早稲田大アジア研究機構教授の村井吉敬(むらい・よしのり)さんが3月23日に逝去されました。69歳でした。マスコミの訃報によれば、通夜は近親者のみで行なわれますが、葬儀は4月8日午後7時30分から東京都千代田区麹町6の5の1の聖イグナチオ教会で行なわれ、喪主はお連れ合いの大阪経法大アジア太平洋研究センター所長の内海愛子さんとのことです。23日夕刊の『朝日新聞』の訃報には死因に触れてありませんでしたが、24日の『東京新聞』などでは、「すい臓ガンで死去」とのことです。
つい最近も、今年出版された新著の『現代インドネシアを知るための60章』(村井吉敬・佐伯奈津子・間瀬朋子
編著 明石書店、右の写真)をご寄贈され、お礼状を送ったばかりのことでした。この本に書かれた村井さんの「はじめに」は、2012年12月24日の日付になっており、今からたった3ヵ月前に書かれた、とてもお元気と思える文章で
した。それで、村井さんが重いご病気などとはまったく知らず、逝去の報道にはショックでした。すい臓ガンはとくに発見しにくいガンで、転移も早い性質のものと言われていますので、病気
がわかってから短いうちに逝去されたのではないでしょうか。お連れ合いの内海愛子さんには、大変なお悲しみのことと察しします。深い哀悼の意を表します。
村井さんについては、多くの方はお知りだと思いますが、上記の本の最後にあった「編著者紹介」をご紹介しておきます。
村井吉敬(むらい よしのり)
早稲田大学アジア研究機構。APLA(Altemativel
People’s Linkage in Asia)共同代表。
インドネシアを中心に東南アジアを歩き、「小さな民」の声を聞いてきた。日本の援助や資本が東南アジアの地域社会に与える影響を調査するとともに、オルタナティブな開発のありかたや、人びとのつながりを模索する。主著に『スンダ生活誌』(NHKブックス、1978年)、『小さな民からの発想』(時事通信社、1982年)、『エビと日本人』(岩波書店、1988年)、『サシとアジアと海世界』(コモンズ、1998年)、『エビと日本人II』(岩波書店、2007年)、など。
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村井さんの学者、研究者としての紹介はよく出されていますが、村井さんは「アジア太平洋資料センター」(PARC)、「わだつみ会」、「市民の意見30の会・東京」など、多くの市民運動グループに参加され、積極的な活動をされていました。「アジア人権基金」の共同代表でもありました。
村井さんの著書は多数ありますが、いちばん読者が多かったのは岩波新書の『エビと日本人』でしょうか。でも、
村井さんをこれから知ってみようというのでしたら、最近のものでは、私は『ぼくが歩いた東南アジア――島と海と森と――』(コモンズ、2009年、3,000円+税
右の写真)をおすすめします。
毎ページに多くのカラー写真があって、優しい文章の本です。村井さんがどんな生き方、勉強の仕方をしたかがよく分かる、いい本だと思っています。この本の「あとがき」を最後に載せておきます。
あとがき――
33年にわたって「ぼくが歩いた東南アジア」の日数は、どのくらいになるのだろう。2年間べったりが1回、6カ月ずつが3回、それ以外の年は年平均30日。計算すると約2110日になる。夕陽を見たのは1000日以上かもしれない。雪はこの世の薄汚れた塵芥(ちりあくた)を覆い隠してくれる。夕陽は大空の雲ぐもを極彩色に染め、この世のつらさ、切なさを薄紅色に染め、やがて暗闇に消し去ってくれる。
33年前、バンドゥンの借家のベランダで、毎日のように夕陽を眺めていた。家の前を行き交う物売りや、子どもたちや、おばさん、おじさんたちの暮らしの音や声と、夕陽とが混じり合って、わたしごときをも哲学者にさせてくれたように思った。
2000日は4万8000時間。1日のうち、寝たり、居眠りをした時間9時間ほどを差し引くと3万時間。新聞や本を読んでいるときは自覚的には風景を見ていない。それでも2万時間ほどが、「ぼくが歩いた東南アジア」が流れ来て、流れ去った「風景」である。治安部隊のゴム弾がパンパンと弾けていたジャカルタの風景もあれば、津波で家族を失って呆然とモスク前に座していた老人の風景もあれば、トリバネアゲハの舞うピアク島コレムの燦然(さんぜん)たる風景もある。
山ばかり歩いていた1960年代、フイルムはほとんど白黒で、シャッターはあまり切らなかった。フイルム現像も印画紙現像も、自分でやっていた。そのころは、ひとつひとつの風景がしっかりと自分の網膜に焼きついていた感じがある。80年代中ごろまでは、ネガ・カラーと白黒のフイルムを併用し、自分で焼き付けもした。しかし、それ以降、ほとんどポジのカラー・フイルムになり、自分で現像も焼き付けもしなくなった。それでも、フイルム代や現像料金は高かったので、丁寧に写真を撮っていたけれど、円高とバブルはそれらも安くした。90年代になると、やたらにたくさんの写真を撮るようになった気がする。
2000年ごろからデジタルカメラを使い始めたが、まだシャッターをすぐに押せないもどかしさがあったので、撮った写真は多くはない。ポジのカラー・フイルムが主流だった。04年にニコンD70が出て、飛びついた。それ以降、わたしの写真はほとんどデジタル化する。夕陽と哲学などと言っていたことが恥ずかしい。わたしは知らぬ間に便利さに流され、暮らしがデジタル化していった。
アナログ写真とデジタル写真が最終的な「見栄え」でどう違うのか、よくわからない。しかし、写真を撮る行為自体が安易になってきた。よく見て、しっかり記録するという姿勢が、失われつつあるように思う。「ぼくが歩いた東南アジア」も易きに流れてきたのではないだろうか。1ドルが300円の時代から、円は3倍も強くなって、東南アジアを大股で問歩しているのではないだろうか。そんな思いにとらわれる。照明が暗い安宿用に明るい電球を持ち歩く。ザックを背負う。そんな旅には、見たり撮ったり記録したりする行為に丁寧さがあったと思う。
日本経済のバブル化により、さまざまなところから調査や研究にカネが出るようになった。「自腹を切って旅をせよ」「会議ばかり出るな」と故・鶴見良行氏は口を酸っぱくして戒めていた。わたしは東南アジアをこれからも歩くだろうが、自腹で歩くことを基本にしたい。ゆったりとしたなかで丁寧な歩き方を大切にしていきたい。自らのありようを照らし出してくれる、東南アジアの当たり前の人びとの暮らしを、じっと眺め続けていきたい。
いつもながら、コモンズの大江正章さんが一肌脱いでくださった。儲からぬ出版である。校正では、お連れ合いの大江孝子さんにお世話になった。インドネシア民主化支援ネットワーク(NINDJA)のみなさんにも、日誌の整理や写真のデジタル化でお世話になった。林佳恵さんには、いつもながら本の中味にふさわしい、心のこもった装丁をしていただいた。本書全般については、佐伯奈津子さんが最後には不眠不休で手伝ってくれた。人生でずさんさが勝れるわたしだけでは、この本は世に出なかっただろう。連れ合いの内海愛子もずさんを自認しているが、それ以上にずさんなわたしにあきれつつ、叱咤し続けてくれた。
本書の写真に登場するたくさんの方、登場しないもっと多くの方、わたしを支えてくださった多くの方々に、御礼を申し上げます。ありがとうございました。
2009年3月1日
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