6 二人の方から、No.4,No.5について、ご意見を頂きました。――前回のつづき (2004年11月30日記)

 私のサイトをご覧になった二人の方から、ご意見や情報をいただきましたので、ご紹介いたします。イラクにおける日本人殺害に関連したものです。お二人にお礼を申し上げます。

(1) まず、情報のほうから。前回の No.5 で『週刊ポスト』の記事をご紹介しましたが、それと関連して、以下のようなメールをいただきました。

 「…… さて「奥大使ら日本人外交官2名の殺害についての情報」ですが民主党の議員が今年の3月にテレビ番組サンデープロジェクトで米軍誤射説を述べていました。銃弾の角度など、かなり説得力のあるものだったと朧に記憶しております。
http://www.tv-asahi.co.jp/sunpro/  「過去のラインアップ」の3月21日放送分をご覧下さい。……」

 このサイトを開き、「過去のラインアップ」の3月21日放送分 に行きますと、「イラク戦争開戦1年 日本人外交官殺害の真相は?」という番組の概要が出ていました。それには、逢沢一郎(外務副大臣)、舛添 要一(自民党参議院議員)、若林 秀樹(民主党参議院議員)の三人が出演しています。ただし、その内容についてはほとんど出ておりませんが……。

(2) 以下は、私のホームページへの「投稿」とありました。「投稿欄」は設けていませんが、「使えると思われたら、ご掲載下さい」とありましたので、転載いたします。ただし、この意見に、全面的に賛成したから、というわけではありません。私の評価は、現在は保留とご諒解ください。

「殺させる側」という立場

   井上澄夫 (市民の意見30の会・東京)

 香田証生さんの殺害をめぐって発せられた諸声明に見られる分岐について、このホームページで吉川勇一さんが書いている。私は「市民の意見30の会・東京」の事務局の一員として同会の声明作りにかかわった。であるから、私の立場は同会の声明のとおりである。そこを明らかにした上で、以下に私の思想の試行錯誤を記す。

 香田さんの殺害について考えるとき、まず念頭に浮かべるべきは、イラクの民衆が置かれている状況だろう。いわゆる「イラク戦争」(後註参照)が始まる前、イラクの一般民衆は国連の経済制裁によって塗炭の苦しみを味わわされた。わずかの薬さえあれば助かる命が、なすすべもなく次々に失われていった。ここであえて繰り返しておくが、それは国連がやったことだ。昨年3月20日、米英の侵略が始まる前にイラクの人びとは、十分過ぎるほど苦しんでいた。そこへ侵略が始まり、推計ではあるが、すでに10万人以上が殺された。

註 日本の海上自衛隊は今も、インド洋・アラビア海で米軍の艦隊に給油して、米軍のアフガン侵略戦争を支援している。だから私はいま進行している〈日本の戦争〉を《アフガン・イラク(侵略)戦争》と呼ぶべきだと思い、最近書く文章ではこの言葉を用いている。

 侵略によって殺傷され破壊されただけではない。米英の「有志連合」なる諸国の軍隊、外国軍が次々に入ってきた。そして米国政府のカイライである暫定政府が発足するとともに、米英軍と「有志連合」軍は多国籍軍と改名し、その存在は国連安保理の決議に基づくということになっている。
 つまりイラクの民衆は、経済制裁で打ちのめされ、侵略され、いま多国籍軍に占領されているのだが、占領軍による平穏な統治が続いているのではない。昨年5月1日にブッシュ米大統領が「大規模戦闘終了宣言」を発して以降、イラク国内での戦闘はむしろ激化し、いまや内乱といっていい状況になっている。来年1月にブッシュ政権が予定している「国民議会選挙」を無事成功されるためには、反占領抵抗勢力を一掃しなければならないとして、米軍はこの際、邪魔な奴らを一気に殲滅しようとしている。しかも米軍が民衆の殺傷を続けているのは、ファルージャだけではない。米軍はイラク全土に戦線を拡大しつつある。安定した占領統治ができないから、殺戮と破壊を続けているのである。つまり〈戦闘拡大中の占領〉が続いている。それが現実だ。
 香田さんの殺害はこういう状況下で起きた。彼は占領軍と反占領抵抗勢力との戦場であるイラクで殺された。自衛隊の関係者と思われて拘束され殺害された可能性があるが、それはあくまで可能性で、いまのところ断定できない。しかし彼が日本人であるから拘束されたことは間違いない。彼を拘束したグループは、日本人である香田さんの命と引き替えに自衛隊がイラクから撤退することを要求したが、小泉首相はのっけから交渉の道を閉ざし要求を拒否した。それゆえ香田さんは殺された。

 世界最大・最強の軍隊が自国に乗り込み、最新鋭の武力を行使して今も自国の民衆を大量に殺傷している。それを見つめながら、かろうじて命長らえる道を日々模索して生きているイラクの人びとの気持ちは、どのようなものだろうか。圧倒的なむき出しの暴力によって恫喝され、脅迫され、肉親・親戚や友人や知人が殺され、傷つけられ、家を失い、職を失い、日々の食べ物にも事欠く。そういう状況に追い込まれたら、私たちはどういう心境に陥るだろうか。イラクで「多国籍軍」という名の占領軍への反発や憤激が高まり、ゲリラ活動が広がっていくのは、当然過ぎるほど当然である。侵略され占領される側には、侵略や占領に抵抗する権利がある。そこは強調しておきたい。

 ところでこの、今、イラクで起きていることとの関係において、私たちはどのような位置にいるのだろうか。日本政府・小泉政権は米英のイラク侵略を無条件に支持し、「復興支援」の名目でイラクに自衛隊を送り込み、ついには派遣自衛隊を占領軍=多国籍軍の一員とした。日本は米軍のイラク占領の片棒をかついでいる。占領に反対するイラクの民衆にとって、日本は、自衛隊は、まぎれもなく占領者であり〈敵〉である。好むと好まざるとかかわらず......。
 ベトナム戦争が続いていたとき、「殺す側」・「殺される側」という言葉が盛んに用いられた。本多勝一さんの生々しいルポが発生源であったと思う。当時、ベトナムを侵略していたのは米軍であり(韓国軍なども加わったが)、日本は米軍に出撃・兵站(へいたん)・休養基地を提供することで侵略に荷担していた。しかしそのとき日本はベトナムに自国の軍隊(自衛隊)を送っていなかった。ベトナムの民衆にとって私たちが加害者であることは明白だったが、ベトナムの民衆に軍事的に直接対立するというのではなかった。
 今はどうか。日本はイラクに自衛隊を駐留させている。小泉首相がいかに「人道復興支援」を強調しようと、武装した他国の陸軍(陸上自衛隊)の駐留は、ただ「そこに居る」だけでその地の住民にとって軍事的恫喝・脅迫に他ならない(在日米軍が日本を守ってくれていると考える人は少なくないが、在日米軍はアジア・太平洋地域における米国の戦略的利益=「国益」を維持するために駐留しているにすぎず、その銃口は私たちに向いている)。それのみか日本の空軍(航空自衛隊)は、米軍による反占領抵抗勢力の掃討作戦を助ける「安全確保支援」を現に行なっているのだ。
 したがって私たちはいまや直接的に「殺す側」にいる。だからむろん歓迎できるわけはないが、たとえば東京で「殺される側」から突如反撃されても仕方がない。その反撃を「テロ」と呼ぶかどうかはともあれ、「殺す側」は「殺される側」から反撃される。それがいやなら「殺す側」は「殺す側」であることを止め、「殺す側」であったことを謝罪し償いを実践するしかない。だがこの国の政府はどこまでも「殺す側」に立ち続けるつもりであり、そのせいで私たちはどうしても「殺される側」からの反撃を避けることができない。

 イラクで米軍は、一見して非戦闘員であることが明白な少年や若い女性まで面白半分に射殺している。その種のニュースは丁寧に拾えば、枚挙にいとまがない。ファルージャで米軍はモスク内にいた抵抗不可能な負傷者を射殺した。それは「テロリスト」掃討作戦中に起きたことだ。米軍の侵攻でファルージャの街路は文字通り死屍累々の地獄と化した。その際、米軍は「テロリスト」が潜んでいると目星をつけた地区を前もって空爆している。爆撃される場所やその近くに非戦闘員が住んでいるかいないかなど関係ない。人口30万人の都市を包囲し、攻撃するから逃げたい者は逃げよと脅す。だが生活の拠点から退避できない、あるいは退去したくない人びとは当然いる。逃げようにも病気や障害などで体の動かない人もいる。しかし米軍にとっては、そういうことは関係ない。退避しない者は「テロリスト」か「テロリスト」に同調する者で、殲滅の対象とされる(様々な理由で退去せず地下室に避難していた人びとはどうなっただろうか)。現にそういうことが無数に起き、今も起きている。
 そういう余りに理不尽なことに抵抗するには、どうすればいいのか。圧倒的に強大な軍事力に立ち向かうゲリラ活動は、攻撃される側からみれば「卑怯」な戦法であるかもしれない。だが「卑怯」であろうがなかろうが、ゲリラ活動は正当な抵抗、反撃であり、戦時国際法もそれを正当としている。

 私がイラクの人びとに銃口を突きつけているわけではない。だが小泉首相が米軍によるファルージャ総攻撃を「成功させなきゃ」と公言するとき、彼は「存分に殺せ」と言っているのだ。沖縄から派遣された米海兵隊に徹底した殺戮をうながしているのだ。だから私たち日本の市民は、好むと好まざるとにかかわらず、「殺す側」にいる。それは耐えがたいことだが、イラクからの撤兵を実現させない限り、私が「殺す側」にいるという冷厳な事実は少しも揺るがない。
 さて占領に抵抗する側が、私たちが平時に犯罪としていることを行なうことをどう考えるべきか。私は人が人を殺すことに反対だ。「殺すな」と言い続けたい。誰も殺さないでほしいと心底思っている。日本政府やブッシュ米政権に立ち向かうときも非暴力を貫いている。人をあやめることなく戦争をやめさせ、世の中を変えたいと思う。
 だが絶体絶命の窮地に追い込まれた「殺される側」の人びとに「殺す側」の私が「殺すな」と言えるか。私が「殺す側」にいないなら、まだしも「殺される側」の抵抗について何事か発言できるかもしれない(ここは、あくまで「かもしれない」としておきたいが)。
 だが私は「殺す側」にいて、ブッシュ大統領や小泉首相のやっていることに反対しているけれども、彼らの政策を変更させることができていない。そしてイラクの反占領抵抗勢力が私たちに小泉政権のイラク政策を変えさせるよう要求していることも明白だ。
 武装して人を拘束することは平時ではむろん犯罪だが、戦時には人を捕虜として拘束することがある。捕虜の交換もある。人の首を斬ることも平時では重大な犯罪だが、戦争では起きる。刃物で人の命を奪うことは、米軍も自衛隊も訓練している。戦場では爆撃も銃殺も刃物による殺傷も行なわれる。ベトナム戦争が続いていたとき、米海兵隊員が「ベトコン」とされるベトナム人の生首をぶら下げて歩く姿がテレビで放映され衝撃を与えたことを私は思い出す。
 米軍に荷担してイラクに派兵している日本の私は、占領国の一員として、戦時に生きている。その私が戦地で起きている反撃について、反撃の仕方に問題があると言えるだろうか。反占領抵抗勢力が「何を言おうとかまわないが、説教は自衛隊を撤退させてからにしてくれ」と言うとすれば、もはや継ぐべき言葉はあるまい。むろん心の中で、「人質の首を斬るようなことはしないでくれ」と思うことはできる。だが抗議できるだろうか。そんな高みに私たちが立っていると私は思わない。日本のアフガン・イラク戦争で厳しく問われ、激しく抗議されているのは、私(たち)なのだ。
 ある意味で私は「殺させる側」でもある。「殺される側」が殺すのは、「殺す側」が殺すからである。「殺す側」が存在しないなら、「殺される側」が反撃して殺すこともない。だが私は「殺す側」にいて自分が「殺す側」であることを止めることができないでいる。私の思いはどうであれ、私は事実として「殺す側」に殺させている。だから「殺させる側」でもあるのだ。

 戦場では何でも起きる。戦闘は人間をけだものにする。平時に犯罪とされることが平然と行なわれる。それが戦争だ。だから私は戦争そのものに反対だ。しかし私は「殺す側」そして「殺させる側」にいる。それは恥ずかしく辛い立場だ。いたたまれない思いの立場だ。そこを繰り返し自覚していたい。