news-button.gif (992 バイト) 247 中川文男(中川六平――ペンネーム)さん葬儀 (2013年09月12日  掲載) 

中川六平さんのお通夜は9月8日 夜、葬儀は9日午前に、東京・東小金井 の太陽寺で行なわれました。喪主は夫人の中川文子さんでした。(右の写真の左側。また、右は長男の新聞記者、中川文如さんで、葬儀の最後に参加者へのご挨拶をされるところ)
 中川六平さんの人柄と実直な仕事に惹かれた人は多く、たくさんの知人がお通夜にも葬儀にも列席され、元岩国市での反戦喫茶「ほびっと」の仲間をはじめ、九州、岡山、京都、大阪など遠くからも多く来られていました。旧ベ平連の仲間たちは数十人になっていたでしょう。正面に飾られた生花には、京都の鶴見俊輔さんほか、各地の元ベ平連グループの名前のものが並んでいました。
 式を取り扱った僧侶は、これまでたびたびベ平連グループの集まりをやってことなどもあった京都の浄土真宗・徳正寺の住職が、京都から上京して来られました。とても張りのあるきれいな声での読経 され、感動でした。
 
葬儀では、知人を代表して、元京都ベ平連の活動家、京都市議の鈴木正穂さんが、涙に声を止まりながら、弔辞の話をされました。 
 
お清めのあった太陽寺の2階の廊下には、六平さんの著書をはじめ、晶文社などでの中川さんが扱った編集の本が多数並べてあり、笑っている中川さんのいい写真が並んでいました(上左の写真、撮影:大木晴子さん)。中心には、代表作の一つ、『ほびっと 戦争をとめた喫茶店』(2009年 講談社刊、左の写真、撮影:大木晴子さん)がありました。この本には、実に多くの好評の書評があります。の写真は、この中にある『中国新聞』岩国版(09年10月21日号)に載っている書評の中の写真で、中心が「ほびっと」前での六平さんです。以下に9編の書評がありますので、まだの方はクリックして、ぜひご覧になってください。
 http://www.jca.apc.org/beheiren/saikin174RoppeiHobitto-Shohyougun.htm
 

 六平さんの「泥鰌のつぶやき」というブログ(右の下の写真)には、今年の7月6日の日付で、
以下のような文が載っています。

本屋さん、こんにちは。

 月に一度は、と思っているのですが、まあ、年のせいにしておくのが無難かな。と、いういいわけで、こんにちは、です。
 本作り。初校や再校、それに著者校、装丁にかける時間……なにからなにまでまるで初めての体験になっていて、ノロノロ歩きでしたが、それでも周りの人たちの応援で、九月には、石神井書林さん、内堀さんの新刊がお目見えしますので、よろしくです。
 タイトルは『古本の時間』。272ページで、四六判上製、装丁は平野甲賀さん、です。
装丁の打ち合わせに、石神井さんの目録を何点か持参したのですが、平野さん、エラク興味を示しまして、目がどんどん輝いていくのでした。「こういう目録があるんだね」とね。その様子で、興味深い装丁になると思うのでした。まあ、実に単純な男の予想です。
 内容は、もう、古本と業界の楽しい、わくわくする話でいっぱいです。さすが、商売、という大地を歩いているだけに、リアルで、古本の、業界の年輪一年一年が静かに刻み込まれていくようです。寺山修司の原稿を買った日。山口昌男と歩いた神保町。どんどん生まれて来る若い世代の古本屋に送る温かいエール。……そして、亡くなっていく同業者を見送る眼差しのやさしさ。
 ――本好きが開く本屋さんという牧歌性が残っているのは、もう古本屋さんにしかないのではないでしょうか。
 石神井さんのフレーズが、いつのまにか、ぼくの体のなかで転がっているのでした。
 こう、御期待、です。

 また、六平さんのツイートには、7月27日付で、
――
「石神井さんの『古本の時間』、ゴールは目の前。さあ、次は小沢信男さん。そして、高橋悠治さんの『音楽のおしえ』のページをめくる。しかし、肩の痛みは消えない。おじいさんになっていくのも大変だ!」とあり、また、7月16日には「肩の痛みが取れないので、朝、二十分ほど腕を回し、上下に上げ下げし、散歩している。これがなかなかいい。本当におじいさんになった。」
 また、7月17日付では、
――
「肩の痛みをやわらげようと、近くの市民プールに行くことにする。一日目の今日が昼過ぎに。おばあさんが十三人におじいさんが四人、もちろんその一人はぼく。いやはや、すごい光景です。本は、日本史の戦後史に漢字の戦後史。ここから何かを、と。」
 という文が載っています。これらによると、肩が痛く、それは「おじいさんになった」と思っても、ガンがひどくなっているということはまったく自覚していなかったのですね。晶文社での編集の内堀弘著『古本の時間』(本年9月刊)が終わって、次にやろうと思っていた仕事の案や読書の予定なだが多数並んでいたようです。残念だと思ったでしょう。私たちも残念です。
 葬儀のあと、多摩火葬場まで行き、六平さんの骨を拾うことをしてきました。そのあと、もう一度太陽寺に戻り、読経のあと、遅めの昼食をいただきながら、久しぶりにお会いした知人や、初めてだがと話される数十年前の活動家だった方たち多数と中川さんの思い出などを話し合いましたが、私自身もその午後、リハビリへのクリニックに行く 必要があり、3時半ぐらいに失礼いたしました。