わたしとビール 〔 〕内は、現在からの注で、「何年前」などの表現を現在からの計算に直してある。
わたしはビールが好きでよく飲む。ただキリンビールだけは飲まない。キリンがいちばんうまいという人が多くいるし、また料理屋などでもキリンを置くのが店の格の高さを表すのだという説もある。だがわたしは飲まない。
ある夏、新幹線のビュフェでビールを注文した。キリンとサントリーがあるというのでサントリーをと頼んだところ、ウエイターは 「あいすいません、冷えてるのほキリンだけで……」 という。
「冷えてなくてもサントリー」わたしがそう言うと、ウエイターばかりでなく、周りの客がみんなあきれ顔でこっちを見た。サントリーの社員とでも思ったのかも知れない。でもわたしはやたらとアワばかり出ていっこうにうまくない生暖かいビールを飲み続けた。
なぜこんな阿呆なことをするようになったのか。話は十年前〔34年前〕にさかのぼる。一九七〇年の九月十八日、十五年戦争の火ぶたが切られた柳条溝〔湖〕事件の記念日に、東京の豊島公会堂で「満州事変からインドシナ戦争へ」と題する集会があり、その席上、三菱重工業の一株運動が提唱された。この年、すでに水俣病を告発する会が中心となり、チッソの一株運動が開始されており、十一月二十八日には大阪で開かれたチッソの株主総会には「怨」の旗がひらめいて、患者や支援グループのチッソ糾弾行動が行なわれた。
べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)のグループも、三菱重工業を相手にこの方法を取り上げ、軍需生産反対の行動を起こそうとしたのである。
翌七一年三月には、それまでに集まった一〇三一名の反戦株主の株券名義書換が行なわれ、五月と十一月の二回、わたしたちは三菱重工の株主総会に出席した。そして二度とも、右翼・暴力団・総会屋などから暴行を受け、総会場からたたき出された。
三菱側は、はじめ「受けて立つ、堂々とティーチインをやろう」とか「対話総会にしたい」などと言っていたのだが、それどころの話ではなかった。
一回目の五月三〇日、会場の日比谷公会堂に入ったあと、わたしは仲間と離れて一人だけ、どうにか一階中央のマイクのそばまで行き、発言票を差し上げて「議長」と叫んだが、たちまち一〇人ほどの暴力団に取り囲まれ、引き倒され、殴られ、発言どころではなかった。
二度目の一一月三〇日、共立講堂での総会はもっとひどいものだった。総会屋だか暴力団だかがパイプ椅子を振り上げて投げつける、飛び蹴りをするで、わたしたち一株主側には、頭を割られて病院に運ばれた人をはじめ、四十数人の負傷者が出た。
わたしがショックを受けたのはこの暴行だけではなかった。それは二度目の総会出席のとき、わたしたちに投げかけられたののしりのことばである。「べ平連のチョーセン野郎!」「黙れ、チョーセン!」 耳を疑るというより、むしろ、言われたわたしのほうが一瞬うろたえる感じさえしたのだった。
べ平連の運動が発足したのは、米軍による大規模な北ベトナム爆撃が開始された一九六五年の四月だが、六七年の佐藤首相の南ベトナム訪問と羽田デモでの山崎博昭の死、そしてエスベランチスト由比忠之進の抗議焼身自殺、米反戦脱走兵の支援、そして翌六八年一月の「エンタープライズ」入港阻止の佐世保闘争などを経る中で、運動の方向も、わたしたちの考え方も徐々に変わっていった。自分たちの生活そのものがベトナム戦争を支えている仕組に組み込まれているという認識が強まり、自分たちの生活も変えながらこの仕組みをどう変えていくかを考えなければならないというふうになってきた。
それまでに、ベトナムに衣料品を送る募金運動などもやったが、それよりも日本から基地をなくし、日本の軍需生産をなくす運動のほうが、また、米脱走兵を国外に脱出させるよりも、米軍基地の内部に反戦の抵抗グループをつくるほうが重要だと考えるようにもなったし、さらに、国内にある被差別部落や在日朝鮮人などへの差別構造、第三世界の人民の解放闘争との連帯というような問題にも目が向いていった。三菱重工業への一株運動も、そうした背景の中で出てきた戦術であった。
それだけに、アジア人民の血の上に育ってきた三菱が、総会を乗り切るのに雇い入れた暴力団が、そのアジア人民、しかも、日本の中でなお差別・抑圧を受けている朝鮮人民の名を、悪罵のために使うということは、ショックであったし、許せないと思った。わたしは、三菱がこのことばを使ったということを忘れまいと決めた。そして三菱製品をいっさい使わぬことにし、三菱資本のもとにあるキリンビールをその中にふくめたのである。
もちろん、これは自分だけのことであり、他の人にすすめるつもりはなかった。製品ボイコットというのは大規模に行なわれたときにのみ効果のあることであり、その見通しはなかった。だから、これは、もっぱら自戒のための、いってみれば「茶だち」「塩だち」のたぐいである。
べ平連の仲間の中には、有名・無名にかかわりなく、人間としてすぐれた人びとがたくさんいた。わたしはそれらの人びとから多くのことを学んだが、その一つに、自分たちの立場を絶対視しないということがある。運動の中で相互の意見の相違を認め、自分のみを唯一正しいとせず、それぞれ思うところで並んで進むというやり方がそれであり、そのおかげか、べ平連はついに内ゲバを経験しなかった。そしてそのもう一つ底には、おたがい人間である以上、光り輝くすぐれた資質があるとともに、弱さもあれば欲もあり、デタラメなところもインチキな部分もないわけではない、というごく当然といえば当然の人間に対する見方もあった。
キリンを飲まぬことにした理由を強いて挙げれば、その弱い人間が、もしかしたらこの株主総会での衝撃を忘れそうになることがあるかも知れぬと思い、そうならぬ歯どめのようなものにすぎないのである。つまり、まったく私的なもので、人に言うべきことではないのかも知れない。しかし、ビールを飲みに入った店で、まず「キリン以外はある?」と聞くわたしに、友人たちは「なんだ、まだやってんのか」と言い、たまたまキリンしかない店だと「ラベル、こっち側に向けといてやるから、一杯だけ飲めよ」などと意地悪な誘惑をするのである。
八年ほど前〔25年ほど前〕のことになるが、当時、講義をもっていた愛知県の私大のわたしのゼミの学生たちと、淡路島の南端、福良の町の国民休暇村で合宿をやったことがあった。その宿と入江をはさんで向こう側に岬が突き出していて、その上にかなり高い白い尖塔が見えた。聞くと戦没学生を記念する碑だという。翌日、学生たちを連れてそこを訪ねてみた。乗る人がいないから、と、そこまでのバス路線ほ運行をやめており、雇ったタクシーで山道を登った。近付くにつれてヨーロッパの古城を思わせるようなりっぱな石づくりの建物が現れ、その中に多くの戦没学徒の遺品が陳列してあった。
玄関を入ると、穴のあいた鉄兜を前に、その持ち主であり、大阪の住友化工に勤労動員中、空襲で死んだ十五歳の中学生の詩が掲げてあった。
芋でない
ほんとうの飯を
腹一杯たべたい
心の中を歌う
詩というものを
一度つくってみたい
そしてゆっくり眠りたい
彼は、この詩を日誌に記したその翌日に死んだのだという。学生たちはこの詩の前で動かなくなった。芋でない飯や睡眠への激しい欲求を、どれはど彼らが共感できたか、わたしにほわからない。しかし、心の中をほんとうに歌いたいという気持ちは、彼らにも幾分かは共有できたはずだった。卒業を前にした彼らは、それぞれ就職試験をいくつか受けていたが、そのために、生まれて初めて詰襟の学生服を着たのだ、と言っていたから。
陳列品を見ていくうち、スリーダイヤのマークをつけた身分証明書に気がついた。「三菱重工業名古屋発動機製作所学生動員課」発行の証明書だった。持ち主の渡辺哲男という名の学生は、昭和三年生まれだった。三菱の空襲で死んでいなかったら、わたしが連れてきていた学生たちと同じ年ごろくらいの子どもがいる年齢になっているはずだった。
戦争は負け、そして住友化工も、三菱重工も残った。わたしたちがこの記念館を訪れたときは、名古屋の三菱重工は、四次防のために新設した小牧の航空機工場の作業を開始したばかりのときだった。
入り口でもらったこの施設の案内リーフレットによると、これを運営しているのは「戦没学徒記念若人の広場」という財団法人とのことだった。その役員一覧を見てわたしは目を疑った。会長に松野頼三、そして副会長に灘尾弘吉、原健三郎といった人びとの名が並んでいたのである。
訪れる人がほとんどなく、バス路線さえ廃止になっていたこの施設が、八年〔32年〕たった今どうなっているのか、わたしは知らない。
しかし、その後、松野頼三氏はF4Eファントム汚職の問題で辞任、一度落選したものの、こんどの総選挙でふたたび衆議院議員になった。そしていまだに一株の株主であるわたしの手もとにほ、今年も三菱重工から「昭和五四年
度事業報告書」なるものが送られてきた。
その文書の航空機・特殊車輔部門の報告書はいう。「前年度受注のF15戦闘機の生産は順調に進捗しており……今後、更に技術力の蓄積に努めるとともに、生産を向上させ、受注の拡大を図る所存であります」
一方、新聞は、今、株式会社法を改定して、五〇〇株以下の株主には株主総会への案内状や事業報告を送らなくてもいいようにすることが検討されている、と伝えている。
わたしはキリンビールをやはり飲まない。そして古い友人たちは、そんなわたしをからかいながら、やはり飲まぬわたしを見て安心している、そんな気もわたしはしているのである。
〔その後、株式会社法は改悪され、一株主のもとには、総会への出席案内状は送られなくなった。1979年の一月には、七九年度上期の「航空機・特殊車両部門」の売上高が一五三億円で、前年度の同期に比し、三三一億円の増であることなどを記した報告書とともに、三円五〇銭の配当金の通知書が来た。〕
(『図説 昭和の歴史』第11巻付属の『月報』掲載、1980年、集英社) |