79 どうやら少し涼しくなりましたか。 (2012年09月09日  掲載)  

  9月の中旬に入って、昼間はまだ暑い日々ですが、朝夕には風がかなり涼しくなって来ました。どうや ら少しホッとしています。この夏の暑さは参りましたが、それは歳のせいだけではなく、毎年、夏はどんどん暑くなっているのではないでしょうか。それでも、8月の末から結構 いろいろ忙しく日を送っていました。ほとんどは、まったく私的なことでしたが、書き並んでみます。

 訃報二つ: まずは残念なご報告で、二つの訃報です。お一人は、女子学院の元学長で、元わだつみ会の理事、反戦運動、そして靖国問題や天皇制問題などで活躍されていたクリスチャンの大島孝一さんで、8月27日に95歳で亡くなりました(左は2002年9月の写真です)。葬儀は8月30日に、西千葉教会で行なわれましたと、参加された高橋武智さんから知らされました。大島さんについての詳しいご紹介は、旧ベ平連のサイトの「ニュース」欄に、大島さんご自身の文章のご紹介などを含め、掲載されていますので、ぜひそちらをご覧ください。ここをクリックしてください。 http://www.jca.apc.org/beheiren/627OoshimaKouichisanSeikyo.htm です。
 もうお一人は、数学の教師で、反戦の活動家だった深澤勉さんです。8月11日に62歳で逝去されました。「葬儀も滞りなく相済ませました」というご夫人の洋子さんからお知らせをいただきました。彼は予備校で数学を教えていました。1991年12月には、河合塾の牧野剛さん、駿台予備校の最首悟 さん、そして代々木ゼミナールの私とが連絡して、 予備校講師を中心とした「PKO法案に反対し堂々と一歩を歩く教師の会」という集まりを作りました。そして、各予備校の生徒たちまで呼びかけて、500人ものデモもやりました。深澤さんは、この活動で活発でした。予備校の教師の前には、新左翼グループに参加していました。62歳とは早すぎ、辛いお伝えです。
 お二人に追悼の意を表します。

 八ヶ岳山麓の色川大吉さんにお会いして: 7月の末に、小田実さんの没後5年の集会とパーティがありました。この集まりについては、本欄の「77 2012年7月半ばを過ぎ、梅雨も開けてでふれましたが、そのパーティで私は色川さんの文章を紹介したのでした。色川さんは、1980年の暮に、小田実さんと二人を代表として「日本はこれでいいのか市民連合」(日市連)という市民グループが発足し、私も最初から世話人として参加して、一緒に活動していました。この時の活動は、色川さんの著書『昭和へのレクイエム』(2010年 岩波書店刊)に詳しく出ています。それで、久しぶりに色川さんとお会いしたくなったねと、「日市連」の元事務局長、原田隆二さんとそのご夫人、藤村早百合さんと の三人で、8月の末、八ヶ岳山麓に一人だけで暮らしている色川さんのお宅に車で出かけることにしたのでした。
 色川さんは1926年生まれですから、86歳でしょうが、えらくお元気、今でもスキーを楽しみ、ドライブもやります。3・11事件の後には、色川さんが旧二高(仙台)の出身で、東北各地に友人がおられるので、
車を飛ばして、宮城や福島の知人たちをお見舞いに回ったそうです。食事も自分で作り、近くの友人たちとはいろいろな集まりで楽しみ、読書と研究も続けるという、実に充実でかつ、羨ましいほどの優雅な生活だとお見えしました。その一端は、例えば最近の著書、『八ヶ岳山麓 猫の手くらぶ物語』(2010年 山梨日日新聞社刊 1,800円+税)という、毎ページがカラーという贅沢な書物で もよくわかります。ただ、「?」は、この本の奥付だけでなく「あとがき」までが「平成」の年号だったことでしたが……。
 山小屋の風情のある大きな家に、膨大な書庫があり、絵や彫刻があちこちにあるのですが、驚いたのは、この数十年、毎日つけている細かい字のびっしり詰まった日誌のノート類でした。これがあるからなのだな、と、色川さんの何冊も出ている同時代自分史の原資料がよくわかり、感心しました。
 この日は、車で近所の眺望台に連れてくれたり(左の写真、八ヶ岳を眺めている時)、いい 蕎麦屋があるので……と、とてもうまい手打ちの蕎麦をごちそうに連れてもらいました(右の写真。右側が原田隆二さん)。楽しい日になりました。

 
地元、西東京市での反原発デモ: 私の住んでいる西東京市では、昨年から何度も反原発の市民集会とデモが続けられています。八ヶ岳から帰ったすぐ翌日、8月26日(日)が、この市では第7回目の集まりでした。風があったので少し助かったのですが、この日も酷暑の日で、涼しかった八ヶ岳山麓とはえらく違ってかなり参りました。「殺すな」の団扇を作って持ち(右の写真)、何とか、デモにも全部ついて歩くことが出来ましたが、何とか1時間ほどの デモについて歩くのが必死で、とてもシュプレヒコールの大きな声など出せませんでした(左のデモの写真で、ひだりから5人目に私がいます 。写真は3枚とも柳田由紀子さん撮影)。毎回、かなりの市民たちが集まるのですが、この日は約100人の参加でした。
  主催は、市民グループの「原発はいらない西東京集会実行委員会」ですが、ここでは、左の写真のような缶バッジも作っています。直径57ミリ 1個 300円 1個でも送料無料です。ご希望は、下記のサイトにご欄ください。申し込み欄があります。 http://nonuke-ntyo.cocolog-nifty.com/ です。このサイトには、 この会の行動について詳しい資料や説明があり、多い動画も入っています。
  以下は、当日の集会でのアピール全文です。

 

 

 

 第7回 原発はいらない西東京集会アピール

 「再稼働反対」の多くの声を政府は受け止めず、夏期ピーク時の電力不足の可能性をあおり、大飯原発再稼働を強行した。だがこの夏、節電が進み、電力は余り、東電は火力発電を一部止めるほどだった。西日本では、電力を「融通」すれば、関電は大飯原発なしでも十分足りた。また、そもそも関電は火力発電を動かせば間に合ったのだから、大飯原発の再稼働は原発推進の巻き返し策であった。
 原発依存度ゼロは、政府の決断で、今すぐにできること。政府のエネルギー政策のシナリオでは、依存度の選択肢は2030年が目標だが、私たちは、今、2012年に、原発依存度をゼロにすることを求める。大飯原発の運転を止め、全ての原発を再稼働しない決定、つまり廃炉決定を求める。
 原子力規制委員会が発足するが、これまで原発を推進してきた者はメンバーになる資格がない。現在の人事案は、第三者機関としての公正さを保障できないので撤回するべきだ。
 福島第一原発の事故は未だに収束せず、放射性物質の放出が続く。高濃度汚染の現場では、廃炉に向けて被曝労働に支えられた先の見えない作業が続く。労働者の被曝隠しが発覚したが、命を削る労働の場で、人権が守られていない。差別と犠牲で成り立つエネルギーはいらない。
 政府は福島で除染を進め、チェルノブイリより4倍も高い避難基準で、再び人々が暮せるよう帰郷を仕向けている。除染は移染にすぎず、汚染物全てを取り除くことは不可能だ。放射能汚染が続く中で暮し続ければ、人々は健康を守ることができない。特に、子どもたちの被曝線量を減らすために、国は責任をもって、保養や移住の制度を整えるべきだ。
 自然界に存在しない核物質は自然と共存できないことが、明らかになった。人間は自然の一部であることを忘れずに、地球を汚さない生き方をしていこう。
 「原発はいらない」どこにもいらない。私たちは、福島で、日本中で、世界中で「原発NO!」の意思表示を続ける運動と連帯し、行動する。
                   2012年8月26日  原発はいらない西東京集会参加者一同

 新幹線グリーンの無料雑誌『BADGE』!: 8月の末、義理の弟の葬儀があり、新幹線に乗って神戸まで行って来ました。すっかり痩せて、腰をかけているとお 尻の骨が直接ゴリゴリしていたくなります。それで、いささか頑張ってグリーン車に乗りました。新幹線のグリーン車には、もはや喫煙のできる座席の車は一切なくなっており、一両だけ、3人だけが入れる小さな喫煙の部屋があるだけです。途中、何度もそこまで出かけました。
 しかし、文句があるのはそのことではなく、全座席の前の入れ物袋の中に、2種類の雑誌が入っていることです。そのうちの1冊『ひととき』は、新幹線のダイヤや地図も入っている 東海道・山陽新幹線用の雑誌です。それとは別に、『BADGE』という月刊雑誌があるのです。1冊400円という代価も入っていますが、「無料でご自由にお持ちください」とついてあります。この中身を見て驚きました。9月号のこの雑誌には、例えば、以下の特集やOPINIONの二論文などを見てください。
「■特集.2 無理だらけの原発ゼロシナリオ ◎「国民的議論」の前提がおかしい  ◎政治家の無責任と官僚の堕落  2030年の電源構成を巡って、「国民的議論」が行われた。多くの国民は「原発ゼロ」に傾き、脱原発と原発維持の意見対立はいっそう深刻になったように見受けられる。本当に「原発ゼロシナリオ」は可能なのか。そのシナリオに潜む、多くの不確実性、危険性を理解した上での選択だろうか。政府の資料や説明からは、本来あらかじめ示さなければならないはずの、このシナリオが持つ「緊迫感」が伝わってこない。
■WEDGE OPINION.2 渦巻く配備延期・反対論は妥当か  ●米アジア回帰の一環  オスプレイがもたらすメリット  山口 昇(防衛大学校教授)  ●意外に低い事故率 オスプレイに向けられる非現実的な安全感覚  辰巳由紀(スティムソン・センター主任研究員)
 つまり
「原発ゼロ」に傾いているが、その前提がおかしく、原発ゼロシナリオは可能ではない、という主張。そして、オスプレイ配備にはメリットがあり、事故率は意外に低いという主張などです。
 こういう雑誌が、新幹線のグリーン車の座席に、無料で配られているのです。これは各新幹線の会社やJR が承認しているのでしょうが、かなりの無料配布の費用はどこから出されているのですかね。この雑誌の出版社は、内容を以下のように述べています。
……「新聞」や「週刊誌」で“今”の動きを知り、「WEDGE」で“その先”を読む──。1989年の創刊以来、幅広い業界を取りあげた鋭い先見性を放つ記事が評価され、“中長期的ビジョン”を必要とする経営者の間で、絶大な信頼を獲得。近年、次代を担うミドル・マネジメントクラスから、志の高い若手の間にも愛読者が急増。月に一度、体系的に整理された情報を得ることで、日々の情報に対する感度も飛躍的に磨かれます。……出版社:ウェッジ
 この雑誌は、
JR東海系の出版社だそうですが、こういう一方的な政治性を持つ雑誌を公衆旅行手段に配布させてはならないと思います。先に述べた雑誌『ひととき』のほうも、以前は「ジェイアール東海エージェンシー
が発行でしたが、今は、「ウェッジ」発行に変わっています。

 元『朝日』記者の岩垂弘さんの出版記念パーティ: 9月8日(土)の午後、東京・高輪の「高輪和疆館」で、岩垂弘さん(左の写真)の大著『ジャーナリストの現場――もの書きをめざす人へ』(同時代社刊、右の本)の出版記念パーティが開かれ、研究者、文筆者、ジャーナリスト、反戦活動家など、各界の方が多く参加されて盛大でした。この著書は、ジャーナリスト活動の集大成と言えるもので、ぜひお手にとって読んでいただければと希望するのですが、この本の内容は、実は、岩垂さんのサイトに全文が掲載されており、各目次をクリックすると、その節が全部読めるのです。例えば、私と関連するベ平連との部分は、「第63回 米空母イントレピットからの脱走兵」「第64 エンプラ闘争で警官隊になぐられ負傷」第66回 エンプラ闘争への過剰警備が問題に」「第67回 ベトナム戦争の余波は王子にも」など多く入っており、それぞれが全文読めてしまうのです! http://www.econfn.com/iwadare/soumokuji.html を見てください。
 この64回の、佐世保での岩垂さんの重傷の話では、小田実さんと私はやはりその時佐世保に行っており、彼が重傷・入院と知って、二人で病院へ駆けつけてお見舞いをしたことを思い出します。
 パーティでは、ご夫人と並んで、花束が贈られ、岩垂さんからも夫人への協力への感謝の意を述べられたのでした。会を帰るときに、入り口で、お礼だとして、靉光の絵のポストカード5枚をいただきました。靉光は、ご存知かと思いますが、岩垂さんの言葉を借りると「
広島県出身の画家です。妻子を残して応召し、敗戦翌年の一九四六年に中国で戦病死しました。三十八歳でした。存命中はほとんど無名でしたが、戦後、日本におけるシュールレアリズムの先駆者として評価されるようになり、また、戦時下、戦争画を描かなかった数少ない画家の一人として注目されるようになりました」という画家です(右の下は、靉光の「花 アネモネ」)。このポストカードの入った封筒にあった 岩垂さんのご挨拶に、「小生の義父(妻紅の父)にあたります」とあって、びっくりしました。岩垂さんのご夫人が、靉光の娘さんとはまったく知らなかったものでしたから。

 鳩戦争のその後: ベランダでの鳩との戦争は、今も続いています。本欄No.77で書いた以後も、鳩の集まりは依然として変わりません。毎朝、起きるよりもずっと早く、5〜6時ころに来るようです。鳩はベランダの手摺の上に乗せたトゲトゲの上にも相変わらず平気で止まり、ベランダは糞だらけです。なぜ、こんなに毎日やってくるのか、単に生まれた場所だけだという理由以外に、なにか原因があるのではないのか、しばらく考えました。ひとつ思いついたのは、ベランダに置いてある睡蓮の大きな陶器の鉢に水を飲みに来るのではないか、ということです。この水が飲めなくなれば、来るのを諦めるのではなかろうか、そう思って、最近、この水鉢の上に緑色の網を張って、水に首を触れられないようにしてみました。鳩が飲める水は、この団地の公園の池など、あちこちにあるのです。さてどうなるか。また数週間、鳩の対応を見てみます。
 この記述を読まれたある人からは、最近、「一時的に効果があったのは、磁石です。◎の形の磁石(ホームセンターで一番強力なものを買いました。重いんです。足の上に落とさないようにお気を付けください)を2つ結んで、銅線をとおして、ベランダの物干しに渡しました。これには、さすがの鳩も体内の方向指示器が狂い、我が家を敬遠するようになりました」というメールが送られてきました。これからも鳩飛来が続くようでしたら、この磁石作戦もやってみましょう。情報をくださった方、ありがとうございました。

 失敗の多くなること: 鳩戦争の話に続き、まったく私的な話ばかりです。飛ばして読まなくて構いません。要するに、歳のせいでしょう、暮らしの中で、失敗がとても多くなっているということです。一番危ないのは、自転車で、走りだす時と止めるときに、グラっと横に倒れそうになります。若い時でしたら、すぐ直せたのですが、最近は、そのまま倒れてしまい、地面にお尻をぶつけることになります。それで、この時は、ゆっくりと気をつけるようにしています。
 物を下に落としてしまうこともあります。先日はスーパーで卵を買い、家に入るときに買い物袋を落とし、出してみたら、10個の卵が全部壊れていました。もったいないので、だし巻きか、甘辛厚焼きでも作るよりしようがないな、と考え、せっせと卵焼き巻に取り組みました。醤油をかけた大根おろし、茹でた絹さや、刻んだ茗荷などと一緒に皿に乗せたら、まあまあ、見える形になったでしょう(左の写真その右がそれをつけた朝食のテーブル上の写真です)。このレシピは以下のとおりでした。米飯、小蕪の味噌汁、甘辛厚焼き卵、鱈の甘煮、ホタテの甲州煮(八ヶ岳からの帰りに談合坂SAで買ったもの)、イカナゴくぎ煮(葬儀に出た時に神戸に買ったもの)、きゃらぶき、紫蘇の実漬けです。一人暮らしとはいうものの、そんなに手抜きをした食事ではないでしょう。
 失敗と言って、自慢をしたみたいですね。もう一つの失敗は、物をなくすことです。先日、神戸から帰った時の新幹線で、5時前に東京駅から降りた時、手帳、携帯電話、デジカメを入れた小袋を、座席に忘れてしまったのです。新宿まで来た時に、ハッとそれに気づいたのです。飛び降りて駅員に相談したら、新幹線での忘れ物なら、このホームの事務室でわかるから、というので、ホッとしてホームの端から反対の端にある事務所へ行ったのですが、新幹線は新幹線でも、新宿では新幹線東海ではダメで、東京駅が担当になるのだと言われてしまいました。でも「まず電話してみろ、6時までだけれど……」と言われます。携帯電話がないので、公衆電話はどこ?と聞くと、このホームの反対の階段を登った南口の上にあるよ、というので、また重いカバンを引きずって電話まで辿り着きます。そして電話をかけたのですが、何と、何回かけても話し中でつながりません。5時半から30分間、金を入れたらダイヤルを回すと続けたのですが、ついに6時まではダメでした。そんなことなら、すぐ東京駅まで行けばよかったと思って東京駅まで戻ります。カバンを引きずり、東京駅の中央線ホームからは一番遠い反対側にある新幹線の入り口までフーフー歩き、あっちやこっちに往かされた上、、6時半に、やっと東海新幹線の事務所へたどり着きます。クタクタになっていたのですが、それにしても、無くしていた小袋が出てきたので、飛び上がるほどの嬉しさでした。もし手帳や携帯電話などが無くなったら、えらい面倒になったはずですし、デジカメには、全部ぜひ送ってくださいと頼まれていた葬儀の写真が入っていたのですから……。
 あちこちを連れ回されてえらく機嫌が悪くなっていたのですが、小袋が出てきたら、文句どころか、「ありがとうごさいますッ!」と言うことになりました。こういう大事なものは、そのたびごとに離さずに、入れるべきところ、置くべきところなどにすぐ戻さなければなるまいな、と心に誓ったのでした。このゴタゴタで、5時前に東京駅に着いていたのですが、自宅に入ったのは8時を過ぎていました。本当に、家に入ったら、グタッとなっていました。教訓です。

 というわけで、8月末から9月初めまで、ダメ老人は何やかやとやはり忙しかったのでした。失礼しました。