『週刊読書人』(1970年1月5日号)の「人物 点と線」による紹介
(この文は「アンポ」という匿名評だが、筆者は松浦総三氏だという説がある。)
▽…吉川勇一が、平和運動家として、頭角をあらわしたのは、第一回原水爆禁止世界大会のとき。 ちょうど、一五年まえのことだから、頭の毛は豊富にあった。若輩二三才の吉川は国際部長として、 外同代表の招待、ホテルとの交渉、通訳団の編成などを一人でやってのけた。 ▽…このときは、反体制の側でこういう同際会議をもつのは最初のことでもあったし、入国するの は中共、ソ連、アメリカ、インド、東欧諸国などからの大物で参加者五一人をさばくのは、なみたい ていのことではなかった。当時は、冷房つきホテルはほとんどなかった。 ▽…平和委員会や原水協などには、演説屋はおおいが、ヨコモジ、事務には弱い人がおおい。そう いう中で、吉川の事務能力と、骨惜みしないマジメさ、そして政治家ぶらない素直さは異色であった。 頭がよくて、事務的で、管理能力があるのだから宮僚だといわれる。だが、官僚というのは資本にサ ービスして閉鎖性をもっているのだが、吉川にはそんなことはカケラもない。 ▽…吉川は組織の天才である。天才などという言葉は無暗ヤタラと使いたくないが、べ平連も、吉 川なしにはとても考えられない。小田実や開高健や鶴見俊輔たちは、文学者や思想家としては優れて いるが所謂運動家ではない。小田や鶴見は鵜であって、鵜匠は吉川だという代々木系たちの見方は当 っているかもしれぬ。 ▽…べ平連は無会費で、事務局長の吉川の給料はむろん出ない。手弁当である。べ平連は、筆者の 知っているだけで、事務所は四回変わっているが、金のないべ平連で事務所をさがすのは大変なこと だろう。その事務所さがしも吉川の政治力と誠実さと信用のタマモノとみた。 ▽…「週刊アンポ」テスト版の電話番号は、ミスプリントで、電話をかけると、その家のおばさん は「べ平連は何番です」と丁寧におしえてくれた。おそらく、一日に何本とおなじ電話がかかって、 閉口したらしいが、吉川がモチマエの誠実さで詫びたのだろう。 ▽…吉川は、いわゆる新左翼ではなくて、マルクス・レーニン主義者である。だが、学者風な教条 主義者ではなくて、文章を書くのが早く、ジャーナリストとしての才能もあり構報化時代のレーニン 主義者といえるかもしれない。 ▽…かれが、平和委員会理事で部核を支持して日共を除名されたとき、筆者は二つのことを考えた。 第一には、日共は馬鹿なことをしたものだ、未来の大スターを出してしまったということ第二には吉 川はきっと素晴らしいことをやらかすだろう、ということだった。除名され方も実に堂々としていた。 ▽…そして、とうとう吉川がやったのがべ平連であった。小田実の偉さは、吉川にすべてをまかせ ているところにあるが(その点、安井郁などよりはるか大きい人物である)、小田をたててやってい る吉川も偉い。六・一五のデモは、戦後日本史の上で、天才オルグ吉川勇一の名を不滅のものとした。
(アンポ) ★よしかわ・ゆういち氏は「べ平連」事務局長。東大文学部中退。昭和6年生。