監督・脚本は『あふれる熱い涙』(1992年)で多くの映画賞を受賞した1959年生まれの田代廣孝。実際の脱走兵援助活動があったころは小学生だったポスト・ベトナム世代。この映画のキャスト、スタッフ、そしてシノプシスなどは、以下の資料を見てほしい。
以下は「シネバレー」作のリーフレットより。
“Mr.P’ s Dancing Sushi Bar” ミスターピーのダンシングスシバー
1996年 シネマ100サンダンス国際賞/日本賞(脚本)受賞作品
1998年 サンダンス映画祭特別招待作品
〃 シアトル国際映画祭正式招待作品
<製作会社>
(株)日本フィルムディベロッブメント アンド ファイナンス
インターナショナル プレイハウス LLC
(有)シネバレエ
<協賛>
(株)パナソニック デジタル コンテンツ
<助成>
文化庁芸術文化振興基金
国際交流基金
<後援>
サンダンス インスティテユート
NHK
NHKエンターブライズ21
(株)西友
キネマ旬報社
<形式>
35mm/カラー/イーストマンコダック/アリフレックスBL4フィルムサイズ/1:1.85
サウンド/ドルビーSR
作中使用言語/英語・日本語字幕付
上映時間/90分
ロケ地/米国ロサンゼルス、ベトナム ホーチミンシティ
<CAST>
ブルース・マクフィ…………フランク・マクレイ
ミツコ・マクフィ…………ナンシー・クワン
キャサリン…………テボラ・クリストファーソン
ハリー…………サイ・リチャードソン
横山…………ロイド・キノ
ティナ…………ジャッキー・ディバティン
ルーシー…………ゲイリー・グロスマン
アン…………シヤロン・アルシナ
ナタリー…………オリビア・ブラウン
<STAFF>
監督…………田代 廣孝
ブロデューサー…………スンミン・パーク
共同ブロデューサー…………イーサン・パーク
脚本…………田代 廣孝、田代 智子
エグゼクティブブロデューサー…………井関 惺
アソシェイトブロデュー…………サマット・パスカル
ラインブロデューサー…………クリフォード・テリー
撮影…………サーシャ・レンドリック
音楽…………クリストファー・ホールデン
編集…………ライアン・ゴールド
美術…………アンドレ・ソワーズ
”Mr.P’s Dancing Sushi Bar”の視点
ミスターピーのダンシングスシバーは、ありきたりのポストベトナム戦争映画ではありません。ロサンジェルスとベトナムで撮影された田代廣孝氏の作品は、アフリカンアメリカンのスシシェフ、ブルース・マクフィーと国を捨てた日本人妻ミツコを軸に展開します。人種差別によって彼がスシシェフの仕事を失った後、(日本人が経営するスシバーで彼は唯一の黒人シェフ)彼とミツコは自分たちの店を開く決心をします。店は大成功しますが、しかし、実は、この努力こそブルースが彼自身の過去と訣別するためでした。べトナム戦争が終結して20年、彼は、彼方の地の悪夢の記憶に未だ苦しみ続けていました。
ある日ブルースは、ベトナムに戻り、彼自身の苦悩と向き合います。そして、彼はミツコに手紙を書きます。彼女がベトナムに降り立ち、ブルースを捜し当てるシークェンスは切実で感動的です。そして、二人は共にブルースが傷を負った地を巡ります。
この映画は、二人の主人公を通した、魅力的で心温まる全く新しい視点を持ったベトナム戦争映画です。特筆したいのは、コメディー的要素、結婚問題の考察、社会論評にも極めて冴えているということです。
この映画は、戦後の傷を、過去のすべての論点から慎重に投影してみせます。それは、前進するために、立ち戻らなければならないということです。
(スーザン・モリス/サンダンス)
MR.P’S
DANCING SUSHI BAR
シノプシス
1995、ベトナム戦争が終結してから20年。ベトナム帰還兵のブルース・マクフィー(52)は、黒人ながらロサンジェルスはベニスビーチの”江戸寿司”で人気の寿司シェフになっていた。ブルースの妻、日本人女性のミツコ・マクフィー(52)は、やはりベニスビーチのTシャツショップで働いていた。二人の生活は質素ながらお互いに信頼していた。そんな二人の出会いはベトナム戦争中の横須賀。脱走兵になったブルースをミツコが反戦を訴えてかくまったからだった。そして、1985年、彼女は夫と息子に別れを告げブルースと再婚してアメリカに渡った。
ある日、ブルースは江戸寿司の支配人横山から板長になって欲しいといわれる。これが旨くいけばブルースは未だに癒えないべトナムの悪夢から逃れられるのではないかと希望を持つ。しかし、不運にも江戸寿司の東京本社は横山の申し出を却下し、ブルースではない他の板前を板長に任命してしまう。ブルースは怒り、ランチタイムの最中、横山を殴って飛び出す。
たとえロサンジェルスと言えども、他の寿司店に就職することはブルースにとって簡単ではなかった。ミツコは精一杯協力するが黒人の寿司シェフにチャンスはなかった。その結果、ブルースは自分の店を持とうと考える。
その店の名前こそ "ミスターピーのダンシングスシバー”。
初めのうちは反対していたミツコだが、ブルースの情熱に動かされる。そして、やっとの思いで見つけた潰れたピザパーラーを彼等は気に入るが、資金が足りない。ブルースとミツコは店を開店させるために資金繰りに奔走する。二人は、ブルースの離婚した妻、ナタリーにさえ懇願するがナタリーはアルコール依存症で取り付く島もない。ミツコは金の無心に東京の知人に電話をする。と、数ヶ月前、交通事故で息子と別れた夫が死んだことを知らされる。その知らせはミツコの心を掻き乱した。息子との和解もこれで永遠に不可能になってしまった。ミツコは酒でこの悲しみを忘れようとする。出口がない二人。ブルースは江戸寿司の支配人横山に懇願して開店資金を借りる。
”ミスターピーのダンシングシシバー”は開店して予想以上に大繁盛。
ブルースとミツコは成功者としての生活”アメリカンドリーム”の一端を手に入れる。新車、豪華なレストラン、宝石、ドレス………。
しかし、ミツコの気持ちは空虚で酒を止めることができない。一方、ブルースも成功と裏腹にベトナムの悪夢から逃れられずにいる。ミツコは次第にブルースの人生観に疑問を持つ。これではごまかしだと彼を非難する。二人の関係は冷えていく。
ある夜、酒に酔ったブルースは車にはねられ重傷を負う。二人はお互いの溝を埋めることができず、離婚を決意する。
二ヶ月が過ぎ、退院したブルースは店を再開しないと心の決めている。彼は入院中にこれまでの人生を振り返り、今こそ、心の奥底に深く居すわり続けるべトナムの恐怖と向き合う決心をしている。
それからさらに数ヶ月が過ぎる。べトナム、ホーチミンシティ。ブルースは街が見事に再生しているのを目の当たりにす。戦争の爪痕は消え失せたかのようである。しかし……。
ブルースはミツコに手紙を書く。今、自分が何を見ているか、どんな気持ちでいるか…。手紙からブルースの孤独を読み取ったミツコはベトナムを訪れる。再会した二人は今までにも増してお互いの胸の内を深く理解するのだった。
MR.P’S
DANCING SUSHI BAR
ブロダクションノート
前作『あふれる熱い涙』(’92)発表の翌年に脱稿した田代廣孝の本作が映画化のチャンスを得たのは、”サンダンス/国際賞 日本賞”(’96)を受賞したことによる。
この賞は映画生誕100年を祝して、ロバート・レッドフォードのサンダンスインスティテユート、NHK,NHKエンタープライズ21、(株)西友、キネマ旬報社が提携し、世界5地域、北米、南米、ヨーロッパ、中国、日本から次世代の監督を発掘するという名目で設立された。
1996年6月、田代は約1ヶ月、サンダンスの監督研修に参加する。通称ジューン ラボと呼ばれ、全米、1000本の脚本から選ばれた9人と共に、実際に脚本の数シーンをプロフェッショナルなスタッフ、俳優の協力のもと撮影する。過去、スティーブン・ソダーバーグの『セックスと嘘とビデオテープ』、クェンティン・タランティーノの「レザボアドッッグス』等がこの研修で作品をディベロッブしている。
そして、俳優キャシー・ベイツ、サリー・フィールド、映画監督キャサリン・ビグロー、ジョン・ランディス、デビッド・クローネングバーグ、脚本家フランク・ピアソン、そしてロバート・レッドフォード等と本作をアメリカで製作するための意見を交換する。
1997年3月、『クライングゲーム』『スモーク』をはじめとして全世界で成功を収めている、ブロデューサー井関惺が参加。共同プロデューサーには超大作『始皇帝暗殺』(チェン・カイコー監督)で彼のパートナーをっとめる在L.Aのスンミン・パーク。
スタッフ構成はサンダンスインスティテユート全面的バックアップによるオーディションが行われた。その結果、撮影にはクロアチア出身で現在はL.Aを中心に何本ものインディーズ映画、CMに参加しているサーシャ・レンドリック(映画『LUCKY DEVI』他)、音楽はジェームズ・ホーナー(映画『タイタニック』)に師事したクリストファー・ホールデン、ラインブロデューサーにはアブコエンバシー在籍中にジョン・カーペンター作品を発表しているクリフォード・テリー。他、特機には映画『007』シリーズのスタッフが参加している。
出演者のオーディションも並行して行われ、300人以上と面接。
キャスティングディレクターのキム・ウィリアムズの手腕のもと、ジョン・エイモス(『ダイハード2』)、サミュェル・ジャクソン(『パルプフィクション』)オノ・ヨーコらが出演を希望したが、オーディションでのパフォーマンスの結果、フランク・マクレイ、ナンシー・クワンに決定。
8月、L.Aのロケーションからクランクイン。サンタモニカ、ベニスビーチの撮影現場では、監督以外、俳優スタッフ共に全員がアメリカ人。今日に至るすべての日米合作映画の中でこれは初めてのこと。新しい合作の形態を模索したこの布陣は、しかし、終始順調だった。特筆すべきは9月のベトナムロケーション。ベトナム戦争終結以来、初めてアメリカ人クルーによるベトナムロケが実現。ホーチミンシティ、サイゴン川、メコンデルタの田園等、現代べトナムの本当の姿を撮影することに成功。
10月、ポストブロダクション。特にタイミングは映画『タイタニック』のスタッフが入念に行った。それは、98年サンダンス映画祭当日になってもおわらず、デルタ航空を説得して出発を遅らせるほどだった。
こうして本作は方法論、主題ともに今まで無かった国際的なコラボレーションを実現しました。文化庁芸術振興基金の映画助成金が合作映画に送られたのも初めてのことです。
CAST BIOGRAPHY
フランク・マクレイ FRANK MCRAE as BLUCE
ジョン・ミリアス監督の映画「デリンジャー」でデビュー。以来、今日まで75本以上の映画に出演。ロバート・ゼメキス監督の「ユーズドカー」、スティーブン・スピルバーグ監督の「1941」でコメディアンとしてキャリアを重ね、ウォルター・ヒル監督の「48時間」のポリスチーフ役で圧倒的な人気を得る。
また、「ノーマレイ」「マラソンマン」「ザ・ドライバー」「ロッキーU」「ロックアッブ」「ビッグウエンズデー」など、性格俳優としての活躍も目覚ましいフランクは、本映画の出演理由をこう語っている。
『僕の兄貴がベトナム戦争で死んでるんです。脚本を読んだとき、長い間閉じ込めていた心の奥底の悲しみが解放されて癒されるような気がしました。』
ナンシー・クワン NANCY KWAN as MITSUKO
香港生まれのナンシー・クワンはイギリスのロイヤルバレエスクール在学中、夏休みで香港に帰国した時に、ブロデューサーのレイ・スターク(「グッバイガール」等)にスカウトされ、「スージー・ウォンの世界」でデビュー。
当時18才だった。共演はウイリアム・ホールデン。この作品で彼女はハリウッドフォーリンプレスの未来の国際スター賞と最優秀女優賞にノミネートされる。
同年、ロジャースとハマースタインのブロードウェーミュージカル「フラワードラムソング」の映画版に主演。アメリカでオリエンタルビューティブームを巻き起こす。
ジェイソン・スコットリーと共演した「ドラゴン/ブルース・リー物語」など、近年も出演作多数。
一方、ブロデューサー、ディレクターでもある彼女は、数多くのCM,TVドラマ、映画を制作している。難航していた本映画のオーディションに彼女が現われた時、すでにミツコその人であった事を記しておきたい。
DIRECTOR BIOGRAPHY
田代廣孝 監督・脚本
1959年、宮城県生まれ。高校卒業後、イギリス留学を経て、新藤兼人監督に師事。テレビのバラエティ、ドキュメンタリー番組、衛星放送等の演出を手掛ける。
1992年、劇場映画デビュー作「あふれる熱い涙」の製作、監督、脚本をつとめる。
本作は同年、ベルリン映画祭パノラマ部門、ニューヨーク ニューディレクターズ/ニューフイルムズ フェスティバル、シンガポール国際映画祭、サンフランシスコ国際映画祭、東京国際映画祭 NIPPON CINEMA NOW、ロンドン国際映画祭、第一回日本映画ビエンナーレ(フランス・オルレアン)、ハワイ映画祭に正式招待されました。
第一回日本映画ビエンナーレで銀賞を受賞したほか国内では全国映連新人監督賞、おおさか映画祭新人監督賞受賞。日本映画ペンクラブ推薦、健全映画観賞会推薦を受けました。
以上のほかに、ローマ(国際交流基金)、ロサンジェルス(日米協会)、スミソニアン博物館・アジアフィルムフェスティバル、ブリンストン大学で上映されました。
「あふれる熱い涙」は1993年松竹SHVよりビデオリリース、サウンドトラックCD(クラスフルーツ)、小説『あふれる熱い涙』(白鳳社刊)が発売されました。また、脚本は’92年鑑代表シナリオ集に収録されています。
『Mr.P’s Dancing Sushi Bar』は第二回監督作品です。