195 「障害者・患者九条の会」結成3周年のシンポジウムに参加しました。(+「余談 『赤旗』の記事に……」) (2008/09/16掲載)
9月6日(土)に、私も呼びかけ人の一人になっている「障害者・患者九条の会」結成3周年の集会、「人権と平和を考える集い」に参加しました。会場は、東京・東村山にあるハンセン病療養所「多摩全生園」の中央集会所で、大阪、新潟、群馬、茨城など空の参加者も含め、100名近い人びとが参加しました。都心から離れた場所での開催だったので、参加者数が少なくなるのではという思いもあったのですが、それは杞憂でした。
集会は午後だったのですが、午前10時から、全生園の中にある「ハンセン病資料館」の見学ツアーが組まれており、私は早起きをしてそれにも加わりました。ハンセン病については、ある程度の知識は持っていたつもりだったのですが、30分近いドキュメンタリ映画を観たあと、広くきれいな展示を次々とみてゆくと、あらためてハンセン病患者に対するこれまでの差別のひどさに戦慄する思いでした。患者に対する断種の手術が戦後なぎ時期にわたって続けられてきたこと、療養所内で結婚したした患者同士の暮らしにかぶせられた人権無視のひどい措置、そして反抗する患者を収容する留置場や拘置所などよりももっとひどい監禁部屋の再現など、驚きでした。写真集や解説の本など、立派な出版物も多く無料で入手できます。まだ行かれたことのない方は、ぜひ一度は訪ねてみてくださるようお勧めします。多摩全生園への行き方は、次のサイトをご覧ください。 http://www.hosp.go.jp/~zenshoen/koutuu.htm
集会は主催者を代表して、太田修平さん(障害連代表)、 呼びかけ人を代表して吉本哲夫さん(障全協会長)のあいさつがあった後、「人権と平和を考えるシンポジウム」が行われました。シンポジストは、平沢保治さん(元多磨全生園患者自治会長)、岩佐幹三さん(日本原水爆被害者団体協議会事務局次長・元金沢大学教授)、それに私の3人、コーディネータは薗部英夫さん(全障研事務局長)でした。薗部さんのスライドを使いながらの見事な司会ぶりに、3人の発言の後、フロアーからの発言も活発に出されました。この会の内容は、いずれ、「障害者・患者九条の会」のサイトに詳細が載るということですので、それに譲ります。そこのウエッブは、以下をご覧ください。http://www.nginet.or.jp/9jo/index.html (写真は2枚とも、同サイトから)
私の発言は、当日もコピーを配布しましたが、『平和人物大事典』(鶴見俊輔監修・日本図書センター 2006年刊)に載せた「戦後平和運動の可能性と課題」という文に沿って行ないました。時間の関係でだいぶ発言では省略したりしましたので、「最近文献」欄に掲載してある全文をご覧ください。
(余談) 『赤旗』に載ったこの集会の記事で、私の名前に「氏」がついていました!
以下は、この集会とは直接関係のない話で、ま、どうでもいいことなのですが。
翌7日の『赤旗』は、社会面B版のトップ記事として、4段の見出し、写真入りでこの集会のことを報じました。シンポジウムの発言の紹介のところで、「市民運動家の吉川勇一氏は、軍事費が約五兆円ある一方、社会保障費が毎年二千二百億円減らされている問題を指摘しました。」という文が載っていました。そういう発言をしたことは確かですが、しかし私の発言の中心的テーマは、上記の「戦後平和運動の可能性と課題」でもわかりますように、日本の加害の問題に対する運動の認識の問題や、9条と関連して、25条など、他の広範な問題とも結びつけて論じることの重要性などの点でした。それよりも、ちょっと驚いたのは、私の名前に何と「氏」がついていることでした。これまでですと、必ず「我が党を裏切り、除名処分された吉川は……」などと出るか、あるいは、存在しないかのように扱われるのが普通でしたから……。存在しないように、というのは、例えばですが、だいぶ以前、私がオーストラリアの進歩的ジャーナリスト、ウィルフレッド・バーチェットの『立ち上がる南部アフリカ』(上下、サイマル出版会 1978年刊)を翻訳したとき、その本は『赤旗』の書評欄で、わりと大きく取り上げられ、紹介されたのです。ところが、なんと、翻訳者の名前がどこにも書いてないのです! これには驚いた記憶があります。