「男らしさ」から「自分らしさ」へ

中村 正

ここに登場した男たちは、現代日本に暮らす普通の男たちです。ふとしたきっかけから、暮らし方や生き方を再考しはじめた男たちの肉声です。学者が頭のなかでひねり出したものではありません。

 ここで語られている男の体験も実にいろいろです。少年だった頃の「男の子らしさ」との格闘、父親との男らしさ像をめぐる確執、育児や介護、そして看護を体験することで見えてきたこと、感情をうまく伝えられないことへの苛立ち、会社のなかで見失った自分へのこだわりなどです。

 そんな男たちの語りあいをとおして、男の社会的な経験に共通する問題を、「男らしさ像のゆらぎ」としてとらえることができます。「男らしさ」から「自分らしさ」へという大きな流れのなかに、一人ひとりの男のつぶやきが重なりあっています。このつぶやきは小さな声ですが、実に、実感豊かな言葉となっています。時代の課題として、男らしさ像を再考することが成熟しつつあるのでしょう。

 男らしさのイメージは、日本の近代社会の歩み方と密接に関わっています。一家の稼ぎ手をさして、「大黒柱」という言い方がその典型でしょう。企業から家族への扶養手当をもらい、生涯の長きにわたって人を養うことを期待されてきたのが男なのです。家族をひとつの社会生活の単位として、あらゆる社会制度が組まれています。家族と企業の結び目のところに男の社会的なあり方を規定するものがあります。「結婚して妻子を養って一人前」という意識が空気のように存在し、結婚したら女性が姓を変えて、若いうちは共働きでもいいが子どもができたら退職してもらい、少し大きくなったらパートでもしてもらう、という人生のレールを疑うことなく受け入れてしまうのです。シングルや女性の自立をよしとしない観念が、男と女の双方をとらえています。

 戦争もそうです。かつてもいまも、戦争は意気地なしを嫌います。勇気ある英雄的な行動が求められます。耐えることが価値あることなのです。「女々しさ」をもっとも嫌うのです。男の子の集団を考えてみてください。戦争の行動パターンの原型を垣間みることができます。集団のなかで競争心を煽り、ときには蛮勇をふるって悪なる行動を行います。性に関する意識も似ています。思春期や青春期の男の子の一人前意識は、「女性をものにする」という性的行動と密接に関わっています。恋人がいるか、彼女とすでに性体験したかなどが、高まる性的な意識のなかで肥大化します。一人前意識はとくに性的な男らしさ像と関わり、それは女性を所有するというような意識や暴力的な意識とも関わっていくことになるのです。

 同じようにしてミドルたちの生活、高齢者たちの生活のなかに宿る男らしさ像は、社会の仕組みのどんな反映なのでしょうか。また、メディアが提供する男らしさ像は、男の物語をどんな具合に措いてきたでしょうか。ロマン、挫折、成功、勝利などを描いた男の物語の文化分析もおもしろいでしょう。団塊世代が幼い頃に愛読したいわゆる「少年もの」はどんな男らしさ像を提供していたのでしょうか。男の生き方を表現してきたこうした文化も、やはり社会の仕組みと無意識的に関わっています。

 男のプライドやメンツもまたその源泉をたどると面白いと思います。男の活券にかかわるとか言いますが、競争や所有や闘争の世界の意識であり、支配的な男らしさ像と結びついて社会の制度を支える意識になります。

 また、男らしさの問題は、スポーツ、ギャンブル、アルコール、暴力などとも結びついています。

 こうした社会のなかに埋め込まれた男らしさイメージを問い直す作業をはじめていきたいと思います。男の生き方もまた、社会的につくられているということから、暮らし方や働き方の点検をしたいと思います。

 もちろん、すでにこうした男らしさイメージからはほど遠く、とても魅力的な暮らし方をしている男たちがたくさんいます。メンズリブとかメンズ・ムーブメントとか言わなくても、すでにいい男たちがたくさんいます。そんな男たちと出会うことそれ自体に喜びを感じるのです。出会いへの欲求は、人間にとってとても大切だと実感しています。

 男らしさがゆらぐとき、それは社会の風向きが大きく変わるときです。そうした時に、そのゆらぎを支えあうことも大切となります。そして、このゆらぎを自分らしさへとつなげていけるチャンネルが求められています。私たちのメンズセンターはこうしたチャンネルの一つとして、ささやかな機能を果たしています。しかも、いま、世界の各地でこうしたチャンネルができつつあります。