news-button.gif (992 バイト) 166. 平和運動家、数学者の早川康弌さん(東京工業大学名誉教授)逝去。 (2007/03/15掲載)  

 数学者で、平和運動家だった早川康弌(みちかず)さん(東京工業大学名誉教授、工学博士)が、2月28日午後6時50分ころ、肺炎のため、横浜市緑区の病院で死去されました。96歳。愛知県出身。自宅は横浜市青葉区千草台13の5の212。葬儀・告別式は近親者で済ませたとのことです。喪主は夫人の美佐(みさ)さん。(右の写真は、1957年の第28回メーデー会場で。左が早川さん、右は、反戦運動の仲間である元群馬大学学長畑敏雄さん,吉川勇一撮影)
 著書には、『微分方程式 積分方程式・変分法』(1976、朝倉書店)、『マトリックス概説』(
1946,裳華房)など。平和運動のパンフレットなどの執筆は多数。
 数学者の仲間や平和運動の関係者の間で、早川さんを偲ぶ会が計画されているとのことですので、詳細が決まりましたら、「ご案内」欄などでお知らせいたします。

 早川さんは、戦後の40年代からさまざまな平和運動の中心部にあり続けた大先輩ですが、戦争中の学生時代にも、都留重人さんも活動していた「反帝学生同盟」の運動に関わっていました。戦後は早くから日本共産党に入党しましたが、しかし党の方針が左右に大きくブレる経過の中でも、早川さんは一貫して独自の立場を貫き、フルシチョフのスターリン批判や「六全協」などよりもずっと以前から、スターリン主義の誤りを指摘するとともに、党中央の方針に対しては、強い批判的態度を持ち続けたリベラル派でした。
 東京工大で教鞭をとりながら、日本平和委員会の書記局員として反戦平和のために活動、平和委員会の中では、情勢判断、運動方針などの理論的支柱でした。実務も熱心に引き受け、あるときは、徹夜で機関紙の『平和新聞』の編集作業をやり、それを印刷所に届けに行く途中、踏み切りで電車に接触、あやうく助かるというようなこともありました。1955年のビキニ水爆実験の後、全国に反核の民衆運動が広がり、1956年、日本原水協が発足すると、早川さんは、原水爆禁止運動の中でも、理論面、実践面でたいへんな活動ぶりを示しました。
 また、長く河合塾で受験生に数学を教え、名講師との評判も高いものでした。個人的な思い出ですが、たまたまNHKラジオの数学講座の「無限と級数」の講義を聞いていたとき、「無限級数は、数式の中の項目の順序が入れ替わっただけで、答えがゼロになったり、無限大になったりする。状況が変わったのに、それがわからず、いつも解が一つだけしかないと思いこんでいる困った人たちもいます。こういうのを『スターリン主義』と呼ぶのです。……」と話されるのを耳にして、びっくりしたこともありました。
 ベトナム戦争のときには、ベ平連やジャテックの反戦米脱走兵への援助にも加わり、美佐夫人とともに、米脱走兵を何人も自宅に匿って保護した活動もされました。晩年には、「市民の意見30の会・東京」にもたびたびかなりのカンパを送られました。
 謹んでご冥福をお祈りいたします。