globul1d.gif (92 バイト) 10  『論座』3月号の小論と関連ある議論について(2)
東一邦・「左」を忌避するポピュリズム および 
関西の黒目・「内在」する事の可能性そのものの危機であるのだ 
(2004年3月29日掲載) 

 ご案内欄の No.121 にも書きましたように、平和運動論についての議論が少ないという私の提起に対し、ようやく、議論といえるものがではじめたり、成果が期待できそうな討論集会の準備が開始されたりしてきました。嬉しいことです。
 そうした議論の中で、例えば高田健さんが月刊『技術と人間』3月号に書かれた「反戦の闘いに内在するか、外部から嘲笑するか」の論のように、私の小論に対する批判、反論のように受けとれるものもあり、近いうちに、この欄に反論を載せるつもりでおります。この高田さんの文は、主要には、『世界』3月号に載った辺見庸さんの「抵抗はなぜ壮大なる反動につりあわないのか 閾下のファシズムを撃て」に対する反論であり、なかに北沢洋子さんのやはり『世界』3月号に載った「世界は地の底から揺れている」にふれて批判している部分もありますが、それとは別に、私の名前こそ明記されていないのですが、明らかに私の『論座』の文を対象にして批判していると受け取れるところ――共同行動の「原則」としての非暴力と非暴力主義の関係につ いてや、若者の優しさについての論のところ――があるからです。
 とにかく、論争が前向きに、建設的に展開されるよう期待し、私もそう努力するつもりです。それと関連して、直接的には、この議論に触れてはいないものの、この論争を発展させるためには、ぜひ参考に読んでいただきたいと思われる論考もいくつか発表されています。筆者の諒解を得られたものを、この「論争・批判」欄につぎつぎご紹介してゆきたいと思います。ご覧になった上、率直なご意見をお寄せ下されば、幸甚です。そのご意見も差し支えなければ、この欄に掲載してゆきたいと希望しますので、掲載可、不可、あるいは実名可、匿名希望などもつけて、お寄せくださいますよう。
 まず今回は、2点、埼玉NPOセンター理事の東一邦さんの「『左』を忌避するポピュリズム」と、関西の黒目さんの「『内在』する事の可能性そのものの危機であるのだ」を掲載します。後者は、高田さんの『技術と人間』掲載の論文への批判です。

「左」を忌避するポピュリズム 
                           東  一 邦

  「左」を忌避するポピュリズム――これは、『市民の意見30の会・東京ニュース』先号(81号)に寄稿されていた慶応大学教員の小熊英二さんが書かれた論文のタイトルである(『世界』199812月号/『(癒し)のナショナリズム』慶鷹義塾大学出版会刊所収)。サブタイトルに「――現代ナショナリズムの構造とゆらぎ」とあるように、小熊さんの論文のテーマは「新しい歴史教科書をつくる会」についての論考である。
 ここではそれを論じようと言うのではない。全然別の場面のことなのだが、しかし、小熊さんの『「左」を忌避するポピュリズム』というフレーズにぴったりだと思わせられることが、このところ多いのである。
 それは、たとえば、個人情報保護法に反対する運動内部のやりとりだったり、先のイラク攻撃反対デモをめぐるメーリングリストでの発言だったり、そして、わたしの参加している
NPOでの論議の場面であったりする。
 これらの場面で共通して語ちれるのが「いたずらに権力に逆らうことを目的としたひとりよがりはダメだ。そんな時代遅れのやり方は『ふつうの人』には理解されない」という言い方である。
 必ずしもこれらの場面で「左」と表現されているわけでもなく「左的なるもの」といったところだろうが、これらの場面場面で忌避される「左的なるもの」の実態は一様ではない。
 個人情報保護法反対の集会にある人物を登場させるべきか否かの論議では、「その人物の登場を是認する意見の持ち主」が「左」である。
 イラク攻撃反対デモにおける「左」は、「デモの主催者と警察官との会食を批判するメールの投稿者」である。
 そして、
NPOの中での論議では、「反戦の意見表明をしようという主張をするような者」が「左的なるもの」で、実はこれは私自身であった。
 ちなみにわたしは「べ平連」だったので、それほどのものではありませんというところなのだが、「左ではない」と強弁するつもりもない。
 「新しい歴史教科書をつくる会」に集う人々は朝日新開の読者まで「左」と規定するそうだが、
NPO関係者のなかには、政府のやり方に異を唱える「反対ばかりの市民運動」は「左」とする傾向が強い。その市民運動の中では、パレードと言わずにデモと言う者が「左」だったりする。そして、そのデモでは「警察に逮捕されるような行動をした参加者」が「左」である。
 ちょうど数珠つなぎの右側が左側に位置するものを「左」としていやがっているようなもので、その右側からはまた「左」と言われているわけだ。
 それにしてもこれは奇妙な構造である。
 こうした連なりの中で、「歴史教科書をつくる会」から「パレード」派まで、共通して当人たちが証明したがっていることがある。
 それは、「自分たちこそ時代に即している」「おおかたの人が安心して支持できるやり方をとっている」「『ふつう』の側にある」ということだ。
 わたしには、この心理がなかなか理解できなかった。「百万人といえどもわれ行かん」とまでいきがるつもりはないが、少数派であることをいやがり多数派に属することを価値の軸におくという傾向がわからなかったのだ。
 しかし、どうやらそういうことなのだということにようやく気がついた。
 実は彼らは「『ふつう』の側にある」つまり「多数派に属している」ことを証明したいがために「『左』を忌避する」ことに熱心になるのだ。
 それは、まさに「『左』を忌避するポピュリズム」ではないか。
 しかし、もちろん「ふつう」などどこにも存在しない。「忌避される『左』」が恣意的に規定されるように、必然的に「ふつう」も恣意的に規定される。いわば好みの問題である。実は好みの問題でありながら、しかし客観的な価値であるかのように語られるから始末が悪い。もともとが好みの問題だから、そこでは議論が成立しない。「自分がそう感じるからそうである」という気分や気持ちをぶつけあうということになる。「自分の好み」という絶対的な、しかし実は根拠のない信念がぶつかりあうだけになる。
 もちろん「連帯感」などは感じられようもない。「ネットワーク」という体温の感じられないつながり方のなかで孤立感と不安はいや増していく。そして、ポピュリズムの居心地のよさに身をゆだねる傾向が育っていく。
 わたしは最近、ごのポピュリズムの傾向との闘いこそ、有事体制下の最大の課題ではないかと、切実に感じているのだ。
(ひがしかずくに・浦和市民連合」さいたま
NPOセンター理事) 

『市民の意見30の会・東京ニュース』82号 200421日発行より

 

内在」する事の可能性そのものの危機であるのだ

http://www4.vc-net.ne.jp/%7Ekenpou/seimei/takada.html への反論として(注)

(吉川注)このアドレスは、「許すな!憲法改悪・市民連絡会」のサイトに載った高田健さんの論文のページですが、それは『技術と人間』3月号に載った論文と同一のもののようです。

黒目 (関西有象無象)

私は辺見庸氏とは見解を大きく異にするが、高田健氏の辺見庸氏への反論の論点は、私たち自身の運動の位置に関わってくる問題、私たちがこの間、直面してきた問題に関わってくる問題であると考えるので、あえて高田健氏による辺見庸氏への反論に対する反論を試みる。
 実際問題、3.20には私たちを含め、何万人もの人が全国で行動した。その行動は現在の状況を撃ち得たのか?数の問題、力量的問題は当然にもある。しかし、このカラ足踏んでいるような感触はなんであるのか?何万人もが行動する事と、政治警察が別件逮捕で自在に活動家を逮捕できるような状況とがどのように整合するのか?
 高田健氏は

実はこのような辺見の論調は、辺見と同様に六〇年代後半から七〇年代初頭の日本の反戦闘争を闘った経験をもつ、運動圏の周辺の一部の人々の気分を捉えている。

という訳だが、60年代後半や70年代初頭はガキであった、あるいは生まれてもいなかった私たちが、辺見庸と同様のメディア迎合型運動に対する深い絶望を抱えているという事実を、高田的な世代論では説明出来ないのではないか?

「シュプレヒコールをするでなし、ジグザグ行進をするわけでなし、ジョン・レノンだかだれかの曲をスピーカーから流して歩道をただそぞろ歩くだけの、うそ寒く、しょぼくれたものだった」

という感想は、まさに私のものである。
 あるいは私たちが極端に「昔気質」であるのか?
そうではあるまい。
 高田健氏が称揚する「新しい運動」は、民衆の反戦への動きの、ひとつの側面に過ぎず、他の側面が存在しないかのように切り縮める事で、ありがちな世代論への収斂をはかっているに過ぎない。60年ー70年世代の世代的問題というしかない問題は、辺見庸氏の論旨とは別の文脈で存在し、その問題の枠組みからは高田健氏自身も逃れえていないと思うが、それはまた別の話である。
 もちろん、よいのだ。
 私はそういった運動をしようという人に対して、それはダメだなどと論評する気はさらさらない。それは辺見庸氏と私の立場が最も異なる点であろう。
 また、デモがこの何十年も行われた事のない地に於いて、デモが行われる事の意味は決して小さなものだとは思わない。
 私は他者の運動がダメだとして切り捨てる事によって自己の運動を位置づけていくような手法は好まない。
 「従来のデモのなかにあった一種の独り善がりの傾向から脱却し、できるだけ反戦の意思を持った多くの人々が一緒に行動できる表現にしたいという努力」と高田氏は言う。しかし、私は彼らと一緒に歌う事はできないし、黙ってだらだらと歩く事も出来ない。
 これは何か?
 私はこれはマスメディア的に(あるいは高田的に)語られるところの「新しい運動」が、一定の、「善良な人々」の運動、ああいった「みんなで歌う」という宗教的形態が、街ゆく市民との間に垣根を作らない、と信じるような種類の人々の運動であるという事、そしてその独特な形態を無前提に「フツーの人々」と一般化普遍化する事に、自らなんの違和感も疑問も持たない、そういった種類の人々の運動であるという事から生じる問題ではないか、と考える。それは高田によれば「徹底したやさしさ」である、と称されるのだそうだが、私の語彙ではあれは「やさしさ」といった種類のものではないと思うが、そう自称されるのであれば、それもまたよしとしよう。ちっとも革命的ではないものが「革命的」と称される、あるいは薄汚い野望に基づく派兵が「人道的援助」と称される、などといった事態は珍しい事ではない。
 繰り返すが、そういった運動が存在する事それ自体を、否定的に捉えようという考えは全くない。単に「私とは違う層の運動」であり、「こういった人々も戦争に反対しているんだなあ」という感想を持つのみである。ことさらそこに分岐が必要であるとも思わない。
 単に、私はそういう種類の人間ではないし、また私によく似た種類の人間も層として存在するという事に過ぎない。
 問題は、こういった「善良な」層の人々が作り出す運動が、極めて異物を排除しようという指向性が高いという事から生じるものである。東京に於いては私によく似た連中は、どうやら「御遠慮願われて」いるらしい。高田氏がいうところの「徹底したやさしさ」とこれらの排除がどのように整合するのか、私には理解できない。
 そしてまた、この「異質な物の排除」という作風は、現在の支配の形態と全くの相似形であるようにしか、私には見えないのだ。この点において、辺見氏の「私たちのファシズム」という整理は、私にはおおいに頷けるものであるのだ。
 高田氏は「御遠慮願う」とあっさりと書く。実のところ、東京の情勢に責任を持てない私は、東京での排除が、何を以て行われたのかわからんとしか言い様がないが、現実問題として、高田氏が指弾する「内ゲバ」によって死体の山を築いてきた人々は御遠慮願われていないようであるし、警察にメシ喰わしてもらっていた人も御遠慮願われていないようである。
 では一体、何が御遠慮願われたのか?
 この「御遠慮願う」事の基準は、誰がどこでどのように決定しているのか、私は知らない。少なくとも私はこの件に関して意見を持っているが、私の意見をどのようにこの決定に反映させればよいのか、私は知らない。
 実際のところ、この排除される事の基準は、「従順さ」という部分で切られているようにしか見えないのだ。決して「内在しているか」という部分ではない。
 私や私によく似た人々は、「従順に」戦争に参加し、「従順に」戦争に協力する事への拒絶から、戦争に反対する為に行動している。「従順ではない」という事は、私たちのアイデンティティである。
 この「従順さ」という部分が辺見氏によれば犬が腹を見せている様という事になろう。そしてその同じ現象を高田氏は「やさしさ」であると称している。
 で、これは運動の「指導部」への従順さと警察への従順さを同じように持つ事から、高田氏も指摘するところの諸問題も生じる。これにはもう一つの側面があるが、それは後に述べよう。また、あえて「指導部」という言葉を使うが、これは事実上、どの部分をどのように「御遠慮願う」かを決定できるような層の事を指すと理解してもらおう。
 で、現在的な支配の形態である。
 現在の状況は、純然たるファシストが政権の多くを占め、その政権の出す方針に対してなんの歯止めも機能していないという意味に於いて、ファシズムそのものであるか、ファシズムに極めて近い状況であると判断してよいと思うが、そのファシズムの結集軸はなんであるのか?
 ファシズムというのは大体に於いて、「美しい理念」を語る。
 しかし、「日米同盟」だの「日本の国益」だのはどうにも美しい理念ではありえないし、天皇制が突出して状況を引っぱっているわけでもない。
 では、なにが結集軸になっているのか?それは「他者排除」ではないのかと私は考える。ここでの「他者」とは、「北朝鮮」であり、「在日」であり、「ホームレス」であり、「反日サヨク」であり、また私たちのような「ろくでなし連中」であり、エロチラシの配布業者であり「オレオレ詐欺」であり「ひきこもり」であり他地区の廃品を回収する廃品回収業者であり生活保護者でありラリ中であり老人でありフリーターでありコンビニの前でヘタッている連中であり、「退廃的思想」であり、「怠惰」であり。要するに「フツーの人々」ではないすべての層。そういう社会的に負のスティグマを背負う連中に対する排除、それを「社会秩序」とし、それらに対する監視、排除を結集軸としてファシズムが形成されようとしているのではないかと見える。
 そこで「他者」である為には、特定のマイノリティに所属している必要はない。例えば、「従順ではない」。「集団行動が出来ない」「こわい」。これらはその排除される対象が、必ずしもその通りの存在である必要はない。「あの人たちは私たちとは違う」「あの人たちと一緒にされたくない」という事が表明されるだけで足りるのだ。
 これは決して妄想ではない。この間の反戦運動への弾圧は、立川テント村への弾圧が最初ではない事を私は知っているし、それに対して誰がどのような態度であったのかも知っている。
 そしてまた、そういった態度が、政治警察の跳梁を容易にしてきたという事も知っている。
 高田氏は「外在的批判」というその立場性を問題にする。しかし、私たちの前には、既に内在する事それ自体への困難が横たわっているのだ。
 そしてもう一点、高田氏は運動内部において、警察にメシ喰わせてもらっていた連中について、高田氏は「経験を持たない」事に理由を求めている。果たしてそうか?。私たちはこういった連中についてはよく知っているではないか。
 運動官僚。
 彼らの特性として、自分たちがその運動についての隅から隅までを決定する事が出来、それをコントロールする事が出来るという妄想を持つという点を挙げる事が出来るであろう。そして、コントロール出来ない部分については、「内在していない、外部のもの」であるとして、如何様にも処理できると考えるし、そのコントロール出来ない部分が「戦争に反対している部分」であるという事を考慮の外に置く事も出来る。
 この問題は「経験の不足」の問題ではないだろう。驚くべき早さで、こういった運動官僚が育成された事。その下地はなんであったのか、高田氏や高田氏に同調する諸氏には考えて戴きたいものだと考える。
 私があえてこういうものを書き、公開しようと考えたのは、反戦運動内部でのすさまじいディスコミュニケーションへの深い絶望によるものである。
 それぞれの立場性や党派性、運動的センスによる相違は前提である。その上で、互いの立場を踏まえた上での議論というものがあって然るべきではないのか?
 高田氏の断罪の手法では、おそらくは私のようなのも「思想的退廃」に分類される口であろうが、独善に陥るよりかは退廃していた方がナンボかマシなように見えてならない。

http://mypage.naver.co.jp/kurome/text4.htm より

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