news-button.gif (992 バイト) 245 戸井十月さん逝去。 (2013年07月28日  掲載)  

  作家の戸井十月さんが本日、逝去されました。64歳でした。残念でした。哀悼の意を表します。

  とりあえず、以下に、親しい友人のKさんとYさんからのメールによる訃報を転載いたします。

 「今日(2013/07/28)12時20分、戸井十月さんが入院先の聖路加国際病院557号室で逝去しました。
 3年前、肺がんが判明し、闘病中でしたが、その間にも海外取材等をつづけ、NHKなどで番組を制作・発表してきました。
 数日前、今年になって3回目の入院をしていましたが、残念な結果になりました。
 昨日はKが、今朝はKとYがお見舞いに行ってきました。
 病院には家族のほか、十数人の旅行仲間や学生時代からの友人などが駆けつけており、病室で最期を見送りました。
 大きな呼吸がだんだん間遠になり、息をしなくなってから20分後、心臓も停止しました。
 静かな最期でした。
 15時過ぎ、あらためて寝姿を整えた彼にも会ってきました。
 多少痩せてはいますが、精悍な、いい顔をしていました。
 今後の予定などはまだ決まっていません。
 おそらく葬儀は家族などで行ない、その後、別の機会を設けてお別れの会を開くことになるだろうと思います。
 詳細がわかり次第、またお知らせいたします。  K , Y」

 戸井さんの公式ホームページ「越境者通信」は、http://www.office-ju.com/ ですが、それには、戸井さんの作品、小説その他が多数掲載されています。是非ご覧になってみて下さい。
 ここには、その中の「100枚のエハガキ」という短篇集の中の一番最後の第56号の「メッセージ」前後編をご紹介しておきます。その中には「
そうなのだ。人間は、誰だって1回以上は死なない。理不尽と不公平だらけのこの世界で、唯一それだけは公平だ。」という言葉が入っているのですね。

 No.56

     メッセージ 

 

 (前編)

 ブラジルとの国境に近いボリビアの、噎(む)せるような緑のただ中に沖縄があった。背後からアンデスの山並みが巨大な壁となって迫り、前面に奥アマゾンのジャングルとパンタナル大湿原を望むこの地域は、標高2千メートル以上の山岳都市が多いこの国では珍しい亜熱帯気候で、サンタクルスの町を中心に広大な農地や牧場が強い陽射しの下に点在している。
 ボリビア共和国、サンタクルス県ワルネス群「オキナワ移住地」。土埃の舞う表通りにはボリビア人の商店と屋台が並び、錆の浮いたトラックや馬に引かれた荷車が行き交って、そこはまさしく貧しい国の田園風景なのだが、一歩「移住地」の中に足を踏み入れると世界は一変する。
 立派な公民館と清潔な診療所、ボリビア人と日本人の教師が交替で教える学校、沖縄風天プラやチャンプルーを出してくれる食堂、石積みの塀に囲まれた赤い瓦屋根の白い家並み・・・。街路樹が日陰をつくる道を行き交う車たちも、よく整備されたピックアップトラックや磨かれたセダンが多い。
 陽射しも風の甘さも沖縄によく似ている。移住者たちは、遥か彼方のこの地に故郷の風景を再現しようとしたのだろうか。最初の入植者が粘土質の土に鍬
(くわ)を入れてから50年。沖縄県人のおおらかさと不屈のタフネスを養分に、亜熱帯の原野は「オキナワ」へと姿を変えていったのだった。
 渡河敷
(とかしき)は、初めてこの地に来た時に聞いた2人の老人の話を今も忘れない。
 「オキナワ日ボ協会」会長の幸地
(こうち)は62歳だった。沖縄の米軍基地で建設関係の仕事をしていたが、「50町歩の土地がタダで貰える」という話に心動かされて、50年前、第1次入植者としてこの地に渡ってきたと言った。
 「沖縄では農業をやってたの。自分の土地もあったし、食うだけなら心配なかったんだけど、それだけじゃなんか面白くなくってね。人生は1回きりと思って、それでここに来たんです。広い土地も確かに欲しかったけど、でも、それだけじゃないな。やっぱ、冒険心みたいなものかな・・・」
 幸地の先輩にあたる宮城
(みやしろ)は71歳だった。戦前は「満蒙少年開拓団」に参加して満州に渡り、戦後は、やはり自分の土地がありながら処分し、妻と子供2人、妹2人を連れてボリビアへ移住したという兵(つわもの)
 「移民というと暗い感じがするでしょ。開拓者の暮らしも苛酷さばかりが言われるしね。でもね、開拓者自身は、その時の状態ではなく、いつも、その先の、将来の設計図を頭に描いているからね。だから、苦労を苦労とも感じないの。夢があればね、外から思われるほど、暗くも辛くもないんだよ」
 とはいっても、もちろん現実は苛酷で悲惨だった。

 (後編)

「最初の入植地では、原因不明の病気で仲間たちがバタバタ倒れてね。ウィルス性の、肺結核に似た風土病。みんなが、明日は自分が倒れるかもしれないと思ってたよ。でもね、人間は誰だっていつか死ぬ。明日死んでも、10年後に死んでも同じだと開き直ったら気持ちが落ち着いちゃって、もう何も怖くなくなったの。苛酷な暮らしは開拓者の運命だからね。それを望んだのは自分なんだから」
 幸地
(こうち)の言ったことに頷いてから、宮城(みやしろ)は短く、静かにだが力強くこう言った。
 「大丈夫だよ。人間は1回以上は死なないから」
 しかしもちろん、誰もが2人のように強かったわけではない。原因不明の風土病が蔓延し、旱魃
(かんばつ)が作物を枯らし、雨季のの濁流が土を削り流してしまう土地から去らなかった人は全体の20パーセントにすぎず、80パーセントの移住者たちはブラジルやアルゼンチンに流れたり、沖縄に戻っていったりしたのだった。

 幸地も宮城も、日本に戻る気はまったくないと、小気味いいほどハッキリ言った。
 「日本に出稼ぎに行った若者たちもね、一時的に稼ぐにはいいけど、一生暮らす所じゃないとみんな言っているよ。働くなら、自分の土地で思いきりやった方がいいってね。今の日本は、うわべは華やかだけど、じっくり腰を落ちつけて生きてゆく所じゃないと感じるみたいだね」
 その気持ちは、渡河敷
(とかしき)にも痛いほどよく分かる。だから、アルバイトで遊ぶ金を稼ぐような中途半端な暮らしに見切りをつけ、同郷からの移住者たちを頼ってこの地に来たのだ。
 「ここが、私の最後の家だよ」
 「ここが故郷だよ。祖先の遺骨も、全部持ってきたんだ」
 幸地と宮城は自分に言い聞かせるように言ってから、生ぬるくなったお茶を啜った。
 「毅然」という言葉がぴったりの2人だった。意志堅固にして、ものごとに動じない老人2人。淡々として穏やかでいられるのは、やるべき時にやるべきことをやり、自分が選んだ人生を生き抜いてきた人間だけに許された誇りと自信が故だろう。
 そうなのだ。人間は、誰だって1回以上は死なない。理不尽と不公平だらけのこの世界で、唯一それだけは公平だ。
 人間は1回以上死なない。つまり、誰だって1回は必ず死ぬ。だからこそ、今この瞬間を全力で生きろと、茶を啜る2人の老人は言っているのだった。
 挫けそうになった時、渡河敷は2人の老人の言葉を思い出す。そして、なんとかその場を凌いで生き続けてゆこうとする。人間は、その生き方そのものがメッセージとなる、地球上に生きる唯一の生きものである。