53 紫陽花がまた咲きました。連れ合いが死んで満5年です。 (2010年06月08日 掲載)
また紫陽花(あじさい)が咲きはじめました。昨日の6月7日は、連れ合いの祐子の死んだ満5年でした。
67年目の小学校同クラス会
たまたま、昨日は小学校の同クラス会があり、参加してきました。小学校を卒業したのは、1943年の春、ガダルカナル島から日本軍の撤退が開始された直後であり、山本五十六連合艦隊司令長官が戦死した直前のときでした。それから67年になります。小学校卒業のとき、クラスは56人だったはずですが、クラス会に参加した仲間は13人でした。昨年のクラス会以後も2人が死去したとの報告もされましたが、驚いたのは、6人もが脳梗塞に見舞われ、入院中や外出が出来なくて参加できないという知らせでした。私の脳梗塞など、えらく軽いほうだということもよくわかりました。連れ合いをなくした友人からは、「君からよく言われたが、まったくその通りだな。時間がたっても、慣れるなんてことないよな」と言われました。
今年も憲法記念日の意見広告に入ってるぞ、という友人から二人言われましたが、ほとんど全員の仲間たちから、鳩山前首相の普天間問題での憤激が聞かれました。
ケーキなどは最近まったく買わないのですが、この日だけは、帰りにその会場のホテルで売っているケーキを買ってきました。祐子がいるときは、ときどき買っていましたので。
紫陽花はいっぱい
、花もいっぱい
祐子の命日の前の日に、ベ平連時代の知人から、紫陽花の鉢が二つ届かれました。
一つは「ピラミッドあじさい」という西洋あじさいで、大きな白い花の珍しいものでした(左の写真の右側)。ありがとうございました。でも、昨年にも紫陽花をいただいたものがあり、3つの種類の鉢がありました。それらは水を切らさず、大事に1年育ててきて、これも今、紫やブルーの花を開きだしており、ベランダには紫陽花がいっぱいに並んでいます(右の写真)。
部屋の中も花でいっぱいなのです。
5月 末から6月のはじめにかけ、慶應義塾大学経済学部の高草木光一教授の授業の中で、反戦運動についての話を4コマの講義を依頼し、全部で6時間の話をしました。1950年代の原水爆禁止運動、1960年の安保闘争、1965〜70年代のベトナム反戦運動の、3つの運動の話を紹介しながら、運動の中で、人と人とが、死者と生者とが、過去と現在とが、影響を与え、続けてゆくの
か、という話をし、それは運動や組織のことだけではなくて、人間の生き方の中でも同じことがあるのだ、というような意味を言ってみたいと思っていました。
脳梗塞の失語症のため、言葉は自由ではありませんでしたので、最初にそのことは、学生たちにことわりを話しておりました。実際、何度か、どうしても言葉が出てこないで、話が続け出来ないことがありました。たとえば、「治外法権」という言葉が何としても頭に浮かばず、「大使館などがある権利で……、特別で……、その国の法律などを従わなくていいものでサ……」などと言って、脇にいた高草木さんから「治外法権ですかな」などと助けてもらうというよう
な具合でした。それでも、どうやら話は終えることが出来、言いたかったことも何とか伝えてもらえたようでした。(左の写真2枚は大木晴子さん撮影、「ミルグラムの実験」についての説明中)
そして、驚いたのは、授業が最後に終ったとき、「学生一同から」と言われて、大きな花束を贈られたのです(右の写真は、KYさんのサイト「黙々と part4」から借用)。家を帰ってから、この花束を分けたのですが、大きな束でしたので、3つの入れ物がそれぞれ見事な花瓶になり(
右下の写真)、祐子の写真の隣や、リビング、そして玄関の正面などに飾ることが出来て、部屋の中も花で一般になったのでした。
それに、マ、少し上等なケーキまで並んだのですから、いいんじゃないですか。
亡くなられた方が多すぎる
「ニュース」欄や「ご案内」欄には、いくつか載せましたが、昨年暮にかけて、知人や先輩の亡くなられる方が多すぎるようです。労働運動家の樋口篤三さん、原水協の国際部長だった前群馬大学学長の畑敏雄さん、そして年頭にハワード・ジンさん、続いて井上ひさしさん、大泉市民の集いの清水知久さん、そして放送ジャーナリストのばばこういちさん、美術評論家の針生一郎さん……。
針生さんのお通夜(5月31日に。告別式には出られなかったので)も、ばばさんを偲ぶ会(6月4日)も、それぞれ二〜三百人の方々が参加されていたのではなかったでしょうか。ばばさんの会があったのは、あのベ平連の徹夜ティーチインがあった赤坂プリンスホテルの別館でした。「東京12チャンネル」がティーチインのTV放映を中止したことに抗議したディレクターだったばばさんは、それを機に12チャンネルからクビにされたのでした。
慶応大での講義で言ったことでしたが、亡くなられた人を残った者たちが活かすということを、あらためて考え続けるのでした。