136.京都での飯沼二郎さんを偲ぶ会に行ってきました(05/11/10掲載)
京都へ行ってきました。11月5日(土)に京大会館で行なわれた「飯沼二郎さんを偲ぶ会」に出るためでしたが、私としては、連れ合いが死んでから初めての外泊旅行でした。翌日曜日には、鵜飼哲さんらの続けておられる沖縄問題ティーチインで砂川闘争の話をすることになっており、さらに翌月曜にも別の会の予定があって、京都行きは健康的にも財政的にもかなりきつくなりそうで、しばらく迷っていたのですが、思い切って行くことにしました。
11月の上旬、例年なら京都の紅葉は真っ盛りのはずです。今年は大分遅れ気味とのことでしたが、それでも土曜日とあって、ホテルといわず旅館といわず、すべて満杯。結局、ベ平連以来の知人で、この会の準備の中心を担われていた
関谷滋さんのお宅に泊めていただくことになりました。
「偲ぶ会」は、午後6時から開かれ、仙台や千葉、東京、長崎などから駆けつけた人を含め、140人ほどが参加しました。以下に、ごく簡単に、その模様の一部をご報告しますが、何しろ、私は1日60本も煙にしてしまうほどのヘビースモーカーで、会の間、何度も室外の喫煙席にゆくために中座していますので、当日の重要なお話しをたくさん聞きもらしたはずです。また、詳しいメモをとっていたわけでもないので、以下は記憶にあるままの、きわめて主観的なご報告だということをお断りしておきます。
会場正面には、白い花に囲まれて、飯沼さんの大きな写真とともに、夫人の文さんが描かれたごく若い頃の飯沼さんの絵が飾られていました。会を司会されたのは『はなかみ通信』の編集発行者の高橋幸子さんと、京都市議の鈴木正穂さんでした。
冒頭、追悼の辞をのべた鶴見俊輔さんは、記憶を持続させる期間の短さとしてはアメリカ人も相当に早いほうだが、しかし日本の大学教授のそれは世界一ではないだろうか、だが飯沼二郎さんは、東京の両国に生まれて関東大震災を体験し、そしてそのときの朝鮮人虐殺についての記憶を持続して最後までもちつづけ、かつそれを深めていった人で、日本では稀有な人だった、という話をされました。
献杯の挨拶をされたのは、靖国問題や日の丸・君が代問題などで、飯沼さんと同じく長く活動を続けられているクリスチャンの大島孝一さんでした。
私も指名されてご挨拶をしました。その中で私は、市民運動の原理を作り出していく上で飯沼さんは欠くことのできない存在ですが、最近発表された鹿児島大学の平井一臣さんの歴研集会での報告(この論文はベ平連のホームページに全文が掲載されています)の中でも、飯沼さんの主張がいくつも引用されているとご紹介しました。これまでのベ平連運動への評価や研究は、もっぱら東京のベ平連がまとめたものや、鶴見俊輔、小田実といった指導的メンバーの思想を中心に語られたものが多かったのですが、平井論文は、地域のベ平連の活動に焦点をあてようと試みる論考でした。これからは、京都ベ平連をはじめ、それぞれの地域レベルでの個々のベ平連運動に視点をあてた総括、まとめが必要であり、それがこれからの運動に継承されるような努力が必要だろう、私はそんな話をしました。
以下、飯沼さんと同年輩の方々や、飯沼さんとともに、反戦運動、在日朝鮮人と連帯する運動、あるいは日の丸・君が代訴訟を闘ったずっと若い人びとまで、
さまざまな職業や経歴を持つ多くの人びとが飯沼さんへの思い、飯沼さんから教えられたこと、あるいは飯沼さんへの謝辞をつぎつぎと語りました。この集まりと続けて開かれた二次会でされたいくつかのお話を以下に簡単にご紹介します。
自己の信ずるところは、どのように批判され、非難されても絶対に曲げない飯沼さんの芯の強さが、運動の中では、ときに仲間を辟易させるような局面もあったという発言もいくつかありましたが、それに続けて、自分と意見の異なる人であっても、権力から抑圧されている場合には、断固としてその人を擁護するという、飯沼さんの人びとへの広い愛についてが語られるのでした。京都ベ平連が活動していた頃、全共闘運動に加わっていて、飯沼さんのデモへの態度を生ぬるく、力がないと批判的だった人が、後に君が代訴訟をともにする中で、飯沼さんの生き方に触れてひたすら敬服する以外になかった、というような思い出がつぎつぎと紹介されました。
1984年の「原爆の図展」が終了して幕を引く際に、飯沼さんは、それまでつくってきた賛同者、参加者の名簿カード3,000枚を、その個々人にすべて送り返すと強く主張されたとき、実務を担っていたメンバーは、そのかなりな手間と送料の額の膨大さを考えて賛成しなかったそうですが、飯沼さんは絶対に自説を変えず、運動は私物化してはならない、一つの目的を掲げた運動が終了するときはすべて白紙に戻し、新たな運動が必要になったときは、また新たな努力をして賛同者を開拓してゆけばいいのだと主張されたそうです。そして、運動を私物化しない、運動を目的の違うことに流用したり、利用したりしないという市民運動の原則の一つはこうして作られていった、ということも紹介されました。
在日朝鮮人で、手話でしか意思疎通の出来ない障害者の人が、飯沼さんに助けられ、教えられて、奪われていた権利をつぎつぎと回復し、獲得していった話とともに飯沼さんへの心からの謝辞を述べられた手話による話は、実に感動的でした。
研究者の槌田劭さんは、優れた市民運動の実践者としての飯沼さん以外に、研究者としての飯沼さんの優れた実績を強調しました。「自分は教科書など、クソ
クラエ!と思っている人間だが、農民とその伝統に学ぶという姿勢を貫いた飯沼さんの農学者としての偉大さ、人権とつながる農業という視点を持ち続けて研究をされた飯沼さんには、とてもクソクラエ!などと言えるものではなかった、歴史に学び、これまでの人間をとことん愛して学問のかたちを築いていった飯沼さんには本当に教えられることが多かった、と話されました。
栢下芳郎さんは、飯沼さんが文革時代の後期に訪中されたとき、×字に木を打ちつけられて閉鎖されている教会を目にし、それでも私は日曜礼拝をやめないといって礼拝されたというエピソードを紹介し、飯沼さんが、反権力運動の中にあっても権力の支配を認めず許さない、絶対の反権力主義者だった、と話しました。
この集まりと、二次会(30人ほど参加)での話は、こうして報告していくと膨大になります。しかし、どの方の発言にも共通していたことは、過去10年〜30年、飯沼さんとともに活動してくる中で経験したことが、その人たちの現在の生活の中で、確固とした基礎をかたちづくっているということでした。参加してよかったと思える集まりでした。
いずれ、主催者側からの報告もあるかと思いますが、とりあえずの報告とします。(写真は2枚とも長崎の黒岩久雄さん撮影)