142回-衆-予算委員会-16号

教育関係

1998年3月2日(月)


 地球環境の温暖化の問題も取り上げられておりますが、割愛しました。

○小林(守)委員              《省略》     それでは次に、先ほども申したとおり、やはり二十一世紀に向かって、私は、    理念や経済社会のシステム、そしてそれを支える人づくりというものが極めて    重大だというふうなことを申しておきましたけれども、今日、子供たちの教育    現場は大変荒れているわけであります。     特異な事例かどうかはわかりませんが、象徴的な事件として、神戸須磨区の    あの事件、そして最近の我が栃木県の黒磯市における中学生の教師の刺殺事件    がございました。子供を持つ親にとっても、また教師自身にとっても大変ショッ    キングな出来事でございました。     なぜ、こういうことが起こるのか。大変心を痛め、そして対処をしたい気持    ちはありながらも、どうやったらいいのか、なかなかその方策が見つからない    問題だというふうに思っております。     宇都宮家庭裁判所の島田裁判官は、この生徒を教護院に送致するという保護    処分の決定に際しまして、その理由として、「少年はいまだ事件の重大さや深    刻さを十分に理解できていない面があると見受けられ、生命の尊さを教えて、    今後どのように生きていくべきかを学ばせることが必要だ」、このようにその    処分の理由の中で述べております。     私も、命のとうとさというものをきちっと教える、どのように生きていくべ    きかということを子供たちにきちっと語っていく、教えていく、これが今の教    育の中で欠けている大きな柱ではないのか、このように思えてならないわけで    あります。     もちろん文部省といたしましても、中教審の答申においても「生きる力」と    か、今日では「心の教育」とか、そういうさまざまな提言や審議をしていただ    いている状況でありますけれども、先ほど冒頭に、田中正造の、山を荒らさず、    川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべしというような言葉、榛村氏の    「哀しい矛盾」、こういうようなものが、私は、今日までの経済社会のゆがみ    がやはり子供たちの中に象徴的にあらわれているのではないか、このように思    えてならないわけであります。     子供たちは、あり余る情報の中で、本当に必要な大切な情報は極めて少ない    のではないか、真実の言葉を与えられていないのではないか、こんなことを強    く感じているわけでありますし、また、教師自身がいかに生きるべきかという    理念を語る場が欠けているのではないか、このようにも思えてなりません。     ちなみに、江戸時代の良寛というお坊さん、俳句を物する有名なお坊さんが    おりました。江戸時代といえば、もちろん封建社会の方であります。封建社会    でありますけれども、しかし、物質循環の観点から見ると、まさにリサイクル    な、物質循環の時代だったんですね。     そういう時代背景をもとにして、ある人が良寛和尚に、幸せとは何かという    ことを問うたそうであります。そうしたらば、良寛和尚は、「焚くほどに風の    もてくる落葉かな」、こういう俳句で、幸せとはこういうものだということを    示したそうであります。「焚くほどに風のもてくる落葉かな」。要は、飯を煮    炊きする落ち葉を風が運んできてくれるじゃないか、これが本当の幸せだとい    うようなことを実感するというような言葉だったろうというように思いますが、    解釈はもうちょっと別のこともあるかと思いますけれども。     もう一方で、同じ新潟県出身の方で、まさに高度経済成長時代の我が国の宰    相であった田中角栄氏は、幸せとは何かという質問に対して、道をどんどんつ    くり、山や森を切り開いていくことが幸せにつながるんだ、こういうことをはっ    きり言っているわけであります。     これは非常に極端な話をちょっと取り上げているわけなんですけれども、時    代の経済社会の仕組みの違いが、こういう幸せの考え方の違いにあらわれてい    るんだと思います。もちろんそういう時代時代があったわけですから、それぞ    れを今の視点から批判するのはたやすいことでありますけれども、その時代時    代のやはり背景があった言葉だというふうに思うんです。やはりこれからの子    供たちに対しても、幸せとは何なのかということを教育の現場で議論するよう    な、話し合うようなことが求められているのではないかな、このように私は考    える次第であります。     そういう点で、命のとうとさとか「生きる力」とか「心の教育」という、そ    の前提となる、基盤となるものは、やはり人と自然とのかかわり方、命とのか    かわり方、我々三十六億年の歴史の過程の中でほんの一瞬の生命を与えられて    いるんだというようなことを考えるならば、子供らにも、命への慈しみみたい    な、そういう共生観というか友愛観というか、そういうものを、やはりいろい    ろな教材を用いて、自然観察を通してもいいでしょう、動物や植物を飼育する、    育てる、そういう作業を通して得ることも大事だと思います。あらゆる文学作    品や過去の人たちの言葉、自然とのつき合い方、そういうことの中からも学べ    ると思うんです。     そういう教育の視点に立って環境教育というものが求められているのではな    いか、私は、こんなふうに考えているところでございますけれども、文部大臣    として、命のとうとさを教える教育というのはどういうことなのか所見を伺い、    今後、環境教育をどのように進めていかれようとするのか。     これは、別に環境教育という言葉じゃなくても結構です。命の大切さ、自然    とのかかわり、これをきちっと教えていく。私は、二十一世紀の地球環境の時    代に生きる人間というのは、循環型の経済社会でなければならないという考え    方を持っておりますが、そういう視点に立った教育理念というものがあらなけ    ればならないのではないか、このように考えますけれども、文部大臣のお考え    をお聞きしたいと思います。 (18/40) 次の分割内容へ ○町村国務大臣 今、小林委員から、良寛ら田中角栄まで、幅広い、歴史的な洞察に    立っての、あるいは足尾銅山のお話等々、大変感銘深く、また考えさせられる    御質問をいただきました。     短い時間ですべてお答えをし尽くすことは大変難しい問題だと思っておりま    すが、やはり、今御指摘のあったこの環境の問題は、何といっても、これから    の社会経済システム全体についてのあり方、あるいは個々人の生活様式、ある    いは社会全体の生活様式にかかわる非常に大きな問題を内包しているテーマで    あろう、こう考えております。     したがいまして、特定の分野で環境ということを、例えば学校教育の中で取    り上げるということは難しゅうございますが、理科とか社会とか、あるいは特    別活動とか、あるいは道徳の時間とか、あらゆる機会を使って、環境の問題に    ついて子供たちに考えさせる、そういうきっかけを与えるようにということで    取り組んでおります。     もとより、学校だけではなくて、家庭の中でもそうでしょうし、あるいは地    域社会でも、公民館とか博物館、そういったいろいろな機会を通じて環境につ    いて子供たちが考える。そして、今委員御指摘のように、自然に触れることの    重要性でありますとか、あるいはそれを通じて環境を守ることの重要性という    ことで、かなりはっきりとした意識を持って、例えば学校教育の場でも環境と    いう言葉を使い、学習指導要領の中でもそのことにしっかり触れてございます。    これからも、さらにこの点は充実をさせていきたい。     例えば、新しい教育課程を今準備しているところでございますが、総合学習    の時間というのをつくろうかな、こういうことを今検討してございます。例え    ば、そこの中で一つ大きく取り上げる、要するに、理科とか社会とか分断され    たものではなくて、総合学習の時間で、含めてそこでトータルの環境問題を一    年かけて取り上げるといったようなことも大変有効なのではなかろうか。     そのようなことで、今後とも環境教育の充実に向けて最大限の努力をしてい    きたいと考えております。              《省略》 (19/40) 次の分割内容へ
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