56 けっこう忙しい一週間でした。 (2010年10月13日  掲載)   

 しばらく、この欄もご無沙汰していました。ここのところ、けっこう忙しいことがあり、かなりサイトに手を入れられませんでした。この一週間は、連日、都内などに集まりその他の仕事で出かけていました。

 6日(水)は、市民の意見30の会・東京の事務局の夕食懇談会で出ました。この日は、91歳に近くなる福富節男さんも来られ、全部で11人も集まって、尖閣諸島の問題でおおいに議論がかわれました。特に共産党から発表された「日本領土だ」という大声明が厳しい批判意見が多くの人びとから出されました。
 7日(木)は、「市民の意見」の編集委員会で、今回の担当編集者、諸橋泰樹さん、次回の担当の高岡甫雅さんをはじめ、多くの委員から、今号の122号への意見、次回123号の内容案などが話されました。特に今号のトップ、広島の丸屋博さんへのインタビュー、「樺美智子さんの死因と反核医師としての軌跡」は好評でした。次回は尖閣諸島問題、平和憲法と領土トラブルについ手が主要なテーマになりそうです。
 8日(金)は、来年5月3日に出す平和憲法意見広告の第10期運動についての事務局検討会議がありました。そのためのチラシの案文(右)が検討されましたが、今月末か11月初めには、印刷、発送されるでそう。
 9日(土)は、午前11時から午後にかけ、四谷の主婦会館で、「
高木仁三郎 没後10年のつどい 希望へと歩みつづける」の集会があり、参加しました。10年前の追悼集会は、日比谷公会堂を満員になっていたのですが、10年のちの集会も、全国各地から集会満員の数百人の方が参加し、盛会でした。中心の講演は金平茂紀さん(TBSアメリカ総局長)が、「ジャーナリストからみた高木仁三郎」を、山口幸夫さん(原子力資料情報室・共同代表)が「高木仁三郎さんの志したこと」でしたが、「高木仁三郎市民科学基金」も維持されて活発続けているとの報告も出されました。第2部のパーティでは、何人かのスピーチがされましたが、私も、ごく短いものでした、1983年の東京反核大集会に「反核なら反安保・反原発」というアドバルーンを揚げたエピソードを入れながら、高木さんと反安保闘争の話をしました。
 10日(日)は、プライベートのことですが、川崎にいる私の実妹と一緒にいる96歳になる母を見舞いに出かけました。最近、手足の動きは不自由になってきて、家の中で何度も転ぶようになって、これまで自分で作っていた炊事もここのところ、できなくなっています。この日は、私が今年初めての松茸ごはん(もちろん、中国産でしたが)をつくり、それにひじき豆やら、ジャガイモの昆布煮などを持って出かけ、一緒に夕食を食べてきました。「早く死んでおれば、こんな不自由な体で困ることもなかったのに、という気分と、いや、自然にのんびりと生きていればいいので、ありがたいことだ、という気分と、この二人の人間が自分の中にいて、その二人の自分が議論してるのだよ」などと言うのです。頭の方はまったくぼけてならず、話は元気に話すのです。
 11日(月)は、午後、一ツ橋の学士会館での
星野安三郎先生を偲ぶ会」の集まり(左)に参加しました。憲法学者、弁護士、市民運動家など百数十人の方が集まり、食事とともに、清水英夫さん、樋口陽一さん、山内敏弘さん、斎藤貴男さんなど、多数の方々から偲ぶ話がされました。
 なお、この日、久しぶりに富士山の姿を私の部屋から見せてくれました(右写真)。
 12日(火)は、筑土八幡町の鈴木一誌さんのデザイン研究所を訪問しに出かけました。毎年5月3日の意見広告の新聞紙面のレイアウトは、すべて鈴木さんが担当して見事な紙面をつくってくださっています。来年への第10期もぜひお力を貸して下さいと、お願いに行ったのでした。鈴木さんとは、尖閣諸島問題や北朝鮮政治問題などが話題に出ました。

 という次第で、1週間連日、車を乗って都心などへ出かけたので、いささか疲れました。それでも、1週間連日外出で、ほとんど会議や集会だったのですが、それでもなんとかまだ出来るということもわかりました。というわけでこの一週間のご報告でした。