毎日新聞2006年08月20日朝刊4面11版 =====================================       21世紀を読む:昭和天皇と小泉首相          靖国参拝めぐる差異                原武史(はら・たけし)                明治学院大教授(日本政治思想史)。                1962年生まれ。                著書に『大正天皇』『可視化された帝国』など。                ケンブリッジ大客員教授として在英中。  私は 在る時に、A級が合祀(ごうし)され その上 松岡、白取(原文のまま) までもが。 (中略)だから 私あれ以来参拝していない。それが私の心だ−−− 7月に公表された富田朝彦・元宮内庁長官のメモに残された昭和天皇の肉声である。  これが事実だとすれば、昭和天皇は靖国の祭神に強いこだわりをもっていたこと になる。いいかえれば、自分がいかなる神に向かって祈っているかについては、最 晩年に至るまでずっと自覚的であったといえる。  その背景には、戦時中の自らの祈りが間違っていたという痛烈な懺悔(ざんげ)の 念があったと思われる。1937年の日中戦争勃発(ぼっぱつ)から45年の敗戦ま で、昭和天皇は毎年4月と10月の臨時大祭に合わせて靖国神社を参拝した。さら に42年12月12日には、伊勢神宮に戦勝祈願の参拝に出かけている。  天皇が靖国を参拝した時間はすべて「全国民黙祷(もくとう)時間」とされ、植民 地や「満州国」を含む全国で1分間の黙祷がなされた。43年と44年の12月 12日にも、天皇が伊勢神宮に参拝した時間が「一億総神拝の時間」に定められ、 同様の黙祷がなされた。  しかし、敗戦は、天皇をして自らの祈りに反省の機会をもたらした。侍従次長だっ た木下道雄の46年1月13日の日記には、「(伊勢)神宮は軍の神にはあらず平 和の神なり。しかるに戦勝祈願をしたり何かしたので御怒りになったのではないか」 という天皇の言葉が収められている。科学者でもあった天皇は、これを「非科学的 の考え方」(木下日記)であることを認めるものの、「伊勢神宮の御援(おたす)け」 (同)がなかったという思いは、やはり戦後も長く、深く心に沈殿せざるを得なかっ た。  この思いは、おそらく靖国にもつながっていたはずだ。靖国とは、国を平安にし、 平和な国をつくり上げることである。だが結果として天皇の参拝は、日中戦争や太 平洋戦争で戦死した兵士を英霊としてたたえ、多くの若者を戦場にかりたてる役割 を果たしてしまった。45年11月20日、天皇は風邪気味だったにもかかわらず、 「大切なれば是非行く」(木下日記)と言って靖国神社の臨時大招魂祭に参拝した が、これもまた戦時中の自らの行為をわびる気持ちから発していたのではなかろう か。  ここには、天皇がまず第一に責任を感じていたのは神に対してであって、国民 (ましてや侵略された地域の人々)に対してではなかったという重大な問題がある。 しかし、その神に対する責任感を、天皇が戦後も一貫して忘れることはなかったの は、7月に公表された富田のメモからも明らかである。  一方の国民はどうか。戦時中に天皇とともに靖国神社や伊勢神宮に祈り続けたこ となど、とうの昔に忘却してしまっているではないか。もとより小泉首相もその一 人であろう。首相の靖国参拝には、8月15日という日に対するこだわりは感じら れても、天皇のような祭神に対するこだわりは感じられない。「特定の人のために 参拝しているのではない」「戦没者全体に哀悼の念を表すために参拝している」と いう首相の言葉は、まさにそれを表している。神にこだわらないということは、祈 りが真剣かどうか疑わしいことを意味する。それは戦時中の国民の祈りと同様、多 分に形式的なものといわざるを得ない。  私はいま、英国ケンブリッジでこの原稿を書いている。16世紀に完成したキン グスチャペルなど、市内には礼拝堂や教会がいくつもある。ここでは祈りが生活と 一体になっている。しかし日本のような国で、祈りを習慣として持ち続けることは かなり難しい。皇居に住み、宮中三殿で日常的に祈る生活を宿命づけられている天 皇は、数少ない例外に属するのかもしれない。私は国民に対して自らの責任を言明 しなかった戦後の昭和天皇に少なからぬ違和感を持つが、天皇と小泉首相の靖国参 拝に天と地ほどの違いがあることだけは確かである。 ===================================== 文中のルビは、半角文字のかっこ "()" 内に記載。 文中の「黙祷」の「祷」は「示す偏に壽」。「示す偏」は「示」ではなく「ネ」。