93 急性腰痛症は「腰椎圧迫骨折」が原因でした。(2013年07月12日  掲載) 

 腰痛の原因が「腰椎圧迫骨折」だとわかり、ちょっと重い病気のようです: 腰の痛みがまったく治らず、痛みはむしろひどくなって、動くのがかなり辛くなっていま した。ふつうは1週間から10日ぐらいで痛みが止まると思っていたのですが、今度はそうはなりません。通っている整形外科医院で先週、あらためて診てもらったのですが、少し長いな、MRI検査を調べてみたほうがいいな、と言われ、 すぐ翌6日に近くの中央総合病院でMRI検査をやってもらいました。そして、8日に、その検査結果の写真やDVDをもって整形外科医院で原因を調べてもらいました。急性腰痛症で、「筋筋膜性腰痛症」といっても、これは状態の表現で、病因ではなく、原因にはいろいろあるようです。 場合によっては入院や手術も必要になるような原因の病気もあるようです。というわけで、私の場合 をMRI検査の詳しいデータで診てもらった結果、第一腰椎の骨が骨折しており、それによって痛みが出ていることが解ったそうです。(右の腰椎のMRI写真の上から3つ目の黒っぽく見える部分が骨折しているところだそうです。)
 
つまり1〜2週間で終わるいわゆる「ぎっくり腰」などではない骨折だとのことです。普通は、腕や脚の骨折の場合と同じように、コルセットやギプスなどを腰の周りに強く当てて、あとは痛み抑えの薬などの服用し、短くとも2〜3ヵ月ぐらいがかかる治療が なされるのだそうですが、 私の場合、困ったことに、そのコルセットなどを締めるところのお腹に、人工膀胱の「ストーマパウチ}(人工膀胱の袋)があるために、コルセットを付けられないのです。そのため、なるべく腰を 動かさないようにし、あとは痛め止め用の薬を服用して、骨折の骨が付くまで時間を待つ以外がないようです。時間は長く、もしかすると4〜5ヵ月必要になるかもしれないそうです。というわけで、しばらくは、この腰痛と長く付き合うことになさそうです。辛いですね。
 そういうわけで、前回に述べた博物館への出かけや、青梅のパプア料理店への出かけは、ダメでした。パプア料理は秋以後へ延ばす以外はなさそうです。残念です。

 料理は結構作っているのですが……: 何人かの友人から、寝たままなのか、飯は作って食べてるのか、などと心配の電話をいただいています。寝てはいません。ただ、痛い、イターイ!などと怒鳴りながら、ゆっくりゆっくり立ったり座ったり、歩いたりしています。とくに、 寝た時から起きて立とうとする時と、顔を洗うような身体を前に折る時などが痛烈な痛みが出て、参ります。しかし、なんとか、米を研ぎ、二度、三度の炊事は作っていますよ。例えば、ここ数日のレシピをご参考しておきましょうか。 夕食だけにしておきますが。

○豆ご飯、油揚げとワカメの味噌汁、とうもろこしと手羽元の煮物、烏賊と里芋の煮物、きゅうりの糠漬け
◯米飯、ビーフシチュー
◯米飯、さわらの味噌照り焼き、茄子と海老の煮物、きゅうりのぬか漬け
◯米飯、茄子の味噌汁、マグロのづけのたたきあぶり焼き、さわらの味噌照り焼き、生トマト
◯海老ピラフ(外食)、コーヒー
◯スパゲッティ(冷凍、海の幸のペスカトーレ)
◯かつお飯(カツオのもちもとぶ、沖縄ハム総合食品)、茗荷の味噌汁、刺身こんにゃく、鰹節たっぷり水菜のおひたし、
めかじきの胡椒焼き、生トマト、舞昆
◯握り寿司(スーパーで)、赤だし味噌汁、きゅうりのぬか漬け
◯鯛の炊き込みご飯、ビール、
焼き鶏串、きゅうりの糠漬け

 鳩戦争の終了?: ベランダに入り込み、巣を作り、卵を産み、とくに糞でひどく汚し、 洗濯の干し物ができないで困っていました。子どもを産んで育てたのが昨年で、それ以後、いろいろな対策を立てて鳩が来ないように努力したのですが、このことは、これまで何度も報告して来ました。カラスのモデルをぶら下げて怖させたり、トゲトゲのついた長いプラスティックをベランダの手摺の上に並べたり、強力の磁力をくっつけたり……。 しかしどれもダメでした。2〜3日来なくなることがあっても、そのうち、入ってくるようになります。カラスと並んだり、トゲトゲの上に留まったり……。そして、今年もベランダに小枝を集めた巣をつくり、卵が生まれました。最初2個。かわいそうですが、ここで 雛を育てられてはまったく洗濯干しが出来なくなります。可哀そうですが卵を捨てました。ところがその2日後にまた2個の卵です! もう、ベランダ全体をネットで張りめぐらし、まったくどこからも入れないよう する以外はないと思いました。私は腰が痛くで出来ないので、友人を頼んでそれをやってもらいました。2センチ四方の穴の網を、上の部屋のベランダの下から全部をめぐらして張ったのです。 結構大変な作業で、3日間もかかりました。やっとその作業が先週終わり、8メートルほどの長さの南向かいベランダを全体にネットで張りめぐらしたのです。網の外側を何度も飛んで回っていますが、とにかく、どうしても中には入れません。どうやら、これでやっと1年間以上かかった鳩とのやり合いは、どうやら終わったようです。ノイローゼに近いほどの気分が、やっとなくなった生活に入れたようです。ホッとしています。(左の写真は、ベランダのネットを通した三日月です。) とは言え、ベランダ全部がこの網の中に囲まれていると、1962年以降、南ベトナム政府が農民を強制に押し込めてつくった「戦略村」の中にいる気分がないとは言えないようです。

 本物の戦争が恐ろしくなってきている: 鳩戦争ならばまだともかくも、本物の戦争の話はえらく恐ろしくなってきています。6月16日、小野寺防衛大臣は長崎県大村市で講演し、沖縄県の尖閣諸島など島しょ部の防衛を強化するため、アメリカの海兵隊を参考に自衛隊に 水陸両用部隊を設ける必要があるという考えを示し、「今までは通常の陸上自衛隊で対応するという考えだったが、 今後は離島防衛のための部隊の装備や編成をもっと拡大しなければならない」と述べたのです。島しょ部の防衛を巡っては、すでに、自民党が今月11日に、水陸両用車や新型輸送機オスプレイを保有する水陸両用部隊の新設を求める提言を安倍総理大臣に提出しています。
 『かけはし』の7月8日号には、韓国の『ハンギョレ21』5月12日号に載った安倍晋三日本総理が宮城県にある航空自衛隊基地で練習機に乗っている写真を報道し
てい ます。この写真について、韓国や中国では、機体に記された「731」という数字が、侵略戦争の時期の生体実験によって悪名高い満州731部隊を連想させるとの批判の世論が沸き起こったというそうです。この号の機体を安倍首相がわざと選んだとは思えませんが、しかし、偶然にしては、この「731」という数字のもつ歴史的意味については、首相がまったく認識を持っていなかったことは確かでしょう。

 「なだいなださんを偲ぶ会」に参加しました: 6月11日、東京・池袋の自由学園明日館で行なわれた老人党などの共催による「なだいなださんを偲ぶ会」に参加しました。腰の痛みで、たばこの博物館やパプア料理店の方はしばらく先へ延ばしましたが、このなださんへの集まりには行かないわけにはゆきませんでした。200人ほどの方が参加していたでしょうか。天野祐吉さん、原田奈翁雄さん、小中陽太郎さん、加賀乙彦さんなど、多数の方が なださんについての話をなされました。参加者には、6月6日になださんが永眠された後に発行された新著の『とりあえず今日を生き、明日もまた今日を生きよう』(青萠堂、2013年6月21日刊、右の写真)と、なださんの最後の文書「人間、とりあえず主義 必然の失言」が載せられた『ちくま』2013年7月号が贈呈されました。
 また、なださんの「くねくねくねくねくねくねくね  くねくね人生 八十三年」というカードと、主催者からの、なださんの生涯への記述と主要著作のリストも配られました。そのカードには、以下のように書かれていました。
    「わかりきったことのように思えるものほど、わからぬものだ
                             (『片目の哲学』より)
       ためらうなよ、人を救って罪になるなら罪を犯しなさい。
       ちょっとおっちょこちょいになりなさい。
       ぼくほど、ひどくならないほうがいいけれど
                             (『おっちょこちょ医』より)
          語られていない部分、沈黙の部分に耳を傾けて欲しい
                             (『信じることと、疑うことと』より)

                                感謝をこめて    
                                  なだ いなだ」
 上記の「なださんの生涯」と「主要著作リスト」は、最後に全文を紹介しておきます。
 ところで、集会の入口のところには、なださんのたくさんの著作が並べてありました。それをずっと見ていて、あれ?と思ったのは、小説『影の部分』(1985年、毎日新聞社)がなかったことでした。また、最後に紹介するという「主要著作リスト」の中にも、それは入っていないのです。本欄の91号で、なださんの訃報を載せたとき、私は、わざわざこの小説のことに触れたのでした。また、この「偲ぶ会」での話の中では、この『影の部分』について触れた人が3人もおられたのでした。それなのに、なぜ、この本が著作集リストや会場の入口に並べた著作集の中に 入っていなかったのでしょう? 私は、まず、不思議だな、と思ったのです。上に紹介したなださんの言葉に、「語られていない部分、沈黙の部分に耳を傾けて欲しい」とあるではないですか。この部分こそ、小説のタイトルにもなっている『影の部分』つまり『語られていない部分」ではないのでしょうか。なださんは、自分のことを「おっちょこちょい」だと語り、また、多くの人は、なださんがとてもユーモアの豊かな面白い方だといいます。しかし、私は、決してそれだけな人ではなかったと思っています。ユーモアにあふれ、面白く受け取るなださんの表現 があるとき、その後ろ側には、「語られていない部分、沈黙の部分」がついているのだと思います。だから、この、語られていない部分――つまり長い間、決して語らなかったなださんのベ平連の反戦米兵脱走兵への援助活動のことを、 ずっと後に小説の形で「影の部分」として明らかに書かれたのだと思います。この小説は、やはり、表面的には、軽く、ユーモラスな表現で書かれてあります。しかし、内容は、相当な深刻な問題がたくさん含まれています。小説ですから、実際になださんの家庭の中の事実であったかどうかは知りません。しかし、左翼の学生運動に参加していた娘からは、脱走兵援助のことを口に出せない父親に、プチブルで言葉の上だけでしか進歩的 なような態度をとっている父だと批判したり、さらに、この娘が、命の危険さえある内ゲバ闘争に含まれるようになり、父は、命を案じてフランスに留学させる話が出てきたりします。1960年代終わりから70年代にかけての時代の、こうした家庭によくあった深刻な問題だったのです。だとすれば、やはり、この『影の部分』は、著作集の中に含めてほしかったな、と思っているのです。
 上記にふれた「なださんの生涯への記述と主要著作のリスト」の全文を最後に紹介しておきます。

 なだいなだ――

 本名、堀内秀(しげる)。1929年6月8日東京生まれ。1942年旧制の私立麻布中学に入学(一時、陸軍幼年学校に在学)。慶應義塾大学医学部予科に入学後、フランスへの留学も経験。卒業後は、東京武蔵野病院などを経て、国立療養所久里浜病院に勤務。1961年に慶應義塾大学で博士号取得。アルコール依存症の研究を専門とし、自らは「こころ医者」と名乗る。私生活では渡仏中に出会ったルネ・ラガシュ夫人との間に4人の娘さんがいる。
 作家としては、1959年から「海」や「れとると」などの小説を発表(他6篇が芥川賞候補となる)、1965年『パパのおくりもの』刊行。童話や古典に関するもの、こころの問題を取り上げた作品など幅広い文筆活動で多くの著作を残す。
 鎌倉へ越してからは、景観・環境等の会や「九条の会」にも尽力された。近年もネット上の仮想政党「老人党」(2003年筑摩書房より『老人党宣言』刊行)を立ち上げるなど、ユーモアあふれる反骨の精神とともに弱者からの目線での、新しいフィールドを開拓。80歳を超えても、婦人之友社「つむじ先生の処方箋」、筑摩書房「人間、とりあえず主義」、日教組新聞「なださんのメンタルスケッチ」の3本の連載を持ち、社会にメッセージを発し続けた。最近は、「常識」をテーマに執筆や講演を行い、亡くなる当日の朝までブログの更新を続けていた。

2013年6月6日永眠。――
 

なだいなだ 主要著作
パパのおくりもの【文藝春秋新社 1965】
アルコール中毒社会的人間としての病気【紀伊国屋書店 1966】
れとると【大光社 1967】
片目の哲学【大光社 1967】
なだ・いなだ詩集スケルツォ【みゆき書房 1968】
娘の学校【中央公論社 1969】
お医者さん 医者と医療のあいだ【中央公論社 1970】
クヮルテツト第1楽章性転換手術【文藝春秋 1970】
心の底をのぞいたら【筑摩書房 1971】
人間、この非人間的なもの【筑摩書房 1972】
カペー氏はレジスタンスをしたのだ【毎日新聞社 1973】
おっちょこちょ医【筑摩書房 1974】
権威と権カーいうことをきかせる原理・きく原理【岩波書店 1974】
TN君の伝記【福音館書店 1976】
カルテの余白【毎日新聞社 1977】
聞切りの孫二郎とそのクルーの物語【角川書店 1978】
くるい きちがい考【筑摩書房 1978】
不眠症諸君!【文藝春秋 1979】
なだいなだ全集 全12巻【筑摩書房 1982−83】
信じることと、疑うことと【径書房 1985】
童話ごっこ【筑摩書房 1985】
アルコール問答【岩波書店 1998】
つむじ先生の処方箋【五月書房 1999】
人間、とりあえず主義【筑摩書房 2002】
神、この人間的なもの 宗教をめぐる精神科医の対話【岩波書店 2002】
老人党宣言【筑摩書房 2003】
専門馬鹿と馬鹿専門 つむじ先生の教育論【筑摩書房 2005】
こころの底に見えたもの【筑摩書房 2005】
ふリ返る勇気【筑摩書房 2006】
アルコール依存症は治らない《治らない》の意味【共著、中央法規 2013】
とりあえず今日を生き、明日もまた今日を生きよう【青萠堂 2013】