news-button.gif (992 バイト) 240 元飯能市長、小山誠三さん逝去。私の旧制中学校の同級で親友でした。 (2012年09月25日  掲載) 

 本日の『東京新聞』には、元飯能市長、小山誠三さんの訃報が載っています。以下のとおりです。

小山 誠三氏(こやま・せいぞう=前埼玉県飯能市長)21日、肺炎のため死去、82歳。飯能市出身。通夜は29日午後6時から、葬儀・告別式は30日午前10時から飯能市飯能948の3、広域飯能斎場で。喪主は次男郁也(いくや)氏。

 小山誠三さんは、私が卒業した旧制埼玉県立川越中学校(現在の川越高校)での同級で、私がそこに転校してから卒業の5年まで、非常に親しく付き合い、卒業以後も、何度も会い、また文通してきました。親友と言える人はなかなか多くはないのですが、彼はそう言える友人でした。ここ3年ほど、交換が続いてきていた賀状が来なくなっており、健康を害しているとは伝えられましたが、残念です。彼と私との関係だけのことではなく、この同級生の全員が、彼への人物と生き方への尊敬を持っていたと思います。 心から、哀悼の意を表します。

 彼からは、私のベ平連活動の頃には、それへの支持、応援の意見が伝えられ、また、彼の何度もの飯能市長で活動しているときには、彼が、自然保護とともに、農業・酪農業 などの実業面での活動を奨励・促進して、地元を発展させ、またさまざまな文化面での市政も強化する努力に、私は大賛成で支援を送っていました。彼は、市民の意見30の会・東京にも参加し、また、憲法問題での意見広告運動にも参加してくれていました。あまり知られていませんが、わだつみ会が、「わだつみ記念会館」を建設しようという検討の時、飯能市内の廃校のなっている小・中学校などを使用できないかと、わだつみ会の活動家たちを呼んで、何校も現場を見せてくれたのでした。ただ、実際には、学校の面積が大きすぎ、管理が困難そうで、使うことにはなれませんでしが……。彼は、市長としては 89年8月から3期務めたのでした。
 私の文章が、活版の雑誌の上に初めて載ったは、『自然研究』の1947年3月号で、この小山誠三さんと私との連名の署名で、タイトルは「
武蔵川越の堀兼の井戸とガンガン井戸というものでした。この旧制中学で、敗戦後に授業が始まってから、私は小山さんたちとともに、「郷土班」という今で言えばサークルということになりますが、それを活動しました。自分の暮らしている村落の郷土を研究するという、一種の民俗学、あるいは歴史・地理学の勉強と調査などをするグループです。その研究の一つに、川越近くの堀兼村にあるいわゆる「ガンガン井戸」という井戸を調べることをやりました。この報告は 旧制中学5年生の時(いまの高校2年に当たります)、埼玉県の自然研究大会にも報告されました。(報告者は小山さん)。この報告はとても忘れられない内容ですので、PDFファイルで載せておきます。 ふるい雑誌からのコピーですので、かなり汚れていますが、どうにか読めると思います。ここをクリックしてください。なお、この論文の署名の私は「吉川禎一」となっていますが、当時の私のペンネームでした。そのほか、郷土班は、担当の原田節二さん(地理 )、大醐八郎さん(歴史)の先生らと、よく秩父の山村を泊まって調査などをやりました。左の写真は、改築されて今ではもうない中学校の玄関前で1947年に撮った郷土班のメンバーです。前列の左から3人目が小山さん、前列の右から2人目が私です。
 小山さんが
共編した『埼玉県の民話と伝説(入間編) 』という書物(栗原仲道/小山誠三/神山健吉編, 有峰書店,1977年)があるのですが、今は古書でしか入手できず、しかも調べたらAmazonでは1万円という値段がついていて、手が出せませんでした。
 小山さんの文章としては、1974年11月の『飯能歴史教育者協議会会報』に寄稿されてある「墨ぬり教科書」という文を以下に紹介します。 この文は、一九四三年川越中学入学生記念誌『遠い飛行機雲』(1992年刊)にも載せられています。

 墨ぬり教科書

                                        小 山 誠 三

 ことしも暑い八月十五日だった。何かしらこの日に関わりあるものを読むことにしている私は、長岡弘芳の『原爆文学史』を読み進むうち、あとがきの「ひとはその青春から、あまり遠くへは行かぬようだ」という一行に接した。その時からしばらく、この言葉が私について廻って、離れない。自分のことを言われてしまった、という思いである。
 思えばその後の教育への関心も、原爆問題にせよ、市民運動を通しての自治体への働きかけにせよ、PTA活動にせよ、敗戦前後の旧制中学時代に感じたことや、定時制の夜学生の姿や、その後十年ほどの青年運動の体験から、少しも踏み出してはいなかった。当然、その発展の上にあると、いいたいのだが、改めて青春の日の振幅の上にしかない、と思い知る日々である。

 昭和二十年の、気だるい、何もすることのない中学三年の夏休みが終わって、二学期、間もなく教科書の墨ぬりは始まった。
 けれどもこの時、学年主任で数学の長谷川貞平先生の授業は、今も、あざやかに思い起こすことができる。長谷川先生は「軍縮」で川越中学にこられた海軍少佐であった。(後に、文官の経歴の方が長いのに、職業軍人だったということで追放になってしまった)。
「君たち学徒が卑屈になってはいけない。心まで欺けてはいけない。決して終戦ではない、敗戦なのである。」
 動員先の高萩飛行場で因数分解や三角画数を筆紙に出題し、解法を示し、宿題を出して教え続けていた、その続きを調子を崩さず教え始めた。「心まで敗けるな」ということと「敗戦なのだ」という直視する師の気概ある言葉は私の生涯での教訓となった。
 私は敗戦直前、海軍兵学校予科というのを志願し、一度は落ち、二度目の願書をお願いに行った時だと思う。長谷川先生は動員先の飛行場の片隅でこう言われた。
 「小山、もうやめなさい。死ぬばかりが能ではあるまい。今は勉強することだ。日本はきっと敗ける。
 島国の日本で軍艦がなくなって、なんで勝てる。やめなさい。」
 この時代「敗ける」と言い、生徒の私が、先生がこう言ったと公言したら、先生は即刻職を追われるか、徴用などの強制労働が待っていたのは分かっていたはずである。でも、長谷川先生は私にそう言ってくれた。恥ずかしいことだが、私は敗けるとは思えず、先生に食ってかかっていた。
 軍人として敗戦を敗戦として直視し、文官教師として国の体制の変革にも動ぜず、授業に直ちに入っていった先生は、ご自身に「心まで敗けてはならない」と言い聞かせていったのかもしれない。墨ぬりをする箇所が数学にはなかったから、ということではなさそうである。
 この先生は戦時中も決して軍隊に教え子をあおり立て、追いやらなかった。「勉強しないで何が学生だ」ということが口癖だったことから、自らに墨をぬる箇所がなかった、ということなのではなかろうか。また、教師として、敗戦を敗戦として直視することを、どれほどの人がしていたであろうか。
 敗戦を終戦と呼ばせるあいまいさの中で、かえって、心は敗け、私たちは知らず知らずの過ちを、反省のなさを、繰り返してしまわなかっただろうか。
 教科書の墨ぬりは連日行なわれた。授業に入る前に「〇ページ第何行から、第何行まで。〇ページからこの課全文。〇ページ第何行の××という字句を消しなさい。」
 今のようにマジックペンなんてものはない時のこと、墨をすっては筆でぬりつぶしてゆく。国語や英語はもちろん、理科の教科書でもそれがあったと記憶している。歴史の教科書はもはや使いようもなくフランス市民革命の話を何度もきかされた。
 この時の先生たちの言葉は、いつも「マッカーサー司令部の命により」でしかなかった。ザラ紙八ページの、折って自分で端を切って、綴じて使う速成の教科書ができるまで、それは続いた。先生にとってこの日々は、さだめし屈辱の日々であったろう。きのうの信念では教えられないきょうがあり、誤りを教科書の上で消し去っても、教育の誤りは消しただけではすまされぬ心の傷として、私たち生徒の中には残ってしまった。
 きのうまで、一億玉砕を叫んだ同じ人が、死なないで、民主主義を謳歌しなければならない人間の弱さ。声が大きければ大きいほど虚ろな響きがあった。
    (一九七四年十一月、飯能歴史教育者協議会々報の寄稿文より)