118.2004年6・15行動、今年も南通用門で献花 (2004/06/16掲載)
「声なき声の会」が主催する6・15行動は、今年も15日に東京・池袋の豊島勤労会館で開かれ、約40人が参加した。会では、まず京都から参加された鶴見俊輔さんによる「戦争について」という話から始まった。この報告は、いずれ、小林トミさんの遺作となった『声なき声のたより』表紙用の絵とともに、次号の『たより』に全文掲載されるとのことだが、ごくおおまかな要旨をご紹介しておく。
……先日、「反日分子」という言葉を使った国会議員がいた。この言葉を聞くと、かつて必ずそれに続いた言葉も思い出す。「暴戻なる支那を膺懲(ようちょう)すべし」という言葉だ。「戦争について」というテーマだが、戦争を時間的にとれば五千年、空間的にとれば地球全体に広がる。その捉え方にはいろいろあるが、自分の中に投入して身近な状況から考えるという捉え方をしてみる。
5歳か6歳のとき、号外を見た。写真入で張作霖の爆殺を報ずるものだった。日本軍が殺したんですね。それを全部隠した報道だ。そのとき以来、日本人とは悪いやつだ、と思っており、その考え方を変えたことはない。事実を新聞は覆った。『朝日』も『毎日』も全部そうだ。今でもそう思っている。「この前、お前たちはノモンハンを隠したな。今度は何を隠すんだ!」という思いだ。大学出の者が記者になるようになってから、新聞はだめになった。その前のほうがずっとよかった。先日、「九条の会」のことで記者会見に出たが、そこではそんなこと言えませんよね(笑い)。今日はいないから、ちゃんと話す。1928年以来、日本人は悪い、とくに東大教授なんて悪い、とずっと思っている。
1945年、敗戦直後に訪ねてきた人物がいた。「これからアメリカは全体主義になる。日本は今まで全体主義だったが、そうなった経過を説明してもらいたい。それは今後の参考になると思うから」というのだ。大学の同窓会名簿を見て訪ねてきた同級生、エリック・リーバーマンというアメリカ人だった。私は、そのとき、彼の言葉を信じられなかったのだが、9・11事件の後、ブッシュは「われわれは十字軍だ」と言った。リーバーマンの予言は当たった、とそのとき思った。驚いたねぇ。これが私のもっている身近な状況を通じての戦争だ。
日本の知識人はダメだ。東大出は特にダメだ。そういうと、「あんたはハーバード出だからそんなこと言うんだろ」というバカなことを言うやつがいる。ぜんぜん違うんだ。アメリカ国家が出来たのは1776年、ハーバードが生まれたのは1636年、国家なんかよりずっと古い歴史があリ、国家を超えているんだ。この大学は、牢屋に入れられていた私に学位をくれた。日本の大学のどこがそんなことしますか。「国家社会」ということがよく使われ、言われる。どうして、そう一口に「国家」と「社会」を
くっつけてしまうんだろう。社会がまずあって、それから国家ができるんだ。「国家社会」なんて言葉は、大学がつくりだしたものだ。国家は敵、新聞も敵です。
「公」(おおやけ)という言葉も危ない。「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ……」(教育勅語) あの「公」ですよ。こうして言われる「公」とは国家のことです。横井小楠はそこをわかっていた。だから殺されたんです。「公」はいつも捻じ曲げられてしまうんです。そうするのは大学で、大学がよくない。
これからも、国家に対して、言うことをきかないという姿勢を貫く。非暴力ではあるが、不服従だ。かなりの歳で、もう引退したいのだが、事件のほうが外から次々と出てきて、動かざるを得なくされる。最近、全称命題を使って生きることにしている。たとえば「東大総長は頭の中に脳みそではなく豆腐が詰まっているから話をしない」とか「東大教授と一緒には飯を食わない」とか……(笑い)。だけど、よく食言をする。「もう東京には出てこない」なんてのもあったが、今月は東京は2度目だ。先日「九条の会」の記者会見で来ざるを得なくなった。あの会見では驚いたね。小田実が現れると、事前の打ち合わせもないのに、全部決めちゃうんだ。「あんた、事務局長をやれや」とか、「7月24日に最初の講演会をやろう」とかね。ベ平連のときは9年間なんとか耐えて生き残れたんだが、今度は小田実の「部下」として死ぬことになるな、と覚悟したね(笑い)。…… (以上、文責=吉川)
この後、和歌山県から参加された90代の本多立太郎さんのお話や、樺美智子の研究をしていて、この6・15の集まりのことを知って訪日したという韓国人学生、平和のバンダナを6・15から販売することにした、という大木晴子さん、小林トミさんの本を編集した岩垂弘さん、1931年生まれで中学生のとき、学徒動員で特攻機をつくっていたという倫理学者の堀
孝彦さんなどが、次々と発言した。
本多さんは、ピースボートに乗ってダナンまで行ってきたが、乗船者のなかでは20代と60代が一番多かった。20代の人に、こんなに長期の旅で、勤めのほうはどうなってるのか、と聞いたら、「あ、やめました」とあっさり言う。ちょっと心配になった。これだと、戦争――「あ、始めました」「やっちゃいました」とあっさり答えられるんじゃないかな、と話した。堀さんは、「学習指導要領」の中では、かなり以前から「国家社会」という表現をずっと使っている。国家を否定するのは至難の業だが、最近、丸山眞男の「天賦人権」という表現を考え直している、と発言された。私も発言したが、それは経験の継承ということが非常に難しく、6・15経験にしても、安保闘争にしても、ただ記録として残されるだけでなく、今の若い世代に関心を持ってもらえるような工夫に努力が必要だ、という趣旨のことを述べた。
このあと、参加者は、国会南通用門へ行き、門前に花を供えて、故樺美智子さんへの黙祷をささげた。これには、社民党党首、福島瑞穂さんも顔を見せた。
なお、南通用門の自動車通路には、「テロ」対策であろう、電動式で道路の下から太い丸い鋼鉄製の円筒がせりあがったり、引っ込んだりする設備がつくられており、驚いた。昨年の6・15のときには、こんなものはなかった。