◎…生きる
吉岡 よく私は、ベトナム反戦運動は私の学校だった、と言います。これは実感です。そこには集会やデモばかりではなく、音楽や詩や芝居があり、ファッションやアートがあって、そのどれにも知恵を絞ったり工夫したりという苦しみやおもしろさもあり、それらが渾然となって渦のような表現となり、共同性を作っていたと思います。
それが当時、私が生きることの全体を形作っていましたし、その延長線上にいま現在の私もいる、という感覚が深くしみついています。
9・11の半年前ですが、私はアメリカ全土をほぼ一周して、かつて私たちが支援した脱走兵たちを訪ね歩きました。いったんスウェーデンに逃れて暮らした彼らの何人かは、故郷や、故郷の近くの街にもどって暮らしています。カーター政権の時代に彼らの家族が運動して、帰国許可を勝ち取ったからです。けっして生活は楽そうではありませんが、戦争に反対し、脱走したという経歴を誇りにしながら暮らしていました。
そのあとで私はワシントンDCに行き、ベトナム戟争で死んだアメリカの若者たちの記念碑を見に行きました。五万八〇〇〇人の戦死者の氏名を刻んだ碑です。
私は涙もろいほうではないのですが、その碑の氏名をたどりながら涙が出てくるのを抑えられませんでした。その旅をしながら会ってきた元脱走兵たち、あの彼もこの彼も生きていたんだ、という実感がこみあげてきたからです。この五万八〇〇〇人の戦死者リストに入らなくてよかった、それだけでもすばらしい価値がある、という思いです。
それから今年、今度はベトナム中部のソンミ村に二度行きました。ベトナム戦争のなかでもっとも有名となつた虐殺事件が起きた村です。わずか四時間でひとつの村が消えたといわれるほどの惨劇の現場に、いま行ってみると、歴史を証言する小さな博物館が建っていました。
私は当時の生き残りの村人たちの話を何日間もかけて聞いて歩いたのですが、そのあとであらためて一人で博物館に入り、アメリカ兵たちに殺された五〇四人の名前に見入っていたとき、ふいに胸が熱くなった。「いま話を聞いてきた、もう老人となった人たちは生きたのだ」という事実、その実感が突きあげてきたからです。
その感覚を忘れたくない、と思います。生きるということはたいへんなことだ、生きること自体に詰まっている重みをきちんと、この体で覚えておきたい。逆に言えば、自分のあずかり知らぬ力で、ある日突然、その生命を絶たれたり傷つけられることがどれほど理不尽で不当なことか、ということでもあります。そのような理不尽、不当な力を、私はとても受け入れる気にはなりません。
これでシンポジウムを終わります。今日のようなテーマには結論やまとめをつけるのではなく、ここに集まったお一人お一人が考え、行動につなげていくきっかけにしていただくことがふさわしいと思います。長時間、ありがとうございました。 |