TKOPEACENEWS
  1面(2) NO.10号/00.9.1発行

核も戦争もない21世紀を!被爆55周年原水爆禁止世界大会の報告(2)

ながさき

2000/8.7〜9


写真/原爆投下爆心地公園にむけてのデモ行進

長崎大会 8月7日〜9日

写真/高校生平和大使に決まった、石司真由美さん(左)と宮原優子さん(右)


(1)開会総会
 長崎大会の開会総会は、午後4時から市内長崎ブリックホールに海外代表と全国の仲間2,500人が参加して開催されました。
「戦争と核の時代」とも言われる20世紀最後の原水禁大会にあたり、人類にたいして二度と核兵器の惨禍が繰り返されないように「長崎を最後の被爆地に」とのアピールを内外に発信する開会総会。
 総会においては、広島原爆の残り火から点火したトーチを県内全域でつなぐ「反核平和の火リレー」26日長崎市松山町の平和公園を出発し、佐賀県内を含む約380キロのコースをリレーし、8月3日同町の原爆投下中心地にゴールした活動が報告されました。
 この活動は今年で16回目。県平和・労働センター青年女性協議会などで作る平和友好祭実行委員会の主催で延べ600人が参加。
 そして長崎大会でもっとも盛り上がったのが、長崎市内の平和団体などでつくる「核兵器の廃絶をめざし、すべての核実験に反対する長崎ネットワーク」が高校生を対象に公募で選ばれた、高校生平和大使2人を紹介したときでした。被爆地長崎から海外に平和のメッセージをとどける今年の大使は、県立長崎西高校2年生、石司真由美さん(16)と県立大村城南高校2年生、宮原司優子さん(16)。
 2人は8月22日〜30日、スイスの国連欧州本部で軍縮会議事務副総長に平和のメッセージを伝える。そのごベルリンの壁、アウシュビッツ強制収容所跡なども訪問する。
 会場において、石司さんは「年を取った被爆者の悲しい体験を世界に伝えたい」と抱負。宮原さんは小学生のときは沖縄に住んでいたので、沖縄地上戦の体験をきいて平和の大切さや命の尊さに触れた、「外国の同世代の人達が平和をどう考えているのか知りたい。」と抱負。
 昨年派遣した高校生大使と今年の大使の決意を聞いた仲間は、高校生のしっかりした平和感覚にすっかり関心したようで、会場での派遣にむけてのカンパが60万円を越えた報告には会場がドッとわく一幕もありました。

(2)分科会と交流の広場
 分科会はしない7会場で開催され内容はほぼ広島大会と同じ、そのため長崎大会の広場について報告することとします。
 佐世保基地めぐり
 チャーター船で佐世保港内の米軍基地の現状を視察する。佐世保を母港としている強襲揚陸艦「ベローウッド」の基地これまでベトナムにも中東にも湾岸にもここから出撃している、このほか原子力潜水艦の寄港もたびたびあり、米第7艦隊旗艦ブルーリッジなども入港するなど、横須賀、岩国とならぶ米軍の重要な軍港。
 被爆2世との交流
 「援護なき差別から差別なき援護へ」がテーマ。被爆2世問題とはなにか。被爆2世運動の現状と課題について交流を深めるとともに、放影研が実施しようとしている「被爆2世健康影響調査」を契機に、被爆2世に対する国の援護施策を求めていく姿勢を明確に打ち出します。



 ◆被爆者との交流─語る会

写真/被爆の体験を話す被爆者、8月8日平和祈念館


 会場の平和祈念館は、長崎県被爆者手帳友の会会員10万人によって3月に完成。
被爆者からの被爆体験は次のような報告でした。

・日本政府は米国に対してこれまで原爆投下攻撃に、これだけ多くの犠牲が出ているのにもかかわらず一切補償を求めていないので被爆手帳の会として、この秋、米国国防総省に補償をもとめての要求書をもっていくことにしている。
・軍事工場で魚雷をつくっているときに被爆し右手と右目をうしなった。
・会館内には多くの原爆攻撃直後の絵が壁にかけてあり、この絵は被爆者が書いたもですとの説明。長崎市は軍事基地であったため、写真撮影が厳しく制限されていたために、原爆投下直後の20時間の写真は少ないがこうして絵で残している。
・原爆投下の直後、警察のボウロウの上から長崎駅方面を見ていたが、3分〜5分ほどしたときにキノコ雲をみたので、この絵を書いた。
・被爆者が校庭にいっぱいで、その死体を毎晩毎晩焼く手伝いをしたが、いまもその時の匂いが消えない。その時の状況を絵に書いたのです。
・私は(女性)兵器工場で働いていた、地下室の文書をとりに降りたときに爆発が会った、気が付いたら建物は爆風で飛ばされ、鉄骨だけがのこっていた。周囲には目だけあけて死んで居る人が大勢いた、多くの人が水をくれ、助けてくれというが助けることができなかった。
・兵器工場に学徒動員で働いているときに被爆するが、他の被爆者の救助を手伝った、全身ヤケドの被爆者への薬はなく、チンク油と赤チンだけでたちまちハエがたかり、傷口にウジを生み付けてそのハエを追うのもウチワだけでした。
・怪我をしていないのに多くの人が死んでいったが、いま思うとそれが放射能がと原因と思う。


(3)閉会総会と非核平和行進
 県立総合体育館おいて午前9時から開会し、九州各県自治体に非核平和宣言の採択を求めた、自治労バイク隊の行動の報告、海外代表のあいさつ、別項の大会宣言を採択して、被爆55周年原水爆禁止世界大会は終了しました。
 午後10時より、被爆55周年・子どもたちに核のない未来を!非核平和行進として、爆心地公園に到着後、原爆投下11時2分のサイレンを合図に全員で黙祷し、その後各県ごとに総括集会後解散。

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