217 駒場祭記念で「1・2期生合同懇親会」に参加しました。 (2010年11月23日  掲載)   

 東大教養学部が毎秋にやる「駒場祭」は、今年は第61回だそうで、11月20〜21日でしたが、その際、1950年の第1回の駒場祭に参加していた東京大学教養学部(新制の)第1・2期生の合同懇親会が20日に駒場のキャンパス内にある「駒場コ
ミュニケーションプラザ南館」で開かれ、私も参加してきました。以前は5年に1回ずつ開かれていたのですが、2年前ほどから、残る人生も短くなってきているので、5年ごとでは間が長すぎると、毎年に開かれることになっています。今年は、この懇親会の世話人の一人でもあった中野純さん元朝日新聞取締役、西部本社代表)が今年の9月7日にすい臓がんで逝去されており(79歳)、9月8日にカトリック高円寺教会で通夜には私も参加したのでしたが、毎回元気だった彼がいないのは、やはり寂しいことでした。参加数は、1949年入学の文科1類が10人、文科2類が5人(私はここ)、理科1類が10人、理科2類が3人で計28人、1950年入学では文1が8人、文2が3人、理1が2人、理2が4人で計17人、全体で55人と、これまでに比べてずいぶん少ない数になってきていました。
 でも、開会の話をし、司会をした久本禮一さん(49年入学・文1)、開会のあいさつをした前田知克さん(50年入学・文1)、乾杯をした金子仁洋さん(49年入学・文1)などは、元気で、前田さんは「国際学連の歌」などを高唱していました。(右の写真は、左が金子仁洋さん、後ろが前田知克さん、右が久本禮一さん)私は、このサイトに載せていた、1952年当時の学生運動の写真のページ
60年ほど前の古い写真をご紹介しますなどをコピーして全員に配りましたが、それには、もう1枚、1950年の第1回駒場祭で、私も参加した民俗学研究会の仮装行列の写真をつけておきました。それは以下のものです。

最  これは、1950年の第一回駒場祭の仮装行列で、私が主催していたサークルの「民俗学研究会」が行なった「百姓一揆」で、三等賞をとりました。 左の写真のいちばん右は故二木宏二さん、その左が私、吉川です。
 二木さんの支配者側の武士姿の持っている制札の中の文は、以下の通りです。
 「定 / 一、百姓一揆取締りの為には村の一つや二つぶっつぶしても差仕えなきこと/天明 年 月/吉田白足袋守 / 一、百姓一揆の為、関所の通行不可能の者は租税納入の当日に限り、関所以外の通行を許可する/天明 年 月/駒場庄 手代/矢内原忠之丞」 
 この駒場祭の一月ほど前に、自治会は、大学へのレッドパージ阻止闘争として、秋の試験ボイコット闘争をやり、おおいに高揚したのでしたが、この試験当日の日に、大学の正門、裏門などにはすべて活動家グループがピケットを張って、試験に参加しようとする学生の入学を全部阻止しました。大学は、試験参加をさせようとして、渋谷の駅など、学生が通るところで、「試験の当日に限り、通用門以外の通行を許可する」という矢内原学部長の通知を配ったのでした。このことから、その後、東大前の駅からキャンパスに入るとき、正門ではなく、短距離で学内に入れる植木の垣根を分け開けるところを「矢内原門」という名前さえ付けられるのでした(今では、駅などが全部改修され、キャンパスまでの道もすっかり違ってきているので、今は「矢内原門」はありません)。私たちの仮装行列の武士が持っていた「制札」の文は、これを皮肉ったものでした。蓑や傘、鍬などは、大学の傍の農家から借り集めたものでした。

   この合同懇親会には、参加者全員にコロンバンのクッキーの箱が配られましたが、これは、「東京大学オリジナルクッキー」だそうで、銀座の「コロンバン」に作らせた(誰が作らせた?のかが、何も書いてない)フールセックで、銀杏の東大のマークが焼いて入っているクッキーや、樫(?)の葉のかたちなどのクッキーが入っていました。