<沖縄県第三準備書面> 第三 沖縄における基地形成史
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第三 沖縄における基地形成史
一 米軍の沖縄占領から対日平和条約発効前の土地接収の実態
1 土地の囲い込み
沖縄における広大な米軍基地は、その大半が、米軍の沖縄占領後に米軍の一
方的な軍事力によって接収されたものである。
米軍は、沖縄上陸(一九四五年三月二六日慶良間列島上陸、同年四月一日沖
縄本島上陸)と同時に「米国軍占領下の南西諸島及その近海居住民に告グ」と
題する布告第一号(布告を発したニミッツ元帥の名をとりニミッツ布告と呼ば
れる。)を発して南西諸島の軍政施行を宣言した。
本布告は、一条で「南西諸島及その近海並に其居住民に関する総ての政治及
管轄権並に最高行政責任は占領軍指令長官兼政府総長、米国海軍元帥たる本官
の権能に帰属し本官の監督の下に部下指揮官により行使さる」とし、二条は
「日本帝国政府の総ての行政権の行使を停止する。」と規定し、五条は「爾来、
総ての日本の裁判所の司法権を停止す」としていた。ここに、日本の統治権は
すべて壊滅し、米国軍司令官の一身に掌握され、軍政府は確固たる地位を築き
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あげた。そして、翌四六年一月、連合国軍最高司令官マッカッサー元帥は日本
政府に覚書を手交し、奄美、沖縄、宮古、八重山の四群島を正式に日本政府か
ら分離した。
さて、一九四五年四月に沖縄本島に上陸した米軍は、直ちに住民の収容所へ
の収容を開始し、日本軍の組織的戦闘が終了した一九四五年六月二三日頃には、
難民収容所は全島各地に十数個設けられていた。戦闘が終了して後も、米軍は
治安の維持と称して住民の収容を継続し、その間に米軍は沖縄全島のうちから
基地として必要な土地を好きなだけ囲い込み、基地建設を進めていった。
米軍は、必要な土地を確保した後に不要な土地を住民に返還することになっ
たが、開放にあたって、まず移住許可地域を指定して移動計画を立て、一九四
五年一〇月三一日に各収容所からの移住を開始させた。しかし、すでに故郷が
軍用地として囲いこまれていた土地の住民は、米軍が指定した地域に移動して、
割り当てられた土地で生活しなければならず、故郷へ帰ることは許されなかっ
たのである。
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故郷が軍用地として奪われた一例として、北谷村をとりあげてみよう。一九
四五年一〇月末頃から、他の地区の住民が続々と収容所から旧居住地へ移動し
ていく中、唯一北谷村の村民だけは許可がおりなかったが、これは村の大部分
が基地として確保され、その工事の真っ最中だからであった。そして、一九四
七年二月、初めて羽地、久志方面から、第一次の村民移動が開始されたが、村
民の居住を許された地域は、謝刈、桃原の丘陵地帯の辺鄙なところに限られ、
戦前僅かに七〇〜八〇戸しか住めなかった所に一万人の村民が密集したため、
この時既に村復興の前途に多くの困難と隘路が胚胎していた。しかし当時は、
いずれ不要地は開放されて、自分の集落若しくはその近くに移り住んで落ち着
く事もできるだろうと一縷の望みをかけて、不自由な生活を耐え忍んできたの
であるが、それもはかない夢に終わった。前面にライカム、西方海岸一帯の、
戦前豊沃で有名だった北谷ターブックワ(田圃)から桑江一帯にかけての北谷
桑江の前とその周辺の沃野は跡形もなく消えて、アメリカの近代都市を思わせ
るような軍事施設が立ちならんでいたのである。さらに、一九四八年九月に嘉
手納飛行場への立入が禁止されたため、北谷村桃原にある村役場から嘉手納区
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へ行く道が遮断され、嘉手納村と北谷村に分離することになった。故郷が基地
のために切り裂かれたのである。
このようにして、米軍が戦時中に軍用地として囲い込んだ土地は、一九四五
年段階で約一八二平方キロメートルと言われ、米軍が不要とした約二〇平方キ
ロメートルはその後住民に開放されたものの、一九五五年段階でも約一六二平
方キロメートルは接収されたままだったのである。この軍用地として接収され
た土地は、沖縄本島、とりわけ中部に集中していたが、その大部分は、農民の
耕作地や宅地であり、耕地面積は激減した。具体的な数字をみてみると、北谷、
嘉手納村では、戦前一戸あたり六・三反の耕地面積が〇・九反に、読谷村では
六・五反が一・九反に、越来村では六・七反が一・二反に、宜野湾村では四・
七反が一・八反に、それぞれ激減し、農民の生活は潰滅的な打撃を受けたので
ある。
2 米国の沖縄占領政策の変化
第二次大戦中からすでに萌芽を示しつつあった西側陣営と共産圏との間の確
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執は、一九四七年頃より表面化し、米国は、一九四七年のトルーマン・ドクト
リン、四八年のヴァンデンバーグ決議、四九年の北大西洋条約機構の設立と、
一連の共産圏封じ込め政策を実施していった。
そして、一九四九年に中華人民共和国が成立し、日本は中国に代わって米国
の極東戦力の拠点と目されるようになり、一九五〇年六月に勃発した朝鮮戦争
は、沖縄の軍事的価値についての確信を一層強めることとなった。朝鮮戦争の
ため、在日・在沖米軍基地を出撃基地とする極東空軍が朝鮮へ出動した回数は
七二万〇九八〇回、海兵隊所属戦闘機一〇万七三〇三回、空母発進の海軍機一
六万七五五二回、ナパーム弾・ロケット弾の投下は、海軍が四七万六〇〇〇ト
ン、海兵隊と海軍機で一二万トンに達したと言われている。
米国は一九五〇年の会計予算に沖縄軍事施設建設費五〇〇〇万ドルを計上し、
一九五〇年一〇月に米国外務省は沖縄の占領継続を発表し、翌年一月には、ア
チソン国務長官が、アメリカのアジア政策に関する演説で「琉球諸島は太平洋
防衛線の一部であり、これを保持しなければならない」と述べた。
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そして、沖縄の軍事拠点の重要性が高まるのにつれて、米国は、従来の場当
たり的統治を改めていった。中華人民共和国成立と同時に着任した軍政長官ジョ
ゼフ・R・シーツ少将は、経済復興計画と民主化政策を推進し、住民の不満を
緩和する方策をとった。そして、一九五〇年一二月五日、米極東軍総司令官は
在琉球米軍司令官に対して、「琉球列島米国民政府に関する指令」(いわゆる
スキャップ指令)を発し、それまでの軍政府を廃し、新たに「琉球列島米国民
政府」を設立する方針を明示した。このスキャップ指令によって、「軍政府」
は「民政府」に、「軍司令官」は「民政副長官」にそれぞれ改称され、さらに
「軍事占領に支障を来さない限り」という制限はあるが、いちおう「言論、集
会等を含む民主主義国家における基本的自由を保障する」との規定が設けられ
た。これは、住民の不満を緩和し、沖縄基地の安定化と恒久化を図ろうとした
ものにほかならなかった。
3 開放地の再接収
この米国の沖縄占領政策の変化に伴い、沖縄における強大な基地建設が進め
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られていくこととなった。そのため、農地の開墾(復旧)も一通り終わって生
産意欲も高まってきた農民から、一片の立退通告で土地を取り上げ、農民の生
活は再び破壊され、塗炭の苦しみをあじわうこととなった。
これを年代順に略記すれば次のとおりである。
記
一九四九年一二月二五日 北谷村北谷区移動完了
一九五〇年 五月一八日 浦添村一部農耕禁止
同 年 六月二〇日 真和志村天久、上之屋 立退勧告
同 年 九月一八日 越来村山村の立退
一九五一年 二月一四日 読谷村ボーロ飛行場拡張、立退勧告
同 年 六月 一日 北中城村喜舎場、読谷村楚辺立退勧告
同 年 一〇月 国頭村ラジオ、ビーコン工事開始
同 年 一二月 具志川村昆布立退勧告
右のように、新規の接収によって沖縄の基地は拡張の一途をたどっていき、
これを軍用地総面積の推移で見ると、一九五一年には約一二四平方キロメート
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ルだったのが、一九五三年には約一七一平方キロメートルと、実に約三七%も
増加しているのである。
この土地接収が住民の生活を圧迫していったことは言うまでもない。すでに
基地に膨大な面積を奪われていた沖縄では、土地を接収された住民が他に生活、
生産の拠点となる土地を求めることは困難であった。仮に移住地があったとし
ても、立退に対する補償は微々たるものに過ぎず、到底生活を維持していける
ものではなかった。真和志村を例にとると、家屋の立退料が一万B円(B円一
円が日本円の三円にあたる。)、運搬費が二五〇〇円程度、墓について立退料
が一〇〇〇ないし二〇〇〇円、運搬費二七〇〇ないし五〇〇〇円が支払われる
だけで、要するに、移動そのものが補償されたにすぎなかったのである。
立退がいかに住民の生活を疲弊させたか,その実態を、読谷村楚辺部落を例
にとって述べてみよう。同集落は、接収、移動によって、耕地面積が激減して
農業就業者は働く場所を失い、農業所得は移動前の二〇%弱にまで減少したの
である。この楚辺集落の状態について、琉球政府経済企画室の報告には、
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「(同集落は)移動前に比較して収入は減退し、極端なる生活の切り詰めをし
てもなお赤字を生む状態であり、当集落の今後が憂慮され、土地の接収は之等
農民にとって致命的な問題である」と記されている。
米軍は住民から単に土地をとりあげたのではない。人間らしい生活そのもの
を奪いとったのである。
4 対日平和条約前の接収の違法性
米国はこれらの土地接収の法的根拠として「陸戦ノ法規ノ慣例ニ関スル条約」
(いわゆるヘーグ陸戦法規)三節五二条を挙げていた(後で詳述する布令二〇
号に明記されている。第三、二、7)。
ヘーグ陸戦法規五二条は、「現品徴発・・・ハ占領軍ノ需要ノ為ニスルニ非
サレハ・・・住民ニ対シテ之ヲ要求スルコトヲ得ス・・・徴発ハ・・・地方ノ
資力に相応シ(た)・・・モノタルコトヲ要求ス」、「現品ノ供給ニ対シテハ
成ルヘク即金ニテ支払ヒ然ラサレハ領収証ヲ以テ之ヲ証明スヘク且成ルへク速
ニ之ニ対スル金額ノ支払ヲ履行スヘキモノトス」と定めている。しかし、右条
項は、動産の徴発を許したものにすぎず、この条項によって土地を徴発するこ
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とは許されていない。。「現品」という言葉の文理解釈だけからそうなるので
はなく、「占領軍の必要のため」という要件からも明らかである。すなわち、
現品の徴発は、占領軍の必要のためであることが第一の要件であるが、これは
占領軍が日常生活維持のために絶対に必要とする品物と原料、例えば食糧、衣
服、靴、医療品、馬糧などに限られるのである。すなわち土地の占拠、接収は、
占領軍の日常生活の維持にとって絶対必要なものではなく、したがって徴発す
ることはできないのである。
さらに、現品の徴発といえども、占領の目的を越えてなすことは国際法上許
されていない。へーグ陸戦法規二三条は、「特ニ禁止スルモノ」として、「戦
争ノ必要上万己ムヲ得サル場合ヲ除クノ外敵ノ財産ヲ破壊シ又ハ押収スルコト」
をあげている。米軍の沖縄占領は、対日戦争のためであったことは明白である
が、米軍による土地の占拠、接収は、戦争が事実上終了し、沖縄本島全域を制
圧したのちに行われたものであるがこれは明らに戦争の必要性、占領の目的お
よび占領の一時性・暫定性をはるかに越えるものであり、ヘーグ陸戦法規に明
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白に反するものである。
このように、対日平和条約発効前の米軍の軍用地取得には何ら法的根拠はな
かったのである。
二 対日平和条約の発効から沖縄返還までの基地形成
1 対日平和条約発効
冷戦が激化していくなか、米国は日本に対して、米軍基地の維持強化と日本
の再軍備を要求するようになり、朝鮮戦争を契機に対日講和会議が日程にのぼ
るようになった。これは、占領を終結させ、日本を米国の極東戦略を積極的に
支持できるような独立国にするためであった。
ところが、沖縄については、一九五〇年一一月二四日に米国国務省が発効し
た「対日講和七原則」のなかで、「合衆国を施政者とする琉球諸島および小笠
原諸島の国際連合信託統治に同意」するとして、沖縄を日本本土から切り離す
方針を打ち出した。これは、朝鮮戦争において、その軍事的価値を実証した沖
縄を、今後も米軍が自由に使用するためであった。
対日講和七原則が発表されると、沖縄県民は即座に反発しはじめた。
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一九五一年四月に日本復帰期成会が結成され、僅か三カ月の間に全有権者の
七二・一%にあたる一万九〇〇〇人の即時復帰の署名をあつめた。また沖縄群
島議会では日本復帰の要請を決議し、サンフランシスコ講和会議の直前に吉田
茂全権に日本復帰の電報を打った。しかし、一九五一年九月八日、サンフラン
シスコにおいて「日本国との平和条約」(対日平和条約)が締結され、同条約
三条によって、沖縄は日本から分断され、米国の施政下におかれた。日米両政
府は、日本復帰を願う沖縄の民衆の意思を踏みにじり、沖縄を切り捨てたので
ある。対日平和条約の発効した日、四月二八日は、以後沖縄では「屈辱の日」
と呼ばれるようになった。
2 低廉な地料による長期賃貸借契約の失敗
米軍は、講和前の基地使用について、「ヘーグ陸戦法規」を口実にしていた
が、対日平和条約発効と同時に占領状態は終了するため、その後の米軍の基地
使用の口実がなくなることとなった。そのため、米軍は、講和条約三条によっ
て米国に与えられた沖縄に対する「施政権」に基づき、土地収用、使用に関す
る布告、布令を発することによって、既接収の土地の利用権の確保及び新規土
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地接収を正当化し、実力による土地の利用を継続し、かつ新規の土地の強制接
収を行っていった。
まず対日平和条約発効直後の一九五二年四月三〇日、極東軍事総司令部は
「指令」を発し、米民政副長官は米軍の必要とする財産を「できるだけ談合の
うえ」購入することが望ましいとしながら、もしこれができないときは「収用
手続をとること」ができ、場合によっては、購入をなすまでの間これを「強制
的に徴発したり、借用することができる」とし、土地の有償取得の方針を明ら
かにした。しかし、同年五月一五日に米国民政府が明らかにした賃貸借契約書
の内容は、賃貸借期間が二〇年間もの長期にわたり、軍用地料も、坪あたり一
円八銭(B円)という低額であったため、軍用地主は失望落胆し、一般住民も
強いショックを受けた。ちなみに、当時の清涼飲料水(コーラ・ジュースなど)
一本の値段が一〇円(B円)であり、軍用地料は実に「コーラ五分の一」に過
ぎなかったのである。
米国民政府は、住民の反対にもかかわらず、既定方針を押し通す形で、同年
一一月一日、布令九一号「契約権」を公布した。同布令は、行政主席が土地賃
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貸借を締結する権限と職務を有し、土地所有者と右行政主席が土地賃貸借契約
を締結すれば、自動的に米国政府に転貸されるというものであった。しかし、
この布令の公布は、住民の怒りを一層増大させる結果となり、結局、契約がで
きたのは、僅か二%程度であり、契約による軍用地の取得は失敗に終わった。
3 銃剣とブルドーザーによる土地強奪
(一) 布令一〇九号「土地収用権」の公布
布令九一号による契約に失敗した米軍は、次に布令一〇九号「土地収用令」
を公布し、収用告知後三〇日以内に、土地所有者は米軍に譲渡するか否かを
決断しなければ、使用料に関する訴願をした場合を除き、収用告知後三〇日
の経過により収用宣言が発せられ、土地に関する権利は米国に帰属するとし
た。そして右期間中であっても必要があればただちに立ち退き命令を発する
ことができるとした。
この布令一〇九号に基づく土地接収は、米軍の武装兵を動員し、住民を強
制的に排除していくという講和前にも例がないものであった。以下、米軍に
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よる土地収用がどれほど暴力的な酷いものであったか、各地の事例を具体的
に見ていくこととする。
(二) 真和志村の例
一九五二年一〇月一六日、真和志村(現那覇市)の銘苅、安謝、平野、岡
野の四集落に対し、米民政府は、同年一二月一〇日までに明け渡せ、という
収用通告を発した。土地の収用通告を受けたこれら四集落は極めて深刻な事
態となり、地域の代表五人が立法院に対し窮状を訴えた。また、銘苅集落は
二一名の連署で立法院に「祖先伝来の現在地を永遠の安住地としたい。やむ
なく立ち退くなら、生活の根拠たる耕作地を他に求める経費を償い、かつ、
生活に不安なからしめるよう温かい措置をとられることを悲願する。」と陳
情した。
立法院では、この収用通告は、講和後初めてのケースであったことから、
このような強制収用権はないと主張し、当時の琉球政府の法務局長も「この
通告は別に強制的なものではない」という見解を明らかにしていた。
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ところが米国民政府は、一九五三年四月三日突如として布令一〇九号を発
し、四月一〇日これに基づいて右土地に対し収用通告を出した。この通告が
同日村当局に到達しただけで、未だ土地所有者には到達していない翌一一日
の早朝、米軍武装兵に守られたブルドーザーがやってきて、収用予定地内の
農地を次々と破壊していった。
立法院では同年四月二〇日、関係者を集めて事情聴取を行い、同年五月五
日には、「アメリカ民政府の不当なる土地買い上げの措置は、世界人権宣言
及び国連憲章に明記された基本的人権を擁護すべしとの趣旨にもとるので、
1布令九一号、一〇五号、一〇九号、一一〇号を廃止すること 2住民の
意思に反する土地取り上げの強権発動をしないこと 3速やかに適正妥当な
賠償をすることを院の決議により要請する。」として、全会一致でその要請
決議文を採択し、民政副長官に手渡した。
しかし、米軍の暴力的土地接収は、その後も次々と強行しされ、一九五五
年の伊佐浜、伊江村の土地強奪へと続いていった。
(三) 宜野湾市伊佐浜集落の例
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一九五四年七月八日、宜野湾村伊佐浜集落の水田に対して、米軍から農耕
禁止の通告がなされた。この農耕禁止通告の理由は、水田に蚊が発生し脳炎
を媒介するおそれがあるというものであった。しかし、単に蚊が発生すると
いうだけで農耕禁止とすることには疑問が残ったことから、立法院が米国民
政府に真意を打診したところ、米国民政府はこれに対し、「土地収用計画は
ない。衛生的理由のみであるから、水田を埋めて畑にすれば農耕を許可して
もよい。」と言明した。住民は、極力蚊の発生の防除に努めるから植え付け
禁止を解除してほしい旨陳情し、また琉球政府も行政指導に努める旨の意見
書を提出していた。
ところが、米国民政府は右の言明にかかわらず、しばらく後に立退通告の
書簡を送ってきた。米民政府の立退勧告の理由は、伊佐浜集落地域はマスター
プラン地域であり米軍の基地建設にとって必要であるというものであった。
この「マスタープラン地域」とは、米軍が基地建設を計画して軍用地として
留保している地域のことらしく、外観上は何ら他の私有地と異ならないが、
実際には農民に土地を返還したわけではなく、単に農民の耕作を黙認してい
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るにすぎないということのようである。しかし、このマスタープラン地域と
称するものは、その場所も範囲も予め住民に公表されておらず、米軍がある
地域から立ち退きを要求するに当たって、一方的に宣言しているものにすぎ
なかった。これは、反対の多い布令一〇九条の適用を避け、しかも容易に土
地を接収するための口実にすぎなかった。住民および立法院は米民政府に対
し陳情運動を続けたが、米民政府は右理由を楯にまったく聞き入れなかった。
住民らの陳情運動が続けられているうちに、米軍の示した立退期間が経過
した。そしてその九月九日朝、米軍地区工兵隊のブルドーザーが接収予定地
に現れ、いきなり地均しを開始した。驚いた住民が工事を中止させたが、こ
のため区長がMP(憲兵隊)に逮捕されるという事態が発生した。
その後、土地収用を巡り軍民が対峠したなかで、一九五五年三月一一日伊
佐浜の一部地域について武力による強制接収が執行され、これを停止しよう
と農地に座り込んだ農民が武装したMPによって排除されるという衝突があっ
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た。折しもこの日は、伊江島においても接収予定地に杭打ちが始まっており、
これらの米軍の武力による接収に対して、全島各地で抗議集会が開かれ、米
軍の赤裸々な暴力に激しい非難が浴びせられたのであった。
同年七月一一日、期限を同月一八日までとする立退の最後通告がなされた。
集落農民は右通告には応じないという方針を再確認し、その日をむかえた。
この日は、早朝から強制収用を憂慮した者が各地から集まり、数百名に達し
た。これらの人々は、伊佐浜の農民を中心に大会を開き「土地を守る会」結
成し支援態勢を強化することを申し合わせたのである。
強制接収が予定された同月一八日には、伊佐浜に朝早くから幾百、幾千と
いう人々が沖縄中から駆けつけ、昼すぎには、万をもって数える人々が集ま
り、米軍はついに姿を見せなかった。ところが、強制収用は、支援の人々が
家に帰って、地元の農民のほかは、二、三〇〇人しか泊り込んでいない深夜
に始まった。深夜の間に、武装兵を満載したトラックとブルドーザーがライ
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トを消して、徐行しながら集まり、空が白みかけるころには、一三万坪の田
園地帯は米軍の武装兵で包囲されていたのである。武装兵は、付近の交通を
遮断し、厳戒態勢のうちに伊佐浜集落の建物の取り壊しを開始した。こうし
て、何の法的根拠も収用手続もないまま、伊佐浜の集落と農地は敷きならさ
れたのであった。
家を取り壊されて強制立ち退きをさせられた農民は、しばらくは近くの小
学校の校舎に収容されていたが、その後間もなく、十数キロ離れた土地に移
住したが、そこは立退前の六万三〇三七平方メートルに対して二万三四六七
平方メートルと面積が激減していたのみならず、農業もできない荒蕪地だっ
たのである。そして、二年後には、多くの農民が生計を立てる道を失い、南
米へと移住していった。
(四) 伊江村の例
一九五三年七月一五日、伊江村に米民政府土地係が訪れ、同村真謝、西崎
の土地に半径三、〇〇〇フィート地上標的を作るから農地を明け渡せと通告
した。この接収にかかる面積は二四万七〇〇〇平方メートル、両集落の農地
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が含まれていた。
村長は、この通告を受け、接収の中止を陳情するために那覇へ出掛けていっ
た。その留守中に、米軍は右土地の物件をことごとく調べ上げ、「調査が完
了したという証拠を上官に提出するため」と称して農民に署名を求めた。と
ころが、この書類が実は「立退同意書」だったのである。
一九五四年六月二〇日、米軍は工事に着手し、圏内の四戸を立ち退かせた。
この射撃場の工事が終わると、早速空軍の爆撃演習が始まり林野に火事がお
きたり、農作物が被害を受けることが多くなり、農民は食糧難に苦しめられ
ることとなった。 ところが更に同年八月二七日には米軍係官数名が村役場
を訪れ、射撃場の拡張を通告してきた。この拡張予定地には真謝区七八戸、
西崎区七四戸が含まれていた。農民は、先の四戸の立ち退きで、いかに農民
の生活が破壊されるかを目の当たりにしていたことから、立ち退きには絶対
反対の態度を示した。米軍は、補償等の種々の問題は、立ち退き後に解決す
る、まず立ち退いてくれ、というばかりであり、軍民間の折衝は行き詰まっ
たのである。
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一九五五年三月一〇日、米軍から最後通告がなされ、翌一一日、米軍の工
兵隊が伊江島に上陸し、演習予定地に強行に杭を打ち始めた。農民は中止を
嘆願したが、米兵によって一人一人隔離され、身動きもできず、この中で、
米兵に対し身振り手振りで嘆願した老農夫が逮捕され、軍事裁判にかけるた
め連れ去られるという異常な事態であった。
それから二日後の早朝、米軍の工兵隊は武装した憲兵隊に守られて真謝集
落に到着し、同集落の一三戸に対して取り壊し作業を開始し、ブルトーザー
で家屋や飲料水用貯水タンクを次々と破壊していったのである。土地を奪わ
れた同集落の農民に対して、琉球政府は生活保護の支給をしたが、「軍用地
内の農耕を許されているから」という理由で、同年五月一日以降の支給を打
ち切った。しかし、その農耕許可というのは、週二日、土曜日の半日と日曜
日についてしか与えられておらず、しかも実際には土曜、日曜も演習があっ
てほとんど農耕はできなかったのである。
こうして、少ないながらも支給されていた生活保護が打ち切られた農民は、
生きるために、立ち入り禁止区域に入り、爆撃演習下での農耕を開始した。
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これに対して米軍は、同年六月一三日、立入耕作者八〇数名を逮捕し、その
中から三六名に弁護人なしで即決軍事裁判を行い、懲役三か月執行猶予一年
の判決を言渡し、その後の逮捕者には実刑も言い渡した。
自分の田畑から閉めだされた農民は、仕方なく有毒である野生のソテツの
澱粉を主食に、芋かす、澱粉粥などで命をつないでいたが、とうとう栄養失
調で二人の主婦が死亡した。同年六月二〇日、夫の釈放陳情から帰ってきた
直後、妊娠八か月の三〇才の主婦が、四人の子どもを残して死亡し、その六
か月後の一二月一五日には、四三才の主婦が六人の子どもを残して死亡した
が、死因はいずれも栄養失調と過労であった。同年六月二五日に名護保健所
の所長が派遣されて住民を診断した結果、真謝区民の八〇%が栄養失調、皮
膚病その他の異常ありと診断されている。
多くの逮捕者を出しても耕作をやめようとしない農民に対し、米軍は監視
を強化し、演習場付近に現れる農民に片端から威嚇射撃を行い、さらには、
同年七月一二日から三日間、米軍は耕作をやめさせるため、真謝区民の土地
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三五万坪にガソリンをまいて、農作物、樹木を焼き尽くした。
那覇市の行政府ビル前で陳情を行っていた陳情者は、生きるため、また世
間に実情を訴えるため、全島行脚を計画し、地元に次ぎの連絡書簡を送った。
「『われわれは、生きるための方法について慎重に協議を重ねました。
イ 自分の畑を強行に耕作すれば殺される。
ロ 泥棒、これは容易なことだが、学生や子供は刑務所に収容してくれない
となれば、これも不可能なことである。泥棒しては、全家族が生きられる
道ではない。
ハ 乞食(乞食托鉢)、これも自分らの恥であり、全住民の恥だ。しかし自
分らの恥より、われわれの家を焼き土地を取り上げ、生活補償をなさず、
失業させ、飢えさせ、ついに死ぬに死ねず乞食にまでおとし入れた国や非
人間的行為こそ大きい恥だという結論に至りました。乞食になったのでは
なく、武力によって乞食を強いられているのであります。
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全住民の皆様。われわれは生きるため、今では最善の道であることを信じ
て取った道であります。これを諒とされ、御寛容下されんことをお願い申し
上げます。
一九五五年七月二〇日 伊江島真謝地区地主』」
そして、これを受け取った地元では、翌日に真謝区民大会を開き、全員が
一体となって、乞食姿で全島行脚をすることを決定した。伊江村内はもとよ
り、南は糸満、北は国頭村の各字まで沖縄本島を縦断する乞食行進が開始さ
れ、翌一九五六年二月ごろまで続けられた。
その後、島へ帰った農民は、演習場内へ立ち入っての耕作を続けたが、米
軍は、一九五七年七月にガソリンを散布して演習場内の耕地、林野を徹底し
て焼き払い、その後も一年置きに徹底した焼き払いを行った。耕作地を焼き
払われた農民は、今度は弾丸拾いのために演習場に立ち入ったが、一九五九
年九月には二人の青年が爆死し、一九六六年二月には、演習場外で一人の青
年が射殺された。
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(五) 以上のように、現在の在沖米軍基地の基礎となる軍用地は、武装した兵隊
によって反対する住民・農民を実力で排除し、強引にブルトーザーによって
家屋・耕作地をおしつぶすことによって、強奪されていったものなのである。
そして、この武力による土地強奪に対する怒りが、島ぐるみ闘争への導火線
となっていったのである。
4 島ぐるみ闘争
(一) 一九五三年一二月五日、米国民政府は布告二六号「軍用地域内における不
動産の使用に対する補償」を公布した。この布告は、使用している軍用地の
保有を「黙契」によって合法化することを狙いとしたものであった。すなわ
ち、先に述べたように、米軍は布令九一号「契約権」による地主との賃貸借
に失敗し、布令一〇九号「土地収用令」も新規接収にのみ適用され、したがっ
て、新規接収前の軍用地は、何らの法的根拠もなく不法使用されていたので
ある。この布告の内容は、要旨次のとおりである。米国は、当該土地が収用
された一九五〇年七月一日及び翌日から、「黙契」により借地権を取得した。
この米国の土地を保有する権利は、何ものによっても永久に害されない。米
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国は自らこの権利を登記する権限を与えられる。土地所有者は、賃借料に不
服があれば琉球列島米国土地収用委員会に訴願できる。同委員会の裁定は最
終的であり、永久に双方を拘束する。
この布告が土地所有者と米国との間で土地の使用について「黙契」ができ
たという一九五〇年七月一日は、沖縄の軍用地使用料の算定の始期と一致す
る。つまり、土地所有者は過去の軍用地使用料を受領したから、「黙契」に
より土地賃貸借契約が成立したという論理である。この論理についての批判
は後で述べるが、この布告によって、米軍は講和後の土地使用の法的根拠を
作り上げようとしたのである。
住民側の闘争手段は、低廉な地料の引上げだけが残されたものとなり、同
布告に基づく訴願は、地主の九八%に達した。
(二) 軍用地主が訴願手続きを進めているなか、一九五四年三月、毎年、賃借料
を支払う代わりに、土地代金に相当する額を一括して支払う方が得策である
との観点から、オグデン民政府副長官は、軍用地料の「一括払い計画」を発
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表した。当時、米軍は一年間の借地料として、地価見積価格の六%を支払っ
ていたので、一括払いというのは、地価相当額を支払い、永代借地権を取得
しようというのが米軍の意図であった。また、五か年以上の長期にわたって
使用が見込まれる土地は、全て一括払いを適用し、土地を失った地主は八重
山群島に入植させようという構想であった。当時、住民が要求していた軍用
地料の総額は、八二三万三一七八ドルであったが、米国側が提示した一括支
払額は一七〇〇万ドルであり、住民の要求額の二年分で永久使用権を取得し
ようとするものであった。
このような米国側の軍用地料一括支払という方法による土地取り上げ計画
は、軍用地主だけでなく、沖縄社会全体に大きな衝撃を与えた。
問題を重視した立法院は、翌四月「軍用地処理に関する請願」を全会一致
で決議したが、その中には、やがて「土地を守る四原則」と呼ばれるように
なる、「一括払反対、適正補償、損害賠償、新規接収反対」という考え方が
示されていた。
立法院が採択した四原則の本文は次のとおりである。
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1 アメリカ合衆国政府による土地の買上げまたは永久使用、地料の一括払
いは絶対に行わないこと
2 現在使用中の土地については、適正にして完全な補償がなされること。
使用料の決定は住民の合理的算定に基づく要求額に基づいてなされ、かつ、
評価および支払いは、一年毎にされなければならないこと
3 アメリカ合衆国軍隊が加えた一切の損害については、住民の要求する適
正賠償額をすみやかに支払うこと
4 現在アメリカ合衆国軍隊の占有する土地で不要な土地は、早急に開放し、
かつ新たな土地の接収は絶対に避けること
この四原則は、当事者である軍用地主をこえた沖縄側の統一要求となった。
四原則決議と同時に、行政府(琉球政府)、立法院、市町村長会及び市町村
土地特別委員会連合会(土地連)の四者は、四者協議会を結成(同年六月に
市町村議会議長会が加入して五者協議会となる。)し、現地米軍と折衝をか
さね、一括払計画の中止を訴え続けた。
このような沖縄側の動きに対して、米軍は、統治権を行使する間、公共の
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ために必要とされるならば、いかなる私有地をも取得するのが米国の基本方
針であり、この方針の変更は、現地米軍の権限の範囲外であるとした。この
ため、琉球政府は、住民代表をワシントンに派遣して根本的な土地問題解決
の要請をさせてもらいたい、と米民政府に要望していたが、一九五五年五月、
その要請が認められ、米国政府から招請状が届いた。
同月二六日、六名からなる住民代表団が渡米し、六月八日、米下院軍事委
員会で意見を述べ、審議の結果、「1買い上げ一括払い中止、従来通りの支
払継続 2土地問題につき調査と勧告をすべく今秋に議会より調査団を派遣
する 3海兵隊の必要とする土地は無理のない程度に取りあえず確保する」
という三事項が決定され、一括払い政策は一応その決定を延期されるにいたっ
た。
これに基づき、米下院軍事委員会は、沖縄に調査団を派遣し、沖縄の軍用
地問題について全般的な検討を始めることになった。
ところで、当時の沖縄における対米関係は、新規接収問題でひどく悪化し
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ていた。同年、前述の伊江村、伊佐浜の強制収用がなされ、さらに、同年七
月二二日、国頭、東、久志、宜野座等八か村の村長が米民政府に呼ばれ、海
兵隊用地として国頭一帯の山林を接収するとの通知が申し渡されたのを始め、
各地に接収または測量調査通知が相次いでなされた。同年八月一八日には、
布令一〇九号「土地収用令」の一部が改正されて「強制測量」の条項が加え
られ、土地接収に利用された。
次々に強行される土地接収に怒った住民は、同年九月一〇日、那覇高校校
庭で二万人が参加した住民大会を開き、新規接収反対を強く訴えた。
同年一〇月二三日、メルヴィン・プライス議員を団長とする調査団(プラ
イス調査団)が沖縄に到着し、三日間の調査を行い、翌一九五六年六月、同
調査の結果をまとめた、いわゆる「プライス勧告」が発表された。同勧告は、
沖縄の自由使用がいかに米国にとってこのうえなく便利であるかを説き
(「ここでは、わが国の原子兵器(核兵器)の貯蔵または使用権限に対し外
国政府による制限はない」)、前進基地、補給基地としての沖縄の重要性を
強調して、沖縄の長期保有の必要性を再確認したうえで、沖縄統治について
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軍事優先政策がとられることはやむを得ないとの前提に立ち、その中で、一
括払い問題については「無期限に使用する必要のある土地については永代借
地権を取得すること。これに対する補償は一括が望ましい」とし、また新規
接収については、「米軍による追加的土地接収は必要最小限にとどめること」
と勧告している。要するに同勧告は、多少の譲歩は認めたけれども、他方一
括払いの妥当性を確認するとともに、新規土地接収の必要性を肯定したもの
で、住民の要求を踏みにじる内容のものであった。
プライス勧告が発表されるや全島住民は激怒し、同日夕方には、真喜屋実
男法務局長が「米国に信用がおけなくなった。軍用地主管局長としてこれ以
上責任を負えない。」と辞表を提出した。
同月一五日、四者協議会(立法院、行政府、市町村長会、土地連)は、勧
告阻止を出来なかった場合には総辞職することを表明し、同月一八日には次
の基本方針を決定した。
1 我らは組織的団結をもって秩序ある行動をするとともに、落伍者の汚名
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を着るものの絶無を期す。
2 我らは個々の利害を超越し民族的意識にたって土地を守り、領土権を守
るという正義にたつこの確信をもって、何ものもおそれず勇敢に進む。
3 民族を守る堅い決意で世界の人が是認するであろう正義を武器とし、一
切の暴力的武器をとることを否定する。米国が万一、実力を行使すること
があっても無抵抗の抵抗をもって力に抵抗する。
4 米国の方針と闘っているのであって、在留する米人と闘っているのでは
ない。個人としての米人の人格人権はこれを充分に尊重しなければならな
い。
5 自主的に治安を維持し、いささかも社会を不安に陥れることをしてはな
らず、一切の犯罪をなくすことに努める。
6 上司たる責任者が欠けても自治行政の機能は停止することなく、必要に
応じて行政運営の妙を発揮し、住民の自治能力を示す。
7 四原則貫徹のために困難が伴うことを覚悟するとともに、住民とともに
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住民の運命をひらくときが近づいたことを確信し、当面の困難を克服して
いく。
同日午後には、市町村長会、土地連、教職員会等一七団体が参加して、土
地問題に関する各種団体の連絡協議会も開かれ、「プライス勧告反対の住民
大会を各市町村単位で来る二〇日開催し、これを契機として、さらに地区大
会、中央大会に盛りあげていく。」という方針を決定した。翌一九日には、
琉大学生会、中労委、傷痍軍人会もそれぞれの大会をもってプライス勧告反
対を表明した。
六月二〇日、第一回住民大会が予定通り各市町村単位で行われ、三〇万人
余の住民が参加して、住民無視の土地政策だと怒りを爆発させ、その熱気の
中で四原則を決議、団結を誓いあった。同月二五日には、中央の住民大会が
那覇高校とコザ諸見小学校で開催され、那覇には一〇万人余、コザには五万
人余の参加者が集まった。こうして全島各地の「島ぐるみ闘争」が展開され
ていき、七月二八日、「四原則貫徹県民総決起大会」が那覇高校校庭で開か
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れ、一五万人もの大衆で会場が埋め尽くされたのである。
住民の「島ぐるみ闘争」に対し、米国民政府は弾圧策を強行してきた。ま
ず、同年六月二八日に「琉球政府当局が総辞職すれば、米国民政府による直
接統治も辞さず」と警告を発した。同年八月六日には、中部地区一帯へのオ
フリミッツ(米軍人・軍属の民間地域への立入禁止)を三軍共同の声明とし
て発表、外国人相手の営業の多い中部地区住民を不安に陥れ、「島ぐるみ闘
争」に大きな影響をあたえた。さらに、同月九日には、琉球大学に援助を打
ち切ると通告してきたが、その理由として、反米デモに参加した学生が「ヤ
ンキー・ゴー・ホーム」と叫んだこと、及び共産主義者を本土に派遣するた
めに資金カンパを行ったことなどを挙げていた。しかし、学生らは、あらか
じめ学校当局から許可を得てデモに参加したもので、学則上の問題はなかっ
た。ところが、琉大は学生六人を退学処分にし、米国民政府に陳謝するとい
う形で事態を収拾し、学外にも大きな反響を呼んだ。
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こうして、米国政府は、一括払いを強行する方針を変えず、ついに一九五
七年四月一八日布令一六四号を公布して、「限定付土地保有権」なる「権利」
を設定して「地価相当額」の賃料の一括払いを実施した。同布告によって、
同年五月四日那覇軍港一帯の二五万坪の土地、一九五八年一月二四日嘉手納
空軍基地一帯の二〇〇万坪の土地、一月二九日読谷、恩納、金武、具志川、
石川、勝連、与那城、宜野湾、知念、玉城、佐敷、三和、東風平、具志頭の、
一四ヶ町村のナイキ基地地域の各土地にそれぞれ「限定付土地保有」の収用
宣言が発せられた。こうして、布令一六四号が公布されてから一九五八年三
月末日までの約一年間で、一〇一五万平方メートルが新規に接収されていっ
た。
この布令で、軍用地を確保した米軍当局にとっての次ぎの課題は、これか
らの基地建設の大工事を如何に支障なく進めるかであった。一九五八年四月
の立法院本会議に臨んだムーアー高等弁務官は、「土地接収計画については
現在ワシントン政府当局で再検討されている」旨のメッセージを発表し、つ
づいて同日、立法院議長室で琉球政府首脳に対し、軍地区工兵隊に対し、一
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括払い中止を指令した」旨の説明を行い、米国側は態度を豹変させた。この
ような情勢のなかで、立法院では代表を米本国に派遣して米国政府と直接折
衝すべきであるとの意見が支配的となって、同年五月八日住民代表の渡米を
決定した。
代表団は六月二五日ワシントンに到着、翌二六日から米政府との予備折衝
を始め、七月一日から七日間にわたる正式会談に入った。右折衝の結果、最
終的には「現地において高等弁務官と沖縄側との折衝で解決する」との結論
に達し、その旨共同声明が発表された。現地折衝は同年八月一一日から一一
月三日までの間にわたって行われた。この折衝は「琉米合同土地問題現地折
衝正式会議」とよばれ、三つの分科委員会と一つの特別分科委員会に分かれ
て折衝が行われた。
その結果、双方の間におよそ次の主な事項が決定された。
イ 合衆国が取得する権利は、賃借権に限る。賃借権の種類は、五年賃借権
と不定期賃借権とする。
ロ この二種類の賃借権は琉球政府が地主と折衝して取得し、これを米合衆
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国に転貸する。
ハ これまで米合衆国が保有してきた既得権は、この二種類の賃借権のいず
れかにすべて切替え、布令一六四号に基づく限定付土地保有権は廃止する。
ニ 米合衆国が必要とする土地に対し、琉球政府が地主と折衝契約できない
場合には、米合衆国は同土地を強制収用により取得できる。
ホ 年間賃借料は、市町村別に地目等等級毎に、原則として田三等級の生産
高を基準として算出することにし、年間賃借料の再評価は、五年毎に行う。
ヘ 土地の現状回復またはこれに代わる損害賠償については、米合衆国が賃
借権を終了させるときに、米合衆国、琉球政府、土地所有者の間で公平か
つ適正な方法により解決する。
ト 土地貸賃の安定性をはかるため、琉球政府によって適当な立法を制定す
る。
チ 軍用地料の長期前払希望者に対する措置として、前払期間の最高を一〇
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年に限定し、琉球政府が立法を制定し、一定の条件のもとに長期前払いを
実施する。
リ 軍用地に関して起こりうる諸問題を調査検討し、高等弁務官に勧告する
ための恒久的委員会を設置する。
ヌ 土地問題現地折衝会議において妥協をみた新土地政策は一九五八年七月
一日から実施する。
右妥結事項は、一括払いを阻止し、地代増額の基礎を築いた点では県民に
とって一応の前進であった。しかし従来米国が「黙認」とか「収用による限
定付保有権の取得」とかの苦しい理論構成によって糊塗してきた不法占有状
態を免罪し、更に将来の土地接収についても住民の同意を得たとする口実を
米国側に与えるものであり、これについて住民の間から四原則決議に反する
ものであるとの批判が強まった。しかしこの妥結事項により沖縄の軍用地問
題は一つの時期を画するようになった。
5 布令二〇号以後の軍用地問題
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(一) 一九五七年、ソ連がICBM(大陸間弾道弾)の実験に成功し、大量報復
力はアメリカの独占ではなくなった。それにより、米国は、大量報復戦略は
修正を迫られることになり、局地戦争へ戦術核兵器を配備することになった。
沖縄はインドシナ、台湾海峡の紛争に対応した常時即応能力を備えた中枢基
地として部隊の配備、基地の強化が行われ、一九五七年には、第三海兵師団
が移駐し、五九年には米空軍のF一〇二戦闘機も配備され、米国の沖縄基地
長期保有政策は一層強固なものとなっていった。
(二) 一九五九年二月一二日、布令二〇号「賃借権の取得について」が公布され
た。布令二〇号は、布令九一号、布令一〇九号、布令一六四号という一連の
収用法令の流れを受けて発布された法令である。これは、右に挙げた法令に
対する県民の抵抗を柔らげるため、琉米代表による現地折衝という手続を経
て制定された法令であり、布令一六四号で定められていた「一括払い」「限
定付土地保有権の取得」という点を補正して「不定期賃借権」と規定してい
るが、内容は前記の布告、布令を集大成したものにほかならない。例えば、
---------- 改ページ--------128
琉球政府が土地所有者と賃貸借契約を結び、琉球政府はアメリカ合衆国に対
して転貸する、という点は、布令九一号に定められていたし、この契約が成
立しなかったときは、米国は 「収用宣言書」を発することができ、必要に
よっては宣言書をがっする以前に直ちに明渡しを命ずることができるという
のは、布令一〇九号、布令一六四号に定められていたものである。
(三) 布令二〇号に基づく「新土地計画」の実施は、当初一九五九年四月からと
いう予定であったが、それがおくれた。米国は、この実施準備が整うまで軍
事上どうしても待てないとして、名護、恩納、宜野座などにある山林原野約
一四万坪をナイキ基地建設のために、賃借料を記入しない告知書を発送する
という形で臨時措置をとり、土地を収用した。
ナイキ基地建設のための新規土地接収と共に、伊江島においては黙認耕作
地の取り上げが強行された。一九六一年五月二三日、米軍は伊江村キジャカ
に対して黙認耕作地内における新築禁止、電気、ラジオの取扱い、二メート
ル以上の立木や草の切除を通告し、村をあげての、反対運動や琉球政府の折
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衝にもかかわらず、ついに一九六三年に全員退去させられた。
一九五七年から一九六〇年にかけて米国が新規に接収した土地は、ナイキ
基地となり、沖縄基地に対する戦術核兵器の設置が完了した。
(四) その後、ベトナム戦争の激化に伴い、沖縄の米軍基地は一層重要性を強め
ていった。一九六五年七月二七日、台風避難を理由にグアム島のB−五二戦
略爆撃機が嘉手納基地に飛来、そこから直接ベトナム渡洋爆撃を行い、いっ
たんは引きあげたが、一九六八年二月五日、再び飛来し、その後は常駐体制
をとって連日ベトナム爆撃を繰り返した。
米軍が自由使用できる沖縄の米軍基地は、米国によるベトナム戦争に欠く
ことのできないものとなっていた。沖縄の軍事基地としての重要性は、米軍
が何ら規制を受けることなく自由に行動できるという点に存したのである。
このことは、一九六五年に米国民政府広報室が公式発表した米国の沖縄管理
についての質問(「米国は琉球に基地を置き、それを維持するためになぜ琉
球を統治する必要があるのか。米国は琉球を日本に統治させ、日本で行われ
---------- 改ページ--------130
ているように、琉球でもなぜ基地を維持しないのか」)に対する回答の中で
も、左記のように明確に述べられている。
「 (1) 米国は日本、韓国、台湾、フィリッピンおよびいくつかの東南アジ
アとの間に相互安全保障条約を締結している。これらの条約は、米国に
対して他からの侵略や行動からこれらの国を防衛することを委任してい
る。
(2) 侵略行動や脅迫が発生したとき、米国は、その義務に照らして速や
かに効果的な行動をとらなければならない。
(3) もし、米国が自由を守るために効果的にかつ速やかに行動するため
には、そうするための基地を持っていなければならない。これらの基準
に合致するように基地としての絶対的な要求がある。即ち、必要な状況
に応じて遅れることなしに軍隊やあらゆる種類の兵器を、自由に基地に
運べること、緊急時に必要なあらゆる種類の兵器や補給品が自由にかつ
制限なしに貯蓄できること、米国が、条約に定められた責任に基づいて、
---------- 改ページ--------131
その責任を遂行するために必要なあらゆる地域に対し、自由にしかも遅
れることなしに兵力、兵器、補給品、航空機、船舶などを送れること、
条約に従って行動することを要求された場合に、米軍に対する戦闘的協
力が自由に準備されること、軍事施設を守るために必要な安全措置をと
る能力があること。
(4) a、米国によって統治されている限り、沖縄はこれらの条件に合致
する。もし、日本が統治するならば、一九六〇年に締結された日米
安全保障条約に基づいて起こってくるあらゆる問題について協議が
必要となってくる。
b、日本は、日本を除く他の多くの国と米国との間で締結されている
安全保障条約の下で発生している多くの問題に、巻き込まれること
を欲していないだろう。米国は日本が参加していない条約に従って、
米国がとる行動の経過について日本と協議を行うことはできない。
さらに、条約に従ってとられる行動は、協議する時間も許されない
ほど迅速を要する場合もある。
---------- 改ページ--------132
(5) 日本の国内にある米国基地と琉球にある基地との間には大きな相違
があることを知るべきである。日本にある米軍は、当初一九五二年に締
結され、一九六〇年に改定された日米安全保障条約に基づいて、日本の
みの防衛について助力する責任があるだけである。他方、琉球にある米
軍は、韓国、台湾、フィリッピン、いくつかの東南アジア諸国それに日
本と米国との間で締結された安全保障条約に基づいてほとんど西太平洋
全域にわたって防衛について援助する責任を持っている。
(6) 米軍が他の国との間で締結している条約に基づいて行われることと
一致するような方法で、事前協議なしに米国が沖縄を自由に使うことが
許されることを条件として、日本に沖縄の施政権を返還するような特別
協定に調印するかも知れないということが示唆されている。しかしなが
ら、これまで行われているような線に沿っての提案は現実的でないし行
うことは困難である。」
米軍が自由に使用できる唯一の海外基地である在沖米軍基地は、兵站補給
---------- 改ページ--------133
基地、発進作戦基地、輸送、発進の中継基地、訓練基地として位置付けられ、
「不沈艦空母オキナワ」の異名で呼ばれるようになっていき、その反面、沖
縄の住民は、爆音、米兵の犯罪等基地に起因するあらゆる人権侵害を強いら
れた。
このベトナム戦争の激化とともに、米軍は、那覇、ホワイト・ビーチ各軍
港の拡張、嘉手納基地の拡大、ワトソン高等弁務官による「新軍港計画の声
明」、道路の補強、嘉手納、読谷等における黙認耕作地の取り上げ、さらに
は、具志川市昆布、糸満市喜屋武、知念村志喜屋、山里における土地の新規
接収等を行っていった。
6 対日平和条約後の土地接収の違法性
(一) 布令一〇九号では、米軍の収用告知があった場合、土地所有者は告知後三
〇日以内に、収用を受諾するか否かを回答しなければならず、拒否する場合
には訴願が許されるが、訴願に対しては、価格及び適正補償に関する点だけ
が審理決定されるのみである。収用告知後三〇日を経過したときは収用宣告
がなされ、土地に関する権利は米国に帰属する。ただし、前記三〇日の期間
---------- 改ページ--------134
中であっても米国が緊急に占有し、かつ使用する必要があれば、直ちに明渡
しを命ずることができる旨規定されている。
ところでこの布令では、米軍がどのような場合に土地を収用することがで
きるのか、換言すれば、権利取得のための目的、要件について何ら規定する
ところがない。この立法の上からは、米軍が必要だということが至上命令で
あって、これに制限を加えるものは何もない。その意味ではこの土地収用令
は、米軍の土地接収に形だけの法的根拠を与えることのみが目的とされ、適
正な手続により土地所有者の権利を保護しつつ、公共と私益との調和を図る
という側面が全く無視されている。この布令には、収用の手続はあっても、
何らの適正性はなく、従って、これは「適正手続を規定した法令」というよ
り、単なる米軍の内部用の手続規定にすぎないというべきである。このこと
は、収用の違法性について争う方法がないこと、訴願はあっても、それは価
格及び補償に関してのみであること、また、たとえ訴願があっても収用宣告
を発する妨げにはならないことなどが規定されていることによってなおさら
明らかであろう。
---------- 改ページ--------135
とくに問題なのは、収用告知後三〇日を経過しなくても、米軍が緊急に占
有しかつ使用する必要がある場合は、直ちに明渡しを命ずることができると
いう規定である。三〇日という期間が立退準備に必要な期間としてはいかに
も短く、極めて冷酷な規定であるのに、この三〇日の期間すら守らなくてよ
いということになると、米軍はいつでも好きなときに一方的に強制収用する
ことが出来るということであって、このことは収用告知書が土地所有者に到
達する前に武力接収した安謝、銘苅の例で経験ずみのことである。かかる人
民の権利を不当に侵害する布令による接収は、国際法及び当時潜在主権を有
していた日本の憲法の許容しえない無効なものであったといわなければなら
ない。
(二) 布告二六号は、地主が対日平和条約前の土地使用料を受領したことにより、
地主と米軍との間で、米軍の土地使用に対する暗黙の合意「黙契」が成立し、
米国は賃借権を取得したことになるというのである。しかし、米軍と地主の
間に当初から賃貸借契約が締結されていないのであるから、地主の受領した
金員は過去の土地不法占拠に対する賠償金にすぎず、賠償金を受領したから、
---------- 改ページ--------136
遡って契約が成立するなどということは法的に有り得ない。しかも、前述の
とおり、地主は米軍との土地賃貸借契約に対しては、明確に拒絶の意思を示
しているのであるから、土地賃貸借契約の暗黙の合意などあり得る筈がない。
「黙契論」は、到底、土地使用の法的根拠として通用するものではなく、同
布告を根拠とする土地接収、使用が違法であることは明白である。
(三) 布令二〇号
布令二〇号は、布令一〇九号及び一六四号等の一連の収用法令を受け、こ
れらの集大成として発布されたものであり、前述の各布令に対する批判がそ
のままあてはまるものである。
なお、布令二〇号の場合、折衝に基づいて琉球政府が土地賃借権を取得し、
これを米国に転貸するという形がつくられてはいるが、琉米の双方の代表に
よる「現地折衝」なるものが、そもそも対等な独立国間の交渉ではなく、米
軍権力の前に屈服した「妥結案」によって、沖縄県民は「琉球政府」と「契
約」させられたものである。したがって、布令二〇号の下での契約は、いか
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なる意味でも自由な意思に基づく契約とはいえず、従来の米軍の「実力によ
る使用」を合法化する法的根拠とはなりえない。
三 沖縄返還協定と軍事基地
一九六九年一一月二二日の佐藤・ニクソン共同声明によって、沖縄の「七二年
復帰」が決まった。共同声明の内容は、米国の極東防衛義務の肯定、米軍の抑止
力の維持強化、韓国及び台湾の安全と日本の安全との不可分性、日米安保条約の
緊密な維持、復帰後の沖縄防衛の日本自体の負担等であり、日本を含む極東の安
全をそこなうことなく、沖縄の早期復帰を達成するため両政府が協議に入るとい
うものであった。これにより、沖縄基地の重要性とその機能維持が強調され、復
帰後も沖縄の軍事基地が不変であるとの約束がなされた。
このような復帰の内容が明らかにされるにつれて、「県民が叫び続けてきた核
も基地もない形での真の復帰に逆行するものである」との指摘がなされ、共同声
明に沿った復帰を不満とする抗議と完全本土並みを要求する運動が大きな盛り上
---------- 改ページ--------138
がりとなってあらわれた。
当然のことながら、沖縄返還協定は、この共同声明を具体化した形で一九七一
年六月一七日に他のいくつかの関連取決めとともに調印された。膨大な沖縄基地
は、この返還協定により安保条約とその関連取決めに従って、米軍基地として引
継がれることになった。
なお、沖縄の返還後における日本側の防衛について、一九七一年六月二九日に
「沖縄の直接防衛責任の日本国による引受けに関する取決め」(久保−−−カー
チス協定)が締結され、地上防衛、防空、海上防衛、哨戒戒および捜索、救難を
自衛隊が引受けることが約束された。その時期は返還後早い日とし、一九七三年
七月一日までに完了するものとし、返還後六か月以内に自衛隊を三三〇〇人配備
し、追加分としてナイキ部隊、ホーク部隊の地対空ミサイルによる防空の遂行の
ため支配部隊を配置すること。施設としては、那覇空港、那覇ホイール、ホワイ
ト・ビーチ及び各地のナイキ、ホーク基地の引継ぎをなすこと等が取決められた。
四 沖縄返還後の強制収用
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1 「公用地法」の制定
一九七一年六月一日の沖縄返還協定調印により、一九七二年五月一五日、沖
縄の施政権は、米国から日本政府に返還された。
これまで述べてきたように、沖縄の米軍基地は、何ら法的根拠がないまま終
戦直後に囲い込まれたり、違法な布告、布令をたてに銃剣とブルドーザーで強
奪されたものの集積からなっており、沖縄返還の時点で、日本政府は国民であ
る沖縄県民に土地を返還し、違法状態を解消し、沖縄県民の人権を回復すべき
であった。
しかし、沖縄返還協定では、二条で日米安保条約、日米地位協定等の沖縄へ
の適用を認め、三条で沖縄返還後もなお沖縄の米軍基地を継続使用することを
認めていた。そして、改めて米軍に提供されることになった基地についての米
軍の使用に空白を生じることがないようにし、また米軍から肩代わり的に自衛
隊が基地を使用できるにようにするため、「沖縄における公用地等の暫定使用
に関する法律」(公用地法)が制定されたのである。
これに対し、当時の琉球政府(屋良朝苗首席)は、一九七一年一二月、「公
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用地暫定使用法に対する意見書」を日本政府に提出し、公用地法の違憲性、違
法性を訴えた。意見書の内容は次ぎのようなものであった。
「 (1) 問題点
イ この法律は、国の一方的、強制的な土地または工作物の使用権取得が不
可能であり、強力な強制収用法である。
ロ 土地収用法および地位協定の実施の伴う土地などの使用に関する特別措
置法の六か月の暫定使用期間と均衡を失し、沖縄県民を本土国民と差別す
るものである。
ハ 国が土地または工作物について権原を取得するためには、土地の特定
(土地の所在、地番、地目などの表示)を要するが、沖縄の地籍整備が五
年以内に完了しない場合は、期間延長が考えられる。
ニ 沖縄返還協定によって、施設および区域として提供されるもの以外の施
設および区域(たとえば伊波城観光ホテルなど)も、第二条一項に含まれ
る可能性があり、適用範囲が不明確である。
ホ 自衛隊は、自衛隊法第百三条により、防衛出動以外は土地等の使用が制
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限されており、現に、沖縄に配備されているアメリカ合衆国軍隊と同列に
取り扱うことは問題である。
ヘ 本土では、水道公社や電力会社のための土地の強制収用は、土地収用法
三条一七号及び一八号によって行われており、水道や電力などの公共の利
益となる事業に関しては、土地収用法の一般原則に委ねることで十分であ
る。
ト 土地又は工作物の暫定使用にあたって、所有者ごとに土地の所在、種類
及び数量などを通知することは、権利取得のための最低限度の法律的要求
であり、単に、「当該土地の区域」のみを通知することおよび通知すべき
事項の公示のみで処理することは問題である。
チ 土地または工作物を使用するものは、その所有者および関係人の請求が
あるときは、自己の見積もった損失の補償額を払い渡さねばならないが、
予算の制限などにより、所有者や関係人の意志に反する補償額が支払われ
るおそれがある。
(2) 憲法及び法律上の問題点
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イ 暫定使用期間が五年の長期にわたるということ。
a 同法は、五年の長期にわたって実質的に土地などの使用制限を行う私権
に対する重大な制限であり、憲法二九条で保障された財産権を侵すもので
ある。
b 地位協定の実施に伴う土地などの使用等に関する特別措置法で強制使用
できる期間は、最大限六か月であり、他人の土地等を強制使用するために
は、土地収用法およびこれに準ずる手続きがとられているが、沖縄では、
五年にわたって正当な法の手続きもとらず、強制収用することは、沖縄県
民に差別を強いるものであり、法の下の平等を制定した憲法一四条に違反
するものである。
ロ 自衛隊が土地などを強制収用すること。
a 自衛隊の配備は、憲法二九条でいう公共の用に供する場合に該当せず、
土地収用法で規定する公共の利益となる事業にも該当しないから、自衛隊
配備のために土地などを強制収用することは、憲法二九条に違反し、土地
収用法にも違反する。
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b 自衛隊が他人の土地などを強制収用できるのは、自衛隊法百三条の防衛
出動だけである。
自衛隊配備のための強制収用をしようとする暫定措置法の制定には問題
がある。
c 自衛隊が他人の土地を強制使用できるのは、所有者等の任意による使用
についての合意がある場合に限られ、自衛隊の配備のために土地を強制収
用するのは問題がある。」
しかし、日本政府は、公用地法を見直すどころか、期限内に契約締結を
完了してしまおうとし、防衛施設局による、あらゆる手段を使った反戦地
主の切り崩しが始まった。
2 「地籍明確化法」の制定
「公用地法」が期限切れとなる五年後の一九七七年五月一五日に至っても、
防衛施設局の圧力に屈せず、契約を拒否し続けた反戦地主らが残った。そこで
政府は、強制使用を継続するために、「沖縄県の区域内における位置境界不明
地域内の各筆の土地の位置境界の明確化等に関する特別措置法」の立法化を図っ
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た。
該法律案は、沖縄戦で公簿公図が消滅し、地形が一変して土地の位置境界が
不明確な地域が多く、それを国の特別措置で解決するというのが法の趣旨と説
明された。ところが、法案の附則に、前記「公用地法」を五年間延長すること
が盛り込まれていた。社会党ほかすべての野党が憲法違反の法律だとして反対
し、全国的な反対運動が盛り上がった。
沖縄県は、地籍明確化法に反対する立場から、「沖縄における公用地等の暫
定使用に関する法律の失効に伴う特別措置法の立法化に対する意見書」を政府
に提出した。意見書は、同法の問題点として、「1地籍の明確が実現するまで、
正常な手続きで使用できないから、新法によって強制収用される。その場合、
契約拒否地主の土地は地籍不明のまま残り、無期限にこの法律により強制収用
されることになり、憲法二九条の私有財産に対する重大な侵害である。 2同
法では、一応使用手続きを定めているが、本来、駐留軍用地特措法または、土
地収用法により強制すべきであり、この法案の特別な手続規定によって強制収
用を図らんとすることは、単に形式的を整えたにすぎない。よって、憲法三一
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条の適正手続きの保障に違反する。 3沖縄における米軍用地および自衛隊用
地内の地籍不明土地(契約済の土地は除く)についてのみ、この法律を適用す
ることは、当該土地の所有者に差別を強いることであり、憲法一四条の法の下
の平等に反する。 4私有財産を強制収用できるのは、憲法二九条でいう公共
の用に供する場合のみであって、自衛隊の配備は、自衛隊法百三条の防衛出動
の場合を除き、これにあてはまらない。したがって、自衛隊用地内の未契約土
地の強制使用は、憲法二九条に違反する。」の四点をあげていた。さらに、沖
縄県は、国が同法の制定を強行するなら、憲法九五条による住民投票でもって
県民の同意を得るべきである、と主張した。
同法案に対する国会審議が紛糾し、「公用地法」の期限切れの五月一五日か
ら四日遅れて自民党の強行採決で、五月一八日に成立した。四日間米軍はなん
らの法的根拠なく契約拒否地主の土地を占有していたのである。
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3 「駐留軍用地特措法」の発動
日本政府は、さすがに地籍明確化法を更に延長することは不可能と判断し、
それにかわる方法として、「駐留軍用地特措法」に基づく使用裁決申請をした。
砂川基地闘争のときに発動されて以来発動されたことがなかった特別措置法の
強権発動である。
このように、沖縄戦から五〇年以上を経過してもなお、反戦地主の土地はそ
の意思に反して強制的に取り上げられているのである。
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