45 「いい人情報」 高木仁三郎さん死去 (2000/10/09掲載)
高木学校の主宰、原子力資料情報室の元代表だった高木仁三郎さんが、昨8日早朝、逝去されました。まだ62歳、「いい人」の仲間が次々と去られてゆくのが残念でたまりません。
このニュースの「いい人情報」でお知らせしてきましたように、高木さんには、手術では取りきれなかったガンが肝臓や肺などに残っていたのですが、最初のうちは抗がん剤による抑制がかなり効果があり、高木さんは、講演や執筆などの活動を続けてこられたのですが、この7月以来、抗がん剤が効かなくなり、あちこちに転移していたガンが小さくならなくなりました。
高木さんからは、インターネット上で流すのは遠慮してほしいという希望があり、病状をここでお知らせすることをしてきませんでしたが、医師からも、見通しは明るくないことが告げられ、高木さんは9月半ばに築地の聖路加病院ケア病棟に移られました。私は9月20日に、お見舞に行きましたが、その時はまだ起きておられて、原子力資料情報室の事務局の方がたやお見舞の友人たちと話を交わしておられましたので、こんなに早くなくなられるとは、ショックでした。
高木さんは、「あなたに頼まれてこの春(3月25日)、渋谷の宮下公園の集会で話をしたが、結局、あれが最後の屋外集会での話になってしまったな」などと話されました。夫人の中田久仁子さんにつきそわれて来られた高木さんのそこでの話は、時宜適切、心を打つとてもいい話でした。
以下に、その要旨を再録します。
なお、「高木さんを偲ぶ会」は、12月10日、午後1時から日比谷公会堂で開かれる予定ですが、いずれ、詳しいことが決まり次第、またこのサイトでお知らせします。
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2000年3月25日、渋谷・宮下公園での「意思表示の会」集会の発言
あいまいな「全体」に取り込まれず、
「個」を貫いていこう。
高 木 仁 三 郎
●原子力資料情報室
こんにちは、高木です。最近屋外の集会には出なくなってしまったので、私の名前なんか知らないんじゃないかと思います。以前はこの宮下公園を、私の巣のようにしていたものですが、この二年間ほどの闘病生活で、屋外集会はもちろん、屋内集会にも、すっかり足が遠のいてしまいました。そういうことで、原発に関する講演もほとんどお断りしてきたので、今日の集会についても、本当はどうしようかなと思ったんです。けれども、依頼してきた吉川勇一さんとは「いい人」の仲間の結束みたいなものがありまして(吉川勇一著『いい人はガンになる』参照)、どうしても断れなかったんです。
これは半分冗談で、もちろん吉川さんへの義理で運動やってるわけではない。やはり『日の丸・君が代」というテーマに関しては、私自身言わなくてはいけないことがある、そういう思いでやって来ました。
咋年私は、自己史をまとめた『市民科学者として生きる』という岩波新書を出しました。その中でも書いたことなんですけれども、自分が反原発や三里塚の運動に関わってきたその原点にあるのは、やはり戦争体験であったわけです。八月一五日は、小学校一年生で迎えたわけです。その時私が感じたのは、どうして大人たちは、この無謀な戦争に抵抗できなかったんだろうか、ということでした。もちろん、七歳くらいのことですから、そんなに深いものではなかったけれども、子ども心に強く感じていたと思います。そして、戦後の大人たちの姿を目にしていく中で、自分たちはああいう風には生きたくない、そう強く思いました。
なぜ、大人たちは抵抗できなかったのか。「日の丸・君が代」あるいは天皇制、さらにそれに先立つ何かがあったのかもしれません。けれども、とにかく軍国主義がああいう形で進んでいったとき、自分たちがいかに否応なくそれに巻き込まれて行かざるをえなかったか、いかに被害者であったか、そういうことばかりを大人たちは私たちに言いつづけてきたわけですね。でも、それが信用できなかった。世代的な抵抗感があったと言っていいと思います。ところが、自分が大学に行き、会社に行くようになると、そういうふうに抵抗できずに巻き込まれていってしまうということと似たようなことが、日常的に存在しているということに気づくんですね。ある種わけのわからない、日本人とか企業の一体性みたいなものに、自分が眠り込まされていく。それに対して異議を唱えるならば居場所がなくなってしまう、一九六〇年代の高度成長のまっただ中の自分の体験から、こんな風にして自分の上の世代の人々は、戦争に巻き込まれていってしまったのかもしれないな、そういう風に考えるようになったんです。だからこそ、その場その場で、ひとつひとつに抵抗していくことが大事だということに思い至って、私は当時原子力産業にいたために、自分の現場の問題として、原発問題にとりくむようになったわけです。ですから、そういう意味では、私にとっての原発問題が、「日の丸・君が代」の問題であり、天皇制の問題である、そういう風に思っています。
最近の状況を見ると、「日の丸・君が代」問題はもちろん、社会のあらゆる分野で「保守反動」的な政治が強まり、国というものが個人の上に出てきて、あいまいなる「全体」というものに統合されてきているという感じが強くします。非常に強力なリーダーシップをもった誰かがいるというわけではない、真綿で首を絞めるようにして、国家が私たちの前に登場してきており、それがまさに、私たちの上の世代がたどってきた道と同じような事態に至っているのではないか、そしてさらに、彼らの世代を批判してきたはずの私たち自身がそれに巻き込まれてしまっており、それを止めえていない、いつから俺たちはこんなふうになってしまったんだろう、と非常に忸怩たる思いです。
原発のみならず、日本の技術は非常に優秀だと言われてきました。けれども、いまいろんなことが起きていますね。原発について言えばJCOの事故や、もんじゅ、東海再処理工場の事故、一連のデータ改ざん問題など、信じられないことが次々とマスコミ紙面をにぎわしています。けれども企業にいた自分の体験からすると、こういうことがおこる背景はよくわかるんですね。つまり、現場の個々人が、自分で考えることを放棄して、上から与えられてくる手順に従うだけになってしまう。設計図もよく見れぱ、そこに間違いがあるとか、あるいは図面についた汚れであるとか分かるはずなのに、なんの疑いもせずにそのとおりのものを作ってしまう。ある人に聞いてみたことがあるんです。そうしたら、いやおかしいとは思ったけれども原子力の世界では、上から下りてきたものが絶対だから自分の意見を差し控えた方がいいと思って、図面どおりに作ったという。その結果、これはまあ小さなものでしたが、事故が起こりました。JCOの事故では人が死にましたが、それもこういうことの積み重ねであるわけです。
こういうことと「日の丸・君が代」の問題、それは私はそんなに遠い問題ではないというふうに思っています。むしろ非常に近い問題だと思う。自分というものを失っていくような、失わさせていくようなそういう強制、それが企業や社会、あるいは教育という名の公権力の介入を通して、人々の心の中に染みわたっていく。ですから、原発の事故を「人為ミス」とかそういうことですませてしまってはならないんです。社会が全体として、危機的な方向に向かって走っているのではないか、と思います。「日の丸・君が代」は、個人の人格を奪っていく最大のシンボルであるというふうに感じるんです。いま、新聞などを見ると、たとえば卒業式などで抵抗して着席したり、「君が代」を歌わなかったりということが、多少は載っている程度ですが、知り合いの話などを聞くと、かなりのところでさまざまな抵抗がたくさんなされているのですね。その場で自分を貫いている人たちがたくさんいる。敢えて言わせてもらえば、例えば反「日の丸・君が代」であるとか、反天皇制であるとか、そういうことを主張する以前に、個人個人の意思を表明していくことのできる場所をたくさん作っていくことが、この社会をもう少しまっとうにしていくものなんだということを、多くの人々に伝えていきたいと思うんです。
私もいま、「高木学校」というのをやっているんです。若い人たちとともに学んでいこうという場なんですが、それも、広い意味での強制に反対して、自分たちを貫いていくための場所のひとつとして考えています。ぜひ、皆さんとともにがんぱっていきたいと思います。
(「日の丸・君が代」強制反対の意思表示の会ニュース 第2号より)