199 加藤周一さんお別れの会の報告。 (2009/02/25掲載)
ご案内欄でお知らせした「加藤周一さんお別れの会」の簡単なご報告です。
会は2009年2月21日(土)の午後1時から、東京・有楽町の朝日ホールで行なわれました。開場30分前にはすでに会場はいっぱいになり、始まるときには、入れなかった人びとがロビーにあふれました。参加者は1,000人以上と聞きました。
会は、まず加藤さんを偲ぶ黙祷から始まり、実行委員長の山口昭男さん(岩波書店社長)の挨拶のあと、大江健三郎さん(作家)、水村美苗さん(作家)、吉田秀和さん(音楽評論家)の三人から弔辞が述べられました。当日配られた「式次第」には、ほかに鶴見俊輔さん(哲学者)のお名前も印刷されていたのですが、体調不良で欠席とのことで、弔辞が代読されました。
これらの弔辞は、すでにその要旨がかなり詳しく『朝日新聞』2月22日号の「文化」欄に報じられていますので、ここではご紹介を略します。気になった点を一つだけあえてあげれば、水村さんが、加藤さんの偉大さを強調するのあまりか、「もう、このような人は二度と現れることはないだろう」という趣旨のことを述べられたことぐらいでした。
なお、鶴見さんのご健康ですが、大事をとって入院されたようですが、それほど重大なご病状というわけではなく、まもなく退院できるだろうという趣旨のことを、近い方から個人的に伺いました。
弔辞のあと、加藤さんと親交のあったドイツ、フランス、イギリス、中国の学者などからのメッセージも紹介されました。最後に、喪主である夫人の矢島翠さんからのご挨拶があり、参加者全員による加藤さんの写真を前にして、献花が行なわれました。長い机に、何人もが一斉に献花をしたのですが、それでもかなり長い時間がかかりました。
当日、参加者に配布された加藤さんの略年賦を以下に転載します。
【略年賦】(敬称略) |
一九一九年 |
九月一九日、父加藤信一(開業医)・母ヲリ子の長男として、東京市本郷区本富士町にて出生。 |
一九二六年(七歳) |
四月、東京府豊多摩郡渋谷町立常磐松尋常小学校(現・東京都渋谷区立常磐松小学校)入学。幼いころ病弱だったために、運動が不得意となり、読書を好んだ。 |
一九三一年(一二歳) |
四月、東京府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)入学。同学年に矢内原伊作が在籍。中学時代に『万葉集』に親しみ、芥川龍之介を好んで読む。 |
一九三五年(一六歳) |
夏、妹久子とともに初めて信州追分に逗留(以後、亡くなるまで夏季には追分に滞在することを常とする)。追分は、堀辰雄、立原道造、中村眞一郎らと知り合う場となった。 |
一九三六年(一七歳) |
四月、第一高等学校理科乙類に入学。庭球部と映画演劇研究部に所属。矢内原忠雄の授業に出たが、その授業は最後の自由主義者の「遺言」だと受けとめた。 |
一九三七年(一八歳) |
二月、第一高等学校の『向陵時報』に映画評「新しき土」を藤沢正という筆名で発表(確認されるもっとも早い公表著作)。 |
一九三九年(二〇歳) |
三月、第一高等学校理科乙類を卒業。 |
一九四〇年(二一歳) |
四月、東京帝国大学医学部に入学。重症の湿性肋膜炎にかかった。医学部の授業のかたわら、文学部の授業にも出席し、渡邊一夫の薫陶を受ける。福永武彦、森有正、三宅徳嘉などとも知己を得る。 |
一九四一年(二二歳) |
一二月、太平洋戦争開戦の日、新橋演舞場で文楽公演を見る。 |
一九四二年(二三歳) |
秋、中村眞一郎、福永武彦、窪田啓作らと文学者集団「マチネ・ポエティク」を結成。 |
一九四三年(二四歳) |
九月、東京帝国大学医学部を繰り上げ卒業。東大付属病院医局に副手として勤務。 |
一九四五年(二六歳) |
春、東京帝国大学佐々内科教室とともに信州上田の結核療養所に疎開、この地で敗戦を迎える。 |
一〇月、日米「原子爆弾影響合同調査団」の一員として約二か月間広島に滞在し、調査に従事する。 |
一九四七年(二八歳) |
五月、最初の著書『1946文学的考察』(福永武彦、中村眞一郎との共著、真善美社)刊行。 |
一九五〇年(三一歳) |
二月、「日本の庭」を『文藝』に発表。このときに自らを文筆家と意識した。 |
一九五一年(三二歳) |
一〇月、フランス政府半給費留学生として渡仏(留学中は、パリ大学医学部、パスツール研究所、キュリー研究所にて医学研究に従う)。 |
一九五五年(三六歳) |
三月、フランスより帰国。東京大学医学部付属病院に戻る。このころ三井鉱山株式会社本店医務室に隔日勤務(〜五八年)。 |
四月、明治大学文学部非常勤講師(〜六〇年)。 |
一九五八年(三九歳) |
九月、旧ソ連邦ウズベク共和国タシケントで開かれた第二回アジア・アフリカ作家会議準備委員会に出席。同会議後に、ユーゴスラヴィア連邦のクロアチア共和国、インドのケララ州を旅する(帰国は五九年一月)。これを機に医業を廃して文筆業に専念する。 |
一九六〇年(四一歳) |
九月、カナダ・ヴァンクーヴァーのブリティッシュ・コロンビ |
ア大学に准教授として赴任し、日本文学を講じる(〜六九年)。 |
一九六八年(四九歳) |
八月、『羊の歌』、九月、『続羊の歌』(ともに岩波書店)刊行。 |
一九六九年(五〇歳) |
九月、ドイツのベルリン自由大学教授(〜七三年八月)。同時に同大学東アジア研究所所長に就任。 |
一九七一年(五二歳) |
九月、日中友好協会訪中団の一員として初めて中国を訪問。 |
一九七三年(五四歳) |
一月、朝日新聞客員論説委員(〜七九年九月)。 |
一九七四年(五五歳) |
九月、アメリカのイェール大学(コネチカット州)で客員講師(〜七六年八月)。 |
一九七五年(五六歳) |
二月、『日本文学史序説 上』(筑摩書房)刊行。 |
四月、上智大学教授に就任(〜八五年三月)。 |
一九七八年(五九歳) |
四月、スイスのジュネーヴ大学客員教授(〜七九年四月)。 |
一九八〇年(六一歳) |
四月、『日本文学史序説 下』(筑摩書房)刊行。 |
一〇月、『日本文学史序説』 で第七回大佛次郎賞受賞。同書は、英語、仏語、独語、伊語、ルーマニア語、中国語、韓国語に翻訳されている(二〇〇八年現在)。 |
一九八三年(六四歳) |
一月、イギリスのケンブリッジ大学客員教授(〜同年六月)。 |
一九八四年(六五歳) |
七月、朝日新聞に毎月一回「夕陽妄語」の連載を始める(〜二〇〇八年七月)。 |
一一月、平凡社『大百科事典』編集長に就任。 |
一九八五年(六六歳) |
三月、フランス政府より芸術文化勲章シユヴァリエ(Chevalier des Arts et des Lettres)を授与される。 |
一九八六年(六七歳) |
四月、メキシコのコレヒオ・デ・メヒコ大学客員教授(〜七月)。 |
一九八七年(六八歳) |
四月、アメリカのプリンストン大学(ニュージャージー州)で講義。 |
一一月、NHK 『日本その心とかたち』(前半)放送。同時に平凡社が同名書(第一巻〜第五巻)を刊行。後半は、一九八八年三月の放送(NHK)、刊行(第六巻〜第一〇巻、平凡社)。 |
一九八八年(六九歳) |
三月、平凡社 『世界大百科事典』編集長に就任。 |
四月、立命館大学国際関係学部客員教授に就任(〜二〇〇〇年三月)。 |
一〇月、東京都立中央図書館館長に就任(〜九六年三月)。 |
一九八九年(七〇歳) |
一月、アメリカのカリフォルニア大学デーヴィス校で講義(〜同年三月)。 |
一九九一年(七二歳) |
一〇月、「吉田秀和賞」(水戸藝術館)審査委員となる(〜二〇〇八年)。 |
一九九二年(七三歳) |
四月、立命館大学国際平和博物館館長(〜九五年三月)。 |
同月、ベルリン自由大学客員教授(〜同年七月)。 |
一九九四年(七五歳) |
一月、一九九三年度朝日賞を受賞。 |
三月、中国の北京大学で講義(〜同年四月)。 |
一九九七年(七八歳) |
一月、アメリカのポモーナ大学(カリフォルニア州)客員教授(〜同年五月)。 |
二〇〇〇年(八一歳) |
二月、フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章オフィシェ(Officier de la Legion d'honneur)を授与される。 |
二〇〇一年(八二歳) |
二月、中国の香港中文大学で講義(〜同年四月)。 |
二〇〇二年(八三歳) |
一二月、イタリア政府より勲章コンメンダトーレ(Commendatore)を授与される。 |
二〇〇四年(八五歳) |
四月、佛教大学で客員教授として講義(〜〇六年三月)。 |
六月、「九条の会」の呼びかけ人に加わる。 |
二〇〇七年(八八歳) |
三月、『日本文化における時間と空間』(岩波書店)刊行。 |
二〇〇八年(八九歳) |
五月、体調を崩したため検査を受け、進行性胃がんと診断される。 |
七月、「夕陽妄語」(朝日新聞)の「さかさじいさん」が絶筆となる。 |
一二月五日午後二時五分、東京都内の有隣病院にて逝去。 |
参考資料:加藤周一『羊の歌』+矢野昌邦編『加藤周一年譜』+平凡社社内資料 |