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「介護者として」ではなくなりました (2005/08/23記入)
この欄は「身障者として、介護者として」となっています。夫婦ともに身障者で、連れ合いのほうは目が不自由になったため、私がここ5年ほど介護に当たってきており、その間に経験したことや感じたことを記してきたのでしたが、「News」欄のNo.129、132や、「感じること」欄のNo.9などに記しましたように、47年間、連れ添ってきた妻、祐子は、去る6月7日、74歳で死去しました。そのため、これまで少し記してきたような、「介護者として」という立場ではなくなりました。
介護に当たっては、最初はいろいろ戸惑うことも多くありました。第一には、介護のために、かなり私の時間がとられ、自分のやりたいこと、市民運動との関係でやらねばならぬことなどが、思うようにできなくなりました。読書の時間はほとんどなくなりました。一日の時間配分も変わりました。夕食の後片付けをし、連れ合いが布団にはいる午後10時頃以降が、やっと自分だけの時間ということになり、それから受信しているメールを開いたり、市民運動への送金の振替の記帳をしたり、原稿を書いたり、という仕事にかかり、大体午前2〜3時頃までそれを続けます。就寝は4時頃。ですから起きるのは9時半か10時頃。昼と夜の区別がだいぶずれてしまう生活になりました。
というわけですから、連れ合いの朝食の用意はしませんでした。朝食だけは、彼女が自分で整えました。といっても、インスタントのスープとウィンナソーセージをお湯を沸かした鍋であたため、切ってある食パンの上に溶けるチーズを乗せて、オーブントースターで焼くというだけのことでしたが……。それでも、スープは、明治乳業の「野菜たっぷりスープ」なる、かなり上質なもので、南欧風コンソメだとか、中華風だとか、ポトフだとか、いろいろな種類がありましたし、ソーセージも、これが一番うまいといって、「シャウエッセン」なる、かなり高価なものでした。
そのうち、だんだん介護なるものにも慣れてきて、手抜きの要領もすこしずつわかってきました。昼食は簡単な麺類やスパゲッティなどですませ、5時頃から始める夕食の準備だけは、いろいろ手の込んだ料理をトライしました。うまく出来て、おいしいと言われたレシピは、メモにしてパソコンに入れてありますが、その種類はアイウエオ順に、「アサリともやしのナンプラー炒め」から始まって、「わけぎと根みつばのアーリオオーリオ」にいたるまで、289種類にまでなっています。
最初、安全ベルトをつけなければ危なかった彼女の電動階段昇降機の使用は、ベルトなしで安定してし載れるようになりましたし、在宅酸素療法の器具の扱い方も電動車椅子の運転もようやく慣れてきました。週に2回、3時間ずつ来て頂いていたヘルパーさんとの関係も実に良好でした。これからはかなり落ち着いた日常生活が送れるような介護条件が整ってきたな、と思えてきた時に、急性心不全による連れ合いの急逝でした。
残念ながら、「介護者として」という記述はこれでなくなります。今では、私自身が「要支援」というランクで、週に一度ヘルパーさんに来ていただく立場になっています。ある意味で「被介護者」という立場になったわけです。
ただ、連れ合いの救急車による入院から死亡までの3日間の中で起きた「延命治療」をめぐる問題、葬儀のやり方、遺産配分相続の問題など、かなりややこしく、悩ませられる問題がいろいろありました。それらについては、本欄で、おいおい書いてゆくことにしたいと思っています。