(6) 『朝日新聞』の「ニッポン人脈記」欄 「市民と不戦H」による紹介 (2006年)
早野透「ニッポン人脈記 市民と非戦H」(『
朝日新聞』2006.03.02夕刊)(2006/03/14搭載)
運動とユーモア闘病記 人々の思い広告に載せ
長く「べ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)の事務局長を務めた吉川勇一(74)には、「いい人はガンになる」(99年、KSS出版)というユーモラスな闘病記がある。
「それじゃ、がんにならない人は悪いやつか、という意地悪なタイトルですが、いつも市民運動の中でずけずけ嫌みを言ってきた私にはふさわしいかと」。身はがんだらけになったけど、今も元気。
べ平連は、看板の小田実(73)と実務の吉川のコンビでもってきたと誰もが認める。
吉川は、戦時中は勤労動員でベニヤ製の飛行機をつくった。「米軍機が機銃掃射に来る。バンザーイ、弾をムダにさせたと喜ぶんです」。東大で共産党に入党、自治会議長に。生まれて初めての演説が、退任する総長南原繁の送別の辞。「あがっちゃってメロメロ。安東仁兵衛が下にいて『しっかりしろ』とヤジるし南原さんはけらけら笑っているし…」
私服警官の学内スパイ活動を学生が摘発したポポロ事件で国会に呼ばれ、講和・安保条約反対の全学ストで退学に。23歳でハゲ始める。「ハゲはがんにならないと信じていたんだけど」と笑う。
56年の米軍基地拡張反対の砂川闘争で、警官隊と衝突、「泥にまみれた顔を祐子からもらったハンカチでふいたら祐子の匂いがした」と日記に書いた。2年後に結婚する南條祐子とは、中国から要人を迎えたとき、旧満州出身の彼女が通訳をしていて知り合った。
吉川は65年4月、原水爆禁止運動に対する共産党の支配を批判して党を除名になる。その年の暮れ、「失業中で細君に食わしてもらっている暇な人間がいる」とべ平連にスカウトされた。小田は「金は出えへんで」。
商社勤務で「食わせてくれた」祐子は05年6月、74歳で死去。「『そばにいてくれるだけでいい』ってフランク永井の『おまえに』のCDを聞くと涙が出る」
ベ平連からは、その後の平和運動を担う人々が輩出した。東南アジア学者鶴見良行、数学者福富節男(86)、評論家武藤一羊(74)、続く世代では作家吉岡忍(57)
、評論家室謙二(60)、フリーライター山口文憲(58)……。
「マルクス主義、プラグマティズム、アナーキズム、社会民主主義、自由主義、戦闘的キリスト教、良心的日和見主義(?)、大衆運動主義と実に様々だった」と吉川は書いている。
べ平連は、67年に横須賀に寄港中の空母から米兵が脱走した「イントレビッドの4人」をはじめ、反戦脱走兵を国外に送った。多くの人がかかわるから、つらいこと嫌なこともある。吉川は市民運動とは何かを考え続ける。
非暴力は無抵抗ではない。学生運動が先鋭化した68年前後のように、市民の静かなデモにあきたらぬ若者が機動隊と衝突するようなとき、どう連携すべきか。
一方で、最近のイラク反戦デモは、心情的感情的レベルにとどまっていると思う。知識人や学者も参加し歴史意識、社会意識を研ぎ澄ます議論をすべきではないか。
吉川はいま「市民の意見30の会・東京」で、意見広告運動に力を入れる。去年5月3日には、朝日新聞にたくさんの賛同者名とともに「九条実現」の全面広告を載せた。「思いはあっても表現の手段を持たない人々の名前をばーっと並べて顕在化することが世論につながりますよ」
小田も「市民の意見30・関西」で活動する。去年12月8日には、「大東亜戦争を再考する」シンポを関西学院大学教授の野田正彰(61)と催した。
「なぜ米兵の脱走を助けたか。彼らがベトナムへいけば加害者になるからです。大東亜戦争で考えてほしいのは、われわれは被害者であるだけではない、加害者であるということだ」
「日本は石油もないし食糧もないんだ。戦争なんてできない国なんだ。刀を差さないから、だれともこだわりなくつきあえる。刀を差さない日本ほど自由な国はないんです」
小田の話は、夜遅くまで止まらなかった。 (早野透)
写真上:吉川勇一さん 写真中:1955年、砂川闘争で強制測量に反対する人たち 写真下:吉川祐子さんの葬儀のとき、吉岡忍さんらがつくった冊子