142回-参-予算委員会公聴会-01号
教育関係
1998年4月2日(木)
公述人:教育研究家 内藤宏君
日本教職員組合中央執行副委員長 西澤清君
質問者:南野知惠子君(自由民主党:比例区)
小林元君(民友連:茨城)
高野博師君(公明:埼玉)
日下部禧代子君(社会民主党:比例区)
須藤美也子君(日本共産党:比例区)
田村秀昭君(自由党:比例区)
佐藤道夫君(二院クラブ:比例区)
栗原君子君(新社会党:広島)
《省略》
午後一時二分開会
○委員長(岩崎純三君) ただいまから予算委員会公聴会を再開いたします。
休憩前に引き続き、平成十年度総予算三案につきまして、公述人から御意見
を伺います。
まず、教育について、公述人、教育研究家内藤宏君及び日本教職員組合中央
執行副委員長西澤清君にお願いいたします。
この際、公述人の方々に一言ごあいさつ申し上げます。
お二方には、御多忙中のところ本委員会に御出席いただき、まことにありが
とうございます。委員会を代表いたしまして厚く御礼申し上げます。
本日は、平成十年度総予算三案につきまして皆様から忌憚のない御意見を拝
聴し、今後の審査の参考にいたしたいと存じますので、どうかよろしくお願い
いたします。
次に、会議の進め方について申し上げます。
まず、お一人二十分程度で御意見をお述べいただき、その後で委員の質疑に
お答え願いたいと存じます。
それでは、内藤公述人からお願いいたします。内藤公述人。
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○公述人(内藤宏君) ただいま御紹介にあずかりました内藤です。
長い間あちこちで講演して歩いていますと、大抵演壇で話をするのが講演で、
僕は講演するのが好きでないものだから演壇をおりて大概下まで歩く、それが
話なんですね。だから、きょうは話をしに来たというんですが、このごろ年の
せいか怒ったりするもので、話じゃなくてしかりに来たなんというときがあり
ますから、話が乱暴になることがありますので、ひとつよろしく御容赦くださ
い。
そこで、早速ですが、「参考のために」として、参考資料とするのが好きで
ないから「参考のために」と書いたので、きょうは教育改革のことについて具
体的な話をしたいと思っています。
まず、どうすることが教育改革なのか。教育改革改革と言うけれども、一番
基本になるのは教育の意識改革だということです。その意識改革があって、そ
の絵でいいますと、その上にあるのが制度の改革、さらに大人自身の自己の改
善。大人がさんざっぱら悪さをしていて、そして子供によくなれと言ったって
これは無理な話なんで、泥棒が泥棒をするなと言っているようなものなんだか
ら、そんなむちゃな話はない。この意識改革と制度の改革、さらに大人の自己
改善、この三つのことが並行していかなきゃだめだということです。あちこち
ばらばらではだめだということです。
制度の改革だけでだめだと言っているのは、四角いいすを丸いいすに変えて
みたところで、座る人間がだめならこれは同じことなんです。金がかかるばか
りでどうにもならない。でも、制度の改革をしてはいけないと言っているんで
はない、それほど効率は上がらないと言っている。人を変えなきゃだめなんで
す。
そこで、普通講演をして歩くときに最初に言うことなんですが、この二番目
のところに書いておきましたように、おととしですからもうこの五月で二年に
なると思いますが、おととしの五月三十一日の午後四時です、名前は言いませ
んが文部省に電話をして、何を聞いたかといいますと、知育に対する定義を聞
いたんです。
なぜかといいますと、出版社の辞書によって全部違うんです。ここに書いて
おきましたが、ある出版社は知能のことだけが書いてあって、ある出版社では
知能と知識のことが書いてある。僕もぼんやりしていたんですが、こんなこと
を五十年間このままほってあったということが大体基本から間違っている。お
ととし、二年も前に言ったのに、いまだに文部省はそのままほってある。そん
な精神で教育改革ができるわけがないんです。
僕は、そのときにその人がまともに言ってくれたらば、知育の中に知識とい
うものを入れたところが間違いなんだと言うつもりでいたんです。すなわち、
知識を与えるということは教育ではないんですよ。知識を与えることが教育だ
と思っているからこうなった。もし知識を十分に与えることが教育であり、教
育というのは教養を身につけさせることなんですから、それなら大蔵省だの日
銀だのであんなややこしいことが起こるわけないんです、みんな教養があるん
だから。知識はあっても教養がないからああいうことになるんです。
それでは、なぜ教養がないかというと、教えることを間違ったんです。いわ
ゆる教養に当たるところのものを教えていないんですね。すなわち、知識とい
うのは頭に入るもの。もっとわかりやすく言いますと、子供に食事を与える、
これは与えるんですから飼育なんですよ。だから、それは人間に知識を与える
のと同じことなんです。これは精神的飼育なんです。その子供に食事のマナー
とか食事の仕方を教える、これが教育なんです。
仕方を教えたけれどもさっぱり、例えばひじをついて食べている者に教えて
一向に直らなければこれは教育の効果が上がらなかっただけであって、しかし
一度言ってすぐ直ればそれは効果が上がった、その場合にその子供には教養が
身についたということになる。教養は身につくのであって、頭につくのじゃな
い。知識は頭に与えるもの。この二つがはっきりと区別できていないからこう
いうことになるんです。
ですから、知育の中に、知能を磨き知識を増すための教育なんというふうに
小学館ではなっていますけれども、知識を増すこということは外に取り出さな
きゃいけない。教育は、ですからそういったような、そういう意味の知育、徳
育、体育のこの三つが教育の基本だということになる。
そして、育てられた子供には教養があるのだから、ちょっと言い方を間違え
ましたが、要するに教養のない人間に印刷の知識を与えるからにせ札をつくる
んですよ。そんな者にそれを教えちゃだめなんだ、余計なことは。教養を身に
つけさせることが先なんです。
そこで、昔の北海道のいわゆる札幌農学校ですけれども、あそこで傑物を出
したクラーク博士は何と言ったかというと、実りある教育はどれだけ多くの知
識を与えるかではなくて、どれだけすぐれた人間を育てるかにあると。乱暴な
言い方をすれば、猿を人間にするのが教育なんですよ。猿のまま知識を与える
からろくでもないことをやるんです。それだけのことなんです。それを既に間
違っていたということです。要するに心、教養を身につけさせるためには心の
発達をさせなきゃいけない。
では、その心の発達に何が一番重要かというと、遊びと言葉なんです。私の
言う遊びというのは、手足を動かすことはすべて遊びです。ですから、手足を
動かしてよく運動をさせる、いろんな仕事をさせる。草むしりでも何でもいい、
家の手伝いもさせる。そういうことをさせながら会話をする、言葉の交換があ
る。動作と言葉が同時に並行していったときに、初めて人間というのはそこに
心が発達するんです。いわゆるそれが心の発達の三要素、言葉と遊びと家事手
伝い、こういうことになるわけです。
その中で一番重要なのは言葉なんです。言葉の使い方を失敗すると、まず今
のような問題が起きます。
ちょっと話が飛びますけれども、私は大分あちこち長いこと講演して歩いて
いますが、最近数年間やった中でのことを言いますと、もうどこも教育の意識
改革をしてくれないから僕は自分でやっているんで、何年間か一人で意識改革
しています、今言ったような考え方で。そうしますと父兄が大変喜んでくれて、
もっと十五年も早く聞いておけばよかったとか、大変気分がさっぱりしたとか、
元気が出たとか、安心したとか、仮に講演が終わって三十分ぐらいお茶を飲ん
で外へ出ると、三十人も四十人もお母さんたちがいて、わざわざ待っていてお
礼を言って、あいさつまでしていってくれる。握手して帰る。それくらい喜ぶ
んですよ。
なぜ喜ぶかといったら、心の話をしているからです。物の話なんかしていな
いんですよ。今言ったように、何を間違っているかということで、そこでよく
言うことはこういうことなんです。話がさっさと飛んで申しわけないですけれ
ども、頭のいいところで後で整理してください。こういうことなんです。
教育の真の目標は思いやりの心のあるたくましい人間を育てること、これが
真の目標です。だが、これは真の目標なんであって、思いやりのある子になり
なさい、我慢強い子になりなさい、いじめちゃいけないと言ったって直らない
んです。いじめちゃいけないと言っているから、いじめなんか直らないんです
よ。我慢しなさいと言ったって、我慢なんかするわけないんです、子供は。こ
の言葉は使ったらだめなんです。
では、どうして思いやりのある子にするかというと、その次にある友達をた
くさんつくろうということを具体的な目標に置くんです。しかも、学校の目標
はそれ一本でいいんです。余計なことをごちゃごちゃ欲張ってくっつけるもの
じゃないんです。全国の学校全部がこの目標一本に絞るんです。あっちの学校
はこう、こっちの学校はこうではだめなんです。全部の学校をその目標一本に
絞って、そして党派を超え、衆参両院の議員の皆さんがたくさんいるんですが、
国民がみんなでそのことに向かって進んでいけば、必ず意識改革なんかできる
んです。
教育の意識改革ということはできるのですか、できませんかと聞く人がいる。
できるできないじゃないんです。しなきゃならないんです。そんなこと考えて
いる暇なんかないんですよ。一日延ばすと、事故が一日に百六十五件起きてい
ますからね。そういうふうなときに、のんびりしていられないんだということ
です。しなきゃならないということを頭に入れておいてください。
そこで、二つのその目標、例えばこれだけは言っておきますけれども、友達
をたくさんつくるためにはいじめていてはいけない。明るくて元気な方がいい。
優しくて思いやりがある、約束はよく守る、それから得手なものを一つつくっ
ておくということが大事なことです。人の話をよく聞いてあげる。でないと、
友達になってくれないんです。
じゃ、みんなが友達をつくろう。親もうちへ帰ってきて、子供が帰ってきた
ら、おまえ、友達できたかと聞く。先生は、おい、おまえ、学校じゅうの者を
みんな友達にしろと。駅に行けば、友達をたくさんつくろうなんという垂れ幕
が下がっていたら、友達をつくらないのがおかしくなっちゃうから一生懸命に
なる。それでいいんです。
そして、やたらに勉強しろ勉強しろと言うけれども、これはちょっと時間が
ありませんから省略しますが、僕の方針は、僕は幼稚園から小学校、中学校、
高等学校、大学とやってきましたから全部知っています。大学に行ったやつも
いる。一番いいのは、悪さをして手に負えなかった、これが一番思いやりのあ
る優しい子になっている。そして、ストレートでもって東大、東大と言っちゃ
失礼ですけれども、東大はいっぱいいるかもしれないが、優秀なる上等な学校
を出られた、これがまた実に冷たい。遊びと勉強とはそこの違いがある。これ
は説明すると時間が長くなりますから省きます。
ですから、突っ張りの中から傑物を見つけるのが教師の仕事なんです。優秀
な人間に教える、そんなものは隣のどこかのおじさんにやってもらえばいいん
です。ストレートで優秀な学校へ行くやつは好きにさせときゃいいんです。もっ
とほかに傑物がいるんですよ。明治を動かした傑物なんというのはみんなその
系統ですよ。今ああいうのがいないからおかしくなっちゃったんです。そうい
うことなんですよ。
まず、そういう目標を持つということ。そして、もっと先まで言ってしまい
ますが、教育改革という問題になっていますけれども、これは過去に例がない
んです。教育史上にもないんです。諸外国にももちろん例なんかありゃしない。
今は英国だの米国だの一生懸命やっていますけれども、これからこの教育改革
に成功した国がもし日本であれば、日本は初めてここで二十一世紀をリードで
きる。二十一世紀をリードできる国は教育をかち取った国なんです。だから早
く考えなきゃだめだと言っているんですよ。
それからもう一つは、友だちをつくろうということを言っていくときに一緒
に、学校ですから、あるいは親でも言っておいてやったらいいんですが、二十
一世紀は友だち、すなわち人が財産だということを教えなきゃいけない。物の
財産、金品が財産、お金が財産だという時代はもう終わりなんです。お金が財
産だなんて言っているから人を殺して金をとるんです。お金が財産だと言って
いるから悪さをするんですよ。悪さ、知っているでしょう、たくさんいる。あ
れは物が財産、金品が財産だという教育をされているからああなっちゃうんで
す。
では、人が財産だと言うと本当に財産価値があるのかということになります
けれども、簡単な話が、友だちのところに行けば物が安く買えるから物理的な
財産価値があるんですよ。フォードはどうしたかというと、あの人は自動車の
ことしかわからなかったために、友だちをいっぱいつくって、そして自分の知
らないことを知っている者をうんと集めてそこに頭脳協力集団というのをつくっ
て、それであそこまで行ったんです。
ですから、友だちが多いということはそういう意味で精神的な財産価値があ
る。では、財産を失うのが嫌だから人を殺すわけないじゃないですか。そうい
うことも洗脳していかなきゃだめなんです。
それで、私が講演して歩いているところはみんなそうです、みんなもうよく
わかっている。書名は言いませんけれども、去年の八月にある本を出しました。
遠慮なく威張って言っておきますけれども、ある本を出しました。その本を読
みまして、ここにいろんな、あいつ、うそを言っているなとなると困っちゃう
から、資料も持ってきたし、それから手紙をもらったのもみんなこうして持っ
てきています。
それはどういうことを言ってくれているかというと、親も先生も僕のあの本
を読んで大変感動しましたと。それから、生徒。私はその本は中学生、高校生
が読めるように書いたんです。だから、高校生、中学生が読んで、その連中が
言ってきます。お母さんにこう言っている、これを学校の先生に読んでもらう
ように言ったらいいと。そんなの当たり前なんだ。そういうふうにつくったん
です。それから、若者がいると、若者はこの間手紙をよこして、先生の本を読
みました、納得、納得といって手紙が来るんです。
では、親が納得して子供が納得して先生が納得しているんだったら、僕に言
わせればそれを、何も売らんかなで言っているのではなくて、傍らに置いてお
いてやれ。きのうも、先生、五回読み直しましたとある銀行の支店長が言って
きた。それを傍らに置いておけばいいと言う。
ところが、最近、大和市で講演をしたら、こういうことなんです。僕は僕の
本を前に読ませておきます。でも、そうでない人もいる。それで、読んだ人は
感動しましたと言うからそれでいいかと思うと、すぐその本を使って実行に移
す人とすぐに行動しない人がいるわけですよ。そのときに、後から講演する、
講演といってもそんな寝ぼけた講演なんかしたってだめなんですよ。相手を感
動させるような講演をしなきゃだめなんです。相手がそのときになるほどと思
うと、今度はその父兄がこう言っていました。先生、きょうから私は実行しま
す、やっていきますと、そういうふうになる。
ですから、僕の考えでは全国をつじ説法して歩けば教育改革はできるんだと
言っているんです。したがって、これは命がけの仕事だと言っているんです。
そんなのんきな顔をしてできるものじゃないです。いいですか。
ただし、実際にやっていくとなれば、手足になる者を各都道府県に育てなが
らでなきゃできることじゃないんですが、そういうふうにしていけば必ず改革
はできる。僕が今までやってきた間でも、十や二十は講演して歩いていますが、
全部そういっている。
この間、大和市でやったのは三月三日ですけれども、アンケートをもらった
らば、先生の言われたとおり、これからは思いやりの心を持って子供に接しま
す、言われたように、先生のその言葉遣いを、言葉遣いにはうるさいですから、
一生懸命勉強しますと、そうなるんですよ。
さらに絞っていきますと、言葉遣いが出てきましたから言いますが、言葉の
使い方を誤っているからだめなんです。ですから、徹底して言葉の使い方を教
えないとだめです。心の教育というのは、結局は言葉の教育なんですよ。言葉
をしっかりと教えないといけないんです。
この間、生徒の女子教師殺傷事件がありましたね。あの人のときでも間違っ
ているんですよ。そんなに時間はかからないでしょうと言っている。そんなに
時間はかからないでしょうということは、既にもう心の持ち方が冷たいんです
よ。女の先生は、でしょうと言うから、そんなに時間はかからないでしょうと
しり上がりになっちゃう。しり上がりになると心の冷たさが伝わるんです。だ
から、むっとくるわけです、子供は。
せめてそこでやめておけばよかったんですが、これは結果として管理者が悪
いんですよ。女の先生が悪いのでも何でもない、先に言っておきますよ。文部
省から教育長から校長、教頭に至る管理者が悪い。そういうことを教えないの
が悪いんだ。
その次に悪いことには、また授業が終わってから呼んでいる。これは追い打
ちといって、追い打ちの悲劇なんだ。追い打ちをするともっと悪くなる。
さてまた、追い打ちをした後にその次には何と言ったかというと、トイレに
行くなら先生に言ってからにしなさいと言った。行くのならという、ならとい
う言葉を使ったのが悪いのが一つ。
それから、先生に言ってからにしなさいといった命令形は絶対表現になるん
です。こういう絶対表現をすると、ここでまたしり上がりになって感情が入っ
てくる。すなわち言葉が負わせた傷は刃物のそれよりも深いといって、そうい
う傷を負わせている。で、子供はかあっとなる。切れるというのはそのことで
す。
ところが、その子供は、子供の時分からテレビゲームとばかり遊んでいるか
ら言葉の使い方を知らない。スズメでも三十の言葉があって、スズメの言葉を
使ってスズメ同士が遊ぶからスズメらしくなるんですよ。人間も人間の言葉を
使って人間同士遊ばせれば人間らしくなるに決まっているんだ。ところが、テ
レビゲームと遊んでいるんだから言葉がない。だから、言葉を知らない。どん
な言葉に対してでも、親の意見、だれの意見に対しても返す言葉を知っていな
い。だから、何で返したかといったらそれがナイフなんです。
ただ、バタフライナイフは一小節の中に入りますから、音楽で言いますと。
普通のナイフはあけるまでが一小節で、刺すまでが二小節なんです。あれはあ
けて刺すまでが一小節だから、あんなものは、ナイフではあれはだめなんです、
刺すまでが一小節なんだから。だから、ああなっちゃった。だから、すぐあれ
を禁止するのは当然なんです。その他のナイフはどうということはありません。
あっちこっち、とんでもない方へ行ったり来たりしてわからなくなったかも
しれませんが、頭のいいところでまとめてください。普通、三時間も四時間も
しゃべる材料を二十分でしゃべれというのが無理な話なんです。
どうも御清聴ありがとうございました。
(15/39) 次の分割内容へ
○委員長(岩崎純三君) ありがとうございました。
次に、西澤公述人にお願いいたします。西澤公述人。
(16/39) 次の分割内容へ
○公述人(西澤清君) 西澤でございます。よろしくお願いします。
初めに、きょうは予算委員会という場でありますので申し上げておきたいん
ですけれども、政府が教育をその改革の重要な柱に挙げておりました。ですか
ら、私たちは、去年の財政構造改革の議論のときには、教育は違う形、いわば
公共投資型から二十一世紀は教育と福祉を重視する構造に変えるんだろうと思っ
ていましたけれども、聖域なしということで教育も削減の対象になりました。
極めて残念だと思っております。
今、日教組の立場で申し上げますと、日教組はさまざまな政党、とりわけ与
党であります自民党さんとはもう十回にわたる政策協議を行っておりまして、
一致した問題についてはぜひ統一して進めたいと思います。それから、文部省
さんとは非常に一時期不幸な時期があったのでありますけれども、二十一世紀
を前に極めて教育が国民的な課題であるということの中で、やはり行政の立場
の文部省と教育の現場を預かる教職員の代表である日教組が一緒になって教育
改革を子供の立場に立って進めようということを話し合って、今実際にいろい
ろな形で連携をとっているということをまず申し上げまして、話に入りたいと
思います。
さて、きょうの予算委員会でもそうだろうと思いますけれども、いわゆる子
供のいきなり型、突発型という事件、事故が起こっております。その事故のあ
り方について論じられて、その中でいわば人の命を奪うようになったというこ
とから、厳罰に処せば暴発に歯どめがかかるんではないかとか、あるいは問題
が解決するのではないかという議論がありますけれども、私たちは決してそう
ではないというふうに考えております。
それは、事件を起こした子供たちの行動がいかに衝動的なものに見えようと
も、必ず子供の背後には大人社会があって、そして大人の生きざまがある。子
供はよく大人の背中を見て生きると言っておりますけれども、まさにそうであ
ろうと思っております。この種の事件はあくまで結果であって、その結果を導
き出した大人社会にこそ問題があるというふうに私どもはまず押さえるべきだ
と考えております。
いわばバスに乗りおくれるなとばかり言っていまして、今遊ぶことをやめて、
今の競争に勝てということで、いい学校を出て、そしていい会社に入ってとい
うレールを敷いて競争に走らせてきた。そうしたことをまず問い直しをしなけ
ればならないし、一定の点数を学力として、その子の実力、人格までもあらわ
すようにとらえてしまったというようなことについても私たちは反省しなけれ
ばならないと思っております。
このような社会に対して、恐らく子供たちがまるで真綿で首を絞められてい
るような圧迫感を感じているということは事実であろうと思いますし、子供た
ちをそういうところに追い込んでしまったこの社会のあり方について、まず私
たち自身がその責めを第一に問われなければならないと考えております。
そして、そういうことはさきに発表されました中央教育審議会の中でも、父
親も子育てにもっと参加しようとか、異年齢集団の多彩な体験を子供に保障し
ようとかいうことがあります。総花的ではありますが、ここにある危機意識は、
恐らく問われているのは大人社会だという意識が委員の方におありになったか
らだと思います。
ところが、さて問題なのは、この意識を実現できる要素が大人社会にあるか
どうかというのが次に問われるべき問題だと考えています。
今、大人が人としての生きる姿を見せる余裕が本当にあるのだろうか、異年
齢集団の子供たちを集めて、そしてその中で大人たちと子供たちが出会う場面
というのが本当に社会の中にあるのだろうかというふうに考えてみますと、今
の世の中では非常に少ないと思います。
大人たちは働いて働いて、あげくの果ては仕事に命を奪われる。あるいは、
いわゆるいい学校と言われているところから一流企業、中央官庁へと勤めなが
ら、破廉恥な行為や反社会的な儀礼的社交にしか目が向かないで、家庭を顧み
る余裕のないエリートがいる。そういうことの中で、子供たちは漠然とした寂
しさを感じているのではないかと思います。私たちはそうした社会をまず見直
すべきだと考えております。
もう一つは、この日本が築いてきた企業文化であろうと思います。この企業
文化というのは頑健な壮年代の男性を対象としてつくられてきた。そこには女
性や子供の居場所は想定されていなかったのではないかと思います。そして、
女性や子供は頑強で働く男性の文化の中にひたすら引きずられていたんではな
いかと思っています。
例えば、今子供たちの目から見たその日常をちょっと読み上げてみます。
お父さんは毎日、朝早く、ご飯もかき込むように食べて、会社に出かけ
ていく。でも、どんな仕事かは分からない。夜もたいてい夕ご飯には間に
合わない。時々はお酒を飲んで帰ってくる。それも仕事だとお父さんは言っ
ていた。お客さんのご機嫌をとってお酒を飲むのでちっともおいしくない
と言っている。お母さんがそれなら早く帰ってくればと言うと、きっとけ
んかになる。
休みの日も時々ゴルフとか行って、朝早く出かけたりするし、遊園地に
行く約束したときも、金曜日になって、ごめんね、また今度ね、と言って
ゴルフだった。
でも、お父さんは四月から遠いところに仕事で行くから、僕たちと一緒
に暮らせない。僕は転校してもいいって言ったけど、お姉ちゃんが受験だ
から無理だって言われた。だからもう遊園地も無理だと思う。
大方こんな姿が今の子供たちの気持ちじゃないかと思います。
ここには、家庭人として、あるいは趣味に打ち込んだり地域のもろもろの仕
事を引き受けたりする、子供にとって目に見える父親の姿は見えないと思いま
す。私たちはこれをまず改めない限り、中教審の言っている、本当に地域とも
どもに子育てを引き受けようということにならないんではないかというふうに
考えます。
さて、もう一つは、この切れ目のない長時間の労働というのが子供の世界に
もあるということであります。
もう一つの子供の世界というのを作文で申し上げたいと思います。
今日、社会科で、子どもの権利条約というのをやった。国連で決まって、
日本も賛成したから、日本でも効力があるというのが先生の話だった。い
ろんな権利が書いてあったが、休息する権利というのが一番気に入った。
中学に入ってから、部活は朝練とかあるし、塾も行き始めたから、宿題は
いっぱいあるし、なんだかひとつきが過ぎるのがとても早い。ゆっくり寝
たことがないし、いつも眠い気がする。
各種の調査の中で、子供たち、とりわけ中学生の休みたいという声は切実で
す。自我の形成に当たって、さまざまに思い悩むことが必要なこの時期に、悩
む暇すらない猛烈な会社員ばりの生活というのが人間的成長に大きなマイナス
になっていると私たちは考えています。
一方で、学校で働く教職員も、ゆとりを持って子供に耳を傾ける物理的、精
神的な余裕も少なくなっております。
それから、学校の施設設備も極めてそのことに対しては、多分、議員の皆さ
んは御存じだろうと思いますけれども、学校に設置されている電話の数は一・
三台であります。今、インターネットという話がありますけれども、子供がイ
ンターネットに使ったらもう電話は外から通じないという状況があります。私
たちは緊急要求で、ぜひ保健室に電話を一台引いてほしいというのを出しまし
た。学校の中には校内電話がありません。プールで事故が起こると走ってこな
ければならない、そういう状況であります。
さらに、公務員の規則によって、四キロ以内は旅費が出ないということになっ
ておりますから、警察やあるいは家庭訪問など四キロ以内に行くときは先生が
全部自前で持っている、こういう状況が今あるということであります。
そういう中で、私たちはいろんな会議で、教育は未来への先行投資であると
いう視点に立って、学校に集う大人と子供たちの破裂寸前にあるストレスをぜ
ひ解消してほしいということを強く訴えております。
さて、角度を変えて子供の内面から見てみたいと思っております。
人は生まれてから死ぬまで、だれかに認めてもらいたい、そして認められる
ことによって自己を確立する社会的な動物だろうと思っております。その意味
で、いじめの中でシカトするというのがありますけれども、これは極めて残酷
なことでもあります。自己の確立は、言うならば自分の存在に相応の自信を持
つことであり、その自分が他人に認められて初めて他人を自分が認めることが
できると考えております。
しかし、今の教育がそうした場を提供しているかというと、残念ながらあり
ません。受験圧力のもとで、特定教科の点数がイコール人格という形であらわ
されることはさきに申し上げました。そして、子供たちのみずから考える力や
あるいは生きる力を総合的に伸ばすのでなく、多くのエネルギーが受験教科の
学習に費やされてしまうということであります。そして、受験教科以外はやら
なくてもよいと言われております。そして、それらの科目の不得意な子供はお
よそ褒められることがないというわけであります。
九年間、普通の子供はかたい木のいすで黙って座っている。僕は高校の定時
制の教師でありますが、九年間本当に木のいすに座っていてつらかったな、そ
ういう思いを子供がつぶやくときがあります。そして、その認められない子供
たちがさまざまな形で、おれは生きているんだ、ここにいるんだということを
あらわす、そうしなければ自己が崩壊されるというのが、中学校を中心に起こっ
ているさまざまな事件だと考えています。弱い子供、追い詰められた子供は、
自分が死ぬことによって生きているあかしを立てる子供もおりますし、規則を
破ったり暴力を行使することによって存在を示す子供もおります。こうした受
験圧力の吹きだまりが中学校にあらわれている。
私は定時制の教師だと先ほど申し上げました。東京の下町にある工業高校な
んですけれども、一月、二月の時期に中学校に参りまして、ぜひうちの学校に
子供をよこしてほしい、全日制の高校に行かない子供をよこしてほしいといっ
て回るわけでありますけれども、一月、二月の中学校の中は非常にひんやりと
しています。どの子も追い詰められている、そうした表情を見せております。
ぜひそうした子供に笑いを取り戻させたい。そのためには、私たちは高校の入
試はもう廃止した方がいいと思っております。進学率が九七%を超した今、高
校入試をやることにはほとんど意味がないと思っております。
さらに、新制高校が発足したとき、本来なら中等教育は一貫で続けようとい
う話があったんですけれども、これに対して、財政事情で高校で選抜を行った。
選抜制度が教育に好ましい影響を与えないということはわかっていたわけであ
ります。そういう意味では、二十一世紀を迎える今、ぜひ二十一世紀に向けて
高校入試を廃止していただきたいと考えている点であります。
さらに、子供たちがさまざまな困難な状況で、それを支援する教員の体制で
あります。その教員の体制の中で何としても必要なのは財政的裏打ちでありま
す。三十人以下学級ということを実現していただければ、学校かくあるべきと
いうような百の提言よりも、教職員あるいは子供は勇気づけられ、学校はよく
なると考えております。にもかかわらず、財政改革の中で第六次定数改善計画
は見送られております。おくれています。
ぜひお願いしたいのは、十六兆円の予算がこれから審議されると思いますけ
れども、この私たちの計画が延びた予算は二百億であります。そうした予算の
中で、財政構造改革法の見直しがあるならばぜひお願いしたいのは、二百億の
予算をつけて定数の計画を完結していただきたい、そして学校を、教職員を、
子供たちを、保護者を励ましていただきたいと考えております。
さて、最後に申し上げたいのは情報化社会の問題であります。
情報化社会というのは大人と同じ情報を子供が持つということであります。
大人社会と同じような情報を子供たちは皆持っている。しかし皆さん、どうで
しょうか、私たちは子供社会に起こっている情報を持っているでしょうか。大
河内君の不幸な事件が起こったとき、学校は事を見ていた、家庭も見ていた、
地域も見ていた、しかしだれも知らなかったということが起こりました。また、
コンビニの店先で中学生が四、五人おしゃべりをしていただけで近所から警察
に通報があり、さも問題を起こしたかのように扱われたという話も聞きました。
さきに引いた中教審の報告も含めまして、この一、二年、学校だけで子供の
ことを考えるのはやめようという話が出てきております。それは、子供を見る
ときに、その子がどこの子か、何年何組のだれか、どの学校のだれかという以
前に、やはりどこそこの保護者の子供であるということをきちんとすべきだと
思います。
私たちの会合でも、ある親から言われました。子供が事を起こすと警察は学
校に電話をする、学校からうちに来る、話が違うんではないか、この子はうち
の子だ、まず家庭がそれを見るべきだという声がありました。そのとおりだと
思います。そして、その陰にあるのは、子供を見守るのは教職員だけであって
はならないということだと思います。当然であります。
しかし今、子供のこの不幸な事件をきっかけにして、地域と学校が連携する
のではなくて、学校は警察と連携するということが議論されております。これ
は筋が違うと私は考えています。警察は捜査機関であり、教育機関とはまずお
のずと役割が違っているという問題であります。教育と捜査機関を同一の主体
が行うことは警察の役割の範囲を超えると思っております。子供を地域で見守
ろうということは地域で公権力の監視の目を強めようということとは違うと思っ
ております。
先ほど紹介したコンビニの中学生のような状況が蔓延してしまえば、子供た
ちは自我形成の場も時も奪われることになります。不幸な事件や自殺などとい
うのがそれらのことによって決して少なくはならないと私は思います。そして、
何よりもこの子供社会と大人社会をどのように交わらせるかということが重要
であります。
子供の居場所をどのように確保してやるか、これは具体的な物の問題もあり
ますけれども、精神的な問題も含めてであります。何も予算をつけて地域の町
づくりをしろと言うわけではありません。私たち大人が利を受けている地域サー
ビスを子供にも受けさせたらどうか。そして、子供のための施策をやるならば、
その主体である子供たちの意見を聞いたらどうか。子供たちはそうしたものを
つくり上げる中で鍛えられ、そして成長していくものだと考えております。こ
れに参加して責任を持っていく中で、子供たちは責任とその役割を身につけて
いくと考えております。
今、確かに議論になっていますけれども、警察は捜査の専門家であります。
心理学者は心のメカニズムを探求する専門家であります。しかし、子供につい
て言えば、子供の専門家というのがいるんでしょうか。私は専門家というのは
いないと。しかし、逆に言えばここにおるすべての方も専門家だと思います。
子供はすべての私たちの将来であります。未来であります。そういう意味では、
専門家たちが大勢いるわけでありますから、学校任せにはしない、私は賛成で
あります。学校をぜひ地域に開かなければいけないと思っております。
私たちは今まで学校が閉鎖的であったということについて反省をしておりま
す。ぜひ学校を地域に開き、地域の人たちと、そして家庭の人たちと、本当に
開かれた学校、開かれた地域、開かれた家庭の中で子供たちとともに話をして
いければありがたいと思います。
以上であります。
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○委員長(岩崎純三君) ありがとうございました。
以上で公述人の御意見の陳述は終わりました。
それでは、これより公述人に対する質疑に入ります。
質疑のある方は順次御発言願います。
○南野知惠子君 内藤先生、西澤先生、本当に含蓄のあるお話をお伺いできましてあ
りがとうございました。お心の問題と、それから今現状がどうなっているかと
いうお話をいただきまして、いろいろと考えさせられるところがございます。
この教育の問題につきましては、いつの世も同じだろうと思っておりますが、
特に今我が国は高齢・少子社会というものを目の前にいたしております。その
中におきましては、世代間のきずなというものが最も大切なものではないかな
と思っております。
子供や高齢者、特にその祖父母に対する親の考え方、行動、その後ろ姿は子
供たちのかがみになっているものと思われます。家庭における親子の関係は学
校における児童生徒と先生との関係と類似するものでなかろうかなと思ってお
ります。
子供は親を選べない。選ばれないままに生まれてきておりますが、それがい
つの日かまた、高齢者になってからでもいいと思いますが、子供から選ばれる
親として認め合う間柄がつくっていけるならば一番好ましいのではないかなと
思っております。
学校におきましても、先生の手から巣立つときに認め合えるきずなが結ばれ
ることを期待いたしておりますが、そのような子育て、はぐくみはぐくまれる
間柄というものはどのようにしてつくり出していけるものでしょうか。
内藤先生にまずお伺いしたいと思います。
○公述人(内藤宏君) 非常に抽象的な難しい問題ですが、要するに教育の、ちょっ
と的は外れるかもしれませんが、こういうふうな現状になってしまっているの
は──こういうことでいいんですね。具体的にちょっともう一回言ってくれま
すか。
○南野知惠子君 簡潔にお願いいたします。
○公述人(内藤宏君) 簡潔にというのは難しいんですがね。僕の簡潔は、言葉を教
えるということです。それだけなんです。言葉の崩壊が社会を全部崩壊してい
ます。それだけです。
○南野知惠子君 ありがとうございました。
では、それに関連いたしまして、西澤先生いかがでございますか。
○公述人(西澤清君) 親子のきずな、そして私たち教職員と子供たちが卒業した後
につくられるきずな、私たちは何よりもそれを大切にしておりますし、私たち
教員が本当に苦しい中でやっているのは、卒業した後子供たちと本当に面と向
かってつき合えるということであって、きずなが重要であると思います。
このきずなというのは世代間を超えて、おっしゃるとおり、確かにこの高齢
化社会でもやはり高齢者を思いやる、子供を含めて世代間に継承されるべきと
考えています。
○南野知惠子君 それでは、次に西澤先生にお伺いいたします。
これは高齢社会とも関連することかなというふうに思いますが、世間の間で
も荒れというものがあるのではないかなと思います。
親孝行に対して、かつては「親孝行、したいときには親はなし」という言葉
が言われておりました。今どのようなことで言われているでしょうか。「親孝
行、したくないのに親がいる」、このような悲しい荒れの社会をどのように私
たちは見ていくのだろうか、それをどのように直していったらいいのだろうか
なと思っております。
先生方の悩み、学校における荒れという問題につきましては、きのうもこの
場で参考人の方からお話がいただけました。また、夜のテレビでも、違うもの
でございますけれども、同様の問題が放映されておりました。これらと関連を
させながら、家庭文化と学校教育とを結ぶ先生とPTAとのかかわり、望まし
いあり方を教えていただきたいと思います。
○公述人(西澤清君) おっしゃるとおりです。
ただ、「親孝行、したくないのに親がいる」というのは、ちょっとそうじゃ
なくて、私たちが実際に扱っていますと、子供たちというのは実に思いやりが
あります。それが、やはり社会に出てなかなか親も一緒に住めないようなさま
ざまな状況の中にほうり込まれちゃうということで、子供たちの本質は非常に
優しいものを持っていると僕は思っております。
さらに、学校の中の荒れで、保護者と私たち教職員とのつながりであります
けれども、御指摘のとおり、非常に私たちも反省しているわけでありますけれ
ども、今まで教職員はどちらかというと学校の中に閉じこもりがちであって、
学校がすべてを抱え込むということであったと思います。そうではない。先ほ
ど申し上げましたとおり、まず子供は唯一、保護者の子供であります。そうい
う意味で、学校を開いた形でPTAの意見を多く聞きたい。
私たちは、学校協議会というものも提案しておりまして、そこで学校と保護
者と地域と子供と学校のさまざまな問題について話し合ったらどうかという提
案をしているところでございます。そうした場ができれば、今の社会教育法に
おけるPTAよりもさらに一段進んだ連携ができるのではないかというふうに
考えております。
○南野知惠子君 PTAの方々と学校との連携の中で、参観日というのはあるんです
けれども、そのほかにPTAの方々と教師及び子供との関連はどのような形で
今つくられているでしょうか。また、今後つくっていこうとしておられるので
しょうか。
○公述人(西澤清君) 一般的に言いますと、多くの学校で学期の終わりに保護者の
方と一緒にその一学期の子供たちの状況について話し合う場を学級ごとに設け
たりしております。
ただ、今PTAから指摘されているのは、それ以外にPTAのPの方が話を
したいというふうに学校の門をたたいても非常に閉ざされていると。一般の先
生が出ないで、どちらかというと幹事役の先生ばかり出てきて、そういう先生
に限られてしまう。そういう意味で、一般の先生ともっともっと交流したいと
いう声が出ておりますし、私たちもそれを受けとめてどのようなことができる
かということで、これもPTAの方と話し合っているところでございます。
○南野知惠子君 そうしますと、参観日以外にもPTAの方が来られて、そこで自由
にクラスも開放されていくということも今後していかれるおつもりなんでござ
いましょうか。
○公述人(西澤清君) 私たちは授業について、PTAの方も含めてやはり普段から
そうしたことについて自由に参観できるようにという希望を持っております。
しかし、なかなか学校の今の状況の中で十分その期待にこたえられないような
状況もありますものですから、そういう意味では、今父親も含めて企業の方に、
まずとにかく休んで学校に行ける日をつくってほしい、そして自由に学校に行
けるようにしてほしいということもお願いをしているところでございます。
○南野知惠子君 特に児童生徒にとりましては、夏休みの前とかまた夏休み期間中と
かはやはり学校に来れないという状況があって、みんなで健康かどうかという
心身の健康の確かめ合いができない場合というのがあるんですが、そのような、
夜になったらちまたに出るような子供さんたちがおられるとするならば、そこ
ら辺もPTAとの協力というものも必要になってくるだろうと思いますが、学
校の先生とPTAの方々との対話、会話、またそういう場面での、補導という
のはおかしいですけれども、注意というものがなされているでしょうか。
○公述人(西澤清君) 多分、私の地域の学校でもそうですけれども、僕の子供が学
校にいるときには、PTAが班をつくりまして、もちろん学校と連携をとって
ではありますけれども地域を回りまして、夜八時、九時に子供たちがいるとお
話をしていくということをやっております。大体多くの学校でそういうことを
やっているんではないかと思いますし、繁華街では駅前で補導をやっていると
いうところも多くあります。
そういう意味では、非常に気を使って遅くまでPTAと先生方は、例えば夜
の行動と今限定されましたけれども、そういうところではやっておるんじゃな
いかと思います。
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○南野知惠子君 では、少し話題を変えますけれども、不登校の問題をちょっと指摘
してみたいと思っております。
これは国公私立の小中学校におきまして、三十日以上欠席の届け出があるこ
とにつきまして、統計的には平成八年度で小学生が一万九千四百九十八人、中
学生が七万四千八百五十三人、合計しますと九万四千三百五十一人、もう十万
人に近い子供たちが不登校という現状がございます。そのうち五十日以上欠席
しているという児童、小学校では一万五千三百十四人、中学校では六万二千二
百二十八人、合計しますと七万七千五百四十二人の方々が不登校をしていると
いう小中の問題があるわけですが、それらのきっかけについても統計の中で出
ておりました。
そのきっかけにつきましては、小学校の場合は本人の問題というのが一番多
い。本人の問題というのはどういうものかと見ますと、極度の不安、これは中
を見てみればもっとあるんでしょうけれども、不安だとか緊張、無気力という
ところがまず挙げられております。
そして、二番目には親子関係をめぐる問題。親子関係をめぐる問題というの
は何かといいますと、親がしかる。先ほど先生もおっしゃっておられましたけ
れども、親の言葉、または態度というものが子供にそういう状況をつくらせる
二番目の原因だと。中学生の場合は学校生活での影響ということを言っており
ます。これは友人をめぐるいじめだとかけんか、そういったものが不登校の原
因になっている。
三番目は教師との関係。それもしかられる、注意されるというところが課題
になっているのでございます。
このような現状について西澤先生はどのようにお考えでしょうか。
○公述人(西澤清君) 状況はおっしゃるような状況だろうと思います。そして、不
登校の八〇%の原因がいじめということも私たちの開いております相談室の統
計でも出ております。
おっしゃるように不登校の原因は、昔は一般的には子供に非常に問題がある
と言われましたけれども、今文部省の方も登校拒否という言葉を使っておりま
すし、私たちは子供が学校に不適応ではないんだ、学校そのものが子供に不適
応になったということをもとにして、学校そのものも見直そうという立場で今
学校の改革というものを推し進めているところであります。
○南野知惠子君 それと関連いたしまして、適応指導教室というのがございます。こ
れで指導を受けた児童生徒数というのは平成八年度中で八千二百四十人おられ
る。
この適応指導教室というのはどういうものかといいますと、登校拒否の生徒
に対する指導を行うために教育委員会が学校以外の場所に設置している施設で、
児童生徒の在校生と連絡をとりつつ個別カウンセリングとか集団で活動、教育
指導を行うものであるというように、ただ単に相談を行うだけではないという
ようなところでございますが、それが九十七カ所も含まれているというところ
でございます。
そういう子供たちについてはどのようにお考えになっておられるでしょうか。
○公述人(西澤清君) ある意味では非常に、先ほど内藤先生のお話にもあったんで
すけれども、自分の主張のはっきりした子が学校という場からいたたまれなく
て出るということがあると思います。
私たちは、先ほど申したように、学校そのものを見直すと同時に、いじめそ
の他でさまざまな問題がある子について、学校に来ない、いわば休む権利を認
めていいんじゃないかということや、あるいは先生が今言った学校について、
私たちはフリースクールと呼んでおりますけれども、そうした場で学習する、
その学習した結果について認めてやってもいいんじゃないかという立場であり
ますし、そうした子のさまざまなつながりを持っていろんな意見を聞きながら
私たちは学校の改革に役立てているということでございます。
○南野知惠子君 私の知人もそのような学生さんたちが集まってくる学校で学院とい
うものを形成いたしておりますが、一条校としてはいろいろな規制があってそ
れができない。そこを卒業する子供もいるんだと。落ちこぼれた学生でありな
がらその学校ではちゃんと卒業していくという姿を見た場合に、では公立学校
ではどのような体制をこれからとっていかなければならないとお考えなのか、
教えていただきたいと思います。
○公述人(西澤清君) 第一番に私たちが考えているのは、これは先ほど申し上げた
のでありますけれども、学校が余りにも点数主義になっております。今、年間
二百二十日開校日がありまして、一番多いところで年間の標準時間は千五十時
間です。学校におる九二%が授業に出ているという状況であります。
子供たちは非常に多忙な中にありまして、本当に子供は希望を持って好きな
ことができているかということについては、十分そうしたことではありません
し、総合的な学習というふうに中教審も言っておりますけれども、私たちも総
合的な学習の中で子供たちの個性が十分伸ばせるようなカリキュラムを組むべ
きだと考えておりますし、学校五日制を契機にして、私たちはぜひゆとりのあ
る学校の中でさまざまな子供の希望や要望にこたえていきたいと考えておりま
す。
○南野知惠子君 今のような問題点がいっぱいあるわけでございますけれども、やは
り両サイドとも二十一世紀の主役であるというところを私たちが考えるならば、
もっともっと気を入れて我々大人がいい手本を示さなければならない時代だと
いうふうに思っております。そのためには、家族の中の両親が認め合っている
のかどうかというところが一つ問題になっております。
最近の離婚ということも子供たちにそのようなつらい思いをさせていること
があると思いますが、離婚の発生率は、今何分間に一組起こっているでしょう
か。ことしは二分二十秒で発生しております。今、このように時間を持たれて
いる中でも何人かの子供たちが不幸になっていく。そのことを考えるならば、
我々は子供の一生というものをむだにしたくないというふうに思っております。
また、思いやりというものもそこら辺に出てくるわけでございます。
もうちょっと悩みを申し上げてみたいと思うんです。
今、受験勉強をしている子供のお部屋にはテレビがあると思われますか、な
いと思われますか、西澤先生。
○公述人(西澤清君) 大体、子供の居部屋にはテレビがあると思っております。僕
らはそのことを個室の王子様、お姫様と呼んでおりますけれども、あるんでは
ないかと思っております。
○南野知惠子君 王子様、お姫様はよろしいんですけれども、その子供が学校から帰っ
てきます、塾に寄って帰ってきます。そして、家の中ではお食事を済ませてい
わゆる自分のお部屋に行く、これはホテル家族と申すと思います。
ホテル家族があったり、いろいろな家族の形態があるわけですけれども、そ
ういう家族の中で子供が勉強しているだろうと思うと、今七時、八時の時間帯
にどのようなテレビが流されているか。これは大人の娯楽番組ではありますけ
れども、子供にとってはいじめの番組ともとられるような番組があります。そ
れから、風俗のテレビというのが十時、十一時、そのあたりに流されておりま
す。親は子供に見せたくないと思っても、王子様、お姫様がテレビをひねった
らその画像が全部見られるのです。
今、そのありさまを大人が知らないままに子供との対話をしているのではな
いだろうか。対話があればまだいいんですけれども、そのテレビを私も勉強の
ために見ておりますが、これは子供たちには見せられない、またそれを笑いと
する大人にどう立ち向かわなければならないのかということもありますが、何
か御意見はございますでしょうか。
○公述人(西澤清君) おっしゃるように、先ほど私も申し上げましたように、情報
化社会というのはいや応なく情報がすべての国民、年齢を問わずすべてに飛び
込んでくる時代だろうと思っております。これは大人の側で意識してやらなきゃ
いけないと同時に、学校教育で私たちが今非常に反省しておりますのは、情報
化社会にあって情報リテラシー、情報とはどういうものか、どのようにするか
ということや、メディアリテラシー、メディアとは何か、受け手と送り手はど
ういうようなモラルが必要かということについて、まだ日本社会では十分検討
しておりませんし、教育の場でも学校でも欠けていると思っております。
ぜひその辺については、私たちはこれから意見を申し上げて、それを少し中
心的な教科の組み方の中に入れるようにしていただきたいと思っております。
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○南野知惠子君 テレビなどでございますけれども、もう一つの場面では、何回切ら
れても生きて、そして活動する場面がいっぱいあるんですね。人間は一たび殺
されたら、一たび死を迎えたら、もう生というものは永久に返ってこないとい
うようなものを、子供たちはそのテレビを見ながら、いやこれは違うんじゃな
いかと思ってしまうことはまた大変なことでございます。
死生観というものを子供たちにどのように教えておられるでしょうか。
○公述人(西澤清君) 私たちは人権ということを極めて重視しております。人権の
基本は、まず自分の嫌なことを絶対に人にしないことと、人を傷つけることは
しない、これが基本だろうと考えております。そういう中で、今テレビゲーム
を含めて御指摘のあったような点については、もちろん非常に好ましくないと
考えております。
そういう中で、私たちは教科の中で反省をしますと、例えば物理というのが
あります。物理の中で力学を教えるときに、私たち自身も反省をするんですけ
れども、鉄砲の弾を撃ったら初速はどのくらいで、どのくらい飛ぶかというよ
うなことを必ず教えてきたわけでありますけれども、そうではない、私たちの
意識の中でそうした死生観ということ、生きることの大切さということ、そう
した日常的な言動の中でまさに私たち自身が意識を変えなければならない課題
である。これは大人としての私たちの気持ちでありますけれども、そういうふ
うに私たちは努めるべきだと考えております。
○南野知惠子君 学校におきます性教育というものは、これは人間教育であろうと私
は思っております。生きる力を与える、そのためには人間男女がいかにして人
間としての生き方をするのか、そのようなところを学校の中ではどのようなか
かわりを持ってどなたが教えておられるんでしょうか。
○公述人(西澤清君) 一つは、今、性教育という言葉と性の教育という言葉があり
ます。
性教育というのは極めて限定された生殖に関する知識などでありますけれど
も、性の教育というのは、今御指摘にあったように、男と女の役割だとかある
いはジェンダーの問題とか、さまざまな問題について私たちの社会にあります
男女の平等でない部分をどのようにするか、両性がお互いに尊重してどのよう
にやるかということであります。
性教育というのは保健とか養護教諭の役割であるわけでありますけれども、
性の教育、男と女の問題は、一つは全体でやらなきゃいけないと考えておりま
す。特に今重視しているのは、隠れたカリキュラムということで、正課の教科
ではないというところで教えている。私たちが今お願いしているのは男女混合
名簿にしたらどうか、男と女の役割を一つはそうした立場からでも見直してい
こうと。しかし、これは問題提起であります。
今の社会で男がどのように生きるか、女がどのように生きるか、また共生し
てどのように生きるかということをやろう、これはすべての教職員がかかわっ
てやるべきだと考えております。
○南野知惠子君 また少し話題が外れるんですけれども、かつて資料を見ておりまし
たら、先生方は自分たちを教育労働者というふうに思っておられるようでござ
いますが、その中身、意味を教えてください。
○公述人(西澤清君) 日教組ができたのが今から五十年前であります。最初にアピー
ルというのが出たわけでありますけれども、その中にこういう文書があります。
戦前の教師がいわば戦争に加担したという反省のもとに私たちの組合は生まれ
たわけでありますけれども、そういう中で教師の生活が非常に貧しかった。そ
ういう意味では、やはり働く者の立場に立って、古い言葉ですから御容赦願い
たいんですけれども、妻子を路頭に迷わせて何が教育かというところがありま
す。私たちの結成の綱領というのがあるんですけれども、一番目はやはり教職
員の生活、そして教職員の権利、それから社会的地位を高めようではないかと
いうこともあります。
そういう意味では、私たちは働く者の一員として、この社会に生活する者の
一員として、そういうところに身を置いて物を考えていこう、そういう精神で、
多分そういうことができていると私は認識しております。
○南野知惠子君 労働者という部類を見てみますと、ホワイトカラーだとかブルーカ
ラーだとかということがございます。その中で教育労働者と。私は教育者は労
働者という意識を持たないでほしい。私も教育に携わってきました。学生たち
の中に入って本当に寝食を一緒にしたこともございます。でも、最近の先生の
考え方というものは、昔の方からずっと流れてきているわけですが、どのよう
な考えをお持ちの先生方が普遍的な先生なんだと思われますか。
○公述人(西澤清君) 一つは、労働者と今おっしゃった意味は僕にはちょっとわか
りかねます。私たちが労働者と言っている意味は、いわゆる労働者階級とかそ
ういう言葉ではなくて、働く者の一員、最近は生活者というふうに多くは言わ
れているんですけれども、そうしたものから子供に接しようということであり
ます。
多くの先生たちはやはり非常にまじめであります。子供たちと接触している
この仕事をどのように生きがいを持って生きるか、自己実現するか、そのため
の条件は何かということであります。私たちの組合で先生方から一番出る要求
は子供の教育についてであります。どちらかというと賃金だとかそういうこと
に対する要求は余り出ないのが現状でありまして、恐らく先生たちはこの世の
中でどのような子供たちを育てるかということに一生懸命ではないかというふ
うに思います。
○南野知惠子君 それと、またお尋ねしたいことは、今の子供たちは私の国は日本よ
と、これを誇りに思っているでしょうか。私の国のアイデンティティーをどの
ように思っているのでしょうか。
よく高校野球などが始まりますとそこで君が代が流れますが、口の動いてい
る学生はほとんど見かけません。お相撲があるときに国歌が流れます。そのと
きには私はテレビでじっと口の開いている人を探しているんですが、そのよう
なことがございます。自分の国を誇りに思う子供たちにどのような教育をなさ
ろうとすることが一番いいことなのかと思っていらっしゃいますか。
これからの国際社会はなおさらでございます。自分の国を自分が納得して出
ていって、そこでの話し合いの中で自分の国が誇りにできなければ、これは悲
しい国民になってくるのではないかなと思いますので、その御所見をお伺いし
ます。
○公述人(西澤清君) 私たちは、子供たちがこの日本に住んで、日本に生まれて、
そして日本民族としての誇りは持っていると思っております。それは、外国で
会った子供たちが私たちと接する、おれは日本人なんだよ、私は日本人だよと
いう気持ちは何より持っていると思っておりますし、私たち自身もやはり日本
人として生きるべきであるというふうに考えております。
そうした意味で、私が心配しているのは、今御指摘のあったことよりも、僕
は先ほど下町の工場だと申し上げたんですけれども、工業高校ですけれども、
私たちの周りには本当に日本の持っている伝統的な文化というのはいっぱいあ
ります。小さな町工場があって金属加工をやっているんですが、人間文化とか
文化と指定はされるけれどもお金が一銭も出ない。その中で後継者がいないで
つぶれていくという極めて残念なところです。
ですから、よき日本の文化伝統というのはいっぱいあるわけですから、そう
した意味では本当に町の中にはいつくばっているさまざまな思いをぜひ吸い上
げていただければありがたいと思っています。
○南野知惠子君 これから学校図書館の開放というものがあります。または学校図書
館の充実というのがございます。そのような下町にも小学校、中学校があるは
ずでございますので、その学校図書館の機能をもっと活発にしながら、その学
校から発信できる情報というものを出していきながら日本の文化というものを
よその国に御示唆いただける、または姉妹校をつくって提携する、そういった
こともこれからの問題点ではないかなと思っておりますが、学校図書館につい
ての御意見、いかがでございましょうか。
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○公述人(西澤清君) 大変ありがとうございます。
学校図書館が二十一世紀の学校の中の中心になるべきというふうに考えてい
ます。学校図書館は、おっしゃるように情報化社会において、子供たちが教室
の中でやる授業ではなくて、さまざまな情報を取り入れながら、先ほど言った
メディアの問題も含めて収集できたり選択できたり、その能力を養うためには
極めて重要だと考えています。
しかし、残念ながら、今図書館には専任の方がいないんです。専任の司書教
諭を置いてもらいたいということで私たちはずっと文部省さんにもお願いして
おります。やはり学校図書館に一人専任の人を置く、そして学校図書館の中で
情報教育というのをきちんとできる体制をつくっていくことが恐らく二十一世
紀の学校教育の極めて中心的な課題と考えています。
○南野知惠子君 学校図書館における司書教諭というものの誕生も見ました。この数
もふえていかなければならないと思います。
それから、子供のいじめ、心身の健康ということに関連しましては、養護教
諭、養護教室の人たちも複数化することができましたが、それが三十クラス以
上ということで、それをなるべくいい方向で早く複数にしていきたいものだと
考えております。
先生の周りの下町の中で、日本の文化の伝統を持っていかれる、その中では
日の丸の国旗は時々揚げておられるんでしょうか。
○公述人(西澤清君) 私たち、日の丸については、日教組の見解としましては国の
シンボルとしてこれを認めておりますから、ある意味ではその議論はないわけ
であります。
それで、卒業式とか入学式とかあるいは運動会その他については、学校行事
の中で、私は一番いいのは、やっぱり子供たちを送り出すときに、子供たちが
企画して先輩を送り出していく卒業式とか、あるいは新しい子供を迎えるとき
に本当に誇りを持って迎えることがあると思います。その中には、例えば日の
丸がないときもあるかもしれませんしあるかもしれません。
そういうことについて、私たちはそれを殊さら政治問題化するということに
ついては避けるべきだと考えておりますし、それについては学校で子供たちと
一緒に進めるべきだという考えに立っているのであります。
○南野知惠子君 御自身の御家庭ではいかがでございますか。
○公述人(西澤清君) 私の家では、日の丸はありますけれども揚げておりません。
私の町内で揚げているのは多分病院一つだけじゃなかったかと思います。
○南野知惠子君 これからお揚げになる御意思はございますか。
○公述人(西澤清君) 家族と十分相談したいと思います。
○南野知惠子君 優しいパパ、優しいママが子供にとっては一番幸せでございます。
先生の後ろ姿を見ながら二十一世紀のすばらしい子供たちが育っていくわけで
ございます。
我々の環境というものをどう整備していくか。家庭環境を整備し地域の環境
を整備し、それが学校と一体となった環境がつくられていけば一番うれしいこ
とだと思います。
子供にとりましては、胎児のときから母親がすべての環境なんです。その母
親、いわゆる母体をどのように我々が注視し守っていってあげるのか。その母
体を守る環境は父親でしかないわけでございます。そのような父親と母親が一
体となったすべての子供に対する環境を我々はもっといい形で構築していかな
ければならないと思います。
二十一世紀の子供たち、我々にとっては宝の存在であろうと思います。一人
でも不幸な子供を出さないようにするというのが我々政治家の役割であろうと
思います。
本日はありがとうございました。
終わります。
○小林元君 民友連の小林元でございます。
本日は、内藤公述人、そして西澤公述人、本当に貴重な御意見をいただきま
してありがとうございました。短い時間ですので簡単に質問をさせていただき
たいと思います。
今回いろいろと、栃木県の黒磯市あるいは埼玉県、そしてまた神戸の事件、
大変凶悪といいますか残念な事件が起きました。そういう中で、いろいろ難し
いんだと思うんですけれども、対策を立てる上でやっぱりその原因を究明する、
それがわかって初めて正確な対応ができるということになるんじゃないかと思
います。その辺、大変直接的な質問でございますが、両公述人からお願いした
いと思います。
○公述人(内藤宏君) これもまた、世間でしょっちゅう言われていることですけれ
ども、いつも私はもう決まっているので、遊びが足りないことと言葉が足りな
いということ、これだけなんです。これを全くやっていないからなんです。も
うその一語に尽きるのであって、今世間で騒がれているあれは現象面なんです。
ああいう現象面を幾ら追求しても答えは出てこない。親の生き方、教師のある
べき姿、親の姿、それを教えていかなきゃだめなんです。それを僕は教えてい
くんだと、それで講演して歩いているわけです。そうすると、そういうことに
はならないんです。
ですから、あそこで起きたああいう事件は、どっちがいい悪いではなくて、
女教師の方も不幸なことにああいうことになったのは、僕がさっき言ったよう
に、管理職が悪いんだ、教えないからいけない、子供までそのために罪人になっ
ているんです。
どっちがいい、先だ後だというんではなくて、両方の心の持ち方、人間は人
に対してどんな心を持って当たるか、要するに冷たい心を持って当たれば冷た
くなるし、温かい心を持って当たればそういうことはないんです。それだけの
ことなんです。それを教えるか教えないかの問題だと思います。
○公述人(西澤清君) 学校としてすぐにやらなければならないことというのは、私
は、その前後を含めたさまざまな経過について、やはりその子供の親も含めて
さまざまな方と一緒にすべてを議論する場をつくることではないかと思います。
そういう意味では、今まで閉ざされた学校と言われて、学校の中で起こった
ことが十分社会全体で議論されなかった。そうしたことではなしに、まずそう
したことをやるべきだというふうに考えておりますし、そのことの一つの結果
であると思いますから、そうしたことの中から、罪人を出すということではな
くて、私たちは問題を考えていきたいと考えています。
○小林元君 確かに、現象としてそういうことがあったということだとは思いますが、
それでは、教育のいわゆる危機といいますか、そういう状況なのかどうか。あ
るいは二十一世紀に向かって、そういうこととは別に、これからの日本のあり
方として、教育は国家百年の大計であるという観点で、やはりそういう時期的
な問題もあって改革をしなきゃいけないというのか。やはりそういうものも含
んでこれから改革をする必要があるのか。要するに危機的な状況というか、改
革の必要性、緊急性というか、その辺の御認識をお願いしたいと思います。二
方からお願いいたします。
○公述人(内藤宏君) 前と同じ話になりますが、僕が言う意識改革というのは、こ
れは原因療法なんです。それから制度の改革とか、ナイフを持ってくるな何す
るなといろいろなことを言っていますけれども、これは対症療法なんです。対
症療法は幾らやってもそれだけのことなんです。要するに、風邪を引いて風邪
薬を飲んでいるのは対症療法なんです。風邪を引かないような体をつくるのが
原因療法です。意識改革の部分は原因療法なんです。しかし、そうは言っても、
意識改革ですからそう簡単にはできません。やり方は知っていますけれども、
そう簡単にはいきません。
ですから、事故は起こりますから、そのときには多少、風邪薬を飲ますじゃ
ないですけれども、対症療法をしていかざるを得ないからしていいと思います
が、それは手段ができるだけ軽く済むということが大事だと思います。やれば
いいというものじゃないんだということです。
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○公述人(西澤清君) 今、議論されている教育改革は、ちょうど車が古くなったか
ら買いかえようというような物理的な問題ではなくて、今までこの五十年間進
めてきましたさまざまな教育のひずみ、とりわけ私は受験教育だろうと思いま
す。
点数で子供たちが輪切りをされるという、その中に学校のシステム、そして
システムそのものにすべてのものを帰着していった結果が、何回かのいろんな
問題がありましたけれども、戦後に校内暴力やいじめの問題がありましたけれ
ども、そうした中で学校のシステムそのものを変えなければ新しい時代に対応
できなくなっている。
そして、情報化社会やさまざまな新しい日本社会の状況の中で、そういう時
期が来ているからさまざまな問題が噴出しているんだと考えておりますので、
そうした物理的な問題ではなくて、いわゆるさまざまな内容を含めた検討をす
べきだというふうに思っております。
○小林元君 いろいろなことが言われております。時間がないものですから余り私の
意見を述べるあれはないと思いますけれども、要するに、戦後民主主義の教育
といいますか、あるいは平和主義を求めてきた教育というものは破綻をしたん
ではないか。自由とか平等とか人権だとか、いろんなことをその教育の中へ取
り入れていこうということではあったんですが、自由というのは、やりたいこ
とをやる。ところが、やりたいことをたくさんの生徒がやったらどうにもなら
ないという、いわば放らつ性というんでしょうか、そういうものに誤解され、
あるいは平等というものは、生まれながらにして人間は平等に扱われるという
ことが、個性差も能力差もあらゆる面で平等である、運動会で一等賞は要らな
いんだというような極端な平等主義といいますか、そういうものが限界に、限
界といいますか、破綻をしたのではないかということであります。
〔委員長退席、理事岡部三郎君着席〕
そういう中で、成績一点張りの偏差値教育といいますか、内藤先生からもお
話がありました知識の詰め込みがあるとか受験競争ですとか、そういうことで
落ちこぼれたりといいますか、そういう中でいろんな現象が出てきているのか
なと。やっぱりこれは核心のところから改革をしなければいけない。私も内藤
先生の御意見に同感でございます。
今までは教育というものについて、日本は、明治のときは富国強兵というこ
とで五十年前まで来ました。戦争に敗れまして、その後先ほど言いましたよう
なことがあったわけでございます。しかし、たまたまそれは戦争に負けた後、
平和を求めるという気持ちが国民の中にはもちろんあったわけでございますけ
れども、そういう中でアメリカやヨーロッパに、何とかああいう国になりたい
という国民の気持ちがあったんじゃないか。それが五十数年間、ここまで来ま
した。しかし、追いついた途端に目標がなくなった。これは教育もまた同じだ
と思います。政治家も役人も同じかもしれません。
どうも大人が、世界でかつて日本人ほど立派な人間はいないというふうに欧
米諸国からも評価されていたわけでございますけれども、それが何かなくなっ
てきまして、恥の文化といいますか、そういうものはどこへ行ったんだろう、
武士道精神はどこへ行ったのか、こういうことだと思います。
そういうことで、これからの教育目標、そこをしっかり立てれば、意識とい
うものは教師の側も親も地域社会も変わるんじゃないか、日本も変わるんだと。
その辺どういうような理念というか目標というものをお考えでしょうか、お二
人からお聞かせをいただければ。
○公述人(内藤宏君) 毎度同じことになりますが、少し物理的なこともつけ加えな
いといけませんからつけ加えますけれども、学校では、要するに昔の話じゃな
く、道徳教育という言葉を使ってもいいし、あるいはどういうふうにしたらい
い人間関係をつくれるかという時間をつくってもいいし、そういうふうなこと、
あるいは歴史、そういうこととかあるいは人物伝などいろいろありますね。そ
ういうふうなことはもうずっとやっていかなきゃいけないんです。
僕はきょうここでそんなことを言ってもしようがないから言わないんであっ
て、基本は前から言っているように教師と親を変えなきゃだめなんです。
問題は、私は教師というのは聖職だと思っていますから、給料を上げろの下
げろの、そんなことはどうでもいいんです。僕はそんなつもりで今まで教師な
んかやってきたんじゃないんです。まず子供を見て、この子をどうするかを考
えてみる。ですから、生徒指導は生徒が百人いれば百通りあるんです。一人一
人真剣に考えて、僕は今までの間に一人として落としたのはいないんです。練
馬の鑑別所に行ったのは今新橋で社長をやっております。喜連川の少年院に行っ
たのは、僕は先生をこのごろ仏様だと思っています、そういうふうになるんで
す、それは。悪だからそうなるんです。いいのはそこまでにならない。そこが
わかっていないんですよ。だから、そういうのをやるのが教師としての、こん
な誇りのあるものはないんですよ。そこを教えていかなきゃいけない。そこま
でやらないから本気にならないんです。親も同じことです。僕はそこが基本だ
と言っている。
それを立て直すにはどうしたらいいかというのは同じ話です。言葉の教育を
しないとだめです。言葉を立て直さなかったら絶対に教育改革はできません。
以上です。
○公述人(西澤清君) 戦後の日本の教育がいわゆる平等主義という名のもとでかな
り均質的な教育をやってきた、そのことが今の日本の社会の基盤をつくってき
たということは間違いないと思うんです。
ただ、おっしゃるように追いついた段階で、そうしたことではない新しい尺
度が必要になってきたと思います。今、私たち社会全体で求められているのは、
もう一度二十一世紀に向かった価値観の統一だろうというふうに思っておりま
す。そして今、その価値観の統一はもしかしたらそれぞれ尺度が違うという価
値観かもしれない。それぞれの人たちが、障害者も含めてさまざまな個性を持っ
ている。その個性を持っている人がそれぞれの個性でそれぞれ生きていくもの
が新しい価値観ではないかとも思っております。そういう意味では、今までの
平等がともすると画一主義ということに流されたことへの反省が今全体にある
と考えております。
二十一世紀は、恐らくそれぞれの子供たちやそれぞれの大人がそれぞれ個性
を持って生きて、それぞれ違う立場で共生していく社会、そうした社会を目指
すべきだというふうに思います。
(22/39) 次の分割内容へ
○小林元君 親を変えると内藤先生はおっしゃいました。これはなかなか大変なこと
だと思います。今の世の中といいますか、日本の社会はサラリーマンが非常に
多いわけでございます。親の背中を見て育つということは大変難しゅうござい
ます。先ほどもお話がありましたけれども、普通の日はお父さんはどこで何を
やっているかわからない。そして、夜遅く酒を飲んで帰ってくる。子供とろく
に口もきかない。朝は疲れたから、子供は先に学校へ行く、そういう中で休み
になるとゴルフ場へ行ってしまうというお話がありました。
しかし、そういう父権といいますか、父親の復活こそがやはりこれからの家
庭の一番大事なポイントではないか。そして、子供たちと一緒に遊ぶなり勉強
するなり生活をするということが一番大事だと思います。
しかし、それを言うとなかなかこれは大変でございます。やはり当面こうい
う中で一生懸命頑張らざるを得ない、頑張ってもらうほかないのは教員だと思
います。そこで、先ほどもお話をしました。学級定員とか教員数が足りないと
かいう話はわかっておりますし、我々も頑張らなくちゃいかぬというふうに思っ
ております。
ただ、そこで教員のやはり質といいますか、どういうふうに教員の資質──
昔はいろんな先生がいました。あだ名をつけられていました。今はあだ名がつ
かない先生しかいない。個性がないわけでございます、残念ながら。私の仲間
にはそんなことは言いたくありません。しかし、あだ名がつかない先生ばかり
いるということは大変悲しい現実でございます。時間がありませんのでそれ以
上は申し上げません。
しつけはまさに──けさちょっとコピーしてきました。これだけ読みまして
終わらせていただきます。
「子生るれば、父母力を合せてこれを教育し、年齢十歳余までは親の手許に
置き、両親の威光と慈愛とにてよき方に導き、すでに学問の下地できれば学校
に入れて師匠の教を受けしめ、一人前の人間に仕立ること、父母の役目なり、
天に対しての奉公なり。」と。
これは、福沢諭吉の「中津留別の書」というところに書いてございました。
これを読みまして、私の質疑を終わらせていただきます。
○高野博師君 お二人の貴重な御意見を伺いまして、大変参考になりました。
それで、内藤先生と西澤先生に一つずつお伺いしたいと思うんです。
最近の新聞で、これは三月二十七日の読売新聞の社説に、「「荒れる学校」
に外の支援も」という表題で論説が出ておりました。もう一つは、これは産経
新聞ですが、都の教育庁が校長の権限を強化するという報道が出ていたんです
が、最初に内藤公述人の方にお伺いしたいと思うんです。
これは私の教育観に対するコメントというか、御意見を求めたいと思うんで
すが、この「「荒れる学校」に外の支援も」ということで、先ほど西澤先生も
おっしゃいましたように、警察等の協力も得るというようなことなんですが、
この中で荒れる学校というか、これはもう学校は万能ではない、学校限界論と
いうことを言っておるんですが、これは生徒に対する指導をより厳しくするよ
うな、厳重な管理下に置くような方向に行っているではないか。警察とか児童
相談所とか少年鑑別所との連携が必要だと。
これは根本的な考え方に問題がないかなと私は思っておりまして、ある意味
で学校限界論というのは文部省とか学校教育の敗北論ではないか、そういう印
象を持っております。本来、子供というのは危険な存在ではないと思います。
文部省とか学校が一方的に子供を支配し管理するとかあるいは保護するという
考え方に問題がないかどうか。
よく言われますように、戦後の教育目的というのが国の経済発展に役立つよ
うな画一的な人間を、これは学校を通じて選別して訓練し、いわば大量生産を
してきた、こういうことがよく言われます。偏差値教育というのは、例えば生
徒全員を百メートル全速力で走らせる、競争をさせる、序列をつくる。一定の
速さ以上の人間はよい子だ、しかしそれ以下の子供については落ちこぼれだ、
あるいはだめだという決めつけをしてきたのではないか。子供の中にはマラソ
ンが得意なものもいるし、あるいは高跳びが得意なものもいる、いろんな多様
性を持っている。そういう個性とか人間性を無視してきたのではないか。多様
な人間を育てることをやってこなかったのではないか。
この戦後の教育の弊害が今あらわれている、あるいは破綻しているというこ
とは、現在、いろんな経済社会問題が如実に示していると私は思っております。
それにもかかわらず、依然として百メートルを全速力で走らせることをやって
いるではないか。それを強要している。
大人社会もまさに同じことをやっているんだと私は思っております。子供た
ちが自由を奪われているとかあるいは遊びを奪われている。大人社会からの圧
迫、支配、管理、これに対して今必死の抵抗、抗議をしている。子供たちは疲
れ切って息切れしている、倒れそうだと。先ほど言われましたように休みたい
という子供が大半でありまして、子供たちの抵抗というのが自殺とかあるいは
ナイフ事件とか不登校とかいじめとかさまざまな形であらわれているけれども、
本質は同じではないかと私は思っております。
八〇%以上の子供が勉強は嫌いだ、こう言っておりまして、希望とか夢を持っ
ていない。子供が絶望を感じるような国に将来というか未来はないんではない
か、私はそう思っております。
子供の人権とかあるいは人間としての尊厳とか自由とか、何よりも遊ぶ時間、
考える時間、これを与える必要があるんではないか。これについていろんな、
中教審なんかのこれを見ても子供の意見そのものが反映されていないんじゃな
いか、そういう印象を持っております。これについて内藤公述人から御意見を
伺いたい。
もう一つ、西澤先生に、時間が余りないんですが、自分の勝手な意見で申し
わけないんですが、校長の権限を強化するということは、校長先生はずっと教
師でやってきた、教育者であったんですが、校長になった途端に行政官として
の能力を求められる、指導力とか管理能力とか。
こういうことを問われることになると、教育者として、一教員として、ある
ときから教育者としての能力とか努力、これが後退してしまうんではないか。
私はそういう危惧を持っておりまして、人事あるいは予算の面で校長の決定権、
権限が強くなるということは、ほかの教師が校長先生の顔色をうかがうような、
そういうことになりはしないか。これは校長の資質そのものにかかわってくる
んですが、そういう危惧を持っておりますので、これについて西澤公述人の御
意見をお伺いしたいと思います。
以上です。
○公述人(内藤宏君) 教育に限界があるというんですが、そんなことはどうでもい
いですね。そう考える人は勝手に考えさせればいいんであって大した問題では
ないと思います。要するに中教審の問題もそれから警察を入れるとか入れない
とかというそういう問題も、これは今さっき言ったように対症療法で、こんな
ことを幾らやっていたって教育にはならない。これでもって事が解決したなん
て思ったら大間違いなんです。
教育というのは生き物なんです。教育は生き物であって学問ではないんです。
学問でもって論理を進めていけば、まあまあおもしろおかしくおさまるのは経
済か。経済とかそういうのは学問をやっていればいいんでしょうね、ちょっと
人間らしい感情が入るのは相場論みたいなもので、教育というのは生きた人間
を扱っているんですから、生き物を扱っているので学者が考えた結論ではでき
ないんです。
中教審でも学者が考えている。僕も大学にいたから遠慮なく言っておきます
けれども、頭で考えて出てきたことが口から出る、それだけのことなんです。
教育というのは、心と体で勉強したことを心と体で教えるのが教育なんです。
その論議が全然進んでいないんです。ですから、まずそれからいかなきゃいけ
ないんです。
今おっしゃったようなことは、そうはいってもすぐ親も教師も教育できませ
んので、事故も起こりますから、やむを得ずする手であって、仕方なしの手で
あって、それは最善の策ではなくて、それは策ではないんです。間違いなんで
す。そんな間違ったことを堂々と言われているのでは困るんです。そういうこ
とです。
ちょっと乱暴な言い方で済みません。
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○公述人(西澤清君) 一番目の問題は、高野先生御指摘のとおりだと思います。
二番目の問題なんですけれども、私たち校長は、一つは学校の責任者である
と同時に教職員に対する服務権限を持っておると思います。そして、おっしゃ
るとおり、教育者であると同時に行政官としての役割を持つ非常に難しい立場
であろうと思いますし、非常に高い資質が要求される職だろうというふうに私
は考えています。しかし、残念ながらそうでない方もおられますので、権限の
問題を議論するときに本当に資質の問題を裏打ちされなければ、とてもそのこ
とはできないと思います。
私たちはPTAと話し合いをするわけでありますが、PTAの方も、どうも
校長さんの中にはしんの欠けている人がいる、資質に欠けている人がいるんじゃ
ないかという声があります。というのは、校長の一番重要な役割は、その学校
における子供の問題や、教職員がいかに働きやすくするかということにあるべ
きであるけれども、それに対する、例えば教育委員会で予算を獲得してくると
か、そういうものが重要な役割だけれども、十分それをしないで、むしろ逆に
管理監督ばかりに走っている人もいるよということをPTAから言われており
ます。しかし、私たち校長は仲間ですから、そういう意味では、立派な資質の
高い、教養の高い人であってほしいと思っております。
そういう意味で、ぜひ議論するときには、権限強化と同時に資質の問題も議
論していただければありがたいと思っております。
○高野博師君 内藤先生にお伺いいたしますが、先ほどの遊びと言葉が足りないとい
う点は非常に重要だと思うんですが、遊びが足りないということに関しては、
遊びを与える余裕がないと、今の学校のカリキュラムは。学習指導要領とかい
ろいろあると思うんですが、そこは具体的にどうしたら遊びを与えることがで
きるのか、御意見をお伺いしたいと思います。
○公述人(内藤宏君) 指導要領の問題がありますのであれですけれども、指導要領
をもっと楽にすればいい。あんな勉強勉強で追い込んだものをつくってもだめ
なんだ。どうしてこう頭が悪いのかと思うんです。
自分のことを言いますけれども、私は自分の子供に一度も勉強しろと言った
ことはないんですよ。遊べと言っている。そして結局、入学試験の近くになっ
てから、高校から大学に行くときに試験勉強なんて大急ぎでやって──余計な
ことを言って悪いですけれども、それで結局入ったんです。何カ月勉強したの
か。三カ月です。そして、僕に何て言ったかというと、あんたが勉強しろと言
わないから苦労したと。結局は高校の勉強なんて三カ月もあればできるんだね。
これでいいんですよ。
傑物というのはよく遊んできているんですよ。だから傑物が育たない。今で
もいないでしょう、政府を探しても。何でいないのか。そうでしょう。総理大
臣なんか、僕は新宿ののんべえ横丁に焼き鳥を食いに連れていってやりたいぐ
らいだ。そのぐらいしなきゃ傑物にならない。
だから、うんと遊ばせてください。遊ぶ時間は指導要領じゃないから、うん
とつくることです。それから、昔のあれじゃないですけれども、午前中勉強し
て午後から遊びとか、いろいろ変えなきゃだめです。これは制度の改革なんて
僕は今触れていないんですけれども、頭の中では入っています。
○高野博師君 それでは、最後に西澤公述人に。
先ほど価値観の統一ということをおっしゃられたんですが、私の理解がちょっ
と十分ではないかもしれませんが、むしろ多様な価値観を受け入れる社会をつ
くっていく必要があるのではないかという点に関していかがでしょうか。
〔理事岡部三郎君退席、委員長着席〕
○公述人(西澤清君) おっしゃるとおり、私が申し上げましたのは、これからもし
価値観の統一というのがあるとするならば、それぞれ違う価値観を持った人た
ちが共生する、そうした社会を容認する、そうしたことこそ新しい価値観では
ないかと申し上げましたので、趣旨は多分同じことだと思います。
○高野博師君 もうちょっと時間がありますので、もう一つ。
これは私のアイデアなんですが、今の教育、問題はやっぱり文部省に相当あ
るなと私は見ているんです。文部省は教育現場での経験が全くない人ばかりが
役人でやっているわけで、あれは例えば四、五年教育の経験を積んだ人から文
部省の職員を採用するような、そういうことをやったら随分変わるのではない
か。これは私のアイデアなんですが、ちょっと一言ずつ御意見をお伺いしたい
と思います。
○公述人(内藤宏君) 全くそのとおりなんです。
僕が文部大臣をやれば一番いいんですよ。何にも考えていないんだ。だって、
僕ほどわかっていないんでしょう。わからない者があんなトップにいたってど
うしようもないじゃないですか。第一、ナイフの事件が起きたなんといって、
悪いけれどもあの人は知っているからはっきり言っているんですが、ナイフを
持たせないようにしてくれと、あんなことを言うのに原稿を見ている。僕は今
さっき原稿なんか見ないで話しているでしょう。このくらい力がなきゃだめな
んですよ。そうでしょう。だから、だめ。そのかわり政務次官と事務次官には
優秀なのを置かなきゃだめです、こっちは専門家ですから。そうでしょう。僕
なんかがやるようなものなら、何もわからないんだから。いいですね。そうい
うことです。
○公述人(西澤清君) まだ組織としてはそういう大胆不敵なことを考えたことはな
いわけでありますけれども、できればそういう提起もして一緒に現場の悩みを
共有できる官庁があればすばらしいと思います。
○高野博師君 ありがとうございました。
(24/39) 次の分割内容へ
日下部禧代子君 きょうはお二人の先生方にそれぞれの教育の現場から説得力のある
御意見をいただきまして、本当にありがとうございます。
ところで今、学校に行きたくない子、あるいは行けない子、気持ちはあって
も、行きたくても行けない子、あるいはまた学校に行っても保健室に逃げ込ん
でしまう子、あるいは中途退学の子、そういった子供たちが非常に増加してお
ります。そのことの意味というのは、やはり多くの子供たちが学校に対して拒
絶反応を示しているというふうに私は受けとめなければならないと思っており
ます。
私たちは、このような子供たちが自分たちの行動を通して大人たちに訴えて
いるその気持ち、その思いを全身で受けとめねばならないというふうに思うわ
けでございます。時間がわずかでございまして、その思いを述べているだけで
時間はなくなってしまいそうなので簡潔にお二方に質問をさせていただきたい
というふうに思います。
学校嫌いということの大きな原因というのは、やっぱり成績が悪い、つまり
授業についていけない、授業がわからないということではないかなというふう
に思うわけでございます。そうでなくても、数学の成績はよくても数学は好き
になれない、つまり学校嫌いということの多くはそういうところにもあるので
はないかなというふうに思うわけでございます。
その大きな原因というのも、やはり日本の学校における授業の形というもの
がどうも十九世紀型のような気がするわけでございます。つまり、両先生がおっ
しゃいましたように、知識を詰め込むというのはやはりこれはもう十九世紀型
であります。やはり知識の詰め込みよりも、たくさんの知識を持っている人──
知識は今コンピューターとかインターネットで自分の中に仕入れることはでき
るわけであります。しかしながら、それをもってどう自分が判断するのかとい
うふうなこと、そして他との違いをどのように認めるかというふうなこと、つ
まり自分でつくり出していく力がこれからの二十一世紀に求められている資質
ではないかというふうに思います。
いわば知識から知性へ、あるいは品性へというふうに言ってもいいのではな
いか。そうなりますと、やはりそういう子供たちを育てていくにはそれなりの
条件が必要ではないかなというふうに思うわけであります。
ところが、どうも日本の授業の仕方はいささか十九世紀型、そこから抜け出
ないのじゃないか。内藤先生のお話でも、やはりこれはいわば二十一世紀型の
子供たちをつくるという、そういうお言葉ではないかなというふうに私は思い
ます。西澤先生も私はそのように受けとめさせていただきました。
それでは、それを実現するためにまず具体的にどうすればいいのか。例えば、
学校の中での授業の仕方、一人一人の存在を認めることのできるような授業の
仕方が今できているとは思えないわけであります。やはり、それには手間暇か
けなきゃならない。そういたしますと、授業の仕方をどういう授業の仕方に変
えていったらいいのか。それに対して先生方はどのように対応しなければなら
ないのか。
一人一人をきめ細かくということになりますとどうしても先生は忙しくなる
と思うんですね、ある意味では。そうしますと、よく聞くことですけれども、
先生方の忙しさということが非常に聞かれるわけであります。ところが、一体
どうして、どのように忙しいのか、どこを変えればそうじゃなくなるのかとい
うことを私たちに示していただけないかということが第二点目でございます。
時間がございませんので、その二つに関して、まず西澤先生からお願いいた
します。
○公述人(西澤清君) おっしゃるとおり、今の授業は、本当に戦後五十年たつわけ
でありますけれども、依然として黒板とチョークが主流であります。そして、
教科を詰め込む。受験教育の場合にはそれでいいと思います。ただ、個性を尊
重してそれぞれの子供たちの個性を伸ばすとするならば、授業の仕組みを変え
なければならないと考えております。先ほど南野先生が図書館のことをおっしゃ
いましたけれども、要するに図書館が中心になる学校というイメージを私は賛
成しているわけであります。
それからもう一つは、教科の組み立て方が、先ほど内藤さんがおっしゃいま
したように、午前中を教科にして午後はもう本当に子供たちがいろんなことが
できるような大胆な軽減をやるということも重要であるし、カリキュラムの編
成について言えば、まず小学校の低学年では手仕事、いわゆる水泳だとか自転
車乗りだとかいろいろ体で覚えるようなことを中心にしてやるし、小学校の中
高年になったら一つの教科の中の原理原則を教えていく、中学校や高校になっ
たらこれを結びつけた一定の法則、世界観や社会観や人間との関係あるいは宇
宙観みたいなものを教えるというような形で整理する必要があると思っていま
す。今はとにかく詰め込みでありますので、これをやらなきゃいけない。
そこで、個性を尊重して子供たちを一人一人伸ばすとなりますと、どうして
も教職員が必要です。教育は人です。人がなければ教育というのは成り立たな
い。どんなことをやっても、コンピューターで代替できるところは知識をそこ
に入れるだけです。それを引っ張り出して子供にやること、さらに知識を知能
まで高めて、知能からアイデンティティーまで高めるには、それはどうしても
人です。そういう意味では、先ほど財革法の問題でぜひ定数計画を改革してほ
しいと、同時に三十人学級を申し上げましたが、これは絶対必要だと思ってお
りますので、ぜひそうした条件整備をよろしくお願いできればと思います。
以上です。
○公述人(内藤宏君) 簡単に申し上げます。
教科書の問題ですが、先生が間違っているのが一つあるんです。それは、教
科書を教えるのではなくて教科書で教えるんです。だから、そんな文部省のカ
リキュラムにぎすぎすぎすぎすとらわれる必要ないんですよ。腹が小さいから
だめなんです。僕なんかいつもそういうふうにやってきた。みんなそれでよく
なった。生徒に余裕ができるからですよ。余裕のない子供をつくったら、何を
やらしたって物にならないんです。それが一つです。
それから、教師は校門の中では先生と生徒、これはきちっと、そのかわり門
を過ぎたら、五時半過ぎたらただの人にならなきゃだめなんです、社会人にな
る。そして、休みとか休日がありますね。ですから、こういうことなんですよ。
授業をやっているときは、あれはただ飼育をしているんですから、えさを与え
ているだけで大したことないんです。大事なのは、十分休み、昼休み、放課後、
学校の行き帰り、それから休日、夏休み、あと休暇がありますね、これが教育
の場なんです。
以上でございます。
○日下部禧代子君 ありがとうございました。
○須藤美也子君 内藤先生、西澤先生、本当にきょうは御苦労さまでございます。日
本共産党の須藤美也子でございます。
限られた時間でありますので、まず最初に西澤先生にお聞きしたいと思いま
す。
せんだってアメリカのクリントン大統領は一般教書演説の中で、来年度から
予算をふやして、新規採用十万人の教師を新たにふやすことを発表いたしまし
た。それによりますと、小学校低学年は二十二人から十八人に、こういう方向
を示したわけです。それに反して日本は、先ほど来おっしゃっていましたよう
に、財革法に基づいて九八年度予算の中で教職員は八千四百三十三人削られる
ことになります。いつも私どもも、一人一人の子供たちに心の通う教育をとい
う立場で、先ほど来先生がおっしゃっておりました三十人学級、教職員をふや
して三十人学級をしてほしい、こういうことを強く求めてまいりましたが、そ
の立場に立つならば西澤先生たちは、たちはと言うとおかしいんですけれども、
日本教職員組合の方では、現在の政府が出している教育面でも大きな影響を与
えている財政構造改革法についてどのようにお考えになっているのか、その点
をお聞きしたいと思います。
(25/39) 次の分割内容へ
○公述人(西澤清君) 私たち、三月十七日に臨時大会をやりました。その議案では、
私が書いたんですけれども、財政改革はとんざしたと書きました。今そういう
状況に財政改革があるんではないかという認識を持っております。
同時に、定数法について私たち三十人学級の試算をしてみました。そのとき
に、全体的にふえる数が二十七万六千人であります。そして今、小学校、中学
校、大ざっぱに申し上げまして一人の子供の教育費としてかかっているのが大
体八十万ぐらいの感じです。ですから、一人の子供に対して二十万上積みして
いただければ三十人学級が実現できる。簡単に言えば、年間二十万円ですから、
ある意味ではコーヒー一杯のお金を本当に上積みしていただければ子供たちに
伸び伸びと教育ができると思って、ぜひそうした実現を夢見ているところであ
ります。
○須藤美也子君 文部省は、三十人学級をしたらどのような効果が上がるのか、そう
いう調査はしておりませんというふうに答えております。
そこで、まさに西澤先生がおっしゃるように、本当に今の荒れを防ぐ前に、
一人一人の子供の苦しみや悩みと面と向かってあらかじめ教師が心を通い合わ
せる、荒れる前にそういう子供たちの状況を把握するということは非常に重要
なことだと思いますので、私どももそういう立場に立って三十人学級を一日も
早く実現させていかなくちゃならないんではないかというふうに考えます。
そこで内藤先生に、先ほど大変おもしろい、おもしろいと言っては失礼です
が、何か文部大臣になれば違うとかというようなことで、なってみたらいかが
かなというようなことも私もふと思ったんですけれども、先ほど配付されまし
た中に、「「心を込めて子供を観、心を込めて子供の話しを聴き、心を込めて
子供に話してあげる」ただそれだけでいい。」と、こういうふうに書いており
ます。
これはそのとおりだと思うんです。ただ、現場の先生たちがどう言っている
か。本当はこうしたいんだ、しかし雑用が多くて一人一人の子供の状況をよく
見ることができない、悩みを持っている子供あるいは不登校になっている子供
たちのそういう苦しみや悩みを本当に聞く時間さえない、それほど雑用に追い
回されていると、こういうふうにおっしゃっております。
ですから、教育研究者として、そういう現場の状況も踏まえて、こういうこ
とを本当に教育で実践していくにはどうしたらいいのか、その点についてお聞
かせをいただきたいと思います。
○公述人(内藤宏君) 自分のことを言って悪いんですけれども、私は学校で教員を
している間、土日に休んだことはありません。夏休みも休んでいません。朝は
六時ごろから夜十時ごろまで働く。それでいいんです。それが教師の仕事なん
です。それでいけるから、人がちゃんと小遣いをくれるからいいんですよ。そ
れは冗談ですけれども。
どういうことかといいますと、忙しい忙しいと言うのは、あれはだめなんで
す。忙しがっているだけなんですよ。忙しくないんですよ。本当に僕のように
忙しい者は時が足りないと思うんです。大体心構えが間違っているということ
が一つ。基本が間違っているんですよ。そんな教師がいっぱいいるからおかし
くなったんだ。僕のようなのがいたらそうならないんですよ。
僕は一人として落としていないんです。当然刑務所や何かに世話になる者が、
全部働いて社長になって税金を納めているんですよ。全部の者が税金を納める
方に回ったら、少子化、高齢化なんか関係ないじゃないですか。これからほうっ
ておくとどんどん刑務所を各市町村につくらなきゃいけなくなっちゃうんです
よ。そんなことやったら、日本がつぶれるに決まっているじゃないですか。で
すから、それは忙しがっている。僕らはガリ版刷りでやってきたんですよ。今
は輪転機で出てくるじゃない。あんなに時間、幾らもつくってもらったら忙し
いわけがない。教師という仕事はやったら切りがない、怠けたら切りがない、
その怠け者の話なんですよ、それは。
○須藤美也子君 本当はその反論を西澤先生にお聞きしたかったんですけれども、時
間が来ましたのでこれで終わりにいたします。どうもありがとうございました。
○田村秀昭君 自由党の田村と申します。両先生、本日は大変いろいろありがとうご
ざいました。
戦前のものはみんな悪いと、そういうふうに今日まで来たような気がするん
ですが、明治二十三年にできた教育勅語というのがございまして、これは内容
を読んでみると非常にすばらしい。ソ連もそれを取り入れたというふうに聞い
ておりますが、戦後の教育で失われたもの、また欠落しているものはどのよう
なものかということを両先生にお伺いしたいと思います。
○公述人(内藤宏君) 思いやりの心が欠落している。思いやりの心とは儒学で言う
──儒学に凝っているわけじゃないんですよ、僕は教育者としては白紙ですか
ら、教育者というのは白紙でなきゃいけないから。思いやりの心というと、思
いやりとは仁です。この心を育てることなんです。医者も昔は仁術といいまし
て、だから医者は今医術を学んでいるから下手くそなんです。みんな基本は仁
なんです。政治だろうが何だろうがみんな仁ですよ。言ってみれば、仁の心を
持ったらどうにでもなる。それが僕の答えです。
○公述人(西澤清君) 戦後の日本の中で、私たちは経済成長に走ってきたと思って
います。その中では、人間としての思いやりと今申し上げましたように、温か
みやそうした他人を思いやる心、とりわけそうしたものを失ってきたのではな
いか。同時に、学校の中では、受験教育の中でやはり成績重視主義であって、
それ以外のものについて私たちは価値を認めてこなかった、そうしたことが今
の大きな問題につながっていると考えています。
○田村秀昭君 御専門でありますので、西澤先生にお尋ねしたいんですが、今の日本
の教師というか、聖職におつきになっている人たちのレベルというのはどの程
度か、ちょっと教えていただきたいと思います。
○公述人(西澤清君) 極めて難しい御質問じゃないかと思います。教師というのは、
子供に対するとき、私は非常に多様な先生がいていいと思っています。ある意
味では、先ほど内藤さんがおっしゃったように、刑務所とまでは申しませんけ
れども、一定のいわば人生経験を踏まえてきた方がいいと思います。
そこで、私は非常に心配しているんですけれども、最近、教職員の採用が減っ
ています。選考試験でありますから、ある意味では一流の高校、一流の大学、
そしていわゆるペーパーテストで優秀な人に非常に限定されてきている。だか
ら、子供に教えるときに、子供がわからないということがわからない。僕らみ
たいにできの悪いのは、何がわからないとかいつも考えていますから、わから
ないことがわかるんですけれども、子供の痛みがわからない先生がふえていま
す。
私が一番心配しているのはそういうことでありまして、教師は学力レベル、
いわゆる受験学力レベルでは余り優秀でない方がいい、人間的に温かみのある
教師の方がいい教師ではないかというように考えています。
○田村秀昭君 戦後、文部省は道徳教育について指導要領で書かれておりますが、現
場ではどの程度実施されておるのか、両先生にお伺いしたいと思います。
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○公述人(内藤宏君) 私の経験では、高校にいたときの経験ですけれども、道徳の
時間をちゃんと設けてあったんですが、教えられるのは一人もいない。ですか
ら、高校三年生の道徳教育の指導書を僕が全部つくった。だから忙しかった。
先生も育てながら生徒もやる。
これから本当に教育を立て直そうというんだったら、みんなその気にならな
かったらできませんよ。だから、僕ならできると言っているんです。僕以外に
できる人はいないじゃないですか。だれができるんですか、いれば手伝ってあ
げますよ。そういうことで、何を言っているんだか忘れましたけれども、とに
かくそうなんですよ。もうよくわかっている。
要するに、前に言ったように、これをきっちりしなきゃいけない。教育は生
き物だということです。それから、自分も、教える方も生き物です。でも、生
き物の人間には必ず冷たい心と温かい心が共存するんですよ。それが言葉の使
い方、感情の持ち方で冷たさが出る。それを気をつけていけば、何か話がとん
ちんかんになりましたけれども、いいじゃないですか。そんなに難しくないで
すよ、本当に。難しがっているだけです。みんな学者さんが、ここまで勉強し
ているからここまでのことを言っているんですよ。ここから先、勉強していな
いからわからないんですよ、僕の言っていることが。今、体を張って勉強しな
きゃわからない話をしているんですよ。そういうことなんですよ。おっしゃる
ことはわかります。どうも何か変なことになりましたけれども。
○公述人(西澤清君) 私たち教職員は、いわゆる市民道徳としての道徳は非常に重
要だと思っているわけであります。ただ、これを教えるのにすべてのところで
教えなければいけない、貫かれていないと考えていますから、一定の授業で教
えるというのはなかなか本物にならないと考えているんです。
例えば「天に輝く星よりも、地に輝く人文律」というカントの言葉を実は道
徳の時間に私も教わったんですけれども、それはそれきりです。しかし、その
ことがどのように生きるかということになりますと、すべての教科やホームルー
ムやいろいろなことを通じて子供たちと教師がそれこそ生きざまを通じて向き
合っていかなければ教えられないなと思って、非常に難しい課題ではあります
けれども、しっかりした生き方を教えていきたいと思っております。
○田村秀昭君 ありがとうございました。
○佐藤道夫君 私は、ややタカ派的な立場に立ちまして私の意見を申し述べたいと思
いますので、後ほどこの意見についての御所見を承れればと思います。
私は、一言で言うならば、現場の先生方に教育者としての自信と権威をぜひ
にも取り戻してもらいたい、それから職業人としてのプライドをこれまた取り
戻してもらいたい、こう切に思うわけであります。
先生というのは教育のプロであります。プロというのは自分の仕事にアマチュ
アに介入されることを大変嫌います。父母はアマチュアでありますから、学校
の先生にお任せした以上はもう余計な口出しはしない。父母のやることは何か、
こういえば、先生は立派な人たちです、先生の言うことに従いなさい、先生を
心から尊敬しなさいと、それを繰り返し繰り返し子供たちの頭にたたき込む、
それで私は十分だろうと。PTAなんという余計なものには余り出ないで、出
ていきますとどうしてもちょっと言いたくなる、学校教育はなってないなんと
いうことを言い出したくなるものですからね。
端的な例を挙げますけれども、二年ほど前に茶髪騒動というのがありました。
ある学校が校則で茶髪を禁止しておる。そうしましたら、ある生徒が茶髪にし
て登校してきたので、保健室に連れていって本人の了解もとってこれをきれい
さっぱり洗い落とした。そうしたら、両親が怒ってどなり込んできまして、何
だ、こんなことは子供たちの自由ではないか、学校は余計なことを言うなと。
こういうことで、学校は何をやったかというと、その生徒を連れてパーマ屋に
行ってもう一回きれいに茶髪に染め上げた。そして、その子供を連れて両親の
ところに校長以下そろっておわびに行きまして土下座をして謝ったら、謝り方
が足りないといってけ飛ばされてけがをした。こういう事件で、まことにもっ
て情けない次第と私は考えたわけであります。
それから、今現在、所持品検査が問題になっておりますけれども、あれはす
ぐれて私は教育の現場の問題だろうと思うんですよ。学校の先生方がプロの目
で見渡しまして、大体一割ぐらいがナイフを持っておる、じゃひとつ所持品検
査をしようと。個別指導にはもう限界があると思えばやればいいんです。文部
省が言うからやるとか、教育委員会が言うからやるとか、そんな問題ではあり
ません。
それから、昨日の委員会で、広島県の先生が来られまして大変衝撃的なこと
を言いました。学校で生徒に殴られると決して殴り返さない、抵抗はしない、
殴り返すとこれは体罰だといって非難されるのでそういうことはやらない、す
きを見て逃げてくるんだと。これまた情けない話であります。
文部省は正当防衛の理論を持ち出してきまして、いかにも小役人の考えそう
なことでありますけれども、正当防衛というのは、凶悪な犯罪者に襲われた場
合に善良な被害者がどうするかという問題であって、教育の現場に持ち込んで、
生徒は凶暴な犯人であるからして襲われたらこうしろああしろと。こんな理論
は通りません。要するに、教育の問題ですから、抑えつければいい、自分の力
で足りなければほかの同僚の援助を頼めばいい、それでも足りなければ警察官
をとりあえず導入して現場を静める、これで十分なわけであります。
どうも物事の本質が今の教育から見失われているのではないか、こういう思
いがあるものですからこういうことを申し上げましたが、遺憾ながら時間でご
ざいますので、申しわけございませんけれども二十秒ぐらいずつで簡単に御意
見を。
○公述人(内藤宏君) それでは、まとめます。こういうことです。
今までの話や何かは全部おっしゃるとおりです。少し父兄も出過ぎています
が、学校の教師も悪いんです。教師ばかりじゃないですが、要するに生徒が悪
いというそれを基準に置いて物事を発想するから、今まで新聞見てきたりなん
かするとああいう発想しかしないんですよ。僕が見てきたので悪い生徒は一人
もいないんですよ。僕はそういう発想で人を動かしてきているんです。悪いと
思って発想するから、何これ、こうしろ、小言が出るんです。それだけです。
○公述人(西澤清君) 学校現場で、しかも非常に特殊な例が挙げられる、残念だと
思っています。
おっしゃるようにさまざまな問題点がありますけれども、ただ一言申し上げ
たいのは、生徒に殴られて教師が殴らない、まずそういうことじゃないんです。
先ほどありましたけれども、必ず教師の方に原因がある。恐らく教師が何をやっ
ているかということを問われなきゃいけないというふうに私たちは考えている
ということを申し上げたいと思います。
○佐藤道夫君 終わります。
○栗原君子君 新社会党の栗原君子でございます。
私は、教育というのは子供たちに生きる力を身につけさせてやることだと、
このように考えております。
そんな中で、私は広島出身でございますけれども、混合名簿のことがござい
まして、かなりこの混合名簿が進んでまいりました。全国的にはどういった状
況になっているのか、一言お答えいただきたいと思います。
それからもう一点は、先ほど西澤先生がおっしゃいましたけれども、休む権
利を認めていい、こうおっしゃったわけでございます、学校に来ない子供に対
して。けれども、そうするということは、教師というのはプロでございますか
ら、子供たちにわかる授業をしてやる、あるいはまた楽しい学校づくりをして
いく、こういうことをやっぱりやっていただきたいし、そして学校に来ない子
がいるならば、学校は楽しいんだから、みんな待っているから来るようにとい
うことで家庭にも出向いていって、そしてまた保護者と一緒になって学校へ行
くように説得をするといいますか、そういう活動も重要なのではなかろうかと
思います。
この休む権利を認めていいということになりますと、うっとうしい子供、ま
た手のかかる子供は切っていくということになりはしないかということを思う
んですけれども、西澤先生、お願いいたします。
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○公述人(西澤清君) 混合名簿は二年ぐらい前の調査で一七%というのが、私たち
の調査ですけれども、今は既に四〇%を超していると思います。
それから、休む権利は、これはあくまで緊急避難的に子供がどうしても学校
に来られなくなったときに認めていこう、それは、私たち、学校を否定するん
ではないか、教職員のあれを否定するんじゃないかとありました中から生み出
しました。
そして、子供を迎えに行くこと、僕らは登校刺激と呼んでいるんですけれど
も、そうしたことをやることが余計子供を追いつめてしまう、そして死に追い
やった例もあります。
そういう意味では、子供を優先に考えたら、あくまで緊急避難的ではありま
すけれども、そこはきちんとした態度でやろうということで、今私たちの到達
点というふうに御理解いただければありがたいと思います。
○栗原君子君 緊急避難的というのはわかりますけれども、その休む権利を認めてい
いということになって休み続けますと、学校へある日突然行こうというきっか
けが子供たちはなかなかつかみにくいんではなかろうか、こんなところを心配
するんですけれども、こういうことは余り心配しなくてもよろしいものでしょ
うか、西澤先生。
○公述人(西澤清君) 子供たちが学校から離れて少し休む中で、また学校に帰りた
いということで帰ってきた例は、これが一番多いのであります。それからもう
一つはフリースクール、先ほど出た話がありますけれども、そこで子供たちが
学習する、そこでもう一度子供が生き返るということがあります。
私たちは、あくまで子供がどういうふうにその後の人生を過ごすかというこ
とに焦点を当てて考えていきたいと思っておりますし、さまざまなケースが用
意されていいんではないかということも思っております。
○栗原君子君 終わります。
○委員長(岩崎純三君) 以上で公述人に対する質疑は終了いたしました。
この際、公述人の方々に一言御礼申し上げます。
本日は、有益な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうござい
ました。委員会を代表いたしまして厚く御礼申し上げます。(拍手)
速記をとめてください。
〔速記中止〕
《省略》
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