アメリカ合衆国憲法大事典よりEncyclopedia of the American Constitution Edited by L.W.Levy with K.L.Karst and D.J.Mahoney
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死刑1971年、まだ連邦最高裁が死刑の憲法上の規制についてその長く苦しい試みを始める以前、ジョン・マーシャル・ハーラン判事は、ある不吉な警告を発した。McGautha対カリフォルニア州事件で、彼は次のように述べたのである。死刑の道徳的複雑性と主観性とは単純化することができない。刑事被告人の生と死の選択について、形式化された法的合理性を設けようとする試みは無駄に終わるだろう。「事実に向き合い、死刑にあたるとされる殺人行為の罪質や加害者の性格などを確認し、それを量刑の権限を持つ人々に正当に理解され採用され得ることばで表現するなどということは、あきらかに現在の人間の能力をはるかに超えている。」 ハーラン判事の発言を支持する憲法解釈学者なら、あり得べき二つの含意のうち、少なくとも一つをそこから描くことができるだろう。こうした道徳的不確かさのために、裁判所は死刑に関する立法判断に口をはさむことはできない。裁判官には立法者を正すための反対論拠がないからである。一方で、こうも言えるはずだ。死刑は憲法上禁止されている。なぜなら、道徳的な不確かさのために、立法者たちは死刑のプロセスを憲法上の最低限の要請である「法の支配」の原則に合致させることができないのだから。しかし、解釈学者はまた次のように言うこともできよう。ハーラン判事は必要以上にシニカルだ。問題に精通し、努力を重ねれば、死刑の運用について、受け入れ可能な道徳的、方法的な合理性を獲得できるはずだ、と。McGautha判決前後に巻き起こった死刑に関する憲法上の一風変わった論争は、こうした手を焼かせる問題を扱うものだった。この論争史は、立法での、複雑で、ときに混乱した試みを明らかにしている。そしてハーラン判事が述べたような、根本的で何度も繰り返されるジレンマに光をあて、その発言に確固たる支持を与えるのである。 修正5条は、何人も「適正手続(デュープロセス)によらなければ生命・・・・を奪われない」としている。そこから、厳格に文言を解する限り、憲法はそれ自体としては死刑を禁じていない、ということができる。そして、実際、初期のアメリカでは、殺人やその他の重罪を犯した者に対しては、自動的に死刑が執行されていた。じつに19世紀に至るまで、被告人が殺人を犯したと信じる陪審員には、法的な手続きによってその被告人の生命を救うことができなかった。各州が程度によって殺人行為を分類しはじめてからは、死刑を確保するためには、検察官は加重殺人罪か、第1級殺人罪で有罪を勝ち取らなければならなかった。しかも有罪の判決を受けた後、死刑の適用は陪審の裁量に任されたのである。 憲法上の死刑制限条項としては、修正8条の「残酷で異常な刑罰」が考えられる。しかし少なくとも連邦最高裁の最近の歴史的な解釈であるGregg対ジョージア州(1976年)によれば、残酷で異常な刑罰の条項の起草者は、重大な犯罪に対する通常のやり方による死刑を禁止する意図はなかったということである。むしろ修正8条は、1689年の権利の章典を引合いに出しつつ、法によらない刑罰、裁判所の量刑裁量外の刑罰、拷問、残酷で不必要な苦痛を伴う執行方法を禁じているのである。 19世紀の大半にわたって、アメリカの裁判所は死刑に対し、憲法上の制限を一切つけなかった。とはいっても、各州の立法機関は、自動的に死刑が適用されるシステムを徐々に減らしていった。自動的に死刑が下されるという法は、厳しすぎるという感想をもった立法者もいたようだ。そのために恩赦を勝ち取った殺人犯もいた。ところが、その一方で、自動的に死刑が下されるという法は、実際には寛大にすぎると感じた人々もいただろう。陪審が、被告人を第1級殺人で有罪であると考え、しかも死刑に処すまではいかないと感じる場合、「陪審による法の無視」を適用することができた。つまり被告人を殺人の嫌疑にもとづく審理から外してしまうという大逆転が可能だったのだ。 ともかくも、20世紀前半までにほとんどの州が、死刑と終身刑との選択について絶対的で再考の余地のない裁量を陪審に与える新たな死刑法を採択した。陪審は、被告人が死刑相当犯罪について有罪であるとわかった段階で、被告人を死刑とするか終身刑とするか選択しなければならない。陪審はこの判断に関し、いかなる法的な助言も受けない。さらに、陪審は被告人の背景、性格、量刑に影響を与えるような前科に関する一切の情報を与えられず、ただ有罪となった事情のみについての証拠を持っているにとどまる。いくつかの州では19世紀末ないし20世紀初頭に死刑を完全に廃止したが、この予備知識なしの裁量という立法形式は、基本的に1972年までのアメリカ死刑法の典型だった。 合衆国では1960年代まで、じつにしばしば殺人犯人と強姦犯人を死刑にしていた。死刑執行数は、世界恐慌の時期の年間200件をピークとして第2次世界大戦中には減少。しかし1960年代までには、陪審の予備知識なしの裁量で死刑を課すというやり方は、道徳的、政治的な反対意見に直面することになった。国家がみずから殺人を犯しているということに対する道徳的態度の本質的な変化以上に、反対意見には3つのテーマが含まれていた。まず第一に、社会科学者たちによる初期の経験主義的な研究が死刑の手段としての正当性に疑問を投げかけたこと。すなわち殺人犯人に対する死刑の一般抑止力の問題である。第二に、予備知識なしの裁量による死刑法による死刑執行のパターンに関する非形式化されたデータでさえ、刑事司法手続一般が、そして特に量刑をする陪審について、死刑にあたるとする被告人を選ぶのに、専断的で恣意的な運用をしていると、指摘したからである。死刑選択のプロセスは他の事件の場合とは異なっており、同じような事件を起こしながら、あるいは同じような性格を持っていながら、なぜある者は死刑となりある者はそうはならないのかを説明できる合理的な原則がないということである。 第三に、他のどのパターンよりも、人種という受け入れ難いパターンの問題だった。死刑批判者は、被告人の人種が陪審が死と生を分ける際の重要なファクターであり、被害者の人種も重要なファクターである可能性があるという経験主義的な証明に言及した。黒人は白人よりも死刑を宣告されやすい。白人に対する犯罪をおこなった者の方が、黒人に対して犯罪をおこなった者よりもはるかに死刑になりやすい。人種により違いがあるというパターンは、強姦については圧倒的である。死刑にされた強姦犯人はすべて、白人の女性を強姦した黒人男性だったのである。殺人犯人についても、そういう疑いを抱かせるに充分だった。 このテーマは、60年代後半、アカデミックな注釈、反対意見、一般の意見の場に表れるようになった。裁判所は死刑に一定の法的な制限を設ける必要に迫られることになる。アメリカ史上、死刑に関する最も重要で、最も不思議な判決は、1972年のFurman対ジョージア州事件である。混乱した果ての連邦最高裁の合意は、ハーラン判事の警告を無視し、究極的な結論ではないにしろ、死刑に反対するという挑戦に出た。ファーマン判決では9人の裁判官全員が別々の意見を書いた。そして5対4で、連邦最高裁は死刑判決を否定したのである。しかし死刑を否定するという多数意見5人についても、死刑の問題性に対するテーマ的な合意には達したものの、未確定であって、その解決については多数意見とはなっていない。 ウィリアム・J・ブレナン判事とタルグード・マーシャル判事のみが、あらゆる場合について死刑は違憲であると明示した。憲法や権利の章典の起草者が、合法的な死刑を認めていたという、文理解釈の有力な反論に対し、二人の判事は、修正8条の残酷で異常な刑罰の条項を、憲法をアメリカ社会の道徳的発展に適合させるための柔軟な規定としてとらえた。彼らによれば、一般の意見や陪審の動き、立法の態度に影響を受ける「良識の基準の変遷」が死刑を断罪するに至ったのである。修正8条は、さらに判事が死刑に関する道徳的な、また手段としての正当性を判断できるとしている。そして、応報主義や一般抑止ですらその吟味をのがれることはできない。応報主義は道徳的に価値のない原則であり、一般抑止は、経験的な証明を得られないのである。 しかし、ファーマン判決の多数意見は、ウィリアム・O・ダグラス、バイロン・R・ホワイト、ポッター・スチュワートの三判事の、より慎重かつ曖昧な意見によっている。彼らは、死刑が禁じられるべき刑罰かどうかという問題に答えるのを避け、その代わりにどうやら次のようにいいたいらしい。すなわち、予備知識なしの裁量による死刑法の下で、死刑が許しがたいほど専断的で恣意的に差別的効果を生んでいる、と。従って、ファーマン判決の公式見解としては、次のようになる。州は、法的な助言と裁量との間のジレンマを解決し得るだけの有効な死刑法を、もう一度確立することができる。ただし、いかなる方法で、それを実現するかまでは、判決は述べていない。(1972年の死刑判例を参照。) ファーマン判決の効果はすぐさま、連邦の4分の3にあたる州の立法機関がこの判決に対応するまで、数年間すべての死刑執行を停止するという形であらわれた。判決への対応には二つの立法形式があった。いくつかの州は、予備知識なしの裁量の問題を解決するために、皮肉にも裁量手続自体を廃止した。少なくとも特に重大な加重殺人については、本質的に19世紀前半の自動的に死刑が下される時代に逆戻りしたのである。しかしながら、死刑を復活させた他の州は、より巧妙で妥協的なアプローチをとった。これは「予備知識を伴った裁量」とでも呼ぶべき立法形式である。この予備知識を伴った裁量という立法形式の大雑把な共通分母は、被告人が第1級殺人罪で有罪となった後で、刑罰についての別の審理が開催されるという点にある。これは死刑以外の事件で裁判官によっておこなわれる伝統的な裁量による量刑審理と、いわゆる正式な刑事裁判との間の、新たな十字架である。ほとんどの州で、刑を決めるのは陪審であるが、いくつかの州では裁判官もまた単独で刑を決めたり、あるいは陪審の刑罰に対する勧告を覆すことができる。 この審理で問題となるのは、両当事者が提出する刑の加重事由と軽減事由である。そうした事由は、事実審理で扱われたものと一部重複するが、事実審理では法的には通常無関係とされるような被告人の性格や背景といった新たな情報も扱っている。そのため、検察官は、次のような証明をするかもしれない。被告人は殺人行為を、特に極悪で、サディスティックなやり方で遂行した。被害者は警察官のように特に保護されるべき人物だった。金で雇われた殺しだった、その他金銭目的の殺しだった。強姦や窃盗、強盗の最中に殺した。被告人には以前に暴力犯罪の前科がある云々。逆に被告人側も次のような証拠を提出するだろう。被告人が法的に責任無能力であると証明できないまでも、犯行時激情に駆られていた、ないし薬物の影響下にあった。被告人は若かった、ないしこれまで重大な犯罪の前科はない。逮捕後、被告人は悔悟の念を示し、刑務所でも模範囚で通っている云々。 量刑を担当する裁判官ないし陪審は、こうした事情を審理し、いくつかの立法形式によれば、加重事由が軽減事由を上回った場合にのみ、死刑を言い渡すのである。ほとんどの立法形式ではこうした事由を列挙し、それに加えて死刑判決に対する自動的な控訴手続を用意している。州控訴裁判所に対しても、多くの州が、新たなシステムがファーマン判決で否定されたような気紛れな死刑判決という問題を回避し得ているかどうかを確かめるため、同程度の殺人事件での死刑と終身刑について「均衡の検討」を定期的におこなうことを定めている。 1976年、各州は連邦最高裁に対し、ファーマン判決で問題とされた点が改善されたかどうかを問い返すこととなった。連邦最高裁は、同日に5件の事件を扱い、またもや統一的多数意見を形成できなかった。ブレナン判事とマーシャル判事は、両立法形式とも退けた。ウォーレン・E・バーガー首席判事、ハリー・A・ブラックマン判事、バイロン・R・ホワイト判事、ウィリアム・H・レンクィスト判事らは、両立法形式とも合憲とした。ポッター・スチュアート判事、ルイス・F・パウエル判事、ジョン・ポール・スティーヴンス判事らは揺れた結果、死刑の憲法上の運命を決めた。そして1976年の事件については、少なくとも結論ははっきりした。自動的に死刑を下すシステムは支持されず、予備知識を伴った裁量によるシステムは生き残ったのである。 まず第一に、Woodson対ノース・カロライナ州事件では、多数の判事が、自動的に死刑を下すシステムは、裁量の問題の解決としては誤っているとして否定した。この立法形式はあまりに融通がきかず、死刑の量刑に際して必要な個人的な情状を捉えることができない。そして1世紀前に昔の自動的に死刑を下すシステムをさんざん悩ませた、「陪審による法の無視」の問題を再燃させるだけだ。第二に、Gregg対ジョージア州事件(1976年)の主たる理由の中で、多数の判事が、予備知識を伴った裁量という新たな立法形式が、ファーマン判決で指摘された複雑な問題に対する適切な対応であると支持した。むろんそうするためには、判決はファーマン判決で示されたマーシャル、ブレナン両判事の、死刑がすべて違憲であるという意見を否定しなければならなかった。そして死刑は、必然的に権利の章典にもとるものではないと、はっきり宣言したのである。多数意見は、死刑の基礎が応報に置かれていることを受け入れた。それは特に、国家が殺人犯人に復讐することによって、より社会的な混乱を引き起こす危険のある私的な復讐を予防することができるからという理由による。多数意見はまた、死刑の一般抑止力の経験主義的な証明は両義的であり、そうした両義的な証明に直面した場合、裁判官は一般的で立法的な判断によらなければならないと判示した。こうしてファーマン判決が、死刑についての憲法上の一般的正当性の最低条件となったことで、全州のおよそ4分の3にあたる州の立法機関は死刑を復活させることにしたのである。多数意見は、奇妙な原理に依っている。すなわち、修正8条にしばられるべきだと思われる州の立法機関が、修正8条の意味を確定するための道徳的合意を形成する主要な源泉となっているのである。 多数意見は、次にジョージア州の予備知識を伴った裁量による死刑法を、Proffitt対フロリダ州、Jurek対テキサス州に表れた、フロリダ、テキサス両州の死刑法とともに審議した。そして、控訴審で厳格に検討するという条件と結び付いた、新たな量刑審理の概念の実質的、また手続的な条件によって、これらの立法形式が、表面的には、かつての予備知識なしの裁量による死刑法に見られた専断的で人種差別的な影響を予防するに憲法上充分であると結論づけたのである。(1976年の死刑判例を参照) 一年後、ユタ州でGary Gilmoreの死刑が執行された。これをもってアメリカの死刑は実質的に復活した。しかしグレッグ判決の内容が今一つはっきりしていなかったため、死刑執行数は、死刑宣告数に比べて、以後数年低い水準にとどまっていた。グレッグ判決は、死刑がそれ自体として違憲であるという反対を封じ込めたものの、死刑の適用にあたっては、きわめて厳格にデュープロセス的な制限に服さなければならないと確認したのである。そのため、死刑事件の弁護側は、個々の事件や、個々の立法上の要素に対して、いくらでも法的に反論することができた。新たに出てきた法的な反論の中には、州法の問題もある。ファーマン判決後に殺人罪に導入された加重事由のいくつかは、州の実質的な刑法原則をこれまでよりも格段に複雑にしたのである。 しかしながら、新たな反論のほとんどは、憲法上の問題だった。連邦最高裁は、一連の事件の中で、「修正8条のデュープロセス」を拡大解釈し、州の死刑審理に関するウォーレン・コートの刑事手続解釈を一種復活させた。Gardner対フロリダ州(1977年)では、死刑事件の弁護側に加重事由の証拠に関する反対尋問権を与え、Green対ジョージア州(1979年)では、軽減事由の証拠調べのために証人出頭強制手続の権利を与えた。Godfrey対ジョージア州(1980年)では、加重事由に対するデュープロセスの「曖昧ゆえに無効」の原理を認め、Estelle対Smith(1981年)では量刑段階の調査について「自己負罪拒否特権」「弁護人の援助を受ける権利」を認め、Bullington対ミズーリ州(1981年)では、量刑段階の決定につき、「二重の危険」の法理を認めた。連邦最高裁が「修正8条のデュープロセス」を拡大解釈したことにより、死刑事件の弁護側は下級審に対し、死刑事件の審理をいわゆる形式化された刑事事件として扱うよう、さらに圧力をかける結果となった。彼らは、例えば、修正6条および修正8条が死刑事件の弁護側が量刑段階の陪審に立ち会うことを認めていることから、陪審は死刑を選択する場合には、常に合理的な疑いの基準に従うべきであると主張するのである。 同時に連邦最高裁は、死刑がそれ自体として違憲であるという反対を封じたものの、加重殺人に対する死刑の適用を制限するための別の流れに沿った判断もしている。Cocker対ジョージア州(1977年)では、連邦最高裁は、成人女性への強姦に対する刑罰としては、死刑は、それ自体、均衡を欠いていると判断し、さらに殺人を伴わない犯罪に対してはすべて同様と暗示したのである。そうした上で、州の大部分が強姦に対する死刑を廃止したことを指摘し、立法の方法を憲法解釈の形で続けた。また連邦最高裁は、強姦犯罪の重大性と死刑の重大性との自身の道徳的バランスを問題にし、修正8条に従って、「残酷で異常な」と言える程度の不均衡を生じるような刑罰であった場合に、独立の機関がそれを決定するべきであると要求した。連邦最高裁は、立法合意の形成と道徳的合理化に関するこうした解釈を、Enmund対フロリダ州(1982年)でも問題にした。この事件では、連邦最高裁は、故意によらない重罪の殺人罪といった若干軽い事例に対しては死刑の適用を禁じたのだった。 連邦最高裁が新たな合憲的な死刑法を改善すると、各州最高裁の控訴審手続、そして連邦地裁の人身保護令状請求事件の審理は、大変に複雑なものとなった。そしてまた、審理期間が大変にのびることにもなった。新たな法の下で死刑宣告を受けた被告人の大部分は、その執行を受けることがなさそうなくらいである。仮に執行されるとしても、死刑宣告があってから執行までにはしばしば十年の歳月が経っていた。その間に、連邦最高裁は次から次へと数多くの死刑事件と遭遇し、常に新しい合憲的な死刑規定を調整するよう求められたのである。しかし、連邦最高裁の形式的立法化に対する努力は、永続的なもののように思えてきた。次から次へと問題を生むための土壌を作っていた。控訴審や人身保護令状請求事件の審理は、死刑事件で一杯だった。 連邦最高裁は、死刑の運用に関して、合理的な法的制限と主観的な陪審の裁量との間によこたわる避けがたい緊張関係を解決したのではなく、むしろ助長したのだと気づいた。そしてそれを是正しようと努力しはじめた。しかしながらその結果、連邦最高裁は、根本的で永続的な法的問題にぶつかり、同時に二つの方向に向かってしまい混乱を生じることになった。どのような被告人は死ななければならないのかということに関して、無制限の裁量基準よりもむしろ、立法上の厳格な規定の柔軟性という法的問題である。 死刑の合憲的な規定方法について、連邦最高裁による明白な解明の努力を説明した基本判例は、皮肉にも弁護側の勝利に終わった。Lockett対オハイオ州(1978年)では、連邦最高裁は、州は量刑をおこなう裁判官ないし陪審に、被告人の性格、犯罪、前科など弁護側が合理的に提供した軽減事由に対する、独立した考慮をおこなう余地を与えなければならない。たとえ、そうした事由が州法が注意深く列挙した軽減事由以外のものだとしても、である。連邦最高裁は、個別量刑の道徳原理は、形式化された規定のリストには載らないようなことについても、陪審の裁量を求めている、と考えたのである。ハーラン判事の1971年の警告が繰り返されていることは明らかである。皮肉にも連邦最高裁は、ロケット判決により、ファーマン判決で否定され、グレッグ判決を解決する際に主張された、予備知識なしの陪審の裁量の問題にまた戻ってしまったのだと非難された。 被告側弁護人はすぐさま、この判決に支持を表明し、軽減事由の概念について広いモラル相対主義を援用したロケット判決の勧告を持って下級審に押し寄せた。被告人側は、道徳的な応報に漠然と関連はするものの、法技術的な刑事責任には関係しない証拠を提出しようとしたのである。たとえば正直さとか、未決段階での善良な市民としての振舞いであるとか、後に明らかになった文学的才能とかである。軽減事由として提出された証拠が被告人の性格とは全然関係ないこともしばしばあった。被告人には彼を愛する家族がいて、彼が若くして死んだら悲しむだろうとか、彼は罪に値する人間だが、彼と同じくらいに罪に値するはずの共犯者は有罪の答弁をして死刑を免れているとか、である。死刑執行に伴うぞっとするような身体的事実についての証拠を詳細に検討せずに、陪審が刑罰についてのしっかりした正しい判断をすることなどできないと主張する被告人もいた。他の人々はロケット判決を、陪審は情状を検討するだけの充分な法的権限を持っていることをはっきりと知らされるべきである、ということを命じる判決と受け取った。陪審は、道徳的な報いに関する主観的な要素を検討した上、形式的な加重事由や軽減事由についての手法から得られるものとは無関係に、被告人の命を救うことができるのである。 ロケット判決の数年後、少なくとも被告人側から提起された、この判決がファーマン判決が禁止しようとした予備知識をまったく入れない裁量という方式に再び戻ってしまったのだという非難を受けて、連邦最高裁は露骨に対称的な判決を下した。奇妙に曖昧な二つの判決、Zant対StephensとBarclay対フロリダ州(ともに1983年)である。連邦最高裁は、実際に、自身、ロケット判決にいう権限を有しているとし、少なくとも立法で形式的に定められた加重事由が一つあるとするならば、裁判官や陪審は、被告人の性格や犯罪について、形式的に列挙された以外に加重事由を考慮することも差し支えないとしたのである。両義的なことに、死刑適正化の方向に重要な一歩を踏み出しながら、連邦最高裁はおそらく自らの前に山と死刑事件がたまってしまい困っている状況を解決するために、自ら適正化の方向に逆らったのである。ザント判決、バークレイ判決とともに、カリフォルニア州対Ramos(1983年)、Pulley対Harris(1984年)で、連邦最高裁は、量刑段階における検察官の最終弁論や州控訴審での均衡の検討といった、形式的な制限のほとんどを撤廃した。Spaziano対フロリダ州(1984年)で連邦最高裁は、量刑段階での明白な裁判的形式性は、陪審の量刑に対して防御権を発生させないとした。ここでもまた、ハーレン判事の言葉が繰り返されている。 ともかく、連邦最高裁が死刑事件の被告人側から法的につけこまれる部分を狭めようとしたこともあって、死刑執行の数は徐々にではあるがだんだんと増加しつつあり、1985年には、ファーマン判決後50件を突破した。近い将来のうちに、疲れきり、保守的になっている連邦最高裁が、死刑の手続的、実質的な部分に対する数々の劇的挑戦を相手にするとは思われない。とすれば、死刑制度は、知的にではないものの、政治的には安定性を獲得したといえるだろう。 しかし、つぎのことは注意しておきたい。皮肉なことに、死刑についてきわめて広い挑戦がされる可能性が残っているのである。ファーマン判決後、社会科学者たちは死刑の量刑について、より洗練された経験主義的研究を続けてきた。そしてファーマン判決で予備知識なしの裁量が否定されたときと同じような、専断的で人種的違いによる効果があることを暴露している。最も重要なのは、多変量解析による研究によって、他のあらゆるファクターを平均化した場合、白人を殺した者は、黒人を殺したものよりも、はるかに死刑になる確立が高いということである。 この結果の意味するところをはっきりと出すとすれば、次のようになろう。グレッグ判決で検討された新たな予備知識を伴った裁量の立法形式が、当初ファーマン判決の要求を満たすものだと考えられたにもかかわらず、今やそこには大きな問題があるのである。そうであるならば、死刑そのものが違憲であると再び宣言していけないわけはない。こうしたいい方を、連邦最高裁が、今、採用すると考えるのは現実的ではないかもしれない。しかし、死刑についての近代的な憲法的原理の中でこうした結果をどのように捉えるかを考えることは大切だ。 いかなる制度も完全ではないし、統計上のそうした不一致もごく小さいものでしかないではないか、といってこの問題を閉じることもできるだろう。いや、不一致は大きく、破滅的ですらあると認識することもできよう。しかし、やはりそれは、立法者や検察官たちの故意による人種差別的な行為にというよりは、陪審員たちの、避けることのできない、しばしば無意識的な偏見の問題だろう。そうならば、憲法は、国家に対して、道徳的に可能なことのみを成せと要求しているのであって、道徳的に完全を成せといっているわけではないのだと、いうことでこの章を終えることにしよう。理論的にいえば、これはファーマン判決とグレッグ判決の穏やかな修正の歴史でもある。つまり、ファーマン判決は州の立法者たちに対し、合理的で中立的な死刑法を運用するよう要求した、そしてグレッグ判決は、州の立法者たちがその努力を充分に成し得た結果として新たな予備知識を伴う裁量による立法形式を支持したのである。そして憲法は、もはやそれ以上、死刑について語る言葉を持っていないのだ。何はともあれ、結論として、死刑は、憲法的原理が最も苦しんだ問題であった。 |
翻訳 寺中 誠