[背景]
1991年、寿和工業は小和沢産廃施設計画を伝える。当時御嵩町だった長平井儀男氏は「施設計画は不適切」と述べていた。1994年3月、平井町長を県庁に呼び「施設が必要」と説得し、その後半年にわたって打ち合わせを重ね、強力な県の介入が行われる。1995年2月、町民への情報提供の努力を怠ったまま街執行部は「振興協力金」などの名目で35億を受け取ることなどを記した協定書を寿和工業と締結し、産廃受入を決定した。
1995年4月、町の闇行政に不安を覚えた住民は、柳川喜郎氏を説得。ガラス張りの町政を掲げた柳川喜郎氏が御嵩町町長に当選する。1995年7月、町議選が実施される。柳川町長柳を孤立させないため、川氏の戦況に関わった人達の中から新人候補が出て、多数当選して多数派をしめ、11人の町議が所属する会派「清流クラブ」が作られる。議会は改めて「小和沢産廃建設」に異議を唱えた。
柳川町長は情報を公開していった。1996年1月30日、岐阜県環境衛生部長に対して「御嵩産業廃棄物処理場計画への疑問と疑念」と題した質問書を提出。その中で数々の問題点を指摘した。
1996年10月30日、柳川町長が何者かに襲撃され、重症を負った。何とか一命はとりとめた。いまだに犯人は捕まっていない。1991年に産廃施設計画が浮上して以来、反対運動を始めた住民に対する嫌がらが行われた。脅し言葉だけでなく、血だらけの兎の脚を玄関前に置いていった事もあった。
柳川町長襲撃以来町はガラっと変わった。町長1人を楯にして、産廃問題に口をつぐんでいた状態を反省し、住民投票で意志を表明しようとする意見が多数を占める。1996年11月12日より「条例制定推進委員会」は署名集めに入り、厳戒下、1週間の間に有権者の1/50の300人の約3倍の1150の署名を集めた。1ヵ月あれば有権者の3割以上集める自身があったが、安全第一ということで1週間で終える事にした。代表者である田中保氏は防弾チョッキを着ての緊張下での署名集めであった。
「条例制定推進委員会」は町長が襲撃された後、「みたけ・未来・21」「柳川よしろうを囲む会」「みたけ町・女性のつどい」「みたけ産廃を考える会」の4団体が中心となって結成された。
1997年1月7日、住民投票条例案を審議するため臨時議会が閉会する。柳川町長は「産廃建設は町の将来にとって極めて重大な問題であり、住民の意志を知りたい」として、同条例案を提案した。会期は14日まで行われ、議員提案で条文を一部修正し、賛成12人反対5人で条例は修正可決された。1月21日に公布され、6ヵ月以内に住民投票が実施される事になった。住民投票は6月12日告示、22日投開票で実施すると選挙管理委員会に通知した。
1997年5月8日岐阜県が策定した「調整試案」が突如として浮上する。県が県廃棄物問題検討委員会の要請を受けて寿和工業案をベースに策定したもので、寿和工業に幾つかの「改善」をほどこした物だった。5月半ば以降、県は廃棄物対策課名でこれを説明したイラスト入りのカラーパンフレットを刷り上げ、御嵩町内の産廃推進派が世話人となって開催した説明会に、県職員がパンフ持参で連日連夜足を運んだ。県による大きなてこ入れで、住民投票は混乱する。
「寿和工業案」が住民投票にかけられるのであり「県の調整試案」は全く関係ない。しかし、一部の有権者は、この調整試案の是非で投票しようとしていた。県は賛成票を増やすためでは無い、住民投票を混乱させるつもりは毛頭無い、と弁明した。混乱以外のなにものでもない。柳川町長は「住民投票は1月14日に制定された条例に則って実施されるものだが、このとき調整試案といものは全く存在していなかった。したがってこの案は今回の住民投票で賛否を問われるような対象にはなり得ない。それにしても、投票日が迫ってから、県がこうしたものを示し、町民の間で誤解が生じているのは大変遺憾」と発言。
1997年6月22日、住民投票が実施された。投票率は87.5%、反対10,373票、賛成2,442票(有権者14,882人、投票数13,023)だった。普段は選挙に行かない20代の若者が積極的に参加した。投票では高い得票率と圧倒的な反対が表明された。
この御嵩の住民投票後、全国的に住民投票の気運が一気に高まった。
参考本:木曽川をまもる 実践社
住民投票 日経経済新聞社
[感想]
案内は「みたけ産廃を考える会」の女性にしていただいた。御嵩町には5つのゴルフ場があり、現在2ヶ所で造成中。町の総面積の20%がゴルフ場だ。「ゴルフ場に関しては「嫌だね」と言っているだけだった。だけど産廃は皆で止めれた。」そう語った。産廃問題の土地に何故かゴルフ場が多い。双方とも、狙われる土地が同じな為だろう。また、その狙われる土地は水源に近い山に近い土地が多いのも事実である。
御嵩市街から車で20分程で小和沢に着く。ここは飛騨木曽国定公園に属する美しい山々に囲まれたのどかな谷間である。上から眺ると、何処が産廃予定場なのか分からない。訪ねると「この谷全部が産廃予定地だった」と言う事だった。総面積200ヘクタール(東京ドーム10個分)、あまりに途方も無い話に呆然とする予定地に当然国定公園も含まれている。谷間は水が流れてその地形が形成された場所である。川が流れている谷間に産廃を埋める感覚が私にはわからない。小和沢は奥行きが広く、入り口が狭いイチョウの様な巨大な谷であり、産廃場に狙われたのもそこに理由があると言う。
小和沢に立つ。美しい里山に囲まれた、のどかな谷間だ。
小和沢の谷に立つ。のどかな田舎の谷間である。ここが産廃で埋まらなくて良かったなと思った。この谷間には10件の家族が住んでいた。
小和沢の谷は冬になると道が凍結して陸の孤島になり、そんな不便な故郷に子どもたちは戻ってこない。そこに産廃建設に伴う、移転補償「代替地200坪+1億2千万」。この谷間に住んでいた10件のうち8件は立ち退きを選択し、他の土地に家を建てた。
家を建てたが受け取ったのは立ち退きの手付け金6千万であり、残りの6千万は産廃処理場凍結を受けて凍結状態である。「移転補償」相当の家を建てしまった家族は、今後どうなるのか途方に暮れていると言う。トンビがくるくると舞っている。10件の1件が餌をやっていたそうだ。
木曽川を渡り、対面から谷間を入口側から見る。谷間は木曽に隣接している。写真の下に見えるのが木曽川である。産廃を塞き止めるコンクリートは木曽川から50m程の地点に建設される予定だった。あまりも木曽川に近いのには、改めて産廃処分場の計画性を疑う。産廃業者も岐阜県も立地条件などどうでも良いのだ。名古屋の議員がこの地に立ち、あまりに木曽川に近い為、唸り「頑張って阻止してくれ」と言ったのも頷けるだろう。
御嵩町はすぐ側を通る木曽川の水利権がない。戦国時代の水利権というものがいまだに存在している。当時、住民エゴなどと批判する評論家達がいたがそれは全く見当外れである。御嵩町民は木曽川水系の多くの住民の水源を守ったのだ。その誇りある住民投票の結果の意味をこの地に立ち改めて感じた。
谷間のすぐ側を流れる木曽川
木曽川の対岸から小和沢を写す。V字に見えるのが産廃に狙われた小和沢。下に木曽川が見える。また小和沢からの水が確認出来る。
高レベル放射性廃棄物の地下処分を実験する超深地層研究所である土岐・瑞浪は御嵩町の隣りに位置する。御嵩町の産廃場はクリアランスレベルに合格した低レベル放射性廃棄物の廃棄場所になり、放射性廃棄物一大地帯になる可能性は極めて高かったと見られている。そういう流れで考えると、御嵩の産廃問題がよくこの程度でおさまったとも言える。「柳川町長が町長の間は大丈夫だ。だが、交代の時は気を付けなければならない」と案内してくれた方は語った。今後も予断を許さない状況にある事は間違い無いだろう。