11 選挙の結果について、とりあえず (2005年09月17日 掲載)

吉川 勇一  (2005年9月15日)


 衆議院議員選挙の結果は、予想はしていたとはいえ、惨憺たるものでした。日本をめぐる東アジアの状況も、私たちの生活も、そして私たちの運動も今後いっそう厳しいものとなることを覚悟せねばなりません。

 すでにいろいろな方も、この結果についての意見を述べられています。私の参加している「市民の意見30の会・東京」では、次号の『ニュース』No.92101日号)で、緊急に鎌田慧さんと針生一郎さんの対談をお願いし(私が聞き手になります)、掲載する予定です。しかし、その前に、とりあえず、最低限のことだけは言っておきたいと思います。
 

 「自民圧勝」とはいうが…… 現在の小選挙区制は変更されねばならない

 今度の選挙ほど、小選挙区制のもつ弊害が大きく出たことはなかったでしょう。マスコミなどでは「自民圧勝」という大見出しが掲げられています。確かに与党
327で衆院の3分の2を超し、参議院で否決しても、衆議院の再度の議決で法律が成立する事態が生じたわけですから、容易ならぬことです。(自民 296 民主 113 公明 31 共産 9 社民 7……)

 しかし、各党別の得票率を見れば、議席の比率とはずいぶん異なります。自民・公明両党の議席は68パーセントですが、得票数は、比例代表で51パーセント、小選挙区で49パーセントと、半数です。今の政権が国民の圧倒的多数から支持を受けたとは言えません。

 多数決の原理にもとづく民主主義とは、多数の意見で政治が実行されるわけですが、しかし少数の意見も尊重され、この少数が将来は多数に変わる可能性も認められるものでなければなりません。現在の小選挙区制度は、かなりの割合をもつ少数派の立場を、国会からほとんど排除してしまうものであり、あたかも少数派の意見が存在しないかのような議会にさせてしまいます。主権者の意見が、忠実に反映されない現在の選挙制度が改められるべきものであることは、今後さらに強く主張されなければなりません。
 

 重大な政治の争点がすべて消されてしまった選挙


 
今度の選挙は、本来ならば、憲法改定、自衛隊のイラク派兵、首相の靖国参拝、増税、年金、福祉など、有権者の判断を求めるべき重大な争点は多数ありました。ところが、それらは一切捨象され、郵政民営化の問題だけに焦点が当てられ、しかもその問題ですら、対立点はほとんど明らかにされずに、あたかも小泉首相が好きか嫌いかという人気投票のようなものとされてしまいました。

 代議制選挙とは、選ばれた議員に、有権者が一切の権限を委譲するものでは決してありません。投票の際に争点として明らかにされていなかった問題点については、民意が問われていなかったのです。そうした問題については、有権者の意見は議会の勢力比には反映されていないのです。

選挙の際に争点とされなかった重大問題について、議会が決定をする際には、あらためて民意がいずこにあるのかが検討され、十分な配慮がなされねばなりません。そうでない限り、代議制民主主義は、多数党の独裁という重大な欠陥を露呈することになります。

 
民衆の絶えざる意思表示が必要となる

 
したがって、民衆が、たえず自らの意思を表示し、それを議会と政府に伝え、政治に忠実に反映させるよう要求するという行動が必要となります。自らが選んだ議会と政府なのだから、それに従うのが当然などとする意見はまったく本末転倒しています。自らが選んだ議会と政府だからこそ、有権者たる市民の意見に従うよう、つねに要求し続けなければならないのです。このことは、議会の中に圧倒的多数派が成立してしまった現在、とりわけ重要なことになります。市民運動の役割が、今ほど重大になったときはないでしょう。

 そうでなければ、かつてルソーがイギリス人についてのべたように、人民はドレイとなり、無に帰してしまうでしょう。

(「人民がみずから承認したものでない法律は、すべて無効であり、断じて法律ではない。イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大まちがいだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員がえらばれるやいなや、イギリス人民はドレイとなり、無に帰してしまう。その自由な短い期間に、彼らが自由をどう使っているかをみれば、自由を失うのも当然である。」ルソー『社会契約論』)
 

 それでも悪法が成立したらどうするのか 市民的不服従を真剣に検討しよう

 しかし、こうして表明される主権者の意思を議会も政府も尊重せず、民意に反する悪法が成立した場合、どうしたらいいのでしょうか。また、為政者が、制定されている法律さえも歪め、拡大解釈し、あるいは無視して、違法な強制を民衆に強いてきたならばどうするのでしょう。すでに国旗国家法などは、強制しないという制定時の政府答弁を踏みにじった極度な強制が行われています。

 国防の義務が民衆に課され、戦争への協力が、法の名をもって私たちに強要されることさえ、近い将来現実化する恐れも強くなってきました。

 可能な限り、現在保障されている手段――声明、ビラまき、集会、請願、デモ、スト、スタンディング、座り込み、意見広告、リコール、告訴・告発、違憲訴訟、賠償請求等――を十分に行使して、そうした悪法や施政に抗議することはもちろんですが、法による制裁、処罰をもって「遵法」が強制されてくる事態も増えてくることが予想されます。

 その際、私たちの立場が民衆の中では少数派であり、多数に従うのが民主主義のルールだという主張も強く押し出されてくるでしょう。すでに安保条約、自衛隊の存在、あるいは自衛権や海外派兵などについての世論調査では、私たち反戦運動の主張は過半数ではないとされています。
 民衆の中で、多数派になるための手段を全力で行使することは言うまでもありませんが、しかし、それ以前に、法の名をもって意に反する行為が強制されるような場合が現実化しているとき、私たちは、市民的不服従、非暴力抵抗を、一人一人が自分のものとして真剣に検討すべき時が来ていると思います。

 ソローはこう言っています。

「われわれはまず第一に人間でなくてはならず、しかるのちに統治される人間となるべきである。正義に対する尊敬心とおなじ程度に法律に対する尊敬心を育むことなど、望ましいことではない。私が当然引き受けなくてはならない唯一の義務とは、いつ何どきでも、自分が正しいと考えるとおりに実行することである。……不正な法律が存在する。われわれは甘んじてそれに従えばよいのか。あるいは、それを修正しようとつとめながら、われわれの試みが成功するまではそれに従うほうがよいのか、それともただちに法を犯すほうがよいのか? 現在のような政府のもとにあっては、たいていの人間が、多数者を説得して法律を改正させるまで待つべきだ、と考えている。彼らによると、へたに抵抗すれば、その矯正手段のほうが悪法以上にわるい結果を招くというのだ。しかし、矯正手段のほうが悪法よりもわるいというのが事実だとすれば、それこそ政府自体の欠陥である。政府がそれをわるくしているのである。……人間を不正に投獄する政府のもとでは、正しい人間がすむのにふさわしい場所もまた牢獄である。」H・D・ソロー『市民的不服従』)

 すでに日の丸・君が代の強制に対して、かなり多くの教員が、教育現場で、処罰に抗して起立や斉唱を拒否する行動に出ています。戦争加担や差別・弱者圧迫などの政策への服従が強要されたとき、処罰をも覚悟してそれへの拒否を貫けるよう、心と身体の準備、訓練、そして身辺の整理を、真剣に考えることを始めようではありませんか。
 

 反戦派の大結集のための努力と、多数派形成のための努力

 
昨年、知識人9人がよびかけて始められた「九条の会」の運動が急速に広がっています。各地域や職場、学校、あるいは職域・環境などごとに「○○九条の会」が生まれ、その数は3,000を超えたともいわれます。私自身も先週、「障害者・患者九条の会」の呼びかけ人の一人として、その発足集会に参加しました。

 また、私が主として活動の場としてきた「市民の意見30の会・東京」などが展開してきた海外派兵反対や憲法改悪反対の意見広告運動も、回を重ねるごとに参加者の数も、募金額も、またそれによる掲載紙面も驚くほど増大しています。現在、こうした運動に全力を注ぎ、反改憲勢力の大結集を進め、近づく改憲への動きを阻止しぬくことが重要であることは言うまでもありません。日本人の平和力には、まだ余力があり、結集の余地が残されているという指摘もあります。まだこうした流れに参加していない潜在的反戦・護憲派の人びとと連絡をつけ、参加を求め、その意見を顕在化することは、当面の課題です。「九条の会」の運動も、「市民意見広告運動」も、そのために大きな役割をはたしている重要な運動であることは確かです。

 しかし、高橋武智さんは、「その大きな部分は、ともすれば被害者としての戦争体験に傾きがちな高齢者の手中に握られた財産ではないか」とも指摘しています。(『市民の意見30の会・東京ニュース』No91 潜在的な反戦の余力をほとんど結集しえたとしても、はたして民衆の間で安定した確実な多数派が形成されるかどうかは、確かではありません。こうした努力とともに、安保条約肯定、自衛隊の存在の必要性や自衛権を承認するかなり多くの人びと、あるいはそうした問題にはっきりとした定見をもたず、今回の選挙で、「小泉人気」で自民党に票を投じたような人びとに、どう接触し、どう説得し、反改憲派の側に移ってもらうようにするのか、そのための努力はまた別個に必要であり、そのほうがずっと困難な課題となるでしょう。
 

 論理的な説得だけで多数派になれるか

 その場合、これまで反戦運動が続けてきたような、論理的な主張だけでいいのかどうかも、この際、真剣に再検討すべきではないでしょうか。

 しばらく前から、私は、既成事実の強さというものについて考えてきました。一般に、世論というもの、とくにマスコミの姿勢は、既成事実に極めて弱いものです。自衛隊はその軍事力を拡大し続けてきているのですが、世論調査では、たえず、「これ以上の拡大」は望まないが、「現在程度の」勢力は必要、といった態度が示し続けられてきました。つまり、既成事実の力は大きく、現状を元へ戻すということは、なかなか承認されないのです。それがわかっているからこそ、政府は、つぎつぎと法を拡大解釈して既成事実を積み上げ、その承認を民衆に押し付けてきたのです。こうして「これ以上の拡大」を望まない世論にもかかわらず、拡大は続けられ、「現在程度の」というきわめて曖昧な基準が、どんどんと位置を移動してゆくのです。

 世論に見られる「捩れ現象」(自衛隊はあってよいし、自衛権や海外派兵も認めるが、憲法九条は変えないほうがいいなど)の矛盾を論理的に証明することは容易です。現憲法が「アメリカからの押し付け」だから自主的なものにすべきだとか、現憲法の下でも自衛権や自衛軍の設置は認められうるといった主張に、歴史的、理論的に反論することも、さほど困難ではないでしょう。すでにそうした論考は多数発表され続けてきています。

 しかし、こうした論理的主張をもって「捩れた世論」に抗し、それを説得できるのか、また、既成事実を元へ返そうという動きを作り出せるのか、ということになると、どうでしょうか。

 そこでは、論理以外に、別の考慮、配慮、工夫が必要なように思えるのです。

 最近、知人から教えられて、阿部謹也『世間への旅』(岩波書店)、そして佐藤直樹『世間の目』(光文社)など、「世間」論の本を読みました。そして西欧社会の、個人の存在を前提とした市民社会ではない日本の「世間」――ある種、強力に個々の人間を拘束さえする力をもつ集団力学――というものを考えさせられてきました。そして、既成事実への弱さとは、この「世間」の力も大いに関係があるのではないかと思えてきました。そうだとすると、この力に打ち勝ってそれを変えさせようとする際に、自立した個人を対象とすることを前提とした論理の力だけでは無理で、むしろ、その力の中にあって、その法則に見合ったような多数派形成の工夫を考え出さないとならないのではないか、と考えています。これは、これからの課題ですが、とりあえず、問題の提起だけしておきたいと思います。」

(未完、つづく)