなんだ」と問いつめたり、「君は間違っている」などと、ずいぶんやりあってきたが、まずそういう言葉を封印することが必要らしい。そうしないと「連帯」どころか「ネットワーク」の相手にもしてもらえないということらしい。癒しのセラピーか新興宗教みたいだが、たぶん、ネットワークの時代には、彼のやりかたが正しいのだろう。
おそろしいほどのフラストレーションをひきうけながら殺伐とした「ネットワーク」に自分を合わせるか、孤立を怖れず「連帯」を求め続けるか──。
私たちの前には、そういう選択肢しか残されていないのだろうか。
「『こちらがわ』を結ぶ言葉」は、もうわたしたちには必要がなくなったのだろうか。
そんなことはあるまいと、わたしは思う。
実感としては、ことは単純な対立軸としてあるのではない。「連帯」と「ネットワーク」、「理念」と「気持ち」、「論理」と「好み」、「『こちらがわ』と『むこうがわ』はあるだろう派」と「もう『こちら』も『むこう』もない派」、「『左』を忌避するポピュリズム」と「ポピュリズムを忌避する『左』」は、こっちとあっちに固まって向かい合っているのではない。おそらく、それぞれの端から端に向かうグラデーション状の分布図の間を人々は揺れ動いているのではないか。
最端に位置するどうしは、おそらく相いれない。だが、多くの人々はその狭間にいる。あるいは、ひとりの人間の中に、その両方について「それもそうかもしれない」と感じる部分がある──というのが、現在のわたしたちの置かれている情況ではないか。
最端に位置するどうしは、お互いがお互いに幻滅しあっている。それだけなら、まだいい。
問題は、「おまえたちの存在が運動をダメにしている」という「排除の発想」だ。そして、それは、これも実感としてだが「ネットワーク」派に強い。一方、「連帯」派のほうは、「理念」として「こちらがわ」を信じようとする分だけ幅が広い。
「連帯」派ではなく「ネットワーク」派に「排除の発想」が強いのは奇妙な逆説だが、それが「『左』を忌避するポピュリズム」なのだ。「左」と決めつけた相手を「気持ち」と「好み」で忌み嫌い、対置する「フツー」に絶対的な信仰をもっているから手がつけられなくなる。自分がそうだからという理由だけの「フツーの人々の気持ち」にそっているという信仰の前では、「理念」も「論理」も「ネットワーク」にとっては邪魔ものだ。
そういえば、90年代はじめの湾岸戦争のころに、集会にやってくる左翼党派の集団を、邪魔もののように扱う市民団体の傾向に驚いた覚えがある。
市民団体は、かつて左翼党派からはワンランク下の存在のようにバカにもされ、軽く扱われてもいたが、だからといって、彼らは市民団体を邪魔もの扱いしたり、排除しようとはしなかった。
その形勢が、ベルリンの壁崩壊以降に逆転したからといって、エラそうに対することはないだろうにと思った覚えがある。
ちなみに、わたしの参加する埼玉の行動では、原則は「何でもあり」である。
「デモ」と呼ぼうが「パレード」と言おうが「ピースウォーク」だろうが勝手。趣旨に賛同するなら、どんなスローガンを掲げようとかまわない。それぞれの団体が、それぞれの流儀にもとづいて自分たちなりのチラシやプラカードを作って参加する。ヘルメットは登場しないが、どうしてもというなら、とくに拒みはしない。チンドン屋さんを呼ぶグループもあれば、シュプレヒコールを叫ぶグループもある。「あれは○○派系の団体」という話も聞くが、別にいいじゃないのということにしている。
思い返せば、志しでつながる社会的行動が、一方で人を惹きつける魅力をもつというあり方こそ、実は60年代から市民運動のもっていた最大の特質であったはずだ。その特質に惹かれて、わたしもまた市民運動に参加したのだった。そして、そこには「あらかじめの信頼と共感」という、考えてみればずいぶんあやうい基盤の了解事項があり、「左」を忌避する体質も、排除につながる体質もなかった。そういう「理念」を大切にしていた。
さまざまな思想傾向を内包し、「気持ち」や「好み」を大事にしつつ、「理念」と「論理」についての議論を保障しながら、しかし確実に市民運動は実態として存在していた。
繰り返し、わたしはそのことを思い返したいと思う。それが、幻想であったとも、いまや有効性をもたないとも思わない。
そして、いまだってあるはずの人々の中の「連帯への志向」を信じて、はたらきかけ続けたいと思う。
(ひがし・かずくに、浦和市民連合、さいたまNPOセンター理事)
『市民の意見30の会・東京ニュース』83号 2004年4月1日発行より
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