公告縦覧拒否訴訟(11施設)
被告(沖縄県) 第 一 準 備 書 面
平成八年(行ケ)第二号
職務執行命令裁判請求事件
被 告 第 一 準 備 書 面
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平成八年(行ケ)第二号
職務執行命令裁判請求事件
原 告 内 閣 総 理 大 臣
橋 本 龍 太 郎
被 告 沖 縄 県 知 事
大 田 昌 秀
被告第一準備書面
一九九六年八月三〇日
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右被告訴訟代理人
弁護士 中 野 清 光
同 池宮城 紀 夫
同 新 垣 勉
同 大 城 純 市
同 加 藤 裕
同 金 城 睦
同 島 袋 秀 勝
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同 仲 山 忠 克
同 前 田 朝 福
同 松 永 和 宏
同 宮 國 英 男
同 榎 本 信 行
同 鎌 形 寛 之
同 佐 井 孝 和
同 中 野 新
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同 宮 里 邦 雄
右被告指定代理人 又 吉 辰 雄
同 粟 国 正 昭
同 宮 城 悦二郎
同 大 浜 高 伸
同 垣 花 忠 芳
同 山 田 義 人
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同 比 嘉 博
同 兼 島 規
同 比 嘉 靖
同 謝 花 喜一郎
福岡高等裁判所那覇支部 御中
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目 次
第一 はじめに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 一
第二 沖縄の苦難の歴史 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 五
一 戦前の沖縄 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 五
1 琉球処分以前 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 五
2 琉球処分 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 七
3 旧慣温存政策 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一〇
4 昭和の沖縄―昭和元年から沖縄戦まで ・・・・・・・・・・・・・・一〇
二 沖縄戦 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・二二
1 沖縄守備軍の創設と臨戦態勢 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・二二
2 沖縄守備軍の動き ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・二四
3 一〇・一〇空襲の前後 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・二五
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4 戦場動員状況 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・二九
5 戦時行政から戦場行政へ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三一
6 国体護持と沖縄戦への突入 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三四
7 米軍の上陸と日米最期の決戦 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・三五
8 米軍の沖縄本島上陸直前の状況 ・・・・・・・・・・・・・・・・・三六
9 沖縄本島中部・首里戦線 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三八
10 首里戦線 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・四一
11 離島戦線 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・四五
12 南部戦線 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・四七
三 戦後の沖縄 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・五三
第三 沖縄における基地形成史 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・六五
一 米軍の沖縄占領から対日平和条約発効前の土地接収の実態 ・・・・・・六五
1 土地の囲い込み ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・六五
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2 米国の沖縄占領政策の変化 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・六九
3 開放地の再接収 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・七一
4 対日平和条約前の接収の違法性 ・・・・・・・・・・・・・・・・・七三
二 対日平和条約の発効から沖縄返還までの基地形成 ・・・・・・・・・・七五
1 対日平和条約発効 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・七五
2 低廉な地料による長期賃貸借契約の失敗 ・・・・・・・・・・・・・七七
3 銃剣とブルドーザーによる土地強奪 ・・・・・・・・・・・・・・・七九
4 島ぐるみ闘争 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・九一
5 布令二〇号以後の軍用地問題 ・・・・・・・・・・・・・・・・・一〇五
6 対日平和条約後の土地接収の違法性 ・・・・・・・・・・・・・・一一二
三 沖縄返還協定と軍事基地 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一一五
四 沖縄返還後の強制収用 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一一七
1 「公用地法」の制定 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一一七
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2 「地籍明確化法」の制定 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一二二
3 「駐留軍用地特措法」の発動 ・・・・・・・・・・・・・・・・・一二五
第四 米軍基地の実態と被害 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一二六
一 米軍基地の概況 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一二六
1 在沖米軍施設の全国比率 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一二七
2 所有形態 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一二八
3 用途別使用状況 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一二九
4 米軍訓練水域及び空域 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一三一
5 軍別状況 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一三二
二 米軍の演習・訓練及び事件・事故の状況 ・・・・・・・・・・・・・一三五
1 演習・訓練の概要 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一三五
2 県道一〇四号線越え実弾砲撃演習実施状況 ・・・・・・・・・・・一三五
3 パラシュート降下訓練実施状況 ・・・・・・・・・・・・・・・・一三六
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4 原子力軍艦寄港状況 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一三七
5 事件・事故 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一三七
三 環境破壊 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一四二
1 自然環境の破壊 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一四二
2 騒音公害等 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一四五
四 米軍基地に起因する女性に対する人権侵害 ・・・・・・・・・・・・一四七
五 基地に侵害される子どもの権利 ・・・・・・・・・・・・・・・・・一五二
六 振興開発の阻害 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一六〇
1 振興開発と米軍基地 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一六〇
2 市町村の振興開発の阻害 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一六一
七 行政事務の過重負担 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一七三
1 沖縄県の場合 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一七三
2 市町村の場合 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一七五
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第五 米軍基地、代理署名訴訟判決等に対する県民及び国民の世論 ・・・・一七八
一 はじめに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一七八
二 政治意識調査 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一七九
1 日米安保条約の有用性について ・・・・・・・・・・・・・・・・一七九
2 米軍基地に対する不安感について ・・・・・・・・・・・・・・・一八三
3 米軍基地に対する態度について ・・・・・・・・・・・・・・・・一九一
4 米軍基地の現状と将来について ・・・・・・・・・・・・・・・・一九三
5 政府の対応、沖縄県知事の姿勢について ・・・・・・・・・・・・一九六
6 高裁判決について ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一九七
7 沖縄県知事の最高裁上告について ・・・・・・・・・・・・・・・二〇一
8 高裁判決後の政府の対応について ・・・・・・・・・・・・・・・二〇五
三 まとめ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・二〇七
第六 米軍基地問題に対する県の対応と二一世紀への展望 ・・・・・・・・二〇九
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一 日米両国政府等に対する基地整理・縮小等の要請 ・・・・・・・・・二〇九
二 二一世紀への展望と行動―――国際都市を目指して ・・・・・・・・二一八
1 国際環境変化の中の沖縄の位置と期待される役割 ・・・・・・・・二一八
2 国際都市形成構想 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・二二〇
三 国際都市形成へ向けた基地返還アクションプログラム ・・・・・・・二二七
1 国際都市形成と米軍基地 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・二二七
2 基地返還アクションプログラム ・・・・・・・・・・・・・・・・二二九
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第一 はじめに
一 福岡高等裁判所那覇支部平成七年(行ケ)第三号職務執行命令裁判請求事件
(以下、代理署名訴訟という)は、那覇市長、沖縄市長、読谷村長が土地調書、
物件調書への立会・署名押印を拒否したため、被告による代理署名拒否の適否が
問題にされた事案であった。
一方、本件訴訟は被告に対し本件各土地の裁決申請に係わる公告縦覧の代行手
続を求めるものであるが、代理署名訴訟と比較して特徴的な点は、本件公告縦覧
の手続を拒否した市町村長が九名に増加したということである。原告は平成七年
五月九日本件各土地の使用認定をしたが、その際土地調書、物件調書への立会・
署名押印に応じた浦添市長、宜野湾市長、北谷町長、嘉手納町長、恩納村長らと
ともに、新たに金武町長も本件公告縦覧手続を拒否するに至っている。
これは本件各土地の強制使用に反対する明示の意思表示以外の何ものでもない。
かつて、米軍用地の強制使用手続に関する機関委任事務に応じてきた関係自治体
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が今回、これを拒否したことの意味を原告は重く受け止めるべきである。
沖縄県は、米軍基地問題の解決を県政の重要な課題と位置づけ、その早期の整
理縮小について日米両政府に対し過去何度も要請を繰り返してきた。これに対す
る日本政府の反応は全く冷やかであった。
原告は、平成七年被告に対し職務執行命令訴訟を提起したことを契機に沖縄の
米軍基地問題に対し関心を示すようになり、日米両国政府で普天間飛行場等の返
還を決定した。
しかし、返還を提示された施設のほとんどが県内の既存の施設・区域への移転
を前提としていることやこの間の日本政府の対応が関係市町村長の怒りに触れて
本件公告縦覧手続拒否の意思表明となって表れたのである。
このような関係自治体の右拒否表明の結果、本件公告縦覧の代行手続請求に至
らざるを得なかったことを原告は十分認識すべきである。
二 裁判所は沖縄における基地過重の問題、これによる深刻な被害の実態等、被告
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が本件訴訟で主張している各事実を明らかにし、これを前提にした場合の駐留軍
用地特措法の違憲性若しくはその適用違憲性の問題にまで踏み込み、その中で主
張されている憲法違反の問題に直接応えるべきである。さもなくば被告が本件訴
訟で強調する本件強制使用認定の適否の審理は不可能である。
原告は使用認定の違法性の問題にまで審理を広げることは司法審査の限度を超
えるものである旨主張するが、被告は裁判所に対し統治行為論にまで踏み込んだ
審理をせよと主張しているのではないのである。
三 沖縄県民は、広大かつ過密な米軍基地の存在によって戦後五〇年余にわたり幾
多の基地被害に苦しんできた。それ故にこれ以上の基地負担を押しつけることは
沖縄を差別し、不当であるという認識がようやく国民にも広がってきた。原告も
そのことに一応の理解を示し、沖縄米軍基地の整理縮小を口にするようになった。
しかし県民の納得のいく解決策を示さないまま、本件各土地の強制使用の手続
に及んでいる。本件公告縦覧の代行は、右強制使用の手続の一つであることから、
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被告はこれに強く反発し、本件勧告、命令を拒否するに至ったのである。
被告は、本来知事には、土地等の裁決申請に係わる公告縦覧の代行義務はない
と主張するものであるが、仮にこれが機関委任事務だとしても、被告がこれを拒
否することこそが県民の総意に応えるものであり、地方自治の本旨に沿った決断
であると確信する。
どうか裁判所におかれては、被告の右拒否に至った理由とその背景を十分に審
理し、沖縄県民はもとより全国民の納得のいく裁判をして下さるように切望する
ものである。
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第二 沖縄の苦難の歴史
一 戦前の沖縄
1 琉球処分以前
琉球処分以前の沖縄県の前身である琉球の歴史は、五、六世紀以来中央政府
の統一的支配の下にあった他府県の歴史とは異なり、本土社会とは別個の国家
形成の途を歩み、琉球王国を作り出していた。
一六〇九年三月四日、徳川家康から「琉球征伐」の許可を得た薩摩藩の島津
氏は、樺山久高を総大将に三〇〇〇余の兵と一〇〇隻以上の船をもって、鹿児
島方、国文方、加治木方の三手にわかれ薩摩の山川港から出兵した。
当時、奄美大島諸島は琉球王の統治下にあったので、薩摩軍はまず奄美大島
を征服した。
琉球王府は、奄美大島諸島が薩摩軍によって征服されたことを知り、和睦の
使者を薩摩軍のもとへ送る計画を立てたが最早手遅れだった。薩摩軍は沖縄本
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島北部の今帰仁港に押し寄せていた。王府は今帰仁に和睦の使者を送ったので
あるが樺山久高はこれを拒否した。
薩摩軍は三月二九日に今帰仁港を出発し、一隊は本島中部の大湾港に上陸し、
他の軍は首里王府の攻略に向かった。
琉球王府は、越来親方を大将として応戦したのであるが、薩摩軍の鉄砲の威
力の前にはなす術もなく、琉球側の決定的な敗北に終わり、四月五日首里城明
け渡しとなった。
一六〇九年五月二九日、薩摩軍は琉球の尚寧王を捕虜として薩摩へ連行した。
それ以降、琉球王国は、一八七九年の明治政府による「琉球処分」まで、薩
摩への付庸と清国への朝貢という二元的な従属体制、いわゆる日清両属の政治
形態を余儀なくさせられたのである。
薩摩は、琉球王国を征服し、二五〇年余王府を中国貿易の手段として利用収
奪していった。民衆は、王府と薩摩の二重の収奪による苦難の歴史を強いられ
ていった。
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後に薩摩藩が明治維新の中心的勢力になり得たのは、琉球からの収奪による
ものと言われている。
2 琉球処分
徳川幕府は、西欧列強に開国を迫られ、国内の政治的経済的行き詰まりによっ
て鎖国政策がつき崩され、徳川三〇〇年の幕府は崩壊し、一八六八年明治政府
が成立した。
一八七一年、廃藩置県が実行されたが、琉球はそれから除外され、鹿児島県
の管轄に置かれた。
ところが、一八七一年一二月、沖縄の宮古島の漁夫六九人が台湾に漂着し、
その中の五四人が殺害されるという事件が発生した。この事件を契機にして、
明治政府は、琉球の日清両属を清算し、琉球が日本のみに専属していることを
公然化させるため、一八七二年、琉球を鹿児島県の管轄から外し、「琉球藩」
とし、尚泰王を琉球藩主とした。
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その三年後、明治政府は「琉球藩」の処分政策を推進していった。
琉球処分は、明治政府による近代国家における国家主権の排他的行使という
前提に立ち、琉球の日本に対する忠誠関係を一元化し、清国への伝統的な臣従、
朝貢関係の断絶、破棄を迫るものであった。
それゆえ、日清間の緊迫した外交問題となっていった。
琉球の内部においては、士族支配層の一部が明治政府の琉球処分に執拗に抵
抗し、それを阻止すべく救援を求めて清国へ渡り清国政府へ訴えた。これらの
集団を脱清派と総称している。
しかしながら、明治政府は、士族支配層の意思を抑圧し、内務大丞松田道之
をして、一八七九年三月二七日、一六〇人の警官と四〇〇人の軍隊を琉球に派
遣し「琉球処分」を断行していったのである。
この琉球処分は、明治政府のもとで、琉球が日本の近代国家の中に強制的に
統合されていく過程であった。しかし、その過程は、琉球側(支配者及び人民)
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の主体的な意思や働きによって導かれたものではなかった。むしろ琉球の支配
階級(士族)の反対・抵抗を押さえて、明治政府の一方的な権力恣意の貫徹と
して実現したものである(金城正篤著『琉球処分論』)。
ところで、この琉球処分期に、憂国の自決を遂げた琉球士族の一人の人物が
いた。林世功という志士的人物であった。同人は、琉球処分直前に清国へ脱出
亡命し、清国において琉球処分に反対する運動を展開し、清国の救援を求めて
奔走した。ところが、一八八〇年、日清両国の間で、沖縄本島を日本の支配下
に、離島の宮古、八重山二島を清国に割譲して琉球を分割統治する「分島改約」
条約が締結されようとしていた。
明治政府の提議によるこの条約案に対し、林世功は絶望し、最早一死をもっ
て「憂国」の至情を貫徹する以外に道はないと決意し「辞世」を残し自決して
いった。林世功の死は、まさに小国琉球廃藩の哀史の象徴であるとともに、明
治政府の武断と強権、琉球の両断に対する抗議の自決であり、国家エゴイズム
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に対する一身をかけた行動として歴史の一ページに記されている。
3 旧慣温存政策
明治政府は、琉球処分によって琉球を強制的に日本の版図に組み込んでいっ
たのであるが、支配階級を慰撫するために、他県ではすでに実施されていた国
政参加、地租改正、法律の一元化等の近代国家としての制度改革を遅らせるい
わゆる「旧慣温存政策」を採った。
これは、結果として沖縄が近代国家として発展しつつあった日本の中におい
て政治、経済の面で大幅に遅れる原因になった。
この遅れが沖縄県民に他府県人と平等に認められていないという、ある種の
屈辱感と悲哀をもたらす大きな要因となり、できるだけ日本化しようとする為
政者や教育界の動きとなっていった。また、昭和に入り、中央での国民精神総
動員運動の流れに伴い、県内でも国民的同化・一体化が強く押し進められた。
4 昭和の沖縄―昭和元年から沖縄戦まで
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(一)苦難の連続
一九二五年に始まり一九八九年まで、六四年に及ぶ「昭和」時代はここで
あつかう沖縄戦までの二〇年と、それ以後の時代とに大別できる。
「昭和」の前半二〇年間は、戦乱に満ちた暗い時代である。いわゆる「十
五年戦争」とも言われるように、軍事力を背景にした日本の植民地支配に対
して、中国をはじめとするアジア諸国が英米の支援を受けて抵抗し、泥沼の
「戦乱の時代」となった時代である。
「万邦協和」・「八紘一宇」の名のもと日本軍は中国をはじめアジアの近
隣諸国民に癒しがたい甚大な被害を与えた。国民は、「聖戦遂行」を至上命
令とする国策によって、戦場と銃後の別なく塗炭の苦しみを強いられていた
が、「治安維持法」下で、国民の自由な権利はことごとく剥奪され、国策に
反抗したり、批判したりする者は「国賊」のレッテルをはられた。
「一口に『昭和時代』といっても、その内実は、けっして単一なものでは
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ない。昭和改元から日本が戦争に負け無条件降伏を余儀なくされた一九四五
(昭和二十)年八月までの二十年間とそれ以後の四十三年間とでは、一面で
は別の時代といってもよいほど、その歴史的内実は、異なっていた。前半の
『戦争時代』は、『大日本帝国憲法』に基づく『絶対主義的天皇制』下にあっ
て、教育は皇国の道を中心にすえた教育勅語によってなされていた。それに
対し、後半においては、日本国憲法に由来する主権在民の『象徴天皇制』下
で、教育も教育基本法に依拠して行われた。とはいえ、実質的には必ずしも
すべての面で根本的変容があったわけでもない。断絶、もしくは非連続のも
のもあれば、戦前から現在に至るまで連続性を保ち連綿と生き残っているの
もある。言い換えるなら昭和の歴史は、戦争の有無にかかわらず、断絶と連
続の統一体として織り成されてきたともいえる。沖縄にとっての『昭和』は、
日本(本土)の場合とは、大いに趣を異にしていた。沖縄の昭和史において
は、本土で見られたように連続とか断絶=非連続といった変容はほとんど見
られず、地元住民の受難との関連でいえば、苦難の『連続』性だけが目立っ
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たといっても過言ではない」(大田昌秀『検証 昭和の沖縄』二〜三ペー
ジ)。
(二)差別的政策と思想弾圧
昭和四〜五年の世界経済恐慌、大正一四年(一九二五)にすでに成立して
いた「治安維持法」、昭和六年(一九三一)の満州事変に始まるいわゆる一
五年戦争、これらのできごとはなにも沖縄だけ恐怖と犠牲を強いたわけでは
なく、日本の全国民がその影響を受けた。しかし、沖縄の場合は、いわれの
ない差別的政策と偏見のため、他の日本のどの地域の人々にもまして痛まし
い事態を強いられた事実がある。
(1)ソテツ地獄と「沖縄県振興十五カ年計画」の挫折
第一次世界大戦(一九一四年〜一八年)で大きな利益を得た日本だった
が、大戦後の世界大恐慌の波は日本、沖縄へと押し寄せ、経済混乱、銀行
の倒産、失業者増大、生活苦を強いられることになる。時期としては昭和
四〜五年で、沖縄県は、大正九年頃からの慢性的財政難に喘いでいたため、
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県民の苦しみを倍加せしめる結果となり、教員の給料遅配や欠配がおこっ
て社会問題化していた。米はおろか、当時の常用食であったイモさえ食べ
ることができず、野生のソテツで飢えをしのいだ。ソテツは処理方法を誤
ると中毒死する危険な「食べ物」で、犠牲者もずいぶん出た(琉球新報編
『昭和の沖縄』)。
生活苦から、男の子は糸満の漁村に、女の子は辻の遊郭に売られる(人
身売買)ことも多くなった。注目すべきことは、沖縄の貧困はこの昭和の
恐慌に始まったことでなく、明治以来構造化していたということである。
明治一二年の廃藩置県後、旧慣温存の政策が採られ、明治三二年の土地整
理事業によって近代化へと大きく転換したものの、県経済の「後進、零細、
低俗」の三つの特徴は、大正から昭和へと引き継がれていた(田港朝昭
『沖縄県史』)。
昭和恐慌、ソテツ地獄からの乗り切り策として、昭和八年に沖縄県は
「沖縄振興一五カ年計画を策定した。大正四年に策定した「産業振興一〇
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年計画」に次ぐ県政史上二つめの長期計画で、県民からも期待されたが、
時勢は、軍事体制下に入り、第二次世界大戦の拡大とともに、計画は戦禍
で泡と消えてしまった(琉球新報社編『前掲書』)。
生活苦から糸満や辻への人身売買、海外移民などは、経済政策の失敗の
しわ寄せの典型的事例である。
(2)治安維持法下での運動
経済的破錠と政治の混迷の中で、人々は自主的な解決へと立ち上がるが
そのほとんどは弾圧されるか、芽のうちに摘み取られてしまった。
一九二八年、普通選挙法による最初の選挙が実施され、労働農民党から
二人の県出身者が立候補し、社会主義を目指す労働党の主張が県内都市部
でかなり浸透していった。
労働組合の結成や労働運動の組織化が進んだのもこの時期だが、激しい
弾圧で、多くの犠牲者が出た(安仁屋政昭『沖縄の無産運動』)。
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沖縄初のメーデー(一九二一年)、那覇市荷馬車組合結成(一九二二
年)、小学校教員の社会科学研究会組織(一九二七年)、那覇市立高等女
学校増築工事現場争議(一九二八年)、土橋貝釦工場争議(一九二八年)
など多くの例が上げられている。しかし、一九二五年に治安維持法が公布
され、一九二八年には、労働党那覇支部や沖縄青年同盟に解散命令が出さ
れ、同年沖縄県に特別高等課(特高)が設置され、結社や言論、集会など
に対する締めつけが強化された。
一九三七年には日本教育労働者組合八重山支部(一九三〇年結成)が、
特高によって壊滅させられた。このような中で大宜味村政革新運動は、青
年層を中心にして特異な活動を展開した。疲弊した山村の政治を改革しよ
うと五項目の綱領に基づいて「村政革新同盟」を結成し(一九三一年)、
二四項目からなる具体的要求を掲げていた。要求の中には減税を始め、村
財政の経費節減、政治的、経済的な民主化を求める項目などが盛り込まれ
ていた。
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(三)アイデンティティの喪失ー日本化
昭和恐慌による経済的状況の悪化に伴い、社会不安も増大した。こうした
中、一九三一年満州事変(柳条湖事件)が勃発する。経済的にも政治的にも
他府県以上に苦境に陥っていた沖縄県では、県民の不満も鬱積していた。
「満州開拓民」が派遣されたり、「暴戻飽くなき支那匪」と戦う日本軍に対
する感謝電報を関東軍司令部に送ったり、内部の不満の「はけ口」として利
用された。一方、誇りある日本人となるために、精神構造、生活習慣、言語、
芸能などあらゆる沖縄的なものが否定され、日本化が推進された。
(1)方言論争
方言論争は、一九四〇年に日本民芸協会(柳宗悦)と沖縄県当局との間
で展開された論争である。他の県ではこういう論争はなく、県当局者をは
じめ支配層の沖縄に対する差別と沖縄文化に対する蔑視が集約された事件
だったと言える。
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柳宗悦は、一九三八年に一度沖縄を訪れ、通念に反して美の宝庫たる沖
縄に魅了され、一九四〇年には民芸協会の同人二六人を伴って再度沖縄を
訪問した。
ところが、戦時体制の拡大に伴い時局が緊迫するにつれ、沖縄では「国
民精神の注入」と称して「方言廃止、標準語励行」運動が、県学務部の主
導で展開されていた。これは、前年から、「国民精神総動員運動」の一環
としておし進められ、異常なまでにエスカレートした。これに対し柳宗悦
らは、その行き過ぎを指摘して、地方文化の擁護を訴えたが、これが県当
局ばかりか県民の批判の的となった。
「この問題は、たんに言語問題を介して国策的施策と地方文化の要請と
が衝突したということ以上に、文化の本質や沖縄県人の意識構造と深くか
かわる問題である。
標準語の励行は、明治十二年(一八七九)の廃藩置県以来、県当局と地
元の指導者が、沖縄県民を日本人へ同化させる一環として強力に推進して
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きたことである。教育までが、単に「国民精神の普及手段」としての効果
しかもちえなかった状況下であっただけに、県当局が、方言を廃止し、標
準語を励行することによって、県民に国民精神を注入しようと図ったのは、
半ば必然的なコースであった。
昭和八年、九年頃から県当局は、従来以上に標準語の奨励に力を入れた
が、同十年代にはいって戦時色の濃化とともにその傾向はますます強まり、
とくに昭和十四年からは、国民精神総動員運動の一翼としてそれは一段と
強化された。太平洋戦争間近になると、県知事が「国民的一致のためには、
沖縄の地方的特色は、一切抹殺されねばならぬ」と公言するようになり、
地元の指導者のほとんども、そうした見解を無条件に肯定する状態になっ
た」(大田昌秀『近代沖縄の政治構造』)。
標準語励行運動は、「方言ばかりでなく姓名の呼び方や、沖縄芝居、舞
踊などにも制限を加えるようになり」(池宮城秀意『戦争と沖縄』)、一
---------- 改ページ--------20
切の沖縄色の否定・排除へとエスカレートしていった。
県当局者と指導者にとっては、沖縄出身者が東京や大阪等の出稼ぎ先で
言語や風習の違いから差別されたり、自己の意志発表はおろか、礼儀さえ
わきまえぬ者が多い状態を改善し、今や「その精神的信念において昔日の
比ではなくなった。最大理由は、標準語普及によるものである、と断言し
てはばからない」という認識に裏打ちされていたとは言え、民芸協会員ら
の次のような指摘もまた、当然のものであった。
「言語は民族の精神、人情、習慣ひいては文学、音楽と密接な結縁をも
つもので、地方の文化性は、もっとも如実にその言語に表現される。地方
語の微弱は、地方的文化の微弱を意味するのだが、果たして県当局者は、
沖縄語への敬念をいだいたり、地方語の価値を認識しているだろうか」。
「諸氏が他府県の学務部に転任するときはたして標準語奨励運動を起こ
す勇気があるか。沖縄県だけにその必要があって、他府県には必要がない
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というであろうか。私たちは諸氏の明答を得たい。なぜなら他府県におい
ては、地方語はいぜんとして常用語となっているからである。だがそれら
のいっさいの他府県の教室には「一家そろって標準語」という貼紙をみな
い。なぜ日本の本土において自由に方言が用いられているのに、沖縄ばか
りがひたむきになって標準語を奨励しなければならないのか。なぜ家庭に
おいてその土地の母語を用いてはいけないのか」。
柳氏らが指摘しているとおり、ある地方の呼吸にも等しい方言の使用を
禁止したり、撲滅しようとした例は沖縄以外では見られない。
(2)改姓改名運動
戦時色が強まるにつれて、沖縄固有の伝統文化を否定し、日本本土の文
化への同化が言語にかぎらず日常生活のあらゆる分野に及んだ。それは、
生活改善運動と称して行われたが、改姓改名運動もその一環として展開さ
れた。自分の姓名を自ら否定して変更するということは、自らがよって立
つアイデンティティの喪失であり、これは沖縄文化に対する偏見、抑圧と
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いう歴史的背景を抜きにしては語れない。
(四)「南進」国策
戦時体制の強化と関連して、国策として沖縄の古い歴史を讃え、沖縄県民
の海洋民族としての特徴が喧伝された。こうして太平洋地域へ農民や漁民と
して大量の移民が送り出された。結果からみれば、日本の南進政策に利用さ
れたものであった。
沖縄の漁民の南方関心・南方進出について後藤乾一氏は、「彼ら自身の意
図に関わりなく、絶えず国家の南方関心・南進政策に取り込まれていく過程」
であったとしている(『近代日本と東南アジアー南進の「衝撃」と「遺
産」』)。
二 沖縄戦
1 沖縄守備軍の創設と臨戦態勢
沖縄戦は、一九四一年一二月八日、日本軍の奇襲攻撃にはじまるアジア・太
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平洋戦争の帰結点となった日米両軍最後の地上戦闘であり、一九三一年の「満
州事変」を起点とした日本の一五年戦争の一環であった。当初、破竹の勢いで
占領地を拡大していた日本軍も、一九四二年六月のミッドウェー海戦で米軍に
敗北以後、戦況は悪化の一途をたどった。そして戦線は、日本本土へ北上して
いき、一九四四年二月一七日〜一八日にかけて、突如アメリカ機動部隊は日本
の絶対国防圏内(一九四三年九月一五日設定)であるマリアナ諸島のトラック
島に、空襲と艦砲射撃を加え、艦船、航空機、施設などに甚大な損害を与えた。
さらに、二月二三日、サイパン、テニアン島を空襲した。(三月には、パラオ
島を空襲)。この米軍の攻撃は、大本営の予想時期をはるかに上回るものだっ
たので、大変な衝撃をあたえた。それから二日後の二五日、政府は「決戦非常
措置要綱」を発表したので、早速、高級娯楽が停止されたり、興行場も閉鎖さ
れていった。こうして、本土決戦の間近いことが国民にも浸透していき、緊張
の度が深まった。
沖縄県内にあっては、他府県出身の県庁役人の家族が一斉に、本土の出身地
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へ引き揚げはじめていった。本土決戦のまえに沖縄が決戦場になるかも知れな
いという情報が伝わっていたと思われる。なぜなら、佐世保鎮守府司令官が南
西諸島の防備態勢の強化を要請したのをうけた形で、三月二二日に大本営直轄
の沖縄守備軍・第三二軍が創設されているからである。また、大本営は、フィ
リピン同様台湾及び南西諸島防衛のために、「第一〇号作戦準備」を下した。
絶対国防圏の後方に位置する沖縄が「皇土防衛」の日本国内では最前線基地に
なることは、誰の目にも明らかであった。
2 沖縄守備軍の動き
第三二軍が創設されてまもない三月末には、一九四三年末から建設が始まっ
ていた北(読谷)飛行場と伊江島飛行場の建設のため、全島的に労務徴用を本
格化した。そして四月一日には、第三二軍は「第一〇号作戦準備」を開始した。
沖縄の第三二軍は、四月上旬に軍司令部が沖縄現地に到着して、沖縄本島・宮
古・八重山諸島には六月から九月にかけて第九師団・第二四師団・第六二師団・
第二八師団の四個師団と独立混成四四旅団・独立混成第五九旅団・独立混成第
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六〇旅団・歩兵第六四旅団・独立混成第四五旅団の五個混成旅団の兵力を主軸
として編成されていった。部隊編成としては、さらに、砲兵隊・海上挺身隊・
秘密遊撃隊・船舶工兵隊が加わり、また海軍の沖縄方面根拠地隊も陸戦隊に編
入された。部隊編成の最中にも、大本営は、同年七月下旬にフィリピン、台湾、
南西諸島、日本本土、北方の各地域にわたって捷号作戦と称する決戦準備の命
令を下した。
米軍は、六月一五日沖縄県民多数が移住していたサイパン島に遂に上陸した。
七月七日には日本軍は全滅した。同日、九州・台湾へ南西諸島の老幼婦女子一
万人を疎開させることが閣議決定され、早速翌月実施された。しかし、開始早々
の八月二二日、学童疎開船対馬丸が悪石島近海でアメリカの潜水艦攻撃をうけ
て撃沈し、学童約七〇〇人を含む一五〇〇人余が犠牲となった。
3 一〇・一〇空襲の前後
南西諸島への米軍機は、一九四四年九月頃から特に北谷上空では、空中撮影
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のために頻繁に侵入してきたことが、目撃されている。一〇月一〇日から一三
日にかけて沖縄本島の那覇市を中心に大空襲が行われる以前に、九月末と一〇
月初めに沖大東島への初空襲が、その大々的な空襲の前触れであった。アメリ
カはこのような空襲の下調べをした後、一〇月三日沖縄攻略作戦・アイスバー
グ作戦を決定して、一〇月一〇日朝七時前から午後五時頃まで五波にわたり、
沖縄の県都那覇市を中心に大空襲を実施した。一日で那覇市の九割が焼失し、
市民約五万人が罹災して沖縄本島中北部へ避難した。焼失した戸数は約一万二
千戸であった。この南西諸島への大空襲は、米軍が南方での作戦展開にあたっ
て、「皇土防衛」の前進基地をたたいておくということがその狙いの一つであっ
たと思われる。日本軍の港湾施設を始め、各航空基地を攻撃されて日本軍はほ
とんど無抵抗のまま敵に蹂躪された。その後、九州から日本軍機が追撃して、
台湾沖航空戦を展開した。実際にはそれも日本軍の敗北に終わったが、大本営
発表では日本軍が大戦果をあげたといい、那覇の仇討ちを果たしたと住民を驚
喜させた。
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しかし、日本軍が敵に蹂躪される様子を冷静にみていた人達は、日本の敗戦
を予想して暗澹たる思いに陥った。
近衛文麿の側近だった細川護貞はその日記・一二月一六日に一〇・一〇空襲
後の状況について、日本軍と沖縄県民との関係を詳述している。「昨一五日、
高村氏を内務省に訪問、沖縄視察の話を聞く。沖縄は全島午前七時より午後四
時まで連続空襲せられ、如何なる僻村も皆爆撃、機銃掃射を受けたり。皆民家
の防空壕を占領し、為に島民は入るを得ず、又四時に那覇立退命令出で、二十
五里先の山中に避難を命ぜられたるも、家は焼け食糧はなく、実に惨憺たる有
様にて、今に到るまでそのままなりと。而して焼け残りたる家は軍で徴発し、
島民と雑居し、物は勝手に使用し、婦女子は凌辱せるゝ等、恰も占領地に在る
が如き振舞いにて、軍紀は全く乱れ居れり。我々(第三二軍事参謀長のこと)
は作戦に従ひ戦をするも、島民は邪魔なるを以て、全部山岳地方に退去すべし、
而して軍で面倒を見ること能はざるを以て、自活すべしと広言し、居る由。島
は大半南に人口集まり居り、退去を命ぜられたる地方は未開の地にて自活不可
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能なりと。那覇にても敵に上陸を許し、然る後之を撃つ作戦にて、山に陣地あ
り、竹の戦車等作りありと」(『細川日記』(下)三三六頁中央文庫)。
この細川日記では、日本の上層部の中にも軍の方針を冷やかに分析していた
者もいたことを示している。そして、当時ですら沖縄戦において、軍が戦闘の
邪魔になる老幼婦女子を自活もできない北部山中に退去を命じたこと、また、
日本軍が沖縄県民を占領地の住民視していたことや婦女子への凌辱など赤裸々
に記述していることは注目すべきものである。それは、多くの県民の体験証言
を裏付けるものともなっている。
また、現地自給の方針を持つ沖縄の日本軍は、その兵力不足を補充するため
に、まず、九月から一一月にかけて沖縄現地で現役兵を召集するとともに防衛
召集を実施した。さらに、日本全体としても兵力不足のために、八月末に植民
統治下の台湾に対しても日本の徴兵制を実施し、台湾人も皇軍の一員に加えて
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いった。そして、一〇月中旬には兵役法施行規則を改正し、満一七歳以上の男
子を兵役に編入していった。
4 戦場動員状況
一九四四年一一月、武部隊一個師団が台湾へ抽出された沖縄の日本軍は、作
戦の変更をせざるを得なくなった。つまり、「一木一草戦力化すべし」という
方針のもとに法的裏付けもなしに、足腰のたつ老若男女を戦場動員していくこ
とになった。まず、一二月一日に沖縄各地に「緊急特設挺身隊」を結成させて
いったのもその一環であった。年明け早々、第三二軍は第二次防衛召集を実施
して、満一七歳以上四五歳以下の男子のほとんどが召集されたが、さらに、三
月上旬にも残る男子が召集されていった。また、二月には、県下中等学校男女
生徒の学徒動員が強化され、通信・観測・看護などの特別訓練が授業を完全に
停止した状態で行われた。同時に県下市町村単位の国土防衛義勇隊編成を指示
するとともに、中等学校単位での防衛隊が組織された。
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二月一五日に第三二軍は、「戦闘指針」を軍民に示達した。そして「一機一
艦船一艇一船 一人十殺一戦車」という標語のもとに「軍官民共生共死の一体
化」の方針を徹底化していった。また、陣地構築のための徴用や食糧供出の強
要も、軍刀を抜いて脅迫するなど地上戦闘を目前にして軍民の関係は緊迫度を
増してきた。しかし、一方では米軍の上陸が必至という状況のなかで、三月一
四日、日本軍は住民を総動員して心血を注いで建設させた伊江島飛行場を破壊
するように命じた。また、三月に入るや県立第二高等中学校生の一部が本部半
島に展開していた宇土部隊に編入されたのを皮切りに、そして三月二三日、米
軍の上陸前大空襲が開始され、艦砲射撃も加わった翌日、県立第二高等女学校
生が従軍看護要員として、山部隊に配属され、兵隊とともに行動を共にするこ
とになった。二五日に、県立第一高等女学校生徒は、南風原陸軍病院に従軍看
護要員として配属され、那覇市立商業学校生も鉄血勤皇隊・通信隊を編成して
各部隊に配属されていった。また、二六日は、県立二中・私立開南中学・県立
三中・県立農林学校生徒らが鉄血勤皇隊・通信隊として各部隊へ配属された。
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第三高等女学校生徒も北部の各部隊に看護要員として加わった。二七日に、県
立首里高等女学校生、二八日には私立昭和高等女学校生が看護要員として石部
隊に、さらに同日県立第一中学校生徒が鉄血勤皇隊・通信隊として球部隊に配
属されていった。二九日には、県立工業学校生徒が鉄血勤皇隊として球部隊に、
女子師範学校生が看護要員として南風原陸軍病院に配属された。米軍が沖縄本
島へ上陸した日の前日の三一日、私立積徳女学校生が看護要員として山部隊に、
沖縄師範男子部生徒が鉄血勤皇隊として軍司令部直属として配置された。さら
に、一五歳以上の女子青年らが各部隊に女子救護班、女子炊事班、義勇隊の名
目で弾薬運搬要員として恣意的に動員されていった。
5 戦時行政から戦場行政へ
一九四五年一月一八日、最高戦争指導会議は、「本土決戦」を含めた国民へ
の戦争指導大綱を決定した。そして、政府は「沖縄県防衛強化実施要綱」を決
めて、その具体的実施を進めていった。沖縄の日本軍長参謀長は足腰の立つ男
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女はすべて戦場動員の方針を発表した。そのうえ「戦場に不要な人間は居ては
ゐかぬ」と県外への疎開ができなかった住民を沖縄本島北部に疎開させること
を指示した。米軍がフィリピンのマニラ市内まで進撃して、日本軍の敗北が時
間の問題という状況が差し迫った二月七日、沖縄県は「平時行政」から「戦時
行政」に切り換えることになった。それから三日後の一〇日に沖縄本島中南部
住民の北部方面への疎開が決定された。中南部の各部落ごとに北部の各部落に
疎開先の割当てを行っていた。疎開先の部落では山中に「避難小屋」を建設し
て受入れ体制作りをきちんと実施した地域もあったが、住民の多くは十分な食
糧もないまま、山中に放棄された形になっていった。
ところで、これまで老幼婦女子の北部地域への移動を疎開と記述してきたが、
前記『細川日記』で述べられているとおり、これは自活不可能地域への軍の住
民に対する「退去命令」であった。その結果、米軍上陸後は日本軍の敗残兵と
雑居する形になり、住民はなけなしの食糧を敗残兵に強奪されたり、食糧強奪
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の目的でかれらに殺害されたりした。また、餓死者が多数輩出し、さらにマラ
リアなどによって相当な戦病死者がでた。
三月上旬には、沖縄本島からの老幼婦女子の県外疎開は打ち切られることに
なった。しかし、米軍が上陸しなかった八重山諸島では沖縄本島で熾烈な地上
戦闘が展開している最中の四月から六月にかけても日本軍の作戦によって、離
島間や台湾に向けて住民は空襲の合間をぬって移動した。
米軍の沖縄本島上陸前日、日本軍は上陸後の敵軍の進撃を寸断するために中
部地帯の橋を自ら破壊して、中南部在の老幼婦女子に対する北部疎開の停止命
令を発した。こうして非戦闘員が戦闘に巻き込まれていくことが決定的になっ
た。
三月二五日に沖縄県当局は、首里城地下壕へ移動して戦場行政を開始した。
そして激戦下の四月二七日には、米軍が占領していない地域の南部市町村長と
警察署長会議が、繁多川県庁壕内で緊急に開かれた。そこでは、軍への作戦協
力・食糧増産を指導することを決定した。それに基づいて、県庁は「沖縄県後
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方指導挺身隊」を編成して、各地域ごとに活動を展開することになった。空爆
撃の合間をぬって住民避難壕を尋ねまわり、壕堀りの指導、戦況報告をして戦
意高揚などに努めたが、住民らは戦闘が激化した中ではひたすら逃げ回ること
しかできなかった。
6 国体護持と沖縄戦への突入
一九四五年二月、米軍はフィリピンの日本軍の戦力をほぼ壊滅状態にしていっ
た。次は台湾・南西諸島への作戦に転じるのは目前に迫っていた。そのころ天
皇の側近である近衛文麿元首相は、敗戦必至の状況を天皇に上奏した。「戦局
の見透しにつき考ふるに、最悪なる事態は遺憾ながら最早必至なりと存ぜらる。
以下前提の下に申上ぐ。最悪なる事態に立至ることは我国体の一大瑕瑾たるべ
きも、英米の輿論は今日迄の所未だ国体の変更と迄は進み居らず。随って最悪
なる事態丈なれば国体上はさまで憂ふる要なしと存ず。国体護持の立場より最
も憂ふべきは、最悪なる事態よりも之に伴ふて起ることあるべき共産革命な
り。」「最悪の事態必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込みなき戦争終結の
方途を構ずべきものなりと確信す」と早期の戦争終結を進言している。しかし、
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それに対して天皇は、「もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しいと
思ふ」と応え、それに対して近衛は、「そう云う戦果が挙がれば誠に結構と思
われますが、そう云う時期が御座いませうか」(木戸日記研究会編『木戸幸一
関係文書』一九四五年二月十四日近衛公爵天機奉伺の際時局に関し奉上の要旨)
と述べている。
結局この天皇の方針をうけた形で、三月二〇日に、大本営が「当面の作戦計
画大綱」発令し、沖縄作戦に重点をおくことを決定し、沖縄戦に突入していっ
たのである。
7 米軍の上陸と日米最期の決戦
米軍は、三月二三日に上陸前空襲を開始して、翌日から艦砲射撃も加え、二
六日についに慶良間諸島へ上陸を敢行した。そして、大艦隊の停泊地を確保し
たうえで、四月一日には沖縄本島中部西海岸(渡具知・北谷砂辺方面)に艦船
約一四〇〇隻、一八万三千人の兵員でもって攻略作戦を展開したのである。し
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かも、補給部隊は約五四万人という大部隊であった。それを迎え撃つ日本軍は、
一三歳の中学生徒から七〇代の年配者まで戦場動員まで含めて、約一二万人の
戦力だった。
8 米軍の沖縄本島上陸直前の状況
そして、那覇の西方海上に浮かぶ慶良間諸島には、二六日ついに米軍が上陸
を敢行した。米軍は、艦船約八〇、上陸用舟艇二二隻と空母、駆逐艦を護衛に
つけて上陸作戦を展開したのである。阿嘉・慶留間・座間味島へ空・海から砲
爆撃を加えつつ上陸し、二七日には渡嘉敷島へ同様に上陸を強行した。米軍と
しては、沖縄本島上陸に備えて、長距離砲で本島砲撃と艦隊の投錨地を確保す
ることにあった。ところで、日本軍も敵軍の背後から攻撃する作戦のために慶
良間諸島に海上挺進隊が展開していた。レと称していた特攻艇約三〇〇隻・兵
員約三〇〇人を主体に約六〇〇人の特設水上勤務隊(朝鮮人軍夫)を含む日本
軍は、地元の防衛隊・義勇隊も召集してあった。しかし、米軍の上陸にあたっ
ても、特攻艇は一隻も出撃せずに自ら爆破して、山中にこもって持久作戦を展
開することにした。しかし、座間味、慶留間、渡嘉敷住民の間では、米軍の上
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陸作戦が展開するやすでに日本軍によって準備されていたとおりに、肉親・友
人・知人同士で殺し合ういわゆる「集団自決」が発生した。すなわち、日本軍
は住民にたいして、敵軍が上陸したら自ら死ぬことを強要していたのである。
沖縄戦の惨劇のひとつが沖縄本島上陸以前に起きていたのである。
アメリカ側の戦史、『日米最後の戦闘』(「OKINAWA THE LA
ST BATTLE」・米国陸軍省編/外間正四郎訳・サイマル出版会)によ
ると、米軍の沖縄本島上陸は一九四五年四月一日であり、中部西海岸の渡具知
海岸に午前八時三〇分を期して一斉に上陸を敢行した。総攻撃の後に進撃した
米軍は「沖縄上陸がまったく信じられないほどの容易さで行われた」とか、ま
るでピクニック気分だったと記録されるほど、あっけないものだった。ノルマ
ンディー上陸作戦時などの激戦を予想していたので、日本軍のほとんど無抵抗
に近い対応に拍子抜けしたようである。上陸部隊は、まず嘉手納、読谷飛行場
の占拠が当面の目標だった。上陸した海岸から約一・六キロメートルの距離に
ある嘉手納飛行場は放棄されていることを知り、午前十時半には部隊の先頭部
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分が同飛行場を横断し、午前一一時半までには、別の部隊が読谷飛行場も占領
した。そして、次々兵員が上陸し、上陸した当日の日暮れまでには、米軍機の
不時着用として使用できるよう整備した。
9 沖縄本島中部・首里戦線
日本軍は、一九四四年一一月に武部隊一個師団を台湾へ転出させても、その
補給をできなかった。沖縄本島中部一帯にも敵軍上陸に備えて陣地構築をして
あったが、上陸時点には布陣せず、第三二軍・日本軍司令部は、首里城地下に
設置してあったので、中部に上陸した敵軍が南下してくる場合に備えて、牧港
―嘉数―南上原―和宇慶の線に前哨拠点を設けた。特に嘉数高地には、洞窟・
トンネル・トーチカを連結した、強固な防衛陣地を張りめぐらしていた。その
ため、四月五日にそのラインに達した米軍は、六日目からそのライン前面で日
本軍の本格的な反撃にあって、部隊によっては二〇〇メートルしか進出できな
いほど進撃速度が落ちた。四月八日からそのラインで一進一退の死力を尽くし
た攻防戦が開始された。そのラインを突破されたら、日本軍の司令部が設置さ
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れている首里に南進部隊が肉薄してくるのは時間の問題となるので、日本軍も
肉弾戦法を交えた熾烈な戦闘を展開して、猛反撃を開始した。米軍戦史に「日
本軍は太平洋戦域ではじめての大規模な火力を使用して、全線にわたり恐るべ
き弾幕をはりめぐらしている」と記録されているように、米軍にも相当な出血
を強いたのである。したがって、上勢頭住民が島袋収容所で「戦後生活」を開
始しているとき、トラックに米兵の戦死体を満載して輸送してくるのを目撃し
たし、また、戦死者の埋葬作業に従事させられ、その戦死体のあまりの多さに
日本軍が勝ち戦をしていると誤解したのもこの時期あたりからのことである。
四月九日、嘉数高地の北側正面を攻撃した米軍は、日本軍の機関銃・臼砲な
どの猛攻で死傷・行方不明者三二六人をだしたと記録している。
こうして四月一〇日前後から中部戦線は膠着状態になったので、業を煮やし
た米軍は、中城湾に艦艇を入れて、和宇慶方面で頑強に抵抗している日本軍に
猛烈な艦砲射撃を加えた。だが、米軍としては局面の打開にいたらなかった。
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そしてついに十九日、「太平洋戦争でかつてみたことのない沖縄作戦上最大」
規模の一大集中砲撃を艦砲射撃以外にもロケット弾、ナパーム弾、機銃掃射を
行い、「巨木はさけ、岩はくだけ、山容は改まった」という。そして嘉数高地
に対して、米軍は我如古から中央突破を図るために、戦車三〇輌をくりだした
が、二二輌を失い、「沖縄の一戦闘での損害としては最大のものであった」と
米軍を嘆かすほど、日本軍の反撃は熾烈だった。それは、急造爆雷を抱えて戦
車に体当たり戦法をとるなど、米兵の中には戦闘疲労者(精神病患者)も続出
するような戦闘の常識を超えた日本軍の戦術によるものといえる。しかし、圧
倒的な物量にまさる米軍の猛攻の前に、日本軍の防衛線が各所で崩壊していっ
た。そして嘉数高地もついに四月二四日には、米軍の手に落ちた。日本軍は、
前衛拠点の各陣地を放棄して、首里第二防衛線に後退せざるを得なくなった。
和宇慶高地を占領した米軍は、四月二三日までに中城から西原丘陵へ進出し、
棚原から幸地、運玉森方面にかけて攻撃を開始した。
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10 首里戦線
伊祖―仲間―浦添ユードレ―前田―幸地―運玉森を結ぶラインが、その前衛
を突破された後の防衛ラインだった。四月二六日から息つくまもなく首里第二
防衛ラインの一角の前田で両軍の死闘が展開された。隣接する仲間高台からは、
すでに米軍の陣地化した嘉数に決死の斬り込み隊が、夜襲をかけたりした。伊
祖丘陵でも日本軍が斬り込みで屍の山を築いていた。大平方面で米軍に保護さ
れた住民が、牧港方面に移送される時、夜襲で戦死した日本兵の死体の上をト
ラックが踏みつぶしながら、伊祖を越えて行ったと証言している。
日本軍にとって前田陣地の崩壊は、ただちに首里防衛の主陣地崩壊に連鎖す
るので、日本軍は前田陣地の死守を決意して、猛攻を続ける米軍に総反撃を加
えた。米軍でさえバンザイ突撃を加えたといわれるほどの両軍の間で肉弾戦が
果てしなく続いた。一回の戦闘が三六時間も続いたこともあり、圧倒的に優勢
な米軍でも八〇〇人で攻めたてた一部隊が五月七日に、丘を下りたとき、三二
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四人に減っていたという。結局、この前田の戦闘も米軍にも多大な損害を与え
たが日本軍の敗北に終わった。
このような戦闘が、浦添の港川・城間・伊祖・仲間台上で続いたが、米軍の
猛攻の前に日本兵の屍が累々と横たわるという惨状だった。五月二日頃には、
西海岸沿いに南下してきた米軍は、仲西から小湾方面まで進出して、首里軍司
令部を西方から攻撃する位置まで来た。そして、浦添全村が日本軍の堅固な陣
地と化して、両軍の死闘が各部落を拠点にして展開していた。そして五月一〇
日には、首里北方の大名町に隣接した浦添南外れの沢岻丘陵に米軍が到達した。
その部落西方には、六四旅団本部が設置されており、首里軍司令部の北方最大
の防衛陣地の大名丘陵とともに激戦場となった。日本軍の防御陣地化している
沢岻部落内では、五月一〇〜一三日にかけて両軍が手投弾を投げ合うほどの熾
烈な白兵戦を展開した。日本軍から入手した作戦地図を用いて沢岻全域を占拠
した米軍は、一四日から戦車・自走砲、ダイナマイト、火炎放射機、ナパーム
弾、白燐手投弾など各種の砲火器を用いて、大名丘陵陣地攻略に移った。日本
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軍は大名に密集している亀甲墓や岩穴などを堅固な陣地として利用して、対戦
車、機関銃、臼砲、急造爆雷などをもって防戦につとめた。熾烈な攻防戦が展
開したので、五月二一日ごろに米軍が大名丘陵を攻略したときには、約一〇〇
〇人以上の死傷者、行方不明者を出したという。
一方、この大名と安里(旧真和志村)を結ぶ線の東側に米軍がシュガー・ロー
フと名付けた高地があった。ここは首里軍司令部の西方地域における重要な防
衛陣地だった。日本軍は周辺に迫撃砲陣地などを擁して、徹底抗戦の構えをみ
せていた。五月一二日、米軍は戦車をくりだして攻撃を開始した。しかし、日
本軍の猛攻にあって、大きな被害を出して撤退した。その後、日米両軍が高地
山頂を奪ったり、奪われたりといった争奪戦を数回もくりかえすという大激戦
場となった。一八日には首里軍司令部西の要衝地点も米軍の手におちた。わず
か六日間の戦闘だったが、日米双方に多大な死傷者が続出した。
首里東方戦線は、運玉森、弁が岳と連なる虎頭山丘陵が自然要塞として米軍
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の進撃を阻んでいた。その防衛陣地が崩壊したら一気に首里軍司令部に攻め込
まれる恐れがあったので、そこでの戦闘は、一進一退の激烈な攻防戦を展開し
た。物量を誇る米軍にも相当な被害が出ている。そこで五月一三日以降、米軍
は中城湾の艦船から「百万ドルの山」と形容したほど、艦砲射撃の猛攻を加え、
戦車隊などをくりだして攻め込んだ。米軍の一小隊が全滅状態になるほど、日
本軍は臼砲などで猛烈に反撃していたが、二〇日には、手投弾戦などの肉弾戦
などを展開するまでに肉薄し、二一日ついに運玉森東斜面を完全に制圧して、
いよいよ首里決戦は時間の問題となった。五月二二日、第三二軍首脳陣は首里
決戦を避け、南部南端の摩文仁丘陵に軍司令部を移動させることにした。沖縄
の日本軍は「国体護持」のため、出血持久作戦をとったからである。そこで終
戦工作を有利にするために、米軍にも出血を強いるため時間稼ぎをする必要が
あった。それは、文字通り沖縄を捨て石にした作戦であり、住民を楯にして、
米軍にとっての掃討戦を長引かせることにあった。というのは、首里以南は、
自然洞窟、墓、人工壕を利用して住民の一大避難地帯になっており、そこへ残
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存兵力がなだれ込んできたからである。そして、日本軍は、住民に対して壕か
らの追い出し、食料強奪、陣地漏洩防止のために幼児を毒殺・絞殺・刺殺といっ
た行為、スパイ視殺害行為、友人・知人・肉親同士の殺し合いであるいわゆる
「集団自決」の強要などが相次いで発生した。
日本軍は、五月二五日から南部への撤退を開始して、二七日に牛島満軍司令
官も堅固な首里司令部壕から摩文仁丘陵へ撤退した。それまでは、戦死者の多
くは戦闘員であったが、それ以後一般住民の戦死者の数が増大して、沖縄戦で
は戦闘員よりも非戦闘員の戦死者の数が多いという悲劇が生じたのである。
11 離島戦線
沖縄周辺離島や先島諸島も当然沖縄戦の影響下にあった。沖縄周辺離島は津
堅島、伊江島が激戦場となった。伊平屋島、久高島などにも米軍は上陸したが、
日本軍が布陣していなかったので、そこでは戦闘が展開していない。また、宮
古諸島や八重山諸島には日本軍が本格的に布陣していたが、連合軍は空襲や艦
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砲射撃などを加えたのみで、上陸作戦を展開していない。しかし、先島諸島で
はマラリアが猛威を振るい、住民や兵士の間に、激戦場同様多数の死者がでた。
特に伊江島には、極東一を誇る飛行場を日本軍は建設していた。食糧・人出
不足のなかで住民を最大動員して構築したその飛行場を米軍が上陸必至という
情勢の一九四五年三月、その稼働・維持が困難と判断するや自ら破壊してしまっ
た。島には、沖縄本島北部地域に展開していた第三二軍国頭支隊の分遣隊を中
心にした伊江島地区隊、飛行場大隊、防衛隊の特設警備工兵隊など約二七〇〇
人が守備隊として城山(伊江島タッチュウー)の岩山に地下陣地を構築してい
た。また、住民約三〇〇〇人が島の防衛にかりだされ、武器も持たされて米軍
の攻撃に備えた。沖縄本島中部一帯を制圧して北部もほぼ手中におさめた米軍
は、四月一六日ついに伊江島に猛攻を加え、伊江島飛行場占領作戦を展開した。
中飛行場はすでに日本本土攻撃基地として使用していた時期でもあり、伊江島
飛行場も本土攻撃基地として使用することを企図していた。
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城山陣地を中心とした日米の戦闘は熾烈をきわめ、二一日までの六日間も白
兵戦をまじえた激戦が続いた。住民は防衛隊以外にも女子救護班など、女性ま
でも斬り込み隊に加えられ、多大な犠牲者がでた。また、投降を許さない日本
軍の宣伝教育をうけていたので、洞窟内で住民同士の殺し合いであるいわゆる
「集団自決」によって死に追い込まれていった例もある。この伊江島の戦闘で
は、有名なアメリカの従軍記者アーニーパイルが、戦死したことも戦史に記録
されている。
12 南部戦線
小禄村(現那覇市)、豊見城村両村にまたがって海軍部隊が布陣していた。
第三二軍司令部の南部撤退とともに五月二六日、海軍も南部へ撤退を開始した。
しかし、二八日には元の陣地に引き返した。海軍部隊は武器を扱ったことのな
いような四五歳までの男性をはじめ一五・六歳の少女まで義勇隊として召集し
た根こそぎ動員部隊であり、兵力は約一万人ということだったが、正規兵はそ
の三分の一といわれていた。しかも、機関銃隊一五人に機関銃一丁しかないと
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いう火器不足だった。それで、竹の筒に火薬を詰めたこけおどしの手製爆弾や
線路を溶かして作った戦国時代同様の槍を巌部隊は何本も準備して、近代兵器
に立ち向かおうとしていた。
日本軍司令部が摩文仁に移動した後、六月に入ると豪雨つづきだった雨期も
あがった。米軍としては掃討戦の形で日本軍の残存兵力を怒濤の勢いで壊滅さ
せていった。あらゆる武器を動員して掃討戦を展開していき、とくに日本兵と
洞窟内で雑居していた住民は、馬乗り攻撃にあって、火炎放射器、爆雷、手榴
弾などで多くの犠牲者がでた。また、避難壕を追われた住民は、喜屋武半島方
面においつめられていき、ひしめき合うように彷徨を続けている最中に米軍の
猛攻撃をうけ、死体がいたるところに累々と横たわり、子牛ほどにふくれあがっ
た腐乱死体から死臭があたり一面に漂うという血なまぐさい地獄絵図そのもの
だったという。
六月四日、米軍は小禄海軍飛行場の北側からも上陸を開始して、国場川を越
えてきた部隊と連動して全面的な攻撃を開始した。武装した大型の戦車が攻め
込んでくる時、劣弱な武器しか見たことのない住民にはまるで山が動いてくる
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ようにしかうつらなかった。五日に牛島三二軍司令官は、太田海軍司令官に南
部撤退の命令を下した。しかし、太田司令官は、その命令を拒否した。首里攻
防戦で火器のほとんどを使い果たしていた海軍部隊は、少女にまで急造爆雷を
抱えて敵戦車に向かわせるなど、無謀な斬り込みなどを試みたあげく、一三日
には太田司令官以下幕僚は壕内で自決を遂げたが、その他の海軍壕内でも敵軍
の攻撃にあっても、もはや反撃できない状況に陥った。そこで残存兵士は、女
子義勇隊員や朝鮮人軍夫、住民なども巻き込んで爆雷による自決を遂げていっ
た。
南部戦線といっても、沖縄南部の知念半島に日本軍は布陣していなかったの
で、戦闘中に米軍に保護された一般住民の収容所地帯と化していた。おおかま
にいえば具志頭村港川を境に「三途の川を渡る」と住民は後で気がついて、そ
のように表現している。つまり、その西側の摩文仁から喜屋武半島方面は、住
民と日本軍将兵の屠殺場といった様相を呈していたが、港川から東側で戦闘は
ほとんど展開していなかった。
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南進をつづける米軍が南部戦線で日本軍の激しい抵抗をうけたのが、八重瀬
岳と与座岳であった。八重瀬ー与座岳ラインは、摩文仁岳の三二軍司令部にとっ
て最大の防御陣地であった。米軍は、その後方の具志頭村玻名城一帯に猛攻撃
を加えて、八重瀬ー与座ラインの補給路を絶つ作戦をたてたうえに、火炎放射
戦車、自走砲、無反動砲、戦車など近代兵器を駆使して、六月九日から最大級
の攻撃を開始した。日本軍は夜間斬り込みなどで反撃したが、一四日から一六
日に撃破され、日本軍最後の最強陣地は崩壊したのである。
南部戦線最大の防衛ラインを突破した米軍は、摩文仁丘陵攻略のために東側
から攻め入るために、一七日までに具志頭村仲座から摩文仁丘陵三キロメート
ルまで進撃した。
一方、摩文仁の三二軍司令部を西側から防衛するために喜屋武半島にも敗走
してきた日本軍が布陣していた。そのため米軍は、小禄・豊見城を突破して糸
満方面にも進撃した。六月八日には、糸満―富里―具志頭の線からさらに南下
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する態勢を整えて、一二日には早くも国吉部落に進出し、一八日には糸洲方面
まで進出した。しかし、一八日午後、前線視察中の米軍司令官バックナー中将
が真栄里部落西側の壕内に残存していた日本兵の狙撃にあって戦死するという
事態が発生した。米軍司令官は、日本軍を圧倒しながらも敗走軍の司令官より
も先に戦死したのである。それまで非戦闘員にたいして国際法に則った扱いを
してきた米軍は、この国吉・真栄里周辺に対して戦闘員・非戦闘員の別なく猛
攻撃を加え、報復のため「捕虜」となった住民に対して、男性は子供でも虐殺
するという無差別殺戮を実行した。それ以後の南部戦線において、米兵の住民
への対応が狂暴化して、老婆にたいしても強姦するという状況もみられるよう
になった。六月一八日、喜屋武に布陣していた六二師団本部は、小隊を残して
軍司令部のある摩文仁へ移動して司令部防御に就いた。喜屋武半島の最南端は
喜屋武岬から新崎海岸にいたる断崖絶壁が自然防壁となっており、米軍の侵攻
をさまたげていた。したがって、逃げ場を失った将兵、住民が自然にそこへな
だれ込んできていた。海岸線の岩穴や防潮林のアダンの陰、洞窟、石垣の物陰
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などに将兵と住民が混在して、ひしめいていた。猛暑の中で飲料水や食料も枯
渇して、多かれ少なかれ負傷したうえ、疲労困憊の状態であった。絶望のあま
り、住民同様敵軍への投降を許されない兵士が自決したり、食料強奪のために、
将兵同士でも手榴弾を投げ込んで殺害したり、投降しようとするものを背後か
ら撃つなど日本軍の将兵、住民の修羅場となった。そのうえ、二〇日から二一
日にかけて米軍は艦船からも陸では火炎放射戦車を先頭に総攻撃をかけてきた。
それまでにも昼夜をおかず空爆や艦砲射撃が一帯には撃ち込まれ、焼死体や腐
乱死体が累々と横たわっており、米軍による一方的な大量殺戮の場となってい
た。そこを彷徨っている住民は、ほとんど意識朦朧(もうろう)としたような
状態だった。第三二軍・牛島軍司令官は、六月二三日(二二日の説あり)未明、
自決を遂げたが、一九日には「最後まで敢闘して、天皇のために死ぬように」
という内容の命令を発していた。それで、七月二日に米軍が作戦終了宣言を出
すまでの間だけでも、約一万人近い住民と将兵が戦死した。こうして、「国体
護持」のため終戦工作を有利に導くために、首里決戦を避けて、摩文仁南端へ
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司令部を移動した出血持久作戦は、避難住民を巻き添えにした米軍の掃討戦を
長引かす捨て石作戦でもあり、その結果、戦闘員よりも一般住民の犠牲者がよ
り多く出たのである。
このように、沖縄戦は、「鉄の暴風」となって荒れ狂い、山野の地形まで変
えてしまい、それにもまして甚大な人的、物的犠牲をもたらした。
県民は、五〇年過ぎた今なお、戦争の傷跡を負っているのである。
三 戦後の沖縄
1 沖縄の戦後史は、一九七二年五月の沖縄返還の前後に大きく二分することが
できる。そしてさらに、一九七二年五月以前の二七年の軍事支配の期間は、暫
定的軍事占領の時期と、対日平和条約第三条に基づく支配の時期に大別するこ
とができる。
2 第二次世界大戦末期、日本における唯一の一般住民を巻き込んだ地上戦闘と
しての沖縄戦(一九四五年三月〜六月)の結果、沖縄は二七年にわたって日本
本土から分離され、米軍支配下に置かれることになった。
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沖縄戦の段階から、米軍部は、共通の敵であるナチス・ドイツと日本の敗北
後、同盟国であるソ連を中心とする社会主義圏との対抗関係が生ずることを想
定し、太平洋の要石ともいうべき沖縄を、アメリカが排他的に支配すべきこと
を主張してきた。そうした考えは、最近明らかにされた米軍司令官バックナー
中将の沖縄上陸直後の日記にも記されている。
占領政策のうえで、沖縄を日本本土から分離することを最初に明らかにした
のは、一九四六年一月二九日のGHQ覚書「若干の外郭地域を政治上行政上日
本から分離することに関する覚書」であった。この覚書自体は、占領行政遂行
上の実務的取扱いを決めた暫定的性格のもので、沖縄の最終的地位決定に何ら
かの意味ももつものではなかったが、沖縄戦の終了によってすでに米軍の実質
的占領下に入っていた旧沖縄県ばかりではなく、鹿児島県大島郡をこの段階で
改めて日本から分離したこと、すなわち、一六〇九年の島津の琉球王国侵略以
前の琉球王国の版図を日本から分離したところに大きな意味があった。アメリ
カ保護下の琉球独立をも選択肢として含む沖縄の恒久的分離へ向けての既成事
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実づくりが始まっていたのである。
この覚書が出されたのは、タス通信がヤルタ協定(対日参戦の条件としてソ
連に千島を引き渡す)の存在を明らかにし(一月二七日)、マッカーサーが自
らのスタッフに日本国憲法草案の起草を指示した(二月三日)時期であった。
マッカーサーが、日本国憲法(平和憲法)と沖縄の分離軍事支配の結びつき
を明確に述べるのは、一九四七年六月のことである。このときマッカーサーは、
アメリカ人記者団に対し、「沖縄人は日本人ではないからアメリカの沖縄保持
に対し日本人が反対することはない」、「沖縄を米空軍基地とすることは日本
の安全を保障する」、「ソ連の千島占領によって対日要求が満足されているの
で、アメリカ側の構想に反対しないだろう」と述べている。つまりマッカーサー
にとって、沖縄の分離軍事支配と日本国憲法九条による軍備放棄は一体不可分
の関係にあり、ヤルタ協定による千島諸島の地位を追認することとひきかえに、
沖縄をアメリカが保有することは当然であるとしていた。(この点については、
とくに新崎盛暉「沖縄から見た日本国憲法」『脱北入南の思想を』「沖縄同時
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代史第五巻」、凱風社、一九九三年)
一九四八年から四九年にかけて、アメリカ国家安全保障会議は、沖縄を軍事
要塞として排他的に支配するという軍部の考え方を追認し、米議会は、一九四
九年七月一日に始まる一九五〇会計年度の予算に本格的な沖縄基地建設予算を
計上した。翌五〇年六月朝鮮戦争が勃発し、その影響下で、アメリカの対日講
和構想(対日講和七原則)が具体化する。
敗戦直後の沖縄では、占領米軍を解放軍とみなす戦前の社会主義者たちによ
る独立論、支配者の意向に迎合する事大主義的独立論、教職員など知識層に根
強く残る日本復帰思想などが混在していたが、多くの民衆は、戦争による徹底
的な破壊と荒廃の中で、その日暮らしの生活に追われていた。
しかし、占領軍が新しい支配者としての姿を明瞭にし、基地建設が始まるな
かで明らかにされた対日講和構想によって、日本が独立した後も、沖縄が米軍
支配下にとり残されることがはっきりすると、民衆の政治的動向は急速に日本
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復帰の方向に集約されていった。「平和憲法下への復帰」を求める日本復帰運
動の始まりである。
一九五一年九月の対日講和会議に向けて、圧倒的多数の沖縄民衆は、議会決
議や署名運動によって、日本復帰の明確な意思を日米両政府に伝えた。しかし、
こうした住民の意向は、一顧だにされることなく、対日平和条約が締結され、
その三条によって沖縄は日本から半永久的に分離されることになった。
3 対日平和条約三条は、次のような文言で、アメリカによる沖縄の半永久的支
配を規定している。
「日本国は、北緯二九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)、
孀婦岩の南の南方諸島(小笠原諸島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖
の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこ
ととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提
案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及
び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利
を有するものとする。」。
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対日平和条約が締結された日、同じサンフランシスコで日米安保条約が締結
され、この二条約は翌五二年四月二八日、同時に発効した。その結果アメリカ
は、日本の独立後も、日本全土に軍事基地を維持し続けることが可能になった。
日本の非武装化を前提にして沖縄の分離軍事支配が考えられていた段階とは、
明らかに状況が異っていた。
対日平和条約三条下の在沖米軍基地は、日米安保条約下の在日米軍基地とは、
明確に異なった役割を担わされていた。それは、核兵器の持ち込みや戦闘作戦
行動の自由を保障し、日本、韓国、フィリピン、台湾等の米軍基地の一体化し
た機能を確保するという役割であった。
沖縄では、すべてに軍事政策が優先した。そして軍事優先政策は、当然なが
ら民衆の言論活動や日常生活を著しく制約した。由美子ちゃん事件(米兵によ
る六歳の幼女暴行惨殺事件)に象徴されるような米兵犯罪が頻発し、「銃剣と
ブルドーザーによる土地接収」が行われた。一九五〇年代中頃のほぼ同じ時期
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に起きた東京都砂川町の立川基地拡張問題と沖縄の伊江島・伊佐浜の土地取り
上げを対比させるとき、対日平和条約三条下の沖縄と日米安保条約下の日本本
土との差異がはっきりとする。こうして、米軍と住民の矛盾対立の焦点は軍用
地問題を中心とする基地問題となり、現在にいたっている。
軍用地問題に対する住民側の不満・抵抗に直面した米議会は、住民側の要求
に応えるかたちで、現地調査団を派遣した。この調査団が一九五六年六月、議
会に提出した報告書(プライス勧告)は、一方的に沖縄基地の重要性を強調す
るばかりで、住民側の不満にはほとんど何の考慮もはらわなかった。
プライス勧告の内容が伝えられると同時に、沖縄は、プライス勧告粉砕の声
で沸き返った。島ぐるみ闘争の爆発である。米軍に任命された行政主席も、立
法院議員も総辞職の意思を表明し、米軍政に対する住民側の抵抗組織の形成さ
え意図された。一九九五年九月以降の沖縄の動きを島ぐるみ闘争と呼ぶのは、
四〇年前のこの闘争との類似性においてである。
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結局、島ぐるみ闘争は、アメリカが、一括払い、すなわち、地価相当額の土
地使用料を一度に支払って永代借地権もしくは限定付土地保有権を獲得すると
いう政策を撤回し、軍用地使用料を大幅に引き上げることによって一応の終止
符を打った。
そして、島ぐるみ闘争によって沖縄の民衆は、自らの力に対してある程度の
自信を持った。
また、島ぐるみ闘争は、日本国民にも一定の共感をよびおこし、これ以後沖
縄問題は、日本における政治的争点として存在し続けることになった。
軍用地問題のとりあえずの解決(島ぐるみ闘争の一応の終結)は、一時的、
表面的には沖縄の政治状況を安定させたかにみえたが、軍事支配下での根本的
矛盾は何ら解決されていなかったため、六〇年代に入ると、沖縄の政治状況は、
自治権拡大問題を中心にふたたび流動化し始める。
沖縄における政治状況の流動化を一挙に押し進めたのは、ベトナム戦争の全
面的拡大である。ベトナム内戦へのアメリカの全面介入は、アメリカ本国を含
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む全世界にベトナム反戦運動を惹き起こしたが、ベトナム戦争の最大拠点とさ
れた沖縄もまた例外ではなかった。大衆運動は軍事基地にその矛先を向けるよ
うになった。
やがて、日本政府は、いわゆる沖縄返還交渉に乗り出す。沖縄返還交渉の本
質は、一九六〇年代後半、相対的な力関係が変化しつつあった日米両国が、そ
の軍事的、政治的、経済的役割分担を、日本の役割を増大させるかたちで再調
整するための話し合いであった。日米両政府は、一九六九年一一月の日米首脳
会談で、沖縄の七二年返還に合意した。
沖縄返還は、核付きでもなく、米軍の自由使用を保障するという条件付きで
もなく、「本土並み」返還であることが強調された。
しかし、「核抜き」については、一九九四年五月、沖縄返還交渉に佐藤首相
の密使として活躍した若泉敬氏が、著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文
芸春秋)のなかで、核密約について触れており(この点については、特に『N
HKスペシャル 戦後五〇年その時日本は 第七回沖縄返還日米の密約』一九
九五年一〇月七日放送、など参照。米軍占領下の沖縄戦後史全般については、
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中野好夫・新崎盛暉『沖縄戦後史』岩波新書、一九七六年など参照)、県民に
大きな不安を与えている。
4 日本復帰(沖縄返還)によって、沖縄にも日米安保条約、地位協定及びその
実施に伴う特別法が適用されることになったが、それは決して、沖縄が「本土
並み」になったことを意味しなかった。
沖縄の民衆の求めたものは、米軍基地が「本土並み」に縮小されることであ
り、「平和憲法下への復帰」であったのに対し、現実の七二年沖縄返還は、米
国にそのままの状態で沖縄の基地使用を許したものであった。
日本政府は、復帰を境に米軍用地使用料を協力謝礼金含めて平均約六・五倍
に引上げ、米軍用地提供の賃貸借契約を奨励すると同時に、いわゆる公用地法、
すなわち「沖縄における公用地等の暫定使用に関する法律」を復帰に際しての
法律の一つとして制定し、米軍用地の強制使用を行った。公用地法は、強制使
用対象の土地を明示することもなく一括強制使用しようとするもので、強制使
用に反対する地主から強い反発をかった。
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一方、米軍用地の強制使用と並行しながら日本政府は、米軍基地(施設及び
区域)については、日米合同委員会において、復帰前と変わらない管理・運用
を、いわゆる五・一五メモとして認めた。
沖縄における広大な米軍基地の存在は沖縄返還の決定後今日に至るまで沖縄
の振興開発を著しく阻害している。しかも、その整理縮小は、復帰後二〇余年
にいたる現在も遅々として進んでいない。一方、一九六九年の佐藤・ニクソン
会談における七二年沖縄返還の合意と共に、日本本土の米軍基地の返還が急速
にすすみ、沖縄の復帰と共にこの傾向には拍車がかかった。
復帰以降を比較しても、沖縄の米軍基地返還がわずか一五%だったのに対し、
本土の米軍基地はその約六〇%が、しかも、一九七〇年代中ごろまでに返還さ
れている。つまり、沖縄返還によって、沖縄を含む日本全体の米軍基地の整理・
統合・縮小は、沖縄にその多くをシワ寄せするかたちですすめられたといえる。
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全国の〇・六%の県土面積に、七五%の米軍基地(専用施設)という状態はこ
うして確立されたのである。
要するに、復帰後の沖縄における米軍基地問題の核心は、日米安保条約、地
位協定、その実施に伴う特別措置法等の規制を一切受けることなく事実上の軍
事占領下でつくりあげられてきた米軍基地とその機能を、日米安保条約、地位
協定、その実施に伴う特別措置法等の下で、保護したという点にある。
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第三 沖縄における基地形成史
一 米軍の沖縄占領から対日平和条約発効前の土地接収の実態
1 土地の囲い込み
沖縄における広大な米軍基地は、その大半が、米軍の沖縄占領後に米軍の一
方的な軍事力によって接収されたものである。
米軍は、沖縄上陸(一九四五年三月二六日慶良間列島上陸、同年四月一日沖
縄本島上陸)と同時に「米国軍占領下ノ南西諸島及其近海居住民ニ告グ」と題
する布告第一号(布告を発したニミッツ元帥の名をとりニミッツ布告と呼ばれ
る。)を発して南西諸島の軍政施行を宣言した。
本布告は、一条で「南西諸島及その近海並に其居住民に関する総ての政治及
管轄権並に最高行政責任は占領軍指令長官兼政府総長、米国海軍元帥たる本官
の権能に帰属し本官の監督の下に部下指揮官により行使さる」とし、二条は
「日本帝国政府の総ての行政権の行使を停止する。」と規定し、五条は「爾来、
総ての日本の裁判所の司法権を停止す」としていた。ここに、日本の統治権は
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すべて壊滅し、米国軍司令官の一身に掌握され、軍政府は確固たる地位を築き
あげた。そして、翌四六年一月、連合国軍最高司令官マッカッサー元帥は、日
本政府に覚書を手交し、奄美、沖縄、宮古、八重山の四群島を正式に日本政府
から分離した。
さて、一九四五年四月に沖縄本島に上陸した米軍は、直ちに住民の収容所へ
の収容を開始した。日本軍の組織的戦闘が終了した一九四五年六月二三日頃に
は、難民収容所は全島各地に十数個設けられていた。戦闘が終了した後も、米
軍は治安の維持と称して住民の収容を継続し、その間に米軍は沖縄全島のうち
から基地として必要な土地を好きなだけ囲い込み、基地建設を進めていった。
米軍は、必要な土地を確保した後に不要な土地を住民に返還することになっ
たが、開放に当たって、まず移住許可地域を指定して移動計画を立て、一九四
五年一〇月三一日に各収容所からの移住を開始させた。しかし、すでに故郷が
軍用地として囲い込まれていた土地の住民は、米軍が指定した地域に移動して、
割り当てられた土地で生活しなければならず、故郷へ帰ることは許されなかっ
---------- 改ページ--------67
たのである。
故郷が軍用地として奪われた一例として、北谷村をとりあげてみよう。一九
四五年一〇月末頃から、他の地区の住民が続々と収容所から旧居住地へ移動し
ていく中、唯一北谷村の村民だけは許可がおりなかったが、これは村の大部分
が基地として確保され、その工事の真っ最中だからであった。そして、一九四
七年二月、初めて羽地、久志方面から、第一次の村民移動が開始されたが、村
民の居住を許された地域は、謝苅、桃原の丘陵地帯の辺鄙なところに限られ、
戦前僅かに七〇〜八〇戸しか住めなかった所に一万人の村民が密集したため、
この時既に、村復興の前途に多くの困難と隘路が胚胎していた。しかし当時は、
いずれ不要地は開放されて、自分の集落若しくはその近くに移り住んで落ち着
く事もできるだろうと一縷の望みをかけて、不自由な生活を耐え忍んできたの
であるが、それもはかない夢に終わった。前面にライカム、西方海岸一帯の、
戦前豊沃で有名だった北谷ターブックワ(田圃)から桑江一帯にかけての北谷
桑江の前とその周辺の沃野は跡形もなく消えて、アメリカの近代都市を思わせ
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るような軍事施設が立ち並んでいたのである。さらに、一九四八年九月に嘉手
納飛行場への立入が禁止されたため、北谷村桃原にある村役場から嘉手納区へ
行く道が遮断され、嘉手納村と北谷村に分離されることになった。故郷が基地
のために切り裂かれたのである。
このようにして、米軍が戦時中に軍用地として囲い込んだ土地は、一九四五
年段階で約一八二平方キロメートルと言われ、米軍が不要とした約二〇平方キ
ロメートルはその後住民に開放されたものの、一九五五年段階でも約一六二平
方キロメートルは接収されたままだったのである。この軍用地として接収され
た土地は、沖縄本島、とりわけ中部に集中していたが、その大部分は、農民の
耕作地や宅地であり、耕地面積は激減した。具体的な数字をみてみると、北谷、
嘉手納村では、戦前一戸あたり六・三反の耕地面積が〇・九反に、読谷村では
六・五反が一・九反に、越来村では六・七反が一・二反に、宜野湾村では四・
七反が一・八反に、それぞれ激減し、農民の生活は潰滅的な打撃を受けたので
ある。
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2 米国の沖縄占領政策の変化
第二次大戦中からすでに萌芽を示しつつあった西側陣営と共産圏との間の確
執は、一九四七年頃より表面化し、米国は、一九四七年のトルーマン・ドクト
リン、一九四八年のヴァンデンバーグ決議、一九四九年の北大西洋条約機構の
設立と、一連の共産圏封じ込め政策を実施していった。
そして、一九四九年に中華人民共和国が成立し、日本は中国に代わって米国
の極東戦力の拠点と目されるようになり、一九五〇年六月に勃発した朝鮮戦争
は、沖縄の軍事的価値についての確信を一層強めることとなった。朝鮮戦争の
ため、在日・在沖米軍基地を出撃基地とする極東空軍が朝鮮へ出動した回数は
七二万九八〇回、海兵隊所属戦闘機一〇万七三〇三回、空母発進の海軍機一六
万七五五二回、ナパーム弾・ロケット弾の投下は、海軍が四七万六〇〇〇トン、
海兵隊と海軍機で一二万トンに達したと言われている。
米国は一九五〇年の会計予算に沖縄軍事施設建設費五〇〇〇万ドルを計上し、
---------- 改ページ--------70
一九五〇年一〇月に米国外務省は沖縄の占領継続を発表し、翌年一月には、ア
チソン国務長官が、アメリカのアジア政策に関する演説で「琉球諸島は太平洋
防衛線の一部であり、これを保持しなければならない」と述べた。
そして、沖縄の軍事拠点の重要性が高まるのにつれて、米国は、従来の場当
たり的統治を改めていった。中華人民共和国成立と同時に着任した軍政長官ジョ
ゼフ・R・シーツ少将は、経済復興計画と民主化政策を推進し、住民の不満を
緩和する方策をとった。そして、一九五〇年一二月五日、米極東軍総司令官は、
在琉球米軍司令官に対して、「琉球列島米国民政府に関する指令」(いわゆる
スキャップ指令)を発し、それまでの軍政府を廃し、新たに「琉球列島米国民
政府」を設立する方針を明示した。このスキャップ指令によって、「軍政府」
は「民政府」に、「軍司令官」は「民政副長官」にそれぞれ改称され、さらに
「軍事占領に支障を来さない限り」という制限はあるが、いちおう「言論、集
会等を含む民主主義国家における基本的自由を保障する」との規定が設けられ
た。これは、住民の不満を緩和し、沖縄基地の安定化と恒久化を図ろうとした
---------- 改ページ--------71
ものにほかならなかった。
3 開放地の再接収
この米国の沖縄占領政策の変化に伴い、沖縄における強大な基地建設が進め
られていくこととなった。そのため、農地の開墾(復旧)も一通り終わって生
産意欲も高まってきた農民から、一片の立退通告で土地を取り上げることにな
り、農民の生活は再び破壊され、塗炭の苦しみを味わうこととなった。これを
年代順に略記すれば次のとおりである。
一九四九年一二月二五日 北谷村北谷区移動完了
一九五〇年 五月一八日 浦添村一部農耕禁止
同 年 六月二〇日 真和志村天久、上之屋 立退勧告
同 年 九月一八日 越来村山村の立退
一九五一年 二月一四日 読谷村ボーロ飛行場拡張、立退勧告
同 年 六月 一日 北中城村喜舎場、読谷村楚辺立退勧告
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同 年一〇月 国頭村ラジオ・ビーコン工事開始
同 年一二月 具志川村昆布立退勧告
右のように、新規の接収によって沖縄の基地は拡張の一途をたどっていき、
これを軍用地総面積の推移で見ると、一九五一年には約一二四平方キロメート
ルだったのが、一九五三年には約一七一平方キロメートルと、実に約三七%も
増加しているのである。
この土地接収が住民の生活を圧迫していったことは言うまでもない。既に基
地に膨大な面積を奪われていた沖縄では、土地を接収された住民が他に生活、
生産の拠点となる土地を求めることは困難であった。仮に移住地があったとし
ても、立退に対する補償は微々たるものに過ぎず、到底生活を維持していける
ものではなかった。真和志村を例にとると、家屋の立退料が一万B円(B円一
円が日本円の三円に当たる。)、運搬費が二五〇〇B円程度、墓について立退
料が一〇〇〇ないし二〇〇〇B円、運搬費二七〇〇ないし五〇〇〇B円が支払
われるだけで、要するに、移動そのものが補償されたにすぎなかったのである。
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立退がいかに住民の生活を疲弊させたか、その実態を、読谷村楚辺部落を例
にとって述べてみよう。同集落は、接収、移動によって、耕地面積が激減して
農業就業者は働く場所を失い、農業所得は移動前の二〇%弱にまで減少したの
である。この楚辺集落の状態について、琉球政府経済企画室の報告には、
「(同集落は)移動前に比較して収入は減退し、極端なる生活の切り詰めをし
てもなお赤字を生む状態であり、当集落の今後が憂慮され、土地の接収は之等
農民にとって致命的な問題である」と記されている。
米軍は住民から単に土地を取り上げたのではない。人間らしい生活そのもの
を奪いとったのである。
4 対日平和条約前の接収の違法性
米国はこれらの土地接収の法的根拠として「陸戦ノ法規ノ慣例ニ関スル条約
(いわゆるヘーグ陸戦法規)三節五二条を挙げていた(後で詳述する布令二〇
号に明記されている。第三、二、7)。
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ヘーグ陸戦法規五二条は、「現品徴発・・・ハ占領軍ノ需要ノ為ニスルニ非
サレハ・・・住民ニ対シテ之ヲ要求スルコトヲ得ス・・・徴発ハ・・地方ノ資
力に相応シ(タ)・・・モノタルコトヲ要ス」、「現品ノ供給ニ対シテハ成ル
ヘク即金ニテ支払ヒ然ラサレハ領収証ヲ以テ之ヲ証明スヘク且成ルへク速ニ之
ニ対スル金額ノ支払ヲ履行スヘキモノトス」と定めている。しかし、右条項は、
動産の徴発を許したものにすぎず、この条項によって土地を徴発することは許
されていない。「現品」という言葉の文理解釈だけからそうなるのではなく、
「占領軍の必要のため」という要件からも明らかである。すなわち、現品の徴
発は、占領軍の必要のためであることが第一の要件であるが、これは占領軍が
日常生活維持のために絶対に必要とする品物と原料、例えば食糧、衣服、靴、
医療品、馬糧などに限られるのである。すなわち土地の占拠、接収は、占領軍
の日常生活の維持にとって絶対必要なものではなく、したがって徴発すること
はできないのである。
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さらに、現品の徴発といえども、占領の目的を越えてなすことは国際法上許
されていない。へーグ陸戦法規二三条は、「特ニ禁止スルモノ」として、「戦
争ノ必要上万己ムヲ得サル場合ヲ除クノ外敵ノ財産ヲ破壊シ又ハ押収スルコト」
をあげている。米軍の沖縄占領は、対日戦争のためであったことは明白である
が、米軍による土地の占拠、接収は、戦争が事実上終了し、沖縄本島全域を制
圧したのちに行われたものであるがこれは明らかに戦争の必要性、占領の目的
および占領の一時性・暫定性をはるかに越えるものであり、ヘーグ陸戦法規に
明白に反するものである。
このように、対日平和条約発効前の米軍の軍用地取得には何ら法的根拠はな
かったのである。
二 対日平和条約の発効から沖縄返還までの基地形成
1 対日平和条約発効
冷戦が激化していくなか、米国は日本に対して、米軍基地の維持強化と日本
の再軍備を要求するようになり、朝鮮戦争を契機に対日講和会議が日程にのぼ
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るようになった。これは、占領を終結させ、日本を米国の極東戦略を積極的に
支持できるような独立国にするためであった。
ところが、沖縄については、一九五〇年一一月二四日に米国国務省が発効し
た「対日講和七原則」のなかで、「合衆国を施政者とする琉球諸島および小笠
原諸島の国際連合信託統治に同意」するとして、沖縄を日本本土から切り離す
方針を打ち出した。これは、朝鮮戦争において、その軍事的価値を実証した沖
縄を、今後も米軍が自由に使用するためであった。
対日講和七原則が発表されると、沖縄県民は即座に反発しはじめた。
一九五一年四月に日本復帰期成会が結成され、僅か三カ月の間に全有権者の
七二・一パーセントに当たる一九万九〇〇〇人の即時復帰の署名が集められた。
また、沖縄群島議会では日本復帰の要請を決議し、サンフランシスコ講和会議
の直前に吉田茂全権に日本復帰要請の電報を打った。しかし、一九五一年九月
八日、サンフランシスコにおいて「日本国との平和条約」(対日平和条約)が
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締結され、同条約三条によって、沖縄は日本から分断され、米国の施政権下に
おかれた。日米両政府は、日本復帰を願う沖縄の民衆の意思を踏みにじり、沖
縄を切り捨てたのである。対日平和条約の発効した日、四月二八日は、以後沖
縄では「屈辱の日」と呼ばれるようになった。
2 低廉な地料による長期賃貸借契約の失敗
米軍は、講和前の基地使用について、「ヘーグ陸戦法規」を口実にしていた
が、対日平和条約発効と同時に占領状態は終了するため、その後の米軍の基地
使用の口実がなくなることとなった。そのため、米軍は、講和条約三条によっ
て米国に与えられた沖縄に対する「施政権」に基づき、土地収用、使用に関す
る布告、布令を発することによって、既接収の土地の利用権の確保及び新規土
地接収を正当化し、実力による土地の利用を継続し、かつ新規の土地の強制接
収を行っていった。
まず対日平和条約発効直後の一九五二年四月三〇日、極東軍事総司令部は
「指令」を発し、米民政副長官は米軍の必要とする財産を「できるだけ談合の
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うえ」購入することが望ましいとしながら、もしこれができないときは「収用
手続をとること」ができ、場合によっては、購入をなすまでの間これを「強制
的に徴発したり、借用することができる」とし、土地の有償取得の方針を明ら
かにした。しかし、同年五月一五日に米国民政府が明らかにした賃貸借契約書
の内容は、賃貸借期間が二〇年間もの長期にわたり、軍用地料も、坪あたり一
円八銭(B円)という低額であったため、軍用地主は失望落胆し、一般住民も
強いショックを受けた。ちなみに、当時の清涼飲料水(コーラ・ジュースなど)
一本の値段が一〇円(B円)であり、坪あたりの軍用地料は実に「コーラ五分
の一」の値段にすぎなかったのである。
米国民政府は、住民の反対にもかかわらず、既定方針を押し通す形で、同年
一一月一日、布令九一号「契約権」を公布した。同布令は、行政主席が土地賃
貸借を締結する権限と職務を有し、土地所有者と右行政主席が土地賃貸借契約
を締結すれば、自動的に米国政府に転貸されるというものであった。しかし、
この布令の公布は、住民の怒りを一層増大させる結果となり、結局、契約がで
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きたのは、僅か二パーセント程度であり、契約による軍用地の取得は失敗に終
わった。
3 銃剣とブルドーザーによる土地強奪
(一)布令一〇九号「土地収用令」の公布
布令九一号による契約に失敗した米軍は、次に布令一〇九号「土地収用令」
を公布し、収用告知後三〇日以内に、土地所有者は米軍に譲渡するか否かを
決断しなければ、使用料に関する訴願をした場合を除き、収用告知後三〇日
の経過により収用宣言が発せられ、土地に関する権利は米国に帰属するとし
た。そして右期間中であっても必要があれば直ちに立ち退き命令を発するこ
とができるとした。
この布令一〇九号に基づく土地接収は、米軍の武装兵を動員し、住民を強
制的に排除していくという講和前にも例がないものであった。以下、米軍に
よる土地収用がどれほど暴力的な酷いものであったか、各地の事例を具体的
に見ていくこととする。
(二)真和志村の例
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一九五二年一〇月一六日、真和志村(現那覇市)の銘苅、安謝、平野、岡
野の四集落に対し、米民政府は、同年一二月一〇日までに明け渡せ、という
収用通告を発した。土地の収用通告を受けたこれら四集落は極めて深刻な事
態となり、地域の代表五人が立法院に対し窮状を訴えた。また、銘苅集落は
二一名の連署で立法院に「祖先伝来の現在地を永遠の安住地としたい。やむ
なく立ち退くなら、生活の根拠たる耕作地を他に求める経費を償い、かつ、
生活に不安なからしめるよう温かい措置をとられることを悲願する。」と陳
情した。
立法院では、この収用通告は、講和後初めてのケースであったことから、
このような強制収用権はないと主張し、当時の琉球政府の法務局長も「この
通告は別に強制的なものではない」という見解を明らかにしていた。
ところが米国民政府は、一九五三年四月三日突如として布令一〇九号を発
し、四月一〇日これに基づいて右土地に対し収用通告を出した。この通告が
同日村当局に到達しただけで、未だ土地所有者には到達していない翌一一日
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の早朝、米軍武装兵に守られたブルドーザーがやってきて、収用予定地内の
農地を次々と破壊していった。
立法院では同年四月二〇日、関係者を集めて事情聴取を行い、同年五月五
日には、「アメリカ民政府の不当なる土地買い上げの措置は、世界人権宣言
及び国連憲章に明記された基本的人権を擁護すべしとの趣旨にもとるので、
1布令九一号、一〇五号、一〇九号、一一〇号を廃止すること 2住民の意
思に反する土地取り上げの強権発動をしないこと 3速やかに適正妥当な賠
償をすることを院の決議により要請する。」として、全会一致でその要請決
議文を採択し、民政副長官に手渡した。
しかし、米軍の暴力的土地接収は、その後も次々と強行され、一九五五年
の伊佐浜、伊江村の土地強奪へと続いていった。
(三)宜野湾市伊佐浜集落の例
一九五四年七月八日、宜野湾村伊佐浜集落の水田に対して、米軍から農耕
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禁止の通告がなされた。この農耕禁止通告の理由は、水田に蚊が発生し脳炎
を媒介する恐れがあるというものであった。しかし、単に蚊が発生するとい
うだけで農耕禁止とすることには疑問が残ったことから、立法院が米国民政
府に真意を打診したところ、米国民政府はこれに対し、「土地収用計画はな
い。衛生的理由のみであるから、水田を埋めて畑にすれば農耕を許可しても
よい。」と言明した。住民は、極力蚊の発生の防除に努めるから植え付け禁
止を解除してほしい旨陳情し、また琉球政府も行政指導に努める旨の意見書
を提出していた。
ところが、米国民政府は右の言明にかかわらず、しばらく後に立退通告の
書簡を送ってきた。米民政府の立退勧告の理由は、伊佐浜集落地域はマスター
プラン地域であり米軍の基地建設にとって必要であるというものであった。
この「マスタープラン地域」とは、米軍が基地建設を計画して軍用地として
留保している地域のことらしく、外観上は何ら他の私有地と異ならないが、
実際には農民に土地を返還したわけではなく、単に農民の耕作を黙認してい
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るにすぎないということのようである。しかし、このマスタープラン地域と
称するものは、その場所も範囲も予め住民に公表されておらず、米軍がある
地域から立ち退きを要求するに当たって、一方的に宣言しているものにすぎ
なかった。これは、反対の多い布令一〇九条の適用を避け、しかも容易に土
地を接収するための口実にすぎなかった。住民および立法院は米民政府に対
し陳情運動を続けたが、米民政府は右理由を楯にまったく聞き入れなかった。
住民らの陳情運動が続けられているうちに、米軍の示した立退期間が経過
した。そしてその九月九日朝、米軍地区工兵隊のブルドーザーが接収予定地
に現れ、いきなり地均しを開始した。驚いた住民が工事を中止させたが、こ
のため区長がMP(憲兵隊)に逮捕されるという事態が発生した。
その後、土地収用を巡り軍民が対峠した中で、一九五五年三月一一日伊佐
浜の一部地域について武力による強制接収が執行され、これを停止しようと
農地に座り込んだ農民が武装したMPによって排除されるという衝突があっ
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た。折しもこの日は、伊江島においても接収予定地に杭打ちが始まっており、
これらの米軍の武力による接収に対して、全島各地で抗議集会が開かれ、米
軍の赤裸々な暴力に激しい非難が浴びせられたのであった。
同年七月一一日、期限を同月一八日までとする立退の最後通告がなされた。
集落農民は右通告には応じないという方針を再確認し、その日を迎えた。こ
の日は、早朝から強制収用を憂慮した者が各地から集まり、数百名に達した。
これらの人々は、伊佐浜の農民を中心に大会を開き、「土地を守る会」を結
成し、支援態勢を強化することを申し合わせたのである。
強制接収が予定された同月一八日には、伊佐浜に朝早くから幾百、幾千と
いう人々が沖縄中から駆けつけ、昼すぎには、万をもって数える人々が集ま
り、米軍はついに姿を見せなかった。ところが、強制収用は、支援の人々が
家に帰って、地元の農民のほかは、二、三〇〇人しか泊り込んでいない深夜
に始まった。深夜の間に、武装兵を満載したトラックとブルドーザーがライ
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トを消して、徐行しながら集まり、空が白みかけるころには、一三万坪の田
園地帯は米軍の武装兵で包囲されていたのである。武装兵は、付近の交通を
遮断し、厳戒態勢のうちに伊佐浜集落の建物の取り壊しを開始した。こうし
て、何の法的根拠も収用手続もないまま、伊佐浜の集落と農地は敷きならさ
れたのであった。
家を取り壊されて強制立ち退きをさせられた農民は、しばらくは近くの小
学校の校舎に収容されていたが、その後間もなく、十数キロ離れた土地に移
住したが、そこは立退前の六万三〇三七平方メートルに対して二万三四六七
平方メートルと面積が激減していたのみならず、農業もできない荒蕪地だっ
たのである。そして、二年後には、多くの農民が生計を立てる道を失い、南
米へと移住していった。
(四)伊江村の例
一九五三年七月一五日、伊江村に米民政府土地係が訪れ、同村真謝、西崎
の土地に半径三、〇〇〇フィートの地上標的を作るから農地を明け渡せと通
告した。この接収にかかる面積は二四万七〇〇〇平方メートル、両集落の農
地が含まれていた。
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村長は、この通告を受け、接収の中止を陳情するために那覇へ出掛けていっ
た。その留守中に、米軍は右土地の物件をことごとく調べ上げ、「調査が完
了したという証拠を上官に提出するため」と称して農民に署名を求めた。と
ころが、この書類が実は「立退同意書」だったのである。
一九五四年六月二〇日、米軍は工事に着手し、圏内の四戸を立ち退かせた。
この射撃場の工事が終わると、早速空軍の爆撃演習が始まり林野に火災が発
生したり、農作物が被害を受けることが多くなり、農民は食糧難に苦しめら
れることとなった。ところが更に同年八月二七日には米軍係官数名が村役場
を訪れ、射撃場の拡張を通告してきた。この拡張予定地には真謝区七八戸、
西崎区七四戸が含まれていた。農民は、先の四戸の立ち退きで、いかに農民
の生活が破壊されるかを目の当たりにしていたことから、立ち退きには絶対
反対の態度を示した。米軍は、補償等の種々の問題は、立ち退き後に解決す
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る、まず立ち退いてくれ、というばかりであり、軍民間の折衝は行き詰まっ
たのである。
一九五五年三月一〇日、米軍から最後通告がなされ、翌一一日、米軍の工
兵隊が伊江島に上陸し、演習予定地に強行に杭を打ち始めた。農民は中止を
嘆願したが、米兵によって一人一人隔離され、身動きもできず、この中で、
米兵に対し身振り手振りで嘆願した老農夫が逮捕され、軍事裁判にかけるた
め連れ去られるという異常な事態であった。
それから二日後の早朝、米軍の工兵隊は武装した憲兵隊に守られて真謝集
落に到着し、同集落の一三戸に対して取り壊し作業を開始し、ブルドーザー
で家屋や飲料水用貯水タンクを次々と破壊していったのである。土地を奪わ
れた同集落の農民に対して、琉球政府は生活保護の支給をしたが、「軍用地
内の農耕を許されているから」という理由で、同年五月一日以降の支給を打
ち切った。しかし、その農耕許可というのは、週二日、土曜日の半日と日曜
日についてしか与えられておらず、しかも実際には土曜、日曜も演習があっ
てほとんど農耕はできなかったのである。
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こうして、少ないながらも支給されていた生活保護が打ち切られた農民は、
生きるために、立ち入り禁止区域に入り、爆撃演習下での農耕を開始した。
これに対して米軍は、同年六月一三日、立入耕作者八〇数名を逮捕し、その
中から三六名に弁護人なしで即決軍事裁判を行い、懲役三か月執行猶予一年
の判決を言渡し、その後の逮捕者には実刑も言渡した。
自分の田畑から閉めだされた農民は、仕方なく有毒である野生のソテツの
澱粉を主食に、芋かす、澱粉粥などで命をつないでいたが、とうとう栄養失
調で二人の主婦が死亡した。同年六月二〇日、夫の釈放陳情から帰ってきた
直後、妊娠八か月の三〇才の主婦が、四人の子どもを残して死亡し、その六
か月後の一二月一五日には、四三才の主婦が六人の子どもを残して死亡した
が、死因はいずれも栄養失調と過労であった。同年六月二五日に名護保健所
の所長が派遣されて住民を診断した結果、真謝区民の八〇%が栄養失調、皮
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膚病その他の異常ありと診断されている。
多くの逮捕者を出しても耕作をやめようとしない農民に対し、米軍は監視
を強化し、演習場付近に現れる農民に片端から威嚇射撃を行い、さらには、
同年七月一二日から三日間、米軍は耕作をやめさせるため、真謝区民の土地
三五万坪にガソリンをまいて、農作物、樹木を焼き尽くした。
那覇市の行政府ビル前で陳情を行っていた陳情者は、生きるため、また世
間に実情を訴えるため、全島行脚を計画し、地元に次の連絡書簡を送った。
「『われわれは、生きるための方法について慎重に協議を重ねました。
イ 自分の畑を強行に耕作すれば殺される。
ロ 泥棒、これは容易なことだが、学生や子供は刑務所に収容してくれない
となれば、これも不可能なことである。泥棒しては、全家族が生きられる
道ではない。
ハ 乞食(乞食托鉢)、これも自分らの恥であり、全住民の恥だ。しかし、
---------- 改ページ--------90
自分らの恥より、われわれの家を焼き土地を取り上げ、生活補償をなさず、
失業させ、飢えさせ、ついに死ぬに死ねず乞食にまで陥れた国や非人間的
行為こそ大きい恥だという結論に至りました。乞食になったのではなく、
武力によって乞食を強いられているのであります。
全住民の皆様。われわれは生きるため、今では最善の道であることを信じ
て取った道であります。これを諒とされ御寛容下されんことをお願い申し
上げます。
一九五五年七月二〇日 伊江島真謝地区地主』」
そして、これを受け取った地元では、翌日に真謝区民大会を開き、全員が
一体となって、乞食姿で全島行脚をすることを決定した。伊江村内はもとよ
り、南は糸満、北は国頭村の各字まで沖縄本島を縦断する乞食行進が開始さ
れ、翌一九五六年二月ごろまで続けられた。
その後、島へ帰った農民は、演習場内へ立ち入っての耕作を続けたが、米
軍は、一九五七年七月にガソリンを散布して演習場内の耕地、林野を徹底し
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て焼き払い、その後も一年置きに徹底した焼き払いを行った。耕作地を焼き
払われた農民は、今度は弾丸拾いのために演習場に立ち入ったが、一九五九
年九月には二人の青年が爆死し、一九六六年二月には、演習場外で一人の青
年が射殺された。
(五)以上のように、現在の在沖米軍基地の基礎となる軍用地は、武装した兵隊
によって反対する住民・農民を実力で排除し、強引にブルドーザーによって
家屋・耕作地を押しつぶすことによって、強奪されていったものなのである。
そして、この武力による土地強奪に対する怒りが、島ぐるみ闘争への導火線
となっていったのである。
4 島ぐるみ闘争
(一)一九五三年一二月五日、米国民政府は布告二六号「軍用地域内における不
動産の使用に対する補償」を公布した。この布告は、使用している軍用地の
保有を「黙契」によって合法化することを狙いとしたものであった。すなわ
ち、先に述べたように、米軍は布令九一号「契約権」による地主との賃貸借
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に失敗し、布令一〇九号「土地収用令」も新規接収にのみ適用され、したがっ
て、新規接収前の軍用地は、何らの法的根拠もなく不法使用されていたので
ある。この布告の内容は、要旨次のとおりである。米国は、当該土地が収用
された一九五〇年七月一日及び翌日から、「黙契」により借地権を取得した。
この米国の土地を保有する権利は、何ものによっても永久に害されない。米
国は自らこの権利を登記する権限を与えられる。土地所有者は、賃借料に不
服があれば琉球列島米国土地収用委員会に訴願できる。同委員会の裁定は最
終的であり、永久に双方を拘束する。
この布告が土地所有者と米国との間で土地の使用について「黙契」ができ
たという一九五〇年七月一日は、沖縄の軍用地使用料の算定の始期と一致す
る。つまり、土地所有者は過去の軍用地使用料を受領したから、「黙契」に
より土地賃貸借契約が成立したという論理である。この論理についての批判
は後で述べるが、この布告によって、米軍は講和後の土地使用の法的根拠を
作り上げようとしたのである。
---------- 改ページ--------93
住民側の闘争手段は、低廉な地料の引上げだけが残されたものとなり、同
布告に基づく訴願は、地主の九八パーセントに達した。
(二)軍用地主が訴願手続を進めているなか、一九五四年三月、毎年、賃借料を
支払う代わりに、土地代金に相当する額を一括して支払う方が得策であると
の観点から、オグデン民政府副長官は、軍用地料の「一括払い計画」を発表
した。当時、米軍は一年間の借地料として、地価見積価格の六パーセントを
支払っていたので、一括払いというのは、地価相当額を支払い、永代借地権
を取得しようというのが 米軍の意図であった。また、五か年以上の長期に
わたって使用が見込まれる土地は、全て一括払いを適用し、土地を失った地
主は八重山群島に入植させようという構想であった。当時、住民が要求して
いた軍用地料の総額は、八二三万三一七八ドルであったが、米国側が提示し
た一括支払額は一七〇〇万ドルであり、住民の要求額の二年分で永久使用権
を取得しようとするものであった。
このような米国側の軍用地料一括支払という方法による土地取り上げ計画
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は、軍用地主だけでなく、沖縄社会全体に大きな衝撃を与えた。
問題を重視した立法院は、翌四月「軍用地処理に関する請願」を全会一致
で決議したが、その中には、やがて「土地を守る四原則」と呼ばれるように
なる「一括払反対、適正補償、損害賠償、新規接収反対」という考え方が示
されていた。
立法院が採択した四原則は次のとおりである。
(1) アメリカ合衆国政府による土地の買上げまたは永久使用、地料の一括払
いは絶対に行わないこと。
(2) 現在使用中の土地については、適正にして完全な補償がなされること。
使用料の決定は住民の合理的算定に基づく要求額に基づいてなされ、かつ、
評価および支払いは、一年毎にされなければならないこと。
(3) アメリカ合衆国軍隊が加えた一切の損害については、住民の要求する適
正賠償額をすみやかに支払うこと。
(4) 現在アメリカ合衆国軍隊の占有する土地で不要な土地は、早急に開放し、
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かつ新たな土地の接収は絶対に避けること。
この四原則は、当事者である軍用地主をこえた沖縄側の統一要求となった。
四原則決議と同時に、行政府(琉球政府)、立法院、市町村長会及び市町村
土地特別委員会連合会(土地連)の四者は、四者協議会を結成(同年六月に
市町村議会議長会が加入して五者協議会となる。)し、現地米軍と折衝をか
さね、一括払計画の中止を訴え続けた。
このような沖縄側の動きに対して、米軍は、統治権を行使する間、公共の
ために必要とされるならば、いかなる私有地をも取得するのが米国の基本方
針であり、この方針の変更は、現地米軍の権限の範囲外であるとした。この
ため、琉球政府は、住民代表をワシントンに派遣して根本的な土地問題解決
の要請をさせてもらいたい、と米民政府に要望していたが、一九五五年五月、
その要請が認められ、米国政府から招請状が届いた。
同月二六日、六名からなる住民代表団が渡米し、六月八日、米下院軍事委
---------- 改ページ--------96
員会で意見を述べ、審議の結果、「(1) 買い上げ一括払い中止、従来通りの
支払継続 (2) 土地問題につき調査と勧告をすべく今秋に議会より調査団を
派遣する (3) 海兵隊の必要とする土地は無理のない程度に取りあえず確保
する」という三事項が決定され、一括払い政策は一応その決定を延期される
に至った。
これに基づき、米下院軍事委員会は、沖縄に調査団を派遣し、沖縄の軍用
地問題について全般的な検討を始めることになった。
ところで、当時の沖縄における対米関係は、新規接収問題でひどく悪化し
ていた。同年、前述の伊江村、伊佐浜の強制収用がなされ、さらに、同年七
月二二日、国頭、東、久志、宜野座等八か村の村長が米民政府に呼ばれ、海
兵隊用地として国頭一帯の山林を接収するとの通知が申し渡されたのを始め、
各地に接収または測量調査通知が相次いでなされた。同年八月一八日には、
布令一〇九号「土地収用令」の一部が改正されて「強制測量」の条項が加え
られ、土地接収に利用された。
---------- 改ページ--------97
次々に強行される土地接収に怒った住民は、同年九月一〇日、那覇高校
校庭で二万人が参加した住民大会を開き、新規接収反対を強く訴えた。
同年一〇月二三日、メルヴィン・プライス議員を団長とする調査団(プラ
イス調査団)が沖縄に到着し、三日間の調査を行い、翌一九五六年六月、同
調査の結果をまとめた、いわゆる「プライス勧告」が発表された。同勧告は、
沖縄の自由使用がいかに米国にとってこのうえなく便利であるかを説き
(「ここでは、わが国の原子兵器(核兵器)の貯蔵又は使用権限に対し外国
政府による制限はない」)、前進基地、補給基地としての沖縄の重要性を強
調して、沖縄の長期保有の必要性を再確認したうえで、沖縄統治について軍
事優先政策がとられることはやむを得ないとの前提に立ち、その中で、一括
払い問題については「無期限に使用する必要のある土地については永代借地
権を取得すること。これに対する補償は一括が望ましい」とし、また新規接
収については、「米軍による追加的土地接収は必要最小限にとどめること」
と勧告している。要するに同勧告は、多少の譲歩は認めたけれども、他方一
---------- 改ページ--------98
括払いの妥当性を確認するとともに、新規土地接収の必要性を肯定したもの
で、住民の要求を踏みにじる内容のものであった。
プライス勧告が発表されるや全島住民は激怒し、同日夕方には、真喜屋実
男法務局長が「米国に信用がおけなくなった。軍用地主管局長としてこれ以
上責任を負えない。」と辞表を提出した。
同月一五日、四者協議会(立法院、行政府、市町村長会、土地連)は、勧
告阻止を出来なかった場合には総辞職することを表明し、同月一八日には次
の基本方針を決定した。
(1) 我らは組織的団結をもって秩序ある行動をするとともに、落伍者の汚名
を着るものの絶無を期す。
(2) 我らは個々の利害を超越し民族的意識にたって土地を守り、領土権を守
るという正義にたつこの確信をもって、何ものもおそれず勇敢に進む。
(3) 民族を守る堅い決意で世界の人が是認するであろう正義を武器とし、一
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切の暴力的武器をとることを否定する。米国が万一、実力を行使すること
があっても無抵抗の抵抗をもって力に抵抗する。
(4) 米国の方針と闘っているのであって、在留する米人と闘っているのでは
ない。個人としての米人の人格人権はこれを充分に尊重しなければならな
い。
(5) 自主的に治安を維持し、いささかも社会を不安に陥れることをしてはな
らず、一切の犯罪をなくすことに努める。
(6) 上司たる責任者が欠けても自治行政の機能は停止することなく、必要に
応じて行政運営の妙を発揮し、住民の自治能力を示す。
(7) 四原則貫徹のために困難が伴うことを覚悟するとともに、住民とともに
住民の運命をひらくときが近づいたことを確信し、当面の困難を克服して
いく。
同日午後には、市町村長会、土地連、教職員会等一七団体が参加して、土
地問題に関する各種団体の連絡協議会も開かれ、「プライス勧告反対の住民
大会を各市町村単位で来る二〇日開催し、これを契機として、さらに地区大
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会、中央大会に盛りあげていく。」という方針を決定した。翌一九日には、
琉大学生会、中労委、傷痍軍人会もそれぞれの大会をもってプライス勧告反
対を表明した。
六月二〇日、第一回住民大会が予定通り各市町村単位で行われ、三〇万人
余の住民が参加して、住民無視の土地政策だと怒りを爆発させ、その熱気の
中で四原則を決議、団結を誓いあった。同月二五日には、中央の住民大会が
那覇高校とコザ諸見小学校で開催され、那覇には一〇万人余、コザには五万
人余の参加者が集まった。こうして全島各地の「島ぐるみ闘争」が展開され
ていき、七月二八日、「四原則貫徹県民総決起大会」が那覇高校校庭で開か
れ、一五万人もの大衆で会場が埋め尽くされたのである。
住民の「島ぐるみ闘争」に対し、米国民政府は弾圧策を強行してきた。ま
ず、同年六月二八日に「琉球政府当局が総辞職すれば、米国民政府による直
接統治も辞さず」と警告を発した。同年八月六日には、中部地区一帯へのオ
フリミッツ(米軍人・軍属の民間地域への立入禁止)を三軍共同の声明とし
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て発表、外国人相手の営業の多い中部地区住民を不安に陥れ、「島ぐるみ闘
争」に大きな影響を与えた。さらに、同月九日には、琉球大学に援助を打ち
切ると通告してきたが、その理由として、反米デモに参加した学生が「ヤン
キー・ゴー・ホーム」と叫んだこと、及び共産主義者を本土に派遣するため
に資金カンパを行ったことなどを挙げていた。しかし、学生らは、あらかじ
め学校当局から許可を得てデモに参加したもので、学則上の問題はなかった。
ところが、琉大は学生六人を退学処分にし、米国民政府に陳謝するという形
で事態を収拾し、学外にも大きな反響を呼んだ。
こうして、米国政府は、一括払いを強行する方針を変えず、ついに一九五
七年二月二三日布令一六四号を公布して、「限定付土地保有権」なる「権利」
を設定して「地価相当額」の賃料の一括払いを実施した。同布令によって、
同年五月四日那覇軍港一帯の二五万坪の土地、一九五八年一月二四日嘉手納
空軍基地一帯の二〇〇万坪の土地、一月二九日読谷、恩納、金武、具志川、
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石川、勝連、与那城、宜野湾、知念、玉城、佐敷、三和、東風平、具志頭の、
一四ヶ町村のナイキ基地地域の各土地にそれぞれ「限定付土地保有」の収用
宣言が発せられた。こうして、布令一六四号が公布されてから一九五八年三
月末日までの約一年間で、一〇一五万平方メートルが新規に接収されていっ
た。
この布令で、軍用地を確保した米軍当局にとっての次の課題は、これから
の基地建設の大工事を如何に支障なく進めるかであった。一九五八年四月の
立法院本会議に臨んだムーアー高等弁務官は、「土地接収計画については現
在ワシントン政府当局で再検討されている」旨のメッセージを発表し、つづ
いて同日、立法院議長室で琉球政府首脳に対し、「軍地区工兵隊に対し、一
括払い中止を指令した」旨の説明を行い、米国側は態度を豹変させた。この
ような情勢のなかで、立法院では代表を米本国に派遣して米国政府と直接折
衝すべきであるとの意見が支配的となって、同年五月八日住民代表の渡米を
決定した。
代表団は六月二五日ワシントンに到着、翌二六日から米政府との予備折衝
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を始め、七月一日から七日間にわたる正式会談に入った。右折衝の結果、最
終的には「現地において高等弁務官と沖縄側との折衝で解決する」との結論
に達し、その旨共同声明が発表された。現地折衝は同年八月一一日から一一
月三日までの間にわたって行われた。この折衝は「琉米合同土地問題現地折
衝正式会議」とよばれ、三つの分科委員会と一つの特別分科委員会に分かれ
て折衝が行われた。
その結果、双方の間におよそ次の主な事項が決定された。
イ 合衆国が取得する権利は、賃借権に限る。賃借権の種類は、五年賃借権
と不定期賃借権とする。
ロ この二種類の賃借権は琉球政府が地主と折衝して取得し、これを米合衆
国に転貸する。
ハ これまで米合衆国が保有してきた既得権は、この二種類の賃借権のいず
れかにすべて切替え、布令一六四号に基づく限定付土地保有権は廃止する。
ニ 米合衆国が必要とする土地に対し、琉球政府が地主と折衝契約できない
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場合には、米合衆国は同土地を強制収用により取得できる。
ホ 年間賃借料は、市町村別に地目など等級毎に、原則として田三等級の生
産高を基準として算出することにし、年間賃借料の再評価は、五年毎に行
う。
ヘ 土地の現状回復またはこれに代わる損害賠償については、米合衆国が賃
借権を終了させるときに、米合衆国、琉球政府、土地所有者の間で公平か
つ適正な方法により解決する。
ト 土地貸賃の安定性をはかるため、琉球政府によって適当な立法を制定す
る。
チ 軍用地料の長期前払希望者に対する措置として、前払期間の最高を一〇
年に限定し、琉球政府が立法を制定し、一定の条件のもとに長期に前払い
を実施する。
リ 軍用地に関して起こりうる諸問題を調査検討し、高等弁務官に勧告する
ための恒久的委員会を設置する。
ヌ 土地問題現地折衝会議において妥協をみた新土地政策は一九五八年七月
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一日から実施する。
右妥結事項は、一括払いを阻止し、地代増額の基礎を築いた点では県民に
とって一応の前進であった。しかし従来米国が「黙認」とか「収用による限
定付保有権の取得」とかの苦しい理論構成によって糊塗してきた不法占有状
態を免罪し、更に将来の土地接収についても住民の同意を得たとする口実を
米国側に与えるものであり、これについて住民の間から四原則決議に反する
ものであるとの批判が強まった。しかしこの妥結事項により沖縄の軍用地問
題は一つの時期を画するようになった。
5 布令二〇号以後の軍用地問題
(一)一九五七年、ソ連がICBM(大陸間弾道弾)の実験に成功し、大量報復
力はアメリカの独占ではなくなった。それにより、米国は、大量報復戦略は
修正を迫られることになり、局地戦争へ戦術核兵器を配備することになった。
沖縄はインドシナ、台湾海峡の紛争に対応した常時即応能力を備えた中枢基
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地として部隊の配備、基地の強化が行われ、一九五七年には、第三海兵師団
が移駐し、五九年には米空軍のF一〇二戦闘機も配備され、米国の沖縄基地
長期保有政策は一層強固なものとなっていった。
(二)一九五九年二月一二日、布令二〇号「賃借権の取得について」が公布され
た。布令二〇号は、布令九一号、布令一〇九号、布令一六四号という一連の
収用法令の流れを受けて発布された法令である。これは、右に挙げた法令に
対する県民の抵抗を柔らげるため、琉米代表による現地折衝という手続を経
て制定された法令であり、布令一六四号で定められていた「一括払い」「限
定付土地保有権の取得」という点を補正して「不定期賃借権」と規定してい
るが、内容は前記の布告、布令を集大成したものにほかならない。例えば、
琉球政府が土地所有者と賃貸借契約を結び、琉球政府はアメリカ合衆国に対
して転貸する、という点は、布令九一号に定められていたし、この契約が成
立しなかったときは、米国は「収用宣言書」を発することができ、必要によっ
ては宣言書を発する以前に直ちに明渡しを命ずることができるというのは、
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布令一〇九号、布令一六四号に定められていたものである。
(三)布令二〇号に基づく「新土地計画」の実施は、当初一九五九年四月からと
いう予定であったが、それが遅れた。米国は、この実施準備が整うまで軍事
上どうしても待てないとして、名護、恩納、宜野座などにある山林原野約一
四万坪をナイキ基地建設のために、賃借料を記入しない告知書を発送すると
いう形で臨時措置をとり、土地を収用した。
ナイキ基地建設のための新規土地接収と共に、伊江島においては黙認耕作
地の取り上げが強行された。一九六一年五月二三日、米軍は伊江村キジャカ
に対して黙認耕作地内における新築禁止、電気、ラジオの取扱い、二メート
ル以上の立木や草の切除を通告し、村をあげての、反対運動や琉球政府の折
衝にもかかわらず、ついに一九六三年に全員退去させられた。
一九五七年から一九六〇年にかけて米国が新規に接収した土地は、ナイキ
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基地となり、沖縄基地に対する戦術核兵器の設置が完了した。
(四)その後、ベトナム戦争の激化に伴い、沖縄の米軍基地は一層重要性を強め
ていった。一九六五年七月二七日、台風避難を理由にグアム島のBー五二戦
略爆撃機が嘉手納基地に飛来、そこから直接ベトナム渡洋爆撃を行い、いっ
たんは引きあげたが、一九六八年二月五日、再び飛来し、その後は常駐体制
をとって連日ベトナム爆撃を繰り返した。
米軍が自由使用できる沖縄の米軍基地は、米国によるベトナム戦争に欠く
ことのできないものとなっていた。沖縄の軍事基地としての重要性は、米軍
が何ら規制を受けることなく自由に行動できるという点に存したのである。
このことは、一九六五年に米国民政府広報室が公式発表した米国の沖縄管理
についての質問(「米国は琉球に基地を置き、それを維持するためになぜ琉
球を統治する必要があるのか。米国は琉球を日本に統治させ、日本で行われ
ているように、琉球でもなぜ基地を維持しないのか」)に対する回答の中で
も、左記のように明確に述べられている。
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「(1) 米国は日本、韓国、台湾、フィリッピンおよびいくつかの東南アジア
との間に相互安全保障条約を締結している。これらの条約は、米国に対
して他からの侵略や行動からこれらの国を防衛することを委任している。
(2) 侵略行動や脅迫が発生したとき、米国は、その義務に照らして速やか
に効果的な行動をとらなければならない。
(3) もし、米国が自由を守るために効果的にかつ速やかに行動するために
は、そうするための基地を持っていなければならない。これらの基準に
合致するように基地としての絶対的な要求がある。即ち、必要な状況に
応じて遅れることなしに軍隊やあらゆる種類の兵器を、自由に基地に運
べること、緊急時に必要なあらゆる種類の兵器や補給品が自由にかつ制
限なしに貯蓄できること、米国が、条約に定められた責任に基づいて、
その責任を遂行するために必要なあらゆる地域に対し、自由にしかも遅
れることなしに兵力、兵器、補給品、航空機、船舶などを送れること、
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条約に従って行動することを要求された場合に、米軍に対する戦闘的協
力が自由に準備されること、軍事施設を守るために必要な安全措置をと
る能力があること。
(4) a、米国によって統治されている限り、沖縄はこれらの条件に合致す
る。もし、日本が統治するならば、一九六〇年に締結された日米安
全保障条約に基づいて起こってくるあらゆる問題について協議が必
要となってくる。
b、日本は、日本を除く他の多くの国と米国との間で締結されている
安全保障条約の下で発生している多くの問題に、巻き込まれること
を欲していないだろう。米国は日本が参加していない条約に従って、
米国がとる行動の経過について日本と協議を行うことはできない。
さらに、条約に従ってとられる行動は、協議する時間も許されない
ほど迅速を要する場合もある。
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(5) 日本の国内にある米国基地と琉球にある基地との間には大きな相違が
あることを知るべきである。日本にある米軍は、当初一九五二年に締結
され、一九六〇年に改定された日米安全保障条約に基づいて、日本のみ
の防衛について助力する責任があるだけである。他方、琉球にある米軍
は、韓国、台湾、フィリッピン、いくつかの東南アジア諸国それに日本
と米国との間で締結された安全保障条約に基づいてほとんど西太平洋全
域にわたって防衛について援助する責任を持っている。
(6) 米軍が他の国との間で締結している条約に基づいて行われることと一
致するような方法で、事前協議なしに米国が沖縄を自由に使うことが許
されることを条件として、日本に沖縄の施政権を返還するような特別協
定に調印するかも知れないということが示唆されている。しかしながら、
これまで行われているような線に沿っての提案は現実的でないし行うこ
とは困難である。」
米軍が自由に使用できる唯一の海外基地である在沖米軍基地は、兵站補給
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基地、発進作戦基地、輸送、発進の中継基地、訓練基地として位置付けられ、
「不沈艦空母オキナワ」の異名で呼ばれるようになっていき、その反面、沖
縄の住民は、爆音、米兵の犯罪等基地に起因するあらゆる人権侵害を強いら
れた。
このベトナム戦争の激化とともに、米軍は、那覇、ホワイト・ビーチ各軍
港の拡張、嘉手納基地の拡大、ワトソン高等弁務官による「新軍港計画の声
明」、道路の補強、嘉手納、読谷等における黙認耕作地の取り上げ、さらに
は、具志川市昆布、糸満市喜屋武、知念村志喜屋、山里における土地の新規
接収等を行っていった。
6 対日平和条約後の土地接収の違法性
(一)布令一〇九号では、米軍の収用告知があった場合、土地所有者は告知後三
〇日以内に、収用を受諾するか否かを回答しなければならず、拒否する場合
には訴願が許されるが、訴願に対しては、価格及び適正補償に関する点だけ
が審理決定されるのみである。収用告知後三〇日を経過したときは収用宣告
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がなされ、土地に関する権利は米国に帰属する。ただし、前記三〇日の期間
中であっても米国が緊急に占有し、かつ使用する必要があれば、直ちに明渡
しを命ずることができる旨規定されている。
ところでこの布令では、米軍がどのような場合に土地を収用することがで
きるのか、換言すれば、権利取得のための目的、要件について何ら規定する
ところがない。この立法の上からは、米軍が必要だということが至上命令で
あって、これに制限を加えるものは何もない。その意味ではこの土地収用令
は、米軍の土地接収に形だけの法的根拠を与えることのみが目的とされ、適
正な手続により土地所有者の権利を保護しつつ、公共と私益との調和を図る
という側面が全く無視されている。この布令には、収用の手続はあっても、
何らの適正性はなく、従って、これは「適正手続を規定した法令」というよ
り、単なる米軍の内部用の手続規定にすぎないというべきである。このこと
は、収用の違法性について争う方法がないこと、訴願はあっても、それは価
格及び補償に関してのみであること、また、たとえ訴願があっても収用宣告
---------- 改ページ--------114
を発する妨げにはならないことなどが規定されていることによってなおさら
明らかであろう。
とくに問題なのは、収用告知後三〇日を経過しなくても、米軍が緊急に占
有しかつ使用する必要がある場合は、直ちに明渡しを命ずることができると
いう規定である。三〇日という期間が立退準備に必要な期間としてはいかに
も短く、極めて冷酷な規定であるのに、この三〇日の期間すら守らなくてよ
いということになると、米軍はいつでも好きなときに一方的に強制収用する
ことが出来るということであって、このことは収用告知書が土地所有者に到
達する前に武力接収した安謝、銘苅の例で経験ずみのことである。かかる住
民の権利を不当に侵害する布令による接収は、国際法及び当時潜在主権を有
していた日本の憲法の許容し得ない無効なものであったといわなければなら
ない。
(二)布告二六号は、地主が対日平和条約前の土地使用料を受領したことにより、
地主と米軍との間で、米軍の土地使用に対する暗黙の合意「黙契」が成立し、
---------- 改ページ--------115
米国は賃借権を取得したことになるというのである。しかし、米軍と地主の
間に当初から賃貸借契約が締結されていないのであるから、地主の受領した金
員は過去の土地不法占拠に対する賠償金にすぎず、賠償金を受領したから、遡っ
て契約が成立するなどということは法的に有り得ない。しかも、前述のとおり、
地主は米軍との土地賃貸借契約に対しては、明確に拒絶の意思を示しているの
であるから、土地賃貸借契約の暗黙の合意などあり得る筈がない。「黙契論」
は、到底、土地使用の法的根拠として通用するものではなく、同布告を根拠と
する土地接収、使用が違法であることは明白である。
三 沖縄返還協定と軍事基地
一九六九年一一月二二日の佐藤・ニクソン共同声明によって、沖縄の「七二年
復帰」が決まった。共同声明の内容は、米国の極東防衛義務の肯定、米軍の抑止
力の維持強化、韓国及び台湾の安全と日本の安全との不可分性、日米安保条約の
緊密な維持、復帰後の沖縄防衛の日本自体の負担等であり、日本を含む極東の安
---------- 改ページ--------116
全をそこなうことなく、沖縄の早期復帰を達成するため両政府が協議に入るとい
うものであった。これにより、沖縄基地の重要性とその機能維持が強調され、復
帰後も沖縄の軍事基地が不変であるとの約束がなされた。
このような復帰の内容が明らかにされるにつれて、「県民が叫び続けてきた核
も基地もない形での真の復帰に逆行するものである」との指摘がなされ、共同声
明に沿った復帰を不満とする抗議と完全本土並みを要求する運動が大きな盛り上
がりとなってあらわれた。
当然のことながら、沖縄返還協定は、この共同声明を具体化した形で一九七一
年六月一七日に他のいくつかの関連取決めとともに調印された。膨大な沖縄基地
は、この返還協定により安保条約とその関連取決めに従って、米軍基地として引
継がれることになった。
なお、沖縄の返還後における日本側の防衛について、一九七一年六月二九日に
「沖縄の直接防衛責任の日本国による引受けに関する取決め」(久保ーカーチス
---------- 改ページ--------117
協定)が締結され、地上防衛、防空、海上防衛、哨戒および捜索、救難を自衛隊
が引受けることが約束された。その時期は返還後早い日とし、一九七三年七月一
日までに完了するものとし、返還後六か月以内に自衛隊を三三〇〇人配備し、追
加分としてナイキ部隊、ホーク部隊の地対空ミサイルによる防空の遂行のため支
配部隊を配置すること。施設としては、那覇空港、那覇ホイール、ホワイト・ビー
チ及び各地のナイキ、ホーク基地の引継ぎをなすこと等が取決められた。
四 沖縄返還後の強制収用
1 「公用地法」の制定
一九七一年六月一日の沖縄返還協定調印により、一九七二年五月一五日、沖
縄の施政権は、米国から日本政府に返還された。
これまで述べてきたように、沖縄の米軍基地は、何ら法的根拠がないまま終
戦直後に囲い込まれたり、違法な布告、布令をたてに銃剣とブルドーザーで強
奪されたものの集積からなっており、沖縄返還の時点で、日本政府は国民であ
---------- 改ページ--------118
る沖縄県民に土地を返還し、違法状態を解消し、沖縄県民の人権を回復すべき
であった。
しかし、沖縄返還協定では、二条で日米安保条約、日米地位協定等の沖縄へ
の適用を認め、三条で沖縄返還後もなお沖縄の米軍基地を継続使用することを
認めていた。そして、改めて米軍に提供されることになった基地についての米
軍の使用に空白を生じることがないようにし、また米軍から肩代わり的に自衛
隊が基地を使用できるにようにするため、「沖縄における公用地等の暫定使用
に関する法律」(公用地法)が制定されたのである。
これに対し、当時の琉球政府(屋良朝苗首席)は、一九七一年一二月、「公
用地暫定使用法に対する意見書」を日本政府に提出し、公用地法の違憲性、違
法性を訴えた。意見書の内容は次のようなものであった。
「(1) 問題点
イ この法律は、国の一方的、強制的な土地または工作物の使用権取得
が可能であり、強力な強制収用法である。
---------- 改ページ--------119
ロ 土地収用法および地位協定の実施に伴う土地等の使用に関する特別
措置法の六か月の暫定使用期間と均衡を失し、沖縄県民を本土国民と
差別するものである。
ハ 国が土地または工作物について権原を取得するためには、土地の特
定(土地の所在、地番、地目などの表示)を要するが、沖縄の地籍整
備が五年以内に完了しない場合は、期間延長が考えられる。
ニ 沖縄返還協定によって、施設および区域として提供されるもの以外
の施設および区域(たとえば伊波城観光ホテルなど)も、第二条一項
に含まれる可能性があり、適用範囲が不明確である。
ホ 自衛隊は、自衛隊法第百三条により、防衛出動以外は土地等の使用
が制限されており、現に、沖縄に配備されているアメリカ合衆国軍隊
と同列に取り扱うことは問題である。
ヘ 本土では、水道公社や電力会社のための土地の強制収用は、土地収
---------- 改ページ--------120
用法三条一七号及び一八号によって行われており、水道や電力などの
公共の利益となる事業に関しては、土地収用法の一般原則に委ねるこ
とで十分である。
ト 土地又は工作物の暫定使用にあたって、所有者ごとに土地の所在、
種類及び数量などを通知することは、権利取得のための最低限度の法
律的要求であり、単に、「当該土地の区域」のみを通知することおよ
び通知すべき事項の公示のみで処理することは問題である。
チ 土地または工作物を使用するものは、その所有者および関係人の請
求があるときは、自己の見積った損失の補償額を払い渡さねばならな
いが、予算の制限などにより、所有者や関係人の意志に反する補償額
が支払われるおそれがある。
(2)憲法及び法律上の問題点
イ 暫定使用期間が五年の長期にわたるということ。
---------- 改ページ--------121
a 同法は、五年の長期にわたって実質的に土地などの使用制限を行う
私権に対する重大な制限であり、憲法二九条で保障された財産権を侵
すものである。
b 地位協定の実施に伴う土地などの使用等に関する特別措置法で強制
使用できる期間は、最大限六か月であり、他人の土地等を強制使用す
るためには、土地収用法およびこれに準ずる手続きがとられているが、
沖縄では、五年にわたって正当な法の手続きもとらず、強制収用する
ことは、沖縄県民に差別を強いるものであり、法の下の平等を制定し
た憲法一四条に違反するものである。
ロ 自衛隊が土地などを強制収用すること。
a 自衛隊の配備は、憲法二九条でいう公共の用に供する場合に該当せ
ず、土地収用法で規定する公共の利益となる事業にも該当しないから、
自衛隊配備のために土地などを強制収用することは、憲法二九条に違
反し、土地収用法にも違反する。
---------- 改ページ--------122
b 自衛隊が他人の土地などを強制収用できるのは、自衛隊法百三条の
防衛出動だけである。
自衛隊配備のための強制収用をしようとする暫定措置法の制定には
問題がある。
c 自衛隊が他人の土地を強制使用できるのは、所有者等の任意による
使用についての合意がある場合に限られ、自衛隊の配備のために土地
を強制収用するのは問題がある。」
しかし、日本政府は、公用地法を見直すどころか、期限内に契約締結を完了
してしまおうとし、防衛施設局による、あらゆる手段を使った反戦地主の切り
崩しが始まった。
2 「地籍明確化法」の制定
「公用地法」が期限切れとなる五年後の一九七七年五月一五日に至っても、
---------- 改ページ--------123
防衛施設局の圧力に屈せず、契約を拒否し続けた地主らが残った。そこで政府
は、強制使用を継続するために、「沖縄県の区域内における位置境界不明地域
内の各筆の土地の位置境界の明確化等に関する特別措置法」の立法化を図った。
該法律案は、沖縄戦で公簿公図が消滅し、地形が一変して土地の位置境界が
不明確な地域が多く、それを国の特別措置で解決するというのが法の趣旨と説
明された。
ところが、法案の附則に、前記「公用地法」を五年間延長することが盛り込
まれていた。社会党ほかすべての野党が憲法違反の法律だとして反対し、全国
的な反対運動が盛り上がった。
沖縄県は、地籍明確化法に反対する立場から、「沖縄における公用地等の暫
定使用に関する法律の失効に伴う特別措置法の立法化に対する意見書」を政府
に提出した。意見書は、同法の問題点として、「(1) 地籍の明確化が実現する
まで、正常な手続で使用できないから、新法によって強制収用される。その場
合、契約拒否地主の土地は地籍不明のまま残り、無期限にこの法律により強制
収用されることになり、憲法二九条の私有財産に対する重大な侵害である。
---------- 改ページ--------124
(2) 同法では、一応使用手続を定めているが、本来、駐留軍用地特措法または
土地収用法により強制収用すべきであり、この法案の特別な手続規定によって
強制収用を図らんとすることは、単に形式を整えたにすぎない。よって、憲法
三一条の適正手続の保障に違反する。(3) 沖縄における米軍用地および自衛隊
用地内の地籍不明土地(契約済の土地は除く)についてのみ、この法律を適用
することは、当該土地の所有者に差別を強いることであり、憲法一四条の法の
下の平等に反する。(4) 私財産を強制収用できるのは、憲法二九条でいう公共
の用に供する場合のみであって、自衛隊の配備は、自衛隊法百三条の防衛出動
の場合を除き、これにあてはまらない。したがって、自衛隊用地内の未契約土
地の強制使用は、憲法二九条に違反する。」の四点をあげていた。さらに、沖
縄県は、国が同法の制定を強行するなら、憲法九五条による住民投票により、
県民の同意を得るべきである、と主張した。
同法案に対する国会審議が紛糾し、「公用地法」の期限切れの五月一五日か
---------- 改ページ--------125
ら四日遅れて自民党の強行採決で、五月一八日に成立した。四日間米軍はなん
らの法的根拠なく契約拒否地主の土地を占有していたのである。
3 「駐留軍用地特措法」の発動
日本政府は、さすがに地籍明確化法を更に延長することは不可能と判断し、
それにかわる方法として、「駐留軍用地特措法」に基づく使用裁決申請をした。
駐留軍用地特措法が日本に発動されたのは、ほとんど一九五○年代で、一九六
一年の神奈川県相模原住宅地区を最後に、日本本土で発動された例はなく、言
わば一九六一年の発動を最後として一旦は死んだ法律であった。ところが、死
法化して二○年も経過した後、突如として一九八○年に沖縄県内の土地のみを
対象として発動されたのである。
このように、沖縄戦から五〇年以上を経過してもなお、契約拒否地主の土地
はその意思に反して強制的に取り上げられているのである。
---------- 改ページ--------126
第四 米軍基地の実態と被害
一 米軍基地の概況
沖縄には、一九九五年三月末現在、県下五三市町村のうち二五市町村にわたっ
て四二施設、二万四四四七ヘクタールの米軍基地が存在しており、県土面積の一
〇・八パーセントを占めている。
沖縄県は、復帰後、常に、基地の整理・縮小と跡地利用を重点施策に掲げて施
策を進めてきており、また、日米両政府に対しても、これまで、基地の整理・縮
小をいくどとなく要請してきている。
しかし、沖縄の基地の整理・縮小については、日米両政府ともその必要性を認
めながら、実際は、遅々として進んでいない。
それに比して、本土においてはいわゆる関東計画等による整理・縮小が着実に
進展して来ている。実際に復帰時から現在までの施設の返還状況を本土と比較す
ると、次の通りである。
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米軍専用施設の返還状況(施設面積)
一九七二年五月一五日(本土は、一九七二年三月末)
本土 一万九六九九ヘクタール
沖縄 二万七八五〇ヘクタール
一九九四年三月末(本土は、一九九四年一月一日)
本土 八〇六〇ヘクタール(五九・一パーセント減少)
沖縄 二万三七三九ヘクタール(一四・九パーセント減少)
以上により、基地の整理・縮小について、沖縄が本土に比べて、著しく立ち遅
れた取扱いを受けていることが明白である。
1 在沖米軍施設の全国比率
一九九五年三月末現在の米軍基地の状況を全国(本土の米軍基地については、
一九九五年一月一日現在)と比べてみると、沖縄の米軍基地面積は、全国の米
軍基地面積の二四・九パーセントに相当し、北海道の三四・七パーセントに次
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いで大きな面積を占めている。中でも米軍が常時使用できる専用施設に限って
みると実に全国の七五・○パーセントが、国土面積のわずか〇・六パーセント
しかない沖縄県に集中しており、他の都道府県に比べて過重な基地の負担を強
いられている。
他の都道府県の面積に占める米軍基地の割合をみると、沖縄県の一〇・八パー
セントに対し、静岡県一・二パーセント、山梨県一・一パーセントが一パーセ
ント台であるほかは、他は一パーセントにも満たない状況であり、また、国土
面積に占める米軍基地の割合は〇・二六パーセントである。
沖縄県においては米軍基地面積の九六・八パーセントが米軍専用施設である
のに対し、他の都道府県においては、米軍専用施設は米軍基地面積の一〇・七
パーセントに過ぎず、大半は自衛隊施設等を米軍が一時的に使用する形態となっ
ている。
2 所有形態
一九九五年三月末現在における沖縄県の米軍基地の所有形態をみると、私有
地が三二・七パーセント、市町村有地が三〇・四パーセント、県有地が三・六
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パーセントと、全体の六六・七パーセントが民公有地となっており、国有地は
三三・三パーセントである。
これは、本土の米軍基地面積の八七パーセントが国有地で、民公有地は一三
パーセントに過ぎないのに比べると、大きな特徴である。本土の米軍基地の大
半が戦前の旧日本軍の基地をそのまま使用してきたのに対し、沖縄県の米軍基
地は、旧日本軍の基地の使用に留まらず、米軍による民公有地の新規接収が各
地で行われた背景の違いを表している。
3 用途別使用状況
一九九五年三月末現在の沖縄県の米軍基地の用途状況をみると、「演習場」
が施設数、面積とも多く、一七施設、一万六八五一ヘクタール(全基地面積の
六八・九パーセント)となっている。
この「演習場」施設には、県内の米軍基地で最大の面積を有する「北部訓練
場」をはじめ、実弾射撃訓練に使用される「キャンプ・シュワブ」や「キャン
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プ・ハンセン」、パラシュート降下訓練が行われる「読谷補助飛行場」、部隊
の上陸訓練が行われる「金武ブルービーチ訓練場」「金武レッドビーチ訓練場」
などのほか、南部地区や八重山地区(尖閣諸島)の離島に存在する射爆撃場等
がある。
次に面積が大きいのは、「倉庫」で、三施設、三二八〇ヘクタール(全基地
面積の一三・四パーセント)を占めている。
この施設には、各軍が必要とする弾薬の総合貯蔵・補給施設として重要な役
割を果たしている「嘉手納弾薬庫地区」や「辺野古弾薬庫」の二つの弾薬庫の
ほか、在日米軍の中でも主要な兵站基地となっている「牧港補給地区」がある
が、「嘉手納弾薬庫地区」だけで「倉庫」施設の面積の八七・九パーセントを
占めている。
三番目に面積が大きいのが「飛行場」施設で、「嘉手納飛行場」と「普天間
飛行場」の二施設、二四七九ヘクタールである。この両施設はいずれも中部地
区に存在し、しかもそれぞれ空軍及び海兵隊の中枢基地となっているものであ
る。
このほか、沖縄県の米軍基地には、「キャンプ瑞慶覧」や「キャンプ・コー
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トニー」等の「兵舎」施設が五施設、九五四ヘクタール、「象の檻」と呼ばれ
る施設を有し、軍事通信の傍受をしていると言われている「楚辺通信所」、陸
軍特殊部隊(グリーンベレー)が配備されている「トリイ通信施設」等の「通
信施設」が七施設、三七三ヘクタール存在する。
また、第七艦隊の兵站支援港で原子力潜水艦の寄港地としても重要な役割を
果たしている「ホワイト・ビーチ地区」や湾岸戦争の際の軍事物資の積み出し
港として使用された「那覇港湾施設」等の「港湾」施設が三施設、二一八ヘク
タール、軍病院が置かれている「医療」施設が一施設、一〇七ヘクタールとなっ
ているほか、事務所(工兵隊事務所)が一施設、四ヘクタール、明確な用途区
分ができない「奥間レストセンター」や「陸軍貯油施設」等の「その他施設」
が三施設、一八二ヘクタールとなっている。
4 米軍訓練水域及び空域
一九九六年六月末現在、沖縄周辺には、米軍の訓練のための水域二九箇所及
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び空域一五箇所が設定されている。
訓練水域については、常時立入り禁止、使用期間中立入り禁止、船舶の停泊、
係留投錨、潜水及び網漁業並びにその他すべての継続的行為の禁止等の制限・
禁止が行われている。
訓練空域については、那覇空港の場合、発着する航空機を管制するための空
域が、半径五陸マイル(約八キロメートル)高度二〇〇〇フィート(六〇〇メー
トル)未満に制限されているため、通常の空域より、半径で一キロメートル、
高度で三〇〇メートルも狭められている。このため、民間機は低空飛行を余儀
なくされ、飛行に当たってのパイロットの精神的プレッシャーは大きいものが
あるといわれている。
5 軍別状況
一九九五年三月末現在、沖縄県に存在する米軍基地を軍別の管理形態によっ
て区別すると、海兵隊、空軍、海軍及び陸軍となるが、これらの単独管理施設
のほか、二以上の軍が共用している施設もある。
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(一)海兵隊
海兵隊は施設数、施設面積とも最も大きく、一九九五年三月末現在、二〇
施設、一万八四五八ヘクタール(全基地面積の七五・五パーセント)を占め
ており、軍人数も一九九五年一二月末現在、在沖米軍の総兵員数の五九・七
パーセント(一万六二○○人)が海兵隊員となっている。海兵隊には、「キャ
ンプ・コートニー」にある第三海兵機動展開部隊の下に、第三海兵師団が同
じく「キャンプ・コートニー」に配置され、その他に、第一海兵航空団が
「キャンプ瑞慶覧」に、また第三部隊戦務支援隊が「牧港補給地区」に置か
れている。
(二)空 軍
空軍は、一九九五年三月末現在、八施設、二一六五ヘクタールで全基地面
積の八・八パーセントとなっている。これに対し、軍人数は、一九九五年一
二月末現在で、総兵員数の二六・七パーセント(七二五二人)と約四分の一
を占めており、海兵隊と並び在沖米軍の主力となっている。
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空軍は、横田基地に司令部を置く第五空軍司令部の指揮監督下に、第一八
航空団が嘉手納飛行場に配置され、同航空団の指揮下には、第一八支援群等
が配置されている。
(三)海 軍
海軍は、一九九五年三月末現在、七施設、三七四ヘクタールを有し、全基
地面積の一・三パーセントとなっている。また、軍人数は一九九五年三月末
現在、二七九四人で、総兵員数の一〇・四パーセントである。嘉手納飛行場
内に沖縄艦隊基地隊/嘉手納海軍航空施設隊があり、その他、沖縄航空哨戒
群等が配置されている。
(四)陸 軍
陸軍は、一九九五年三月末現在、四施設、三八六ヘクタールで、全基地面
積の一・六パーセントである。また、軍人数は、一九九五年一一月末現在、
八七五人で、全兵員数の三・二パーセントである。陸軍は、トリイ通信施設
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に第一〇地域支援群を置く他、第一特殊部隊群(空挺)第一大隊等が配置さ
れている。
二 米軍の演習・訓練及び事件・事故の状況
1 演習・訓練の概要
一九五二年一二月の日米合同委員会合意、一九七二年六月一五日の防衛施設
庁告示第一二号等に基づく、那覇防衛施設局からの演習通報によると、米軍の
演習・訓練は、水域、空域及び陸域において、恒常的に行われている。
各水域においては、水対空、水対水、空対空各射撃訓練及び空対水射爆撃訓
練、空対地模擬計器飛行訓練、船舶の係留、その他一般演習等が行われている。
陸域においては、キャンプ・シュワブ、キャンプ・ハンセンにおいて、一般
演習、小銃射撃、実弾射撃、廃弾処理、爆破訓練が、北部訓練場、金武レッド
ビーチ訓練場、金武ブルービーチ訓練場、ギンバル訓練場、読谷補助飛行場等
で一般演習が恒常的に行われている。
2 県道一〇四号線越え実弾砲撃演習実施状況
キャンプ・ハンセン演習場における第三海兵師団第一二海兵連隊による県道
一〇四号線越え実弾砲撃演習は、一九七三年三月三〇日の第一回から数えて一
九九六年六月末までに一七一回実施されている。最近の演習においては、三日
間で六〇〇発の一五五ミリりゅう弾砲が発射された。
県道を封鎖して行われる実弾演習は、演習場に近接して住宅、学校、病院等
が位置し、また、着弾地の背後には県内随一の海浜リゾート地域(恩納村)が
あり、危険である。
3 パラシュート降下訓練実施状況
読谷補助飛行場におけるパラシュート降下訓練は、一九七九年一一月六日以
降一九九六年六月末までに一八五回実施されている。最近の訓練においては、
二日間連続で、一七九人が降下訓練を行っている。
一九九五年一二月末までに、二九件もの事故が発生しており、ほとんどが施
設外降下である。復帰前には、一九五〇年の燃料タンク落下による少女圧死、
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一九六五年のトレーラー落下による少女圧死等悲惨な事故も発生した。その後
も提供施設外の農耕地や民家等に落下する事故が起きており、地域の住民生活
に不安を与えてい
4 原子力軍艦寄港状況
勝連半島の最先端に位置するホワイト・ビーチ地区は、神奈川県横須賀基地、
長崎県佐世保基地とともに原子力軍艦の寄港地である。沖縄県における復帰後
の原子力軍艦の寄港状況は、一九七二年六月、原潜フラッシャーの寄港以来、
一九九六年六月末現在で一一六回を数える。とりわけ、一九九三年から一九九
四年の二年間で、三五回の寄港を数え、一九九四年は過去最高の一八回を記録
した。
一九八〇年三月のロングビーチ(巡洋艦)の寄港時においては、晴天時の平
均値を上回る放射能が検出され、当該海域及び周辺海域の魚介類が売れなくな
るなど地域住民に大きな不安と被害を与えた。
5 事件・事故
(一)復帰後の米軍航空機事故等
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一九七二年五月の復帰以降一九九五年一二月末までに航空機関連事故は、
一二一件発生しており、そのうち固定翼機が六三件、ヘリコプターが五八件
である。
これを、態様別でみると、墜落事故三六件、空中接触事故一件、移動中損
壊二件、部品落下事故二一件、着陸失敗一四件、低空飛行一件、火炎噴射一
件、緊急着陸四五件となっている。
また、発生場所でみると、基地内三七件、基地外八四件である。基地外に
ついては、住宅付近一五件、民間空港一六件、畑等一三件、空地その他一二
件、海上二八件である。
最近の航空機墜落事故は、次の通りである。
一九九四年四月四日のF―一五墜落炎上事故
(嘉手納弾薬庫地区内の黙認耕作地)
一九九四年四月六日のCH―四六墜落・機体大破事故
(普天間飛行場内の滑走路)
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一九九四年八月一七日のAV―八Bハリアー攻撃機墜落事故
(粟国島近海)
一九九四年一一月一六日のUH―1Nヘリコプター墜落事故
(キャンプ・シュワブ内)
一九九五年九月一日のAV―八Bハリアー攻撃機墜落事故
(鳥島近海)
一九九五年一〇月一八日のF―一五C戦闘機墜落事故
(沖縄本島南南東海上一〇五キロメートル)
一九九五年一〇月一八日のF―一五C戦闘機墜落事故について、沖縄県議
会は、一一月三〇日に臨時議会を開催し、F―一五イーグル戦闘機墜落事故
に対する意見書・抗議決議を全会一致で可決している。同決議は、「現場海
域は、米軍の訓練水域外で、県内外のマグロはえ縄漁やソデイカ漁の好漁場
となっており、一歩間違えばこれら漁業操業者を直撃して大惨事を引き起こ
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しかねない」と指摘した上で、(1) 事故原因の徹底究明と調査結果の公表
(2) 原因究明までの間のF―一五イーグル戦闘機の訓練中止(3) 基地の整理・
縮小を求めている。
同意見書は、村山首相、外務大臣等の日本政府要路あて、同決議は駐日米
国大使館、在日米軍司令部等の米国政府あてとなっている。
本件については、県議会の代表が直接要請・抗議活動を行った。
また、沖縄市、浦添市、嘉手納町等県内市町村議会においても同様に意見
書・抗議決議が採択された。
なお、一九九五年九月三日付けの地元紙の社説が、「これまでのところ、
幸いというか、偶然というべきか、民間地域への墜落事故には至っていない。
しかし、児童ら死者一七人、負傷者一二〇人余の犠牲者が出た一九五九年六
月の石川市宮森小学校への米軍ジェット機墜落事故の再現がないとの保障は
ない。それどころか、いつ、私たちの頭上に墜落、爆発炎上してもおかしく
ない状況―と指摘、警鐘を鳴らす専門家は多い。」と、警告している。
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(二)米軍構成員等による刑事事件について
沖縄県警察本部の犯罪検挙状況に関する資料によれば、一九七二年五月か
ら一九九五年一二月末までの米軍人・軍属等による事件の検挙件数は、合計
で四七八四件であり、全刑法犯(件数)の約二パーセントを占めている。ま
た、犯罪検挙人数は、合計で四六一五人であり、全刑法犯(人数)の約六パー
セントを占めている。
復帰後の米兵による民間人殺害事件に限っても、一九九五年一二月末現在、
一二件発生している。二年に一件を越える発生状況である。
近年の事件では、一九九三年二月の海軍兵による強姦致傷事件、同年四月
の金武町における海兵隊員による殺人事件、一九九四年七月の海軍兵による
強盗事件、一九九五年五月の海兵隊員による日本人女性殺害事件があり、最
近(一九九五年九月)の在沖米兵三人による拉致及び暴行事件がある。
このような凶悪事件の発生は、基地と隣り合わせの生活を余儀なくされて
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いる地域住民に大きな衝撃を与え、不安を招いている。
三 環境破壊
1 自然環境の破壊
(一)水質汚濁
米軍基地に起因する水質汚濁事例は、沖縄県が確認しただけでも、復帰後、
一九九四年三月までに六五回発生しており、し尿処理施設の汚水や油脂類等
の漏出による河川・海域の水質汚染をもたらしている。
基地の中でも、特に嘉手納飛行場からの油脂類等の汚染事例が多く、復帰
後、一九九五年一二月末現在、一六回も発生している。県民の飲料水を採取
している比謝川が嘉手納飛行場に隣接して流れており、また、飲料用地下水
の取水井戸も同基地内に存在することから、度重なる油脂燃料類の流出は、
環境の汚染はもとより県民の健康管理の面からも問題である。
(二)土壌汚染
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一九九四年一月にマスコミを通じて、嘉手納飛行場内において一九八六年
と一九八八年にPCB漏出事故が発生していたことが公表されるまで、米軍
側はこの大きな事故について、県や関係市町村に報告せず、秘密裡に処理し
ようとした事実があった。また、PCB汚染物資を撤去する際、PCB入り
トランクが野積み状態で保管されているのが確認されるなど、米軍の有毒物
質の管理方法の問題が指摘された。
最近返還されたフィリピンのクラーク、スービック両基地においても、当
初、環境汚染はないとのことであったが、米軍撤退後の環境団体の調査によっ
て、両基地とも石油精製物質や重金属などの化学物質で汚染されているとの
報道があった。
また、米国内での基地の閉鎖後、民間施設としての転用が期待どおり進展
しないのは、閉鎖された基地の環境が汚染され、その復元に莫大な費用と長
期間を要するためであると言われている。
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(三)原野火災及び赤土汚染
度重なる実弾演習により、キャンプ・ハンセン内の着弾地周辺は広範囲に
わたって緑が失われ、無惨にも山肌をむき出しており、環境保全の面からも、
自然の破壊は由々しい問題である。
また、同キャンプ内のレンジで実弾を使用した射撃演習が日常的に実施さ
れるため、発火性の高い照明弾や曳光弾から着弾地内の雑草に引火すること
があり、原野火災が度々発生し、一九七二年五月から一九九五年一二月末ま
でに一一七件の火災が発生し、一三二四ヘクタールが延焼した。
一五五ミリりゅう弾砲による山肌の崩壊や、発火性の強い曳光弾による山
林火災は、演習場内の緑を失わせることにより、赤土流出による河川や海域
汚染の原因ともなっている。
キャンプ・ハンセン内を流れる河川からの赤土流出は、ほとんどが米軍基
地内の演習によるものであり、一九九三年八月の大雨時に採水して調査した
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ところ、キャンプ・ハンセンを流れる三河川で一リットル当たり六九四ミリ
グラム、二六七ミリグラム、五〇九ミリグラムの赤土流出が確認された。一
九八八年に、沖縄県環境保健部が降雨時直後に一四五河川で行った調査での
平均値一リットル当たり八〇ミリグラムと比較すると、キャンプ・ハンセン
内を流れる河川は、かなり濁っており、一見して赤土による底質の汚れが分
かり、近隣海域の汚染の原因の一つとなっている。
2 騒音公害等
米軍による演習が周辺地域に与える影響は多岐にわたっているが、なかでも
住宅地域に囲まれた嘉手納及び普天間飛行場では、昼夜を問わず、日常的に発
生する航空機による騒音は広範囲にわたり、一一市町村の約四七万人(沖縄県
人口の約三七パーセント)の周辺住民の生活環境に大きな影響を及ぼしている。
嘉手納飛行場においては、常駐機に加えて空母艦載機や国内外から飛来する
航空機によるタッチ・アンド・ゴーなどの飛行訓練のほか、エンジン調整が絶
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え間なく行われ、同飛行場に隣接する地域住民は、その騒音により、精神的、
身体的被害ならびに生活環境が著しく損なわれている。
また、普天間飛行場においては、航空機の離着陸等、とりわけ、ヘリコプター
の飛行場及び住宅地域上空での旋回訓練は間断なく騒音を発生させている。地
上においてはエンジン調整音が長時間に及び、騒音による被害は、精神的、身
体的ならびに生活環境の面からも看過できないものとなっている。
このような現状にかんがみて、毎年、沖縄県は、関係市町村と協力して、嘉
手納飛行場周辺では二四地点、普天間飛行場周辺では一五地点で騒音の測定を
行っている。一九九五年度の測定の結果、嘉手納飛行場周辺においては、二四
測定地点中一三地点(五四パーセント)で、普天間飛行場周辺では、一五地点
中一○地点(六六パーセント)で、環境基準を上回っている。
特に、嘉手納飛行場周辺では、通常訓練によって、騒音禍を強いられている
にもかかわらず、臨時的に行われるローリー演習(現地運用態勢)、ORI演
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習(行動態様監察)の演習期間中の騒音は一段と激しく、日常生活の会話や安
眠はもとより、疲労の加重、聴力の減退、授業の中断、電話の中断、テレビ・
ラジオの視聴困難等、その身体的、精神的ダメージは著しく、飛行場が住宅地
域や市街地に隣接して存在するため、航空機から発生する騒音は周辺住民に甚
大な悪影響を与え、日常生活に大きな障害となっている。
四 米軍基地に起因する女性に対する人権侵害
1 一九九五年一〇月二一日、八万五〇〇〇人を結集した県民集会が開かれた。
この米軍基地の整理・縮小を求める県民世論の大きなうねりは、同年九月四日
に発生した残虐きわまる米兵三名による暴行事件が契機となった。この事件で
いたいけな少女の尊厳が踏みにじられた。これまでも繰り返されてきた基地被
害がまたも悲惨な形で起こったことに、県民の怒りは爆発した。
基地被害、中でも米兵による犯罪を採り上げるとき、戦闘行為を任務とする
軍隊の本質を避けて通ることはできない。
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2 苛烈な規律と緊張のもと、生命の危険に曝される極限状態での戦闘行為を強
いられる兵隊が、その抑圧の反動として、性的な解放を求めて性暴力を惹起す
ることはよく知られていることである。
軍隊とは、そもそも武力・暴力によって敵を制圧し、力による優越的支配を
貫徹させることがその目的であり、そのために隊の内部では指揮系統を統一し
て絶対服従の関係を貫くことが本質的に求められている。それは、民主主義、
他者との対等、共生という人間の尊厳に基づく理念とは相反するものである。
組織的にこのような訓練を受けた軍隊の構成員が―しかもその圧倒的多数は必
然的に男性である―女性に対して人間の尊厳を踏みにじる行為に及んで平然と
するようになっても何ら不思議なことではない。
これは、決して一般社会でも起こりうる性犯罪と同質にはとらえられない構
造的なものである。従軍慰安婦問題、南京大虐殺に伴う無数の婦女暴行事件な
どは、まさに軍隊がいかに性犯罪を必然的に引き起こすかを物語る歴史であっ
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た。さらに、沖縄占領直後の米軍もその点ではまさに同じだった。
3 対日平和条約の発効によって一応占領状態が終了しても、引き続き米軍統治
下におかれた沖縄では、軍隊による性暴力は止むことがなかった。更に施政権
返還後も、米軍基地は凶暴な顔を隠して居すわり続けた。米軍基地の実態に何
ら変化がなかった以上女性の人権は侵され続けたのである。
それらの事件のうち、特に大きく問題とされた一部を挙げてみる(以下「異
議申し立て基地沖縄」琉球新報社)。
・一九五五年九月三日、軍曹が石川市の幼女を拉致、暴行後殺害
・一九六六年七月二一日、金武村の道路脇で、基地内のクラブで働く三四歳の
女性が暴行され、殺害される
・一九七〇年五月二八日、牧港の第二兵たん部隊内で、早朝出勤途中の二一歳
の女子雇用員が米兵に暴行される
・一九七〇年五月三〇日、具志川市で下校中の女子高校生が米兵に襲われる。
暴行未遂に終わるが、ナイフで刺され、全治二カ月の重傷
・一九七一年四月二三日、宜野湾市大山で飲食店従業員の女性が暴行された後、
石で撲殺される
・一九七二年一二月一日 沖縄市でキャンプ瑞慶覧所属の海兵隊員が二二歳の
女性を暴行、殺害
・一九七三年五月二八日、沖縄市で、米兵一〇人が女性を乱暴
・一九七五年四月一九日、金武村で海兵隊員が女子中学生二人を乱暴
・一九八二年七月三一日、名護市でキャンプ・シュワブ所属の海兵隊員が三三
歳の女性を暴行しようとして殺人
・一九九三年五月 二五歳の陸軍兵士が、一九歳の女性に暴行。この米兵は米
軍により身柄を確保されたが、拘禁されていなかったために、司令書を偽造し
て那覇空港から米国に逃亡した。この事件は、逃亡を許した米軍当局の監視体
制の甘さが問題になり、綱紀粛正を求める抗議、要請が、県知事、県議会及び
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弁護士会などから相次いだ。他方、被疑者は一一月になって米国で逮捕された
が、被害者本人が告訴を取り下げ、結局その米兵は、一九九四年三月始めに米
国で裁判を受け、降格処分を受けて軍から追放されただけであった。
一九九四年も、七月一八日に一九歳の米兵が宜野湾市の民家で女性に暴行す
るなど一年間で婦女暴行事件三件が報告されている。
これらの事件をみると、女性の中でも特にいたいけな子どもが被害に遭うケー
スが目立つ。これらは氷山の一角であり、実際には被害を届け出なかったり告
訴しなかったりした泣き寝入りのケースは数知れない。「実際のところ、被害
者の一〇人に一人も、いや、一〇〇人に一人も訴え出ていない、というのが・
・・実感である。」という婦人相談員経験者の声もある。(高里鈴代「米軍基
地―女性への暴力」)。
一九九五年一〇月九日付米軍の準機関紙パシフィック・スターズ・アンド・
ストライプスによると、世界の米海軍、海兵隊基地の中で一九八八年以降の性
犯罪関係の軍法会議が一六九件とトップであり、空軍についても嘉手納基地で
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性犯罪で検挙された隊員数は、米国のネリス基地に次いで二番目であった(琉
球新報一九九五年一〇月一五日朝刊)。
4 一九九五年一一月二七日、マッキー米太平洋軍司令官(海軍大将)が、米兵
による暴行事件について、国防総省で「犯行に使用した車を借りる金があれば、
女を買えたのに。三人はバカだ。」と発言し、即日辞任に追い込まれたことは
まだ記憶に新しい。女性を蔑視するこの発言は、単に配慮を欠いたものとして
やり過ごすことはできない。まさに先に述べた軍隊の性暴力に向かう本質の一
端を明らかにしたものといえよう。
このような女性の尊厳に対する侵害を根絶するためには、その根源となる米
軍基地を整理・縮小しなければならない。
五 基地に侵害される子どもの権利
1 第一次世界大戦は、航空機やロケット等兵器の発達によって、戦地の兵士だ
けでなく、子どもや女性、老人にも戦争による犠牲を強いることになった。特
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に子どもの受けた犠牲は大きく、数知れない子どもの生命が奪われ、生き残っ
た子ども達も、家や家族を失って過酷な生活を強いられた。そして、戦争によ
る最も大きな被害者が子ども達であることが認識され、子どもの保護が人類的
課題として自覚されるようになったのである。一九二二年の英国の児童救済基
金団体憲章(世界児童憲章)には、「過去数年の国家間における災害は、児童
の上にも重大な心身の退化をもたらした。しかも、それは長く子孫にまで影響
する恐るべき事実であった。それ故に人類の進歩と幸福とが危険にさらされて
いることを認識して、われわれは、世界中の国が力をあわせて、児童の生命を
守るよう呼びかける。」と述べられた。このように、国際的な子どもの保護へ
の要請が、軍事のために子ども達を犠牲にしてはならない、という強い反省と
願いから出発したものであることは、決して忘れてはならないことである。そ
して、世界児童憲章を基礎として、一九二四年に国際連盟で採択されたいわゆ
る「ジュネーブ宣言」は、その前文において「人類が子どもに対して最善のも
のを与える義務」を負うことを示し、一項で、子どもに「身体的および精神的
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両面の正常な発達に必要な手段が与えられ」ることを求めた。人権一般の国際
的保障に対する取り組みが未発達な時代において、子どもの保護については、
国際連盟の文書として宣言されたのである。
ところが、人類は愚かにも第二次世界大戦を起こし、第一次世界大戦にも増
して子どもに多大な犠牲を与えてしまった。この戦争に対する反省から、基本
的人権の尊重こそが平和の条件であり、国際的人権保障が各国家の責務である
ことが共通認識として確立されるに至った。そして、子どもについては、その
可能性に応じて正常に発達する権利を有することが認識され、発達や学習の権
利という新しい権利が人権として保障されるようになった。
国内的には、日本国憲法二六条一項が「すべて国民は、法律の定めるところ
により、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」と規定し
て、教育の権利を保障した。憲法は、発達の可能態としての子どもの独自性を
認め、将来にわたってその可能性を開花させ、人間的に成長する権利を保障し
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たのである。そして、憲法を受けて制定された教育基本法は、前文において、
「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、
世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、
根本において教育の力にまつべきものである。われらは、個人の尊厳を重んじ、
真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性
ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない」とその由来
と理念を述べ、一条で「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会
の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重
んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなけれ
ばならない」と教育目的を定めた。そして、一〇条二項は、「教育行政は、こ
の自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標とし
て行われなければならない」と規定し、教育に必要な諸条件の整備を行政に義
務づけた。これは、子どもの教育を受ける権利には、教育条件整備要求権が包
含されており、この権利に対応するものとして、行政の義務が定められたもの
に他ならない。
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国際社会においては、一九四八年に国連総会で採択された世界人権宣言の二
六条で、「すべて人は教育を受ける権利を有する」、「教育は、人格の完全な
発展並びに人権及び基本的自由の尊重の強化を目的としなければならない」と
規定され、発達・成長過程にある子どもの独自の権利の保障の必要性が、国際
社会において、認められるようになった。
さらに、子どもの人権宣言から二〇年を経た一九七九年を「国際子ども年」
とし、これに向けて、ポーランドを中心とした子どもの権利保障のための国際
条約化の動きがでてきた。同国が熱心に条約推進に努力したのは、戦争による
子どもの被害が同国において最も顕著だったからである。国連では、一二年に
及ぶ審議を経て、子どもの権利宣言三〇周年の一九八九年一一月二〇日総会に
おける全会一致をもって、子どもの権利条約を採択した。子どもの権利条約は、
前文において、既に国際的に承認されている国際人権規約等と同様に人間の尊
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厳と基本的人権の承認が世界の自由、正義及び平和の基礎をなすことなどを再
確認するとともに、子どもは特別な保護及び援助についての権利を有すること
などを確認し、三条で、「子どもの最善の利益」が本条約の指導原理であるこ
とを示した。
以上のとおり、子ども達は、国内的にも、そして国際法においても、平和的
生存と発達のための子ども固有の諸権利を保障されているのである。
2 ところが、沖縄の現実はどうか。子ども達の学ぶ校舎や運動場の上をジェッ
ト戦闘機や戦闘ヘリが飛びかい、騒音のため授業が中断されてしまう。学校か
ら僅か数百メートルの砲座から実弾が発射され、教室は激しい振動と騒音に襲
われる。
窓の外に目をやれば、山肌が砲弾に抉られ、土煙をあげている姿が目に入る。
しばしば山火事にすら脅かされる。空からパラシュートが降り、民家や農地へ
着地する。戦闘機の騒音は、戦争時と同様に子どもを苦しめ、その授業を妨害
する。子ども達の通学路を迷彩服の兵隊が銃をかかげて行進する。基地とフェ
ンス一つ隔てて、学校や民家が密集しているため、子ども達が、米兵の犯罪行
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為の直接の被害者となる例も後を絶たない。子ども達の目に写る光景は戦争そ
のものであり、軍事基地の存在は子ども達の平和的生存と発達の権利を日常的
に侵害している。このように、沖縄県において、子ども達の権利侵害が生じて
いるのは、沖縄県への基地の集中によるものである。国土面積の約〇・六パー
セントにしか過ぎない沖縄県に在日米軍基地専用施設)の約七五パーセントが
集中しているため、子どもの成育・教育環境が基地に隣接せざるを得ず、基地
の直接的な影響下に置かれているからである。そして、子ども達は、平和的生
存と発達の権利を有するのであるから、沖縄への基地の集中を解消して成育・
教育環境への基地の影響を断ち切ることを、子どもの権利として要求できるの
であり、これを実現することは、日本国の国際社会における責務である。
沖縄県民が、様々な立場の違いを超えて、県民の共通の悲願として基地の整
理・縮小を求めていることの背景にあるのは、子ども達が将来の社会の担い手
であり、その平和的生存と発達の権利を保障することは将来の世代に対する責
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任であるという、熱い思いにほかならない。一九九五年一〇月二一日に八万五
〇〇〇人が参加して行われた「米軍人による少女暴行事件を糾弾し日米地位協
定の見直しを要求する沖縄県民総決起大会」での高校生代表挨拶は、「私は今、
決してあきらめてはいけないと思います。私たちがここであきらめてしまうこ
とは、次の悲しい出来事を生みだすことになるのですから。いつまでも米兵に
脅え、事故に脅え、危険にさらされながら生活を続けていくことは、私は嫌で
す。未来の自分の子供たちにも、そんな生活はさせたくありません。私たち生
徒、子供、女性に犠牲を強いるのはもうやめてください。私は戦争が嫌いです。
だから、人を殺すための道具が自分の周りにあるのも嫌です。次の世代を担う、
私たち高校生や大学生、若者の一人ひとりが本当に嫌だと思うことを口に出し
て、行動していくことが大事だと思います。私たち若い世代に新しい沖縄のス
タートをさせてほしい。沖縄を本当の意味で平和な島にしてほしいと願います。
そのために私も、一歩一歩行動していきたい。私たちに静かな沖縄を返してく
ださい。軍隊のない、悲劇のない平和な島を返してください」と結ばれている。
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この高校生の願いに応えることこそが、沖縄県の県益であり、日本国の国益
であり、そして人類の未来への責任である。
六 振興開発の阻害
1 振興開発と米軍基地
一九九二年九月に国において策定された第三次沖縄振興開発計画では、沖縄
の米軍施設・区域について「そのほとんどが人口、産業が集積している沖縄本
島に集中し、高密度な状況にあり、この広大な米軍施設・区域は、土地利用上
大きな制約となっているほか、県民生活に様々な影響を及ぼしている。」とい
う認識の下、「米軍施設・区域の整理縮小と跡地の有効利用について、米軍施
設・区域をできるだけ早期に整理縮小する。」と県土利用の基本方向を明らか
にしている。
さらに、「返還される米軍施設・区域に関しては、地元の跡地利用に関する
計画をも考慮しつつ、可能な限り速やかな返還に努める。」として、「返還跡
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地の利用に当たっては、生活環境や都市基盤の整備、産業の振興、自然環境の
保全等に資するよう、地元の跡地利用に関する計画を尊重しつつ、その有効利
用を図るための諸施策を推進する。」としている。
このように、沖縄振興開発計画においては、本県における米軍の施設及び区
域の大半が、本県の地域開発上重要な地域に存在しているため、地域の振興開
発及び県土の均衡ある発展を図る上で大きな制約となっていることを自明のこ
ととしている。具体的には、(1) 都市再開発や環境整備を推進する上の障害
(2) 道路交通体系整備上の障害(3) 住宅や公園整備上の障害(4) 企業誘致や工
業誘致の対象となる工業用地の確保の障害(5) 農業の衰退や荒廃の原因である
と同時に農業振興上の障害(6) 自然公園や自然環境保全施策上の障害等である。
2 市町村の振興開発の阻害
一九九六年三月末現在、米軍基地は、県内二五市町村に所在し、当該市町村
の振興開発を著しく阻害している。以下四市町の実例を示すことにする。
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(一)那覇市の場合
イ 軍用地の概況
一九九五年一一月末現在、那覇市には、米陸軍の那覇港湾施設、米空軍の
嘉手納飛行場施設の一部がある。
同市の面積(約三八七三ヘクタール)の一・五パーセント(約五八ヘクター
ル)を占めている。
ロ 那覇港湾施設用地の特徴
那覇港湾施設は、同市にある米軍基地の約九九・一パーセントを占めて
いる。
同港湾施設は、沖縄県の表玄関である那覇空港と隣接し、また、年々増大
の一途をたどる那覇港の重要な一角であることから、早期全面返還が求め
られている。
同港湾施設には、国道五八号と国道三三二号が隣接し、県道七号線の起
点ともなっており、その地理的重要性は、ますます大きくなってきている。
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それに加えて、県都である那覇市の都心部にも近いという好立地条件も備
えている。このことは、周辺における観光産業を含めての経済、住宅等へ
の土地利用転換に呼応するとともに、港湾機能の強化など新たな展開が十
分に可能な地域である。
また、年々増大する県内外、もしくは国外からの港湾取扱貨物量は既存
の施設では対応できない状況にある。したがって、港湾機能の整備拡大は
急務である。同港湾施設は対岸にある那覇商港と比較しても、完全に遊休
化している。
このような観点からも、同港湾施設を早急に返還することにより、交通
体系の整備が可能となる。
さらに、那覇空港を利用して沖縄県を訪れる観光客数は、三〇〇万人を
超えている。沖縄を訪れる観光客にとって、まず最初に目に触れるのは同
港湾施設のフェンスであり、時として、基地内の戦車や大砲である。平和
産業と言われる観光産業の振興の面から問題である。
ハ 那覇港湾施設跡地利用構想(那覇市策定)
同港湾施設は、那覇空港と那覇都心を結ぶ国道沿いにあり、また那覇市
にとって貴重とされる水際陸地である。タウンゲートにふさわしい機能の
導入を図るなど土地利用上重要な地域である。
また、那覇空港の近くに沖縄自由貿易地域があり、それと隣接している
本地域は、那覇埠頭の再開発等、一体的に自由貿易地域の拡大を図る必要
がある。
本地域は五二ヘクタールの面積を有し、国道三三一号沿いにあり、那覇
港那覇埠頭の対岸に位置している。那覇市の計画では、那覇空港及び沖縄
自由貿易地域の立地する西側に流通・加工・業務等の産業系を、その東側
に文化遺産の活用を計りつつ、隣接する奥武山公園と連結して文化・レク
リェーション系をそれぞれ配置するものとされている。
(二)沖縄市の場合
イ 軍用地の概況
一九九四年三月末現在、沖縄市には、米軍基地として嘉手納飛行場、嘉
手納弾薬庫地区、キャンプ・シールズ、泡瀬通信施設及び同提供水域、キャ
ンプ瑞慶覧、陸軍貯油施設(パイプライン)、知花サイトの七施設がある。
米軍基地は、同市の面積(四八九四ヘクタール)の三六・八パーセント
(一八〇一ヘクタール)を占めている。
ロ 軍用地の特徴
沖縄市は、沖縄本島中部に位置し、周辺を七市町村と隣接している。し
かし、市域北部及び西部に、広大な嘉手納弾薬庫地区と極東最大の空軍基
地・嘉手納飛行場、そして南部はキャンプ瑞慶覧、更に中城湾に面する東
部地域には泡瀬通信施設があり、基地が四方に展開している。
このように、基地の存在は、活用できる市域を狭めているのみならず、
産業基盤の整備、周辺市町村との交通や交流を妨げ、市街地の形成や都市
の広がりを阻害している。
同市の米軍基地の土地所有内訳は、私有地が六七・八パーセント、公有
地が二七・八パーセントに対し、国有地はわずか四・四パーセントである。
沖縄の米軍基地は、沖縄戦の米軍占領地とその後の占領下における一方
的な接収による軍用地を引き継いだものがほとんどであり、私有地が大き
な比率を占めている。このように私有地の占める比率が大きいこと、また、
軍用地が形成されてから長期間経過していること等が、軍用地の転用や跡
利用にも様々な影響を及ぼしている。
ハ 軍用地の跡地利用計画(沖縄市策定)
泡瀬通信施設地先の公有水面に、陸域から沖合五〇〇メートルまで米軍
保安水域が設定されているが、同水域については、同市が新たな開発拠点
としている東部海浜開発地区の開発予定地となっており、同水域の早期解
除(返還)が必要である。
同市の北側に位置し、豊かな自然が残されている嶽山原(うたきやんば
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る)は、嘉手納弾薬庫地区によって他の民間地域から切り離され利用困難
な地域となっている。嘉手納弾薬庫内の基地内道路を開放することにより、
アクセス道路を確保し、嶽山原を市民の余暇利用や青少年の野外活動など
に活用することが可能となる。
広大な嘉手納飛行場については、同飛行場の基地内基幹道路を開放し、
利用することで、同市中心部と国道五八号、市域南部と北部の交通が容易
となり、中部圏の交通利便性の向上、市域の効果的活用、観光など産業振
興上の効果が期待できる。広域の交通網の整備は中部広域の拠点都市とし
て周辺市町村との交流を促進する上で重要である。
嘉手納飛行場については、周辺市町村の土地利用計画との調和や環境問
題への配慮などの諸問題と併せ、民間国際空港としての可能性について検
討していくことも重要な課題である。
(三)宜野湾市の場合
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イ 軍用地の概況
一九九四年三月末現在、宜野湾市には、米軍基地として、普天間飛行場、
キャンプ瑞慶覧、陸軍貯油施設がある。米軍基地は、同市の面積(一九三
七ヘクタール)の三十三・二パーセントを占めている。
ロ 普天間飛行場用地の特徴
普天間飛行場は、一九九四年三月末現在の施設面積が、四八一・五ヘク
タールで、同市の面積の二四・九%、同市にある米軍施設の七四・九パー
セントを占めている。
同飛行場の土地の所有内訳は、私有地が四四四・三ヘクタール(九二・
三パーセント)、国有地が三二・二ヘクタール(六・七パーセント)、公
有地が五ヘクタール(一パーセント)である。
同飛行場は、一九四五年の米軍占領と同時に土地が接収され、米軍によ
り建設された。その後、滑走路の延長やナイキ基地の建設等の経過を経て
現在の施設規模になっている。
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同飛行場の建設のため、集落や農地を強制的に接収された住民は、同飛
行場を取り囲むように移転し、現在は、同飛行場の周辺は住民が密集する
市街地となっている。
同飛行場市が中央部に位置するため、道路は、飛行場のまわりに国道等
が変則的に配置され、基幹道路の不足による交通渋滞や、大きく迂回する
ことによる経済的損失が大きい。
下水道等も、飛行場を迂回して計画しなければならず、そのために敷設
距離が長くなり、また、勾配の関係で必要以上に地中深く敷設したり、ポ
ンプアップする必要があり、工事費も大幅にかさむ。
ハ 普天間飛行場の跡地利用計画(宜野湾市策定) 同市は、沖縄本島中南部地域の中心部に位置し、同飛行場は、都市軸を
分断する形になっている。また、同市の西海岸地区にはコンベンションセ
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ンターがあり、同市と周辺市町村にまたがった南側には国立の琉球大学、
私立の沖縄国際大学等があり、学園都市が形成されている。同飛行場は、
本県における重要な開発可能空間である。
一九九四年には同飛行場の跡地利用計画の基本構想が策定され、一九九
五年には、その基本計画が策定されている。
同飛行場用地は、ほとんどが私有地であるため、返還後の跡利用につい
ては、地主の権利の確保及び市民・県民の生活の安定向上を図ることとさ
れ、宜野湾市の将来像の構築と発展に寄与するとともに、文化財や緑地の
保存・活用を図ることが前提となっている。
同基本計画は、「アジアの国際交流拠点・宜野湾」を整備方針として、
国際交流拠点の形成をめざすものであり、以下の都市形成を図るために必
要な諸機能を導入することが計画されている。
(1) 展示機能や生産機能を付帯した商取引の場となる「アジアの商談都市」
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の形成
(2) アジア及び沖縄にとって必要な研究開発拠点及び情報発進拠点を目指
す「アジアの頭脳都市」の形成
(3) コンベンショ機能を備え、人や情報が交流する「アジアの会議都市」
の形成
(4) 生活環境と福祉等の整った職・住・遊を備えた複合都市「アーバン・
リゾート都市」の形成
(四)北谷町の場合
イ 軍用地の概況
一九九四年三月末現在、北谷町には米軍基地として嘉手納飛行場、キャ
ンプ瑞慶覧、キャンプ桑江、陸軍貯油施設の四施設がある。米軍基地は、
同村の面積(一三六二ヘクタール)の五六・七パーセント(七七二ヘクター
ル)を占めている。
ロ 軍用地の特徴
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同村の米軍基地のほとんどは、国道五八号線に面し、利便性に富む平坦
地域に集中していることから、町民生活への影響と併せて、道路網の整備
をはじめ、地域開発や産業振興の上からも大きな障害となっている。
ハ 軍用地の跡利用地計画
北谷町基本計画は、米軍基地の計画的返還及び返還跡地の有効利用の促
進を図るという基本的方向を定め、跡利用計画を策定している。
キャンプ桑江については、役場庁舎の建設と併せてて将来の中心市街地
の形成に向け、住宅関連等の都市開発整備を促進することとされている。
嘉手納飛行場には、同町の区域が三三六ヘクタール含まれている。同飛
行場は、同町の他に嘉手納町、沖縄市にまたがることから、跡利用につい
ては、県及び関係市町と連携をとって、総合的な都市開発整備、産業開発
等と併せて、既存施設の利活用を含めた開発を検討するとしている。
キャンプ瑞慶覧は、国道五八号線に隣接する地域は、都市開発整備を進
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め、ライカム地域は、眺望、景観等を活かした都市レクリェーションプロ
ジェクトを検討するなど、緑地保全地域及び史跡公園整備地域等、地域環
境を考慮した跡利用を図ることになっている。
なお、同町の場合、ハンビー飛行場跡、メイモスカラー地域は、跡地利
用として市街地開発事業とともに、地理的条件を活かした広域的商業活動
等が急速に発展し、町発展への大きな要素となっている事例がある。
七 行政事務の過重負担
1 沖縄県の場合
(一)組織及び事務
沖縄県における米軍基地関連業務は、主として総務部知事公室基地対策室
においてこれを所管している。基地行政所管組織の設置の目的は、基地の整
理・縮小の促進を求める県民の意向を踏まえ、沖縄県の振興開発を推進する
観点から、日米間で返還合意のあった施設・区域及び地域振興開発上必要な
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施設・区域の早期かつ計画的な返還を求めるとともに、県民の安全と福祉を
守る立場から、米軍及び国に対し基地の安全管理並びに綱紀粛正を求め、米
軍基地の存在によって派生する事件・事故の未然防止を図ることにある。
同基地対策室は、我が国の米軍専用施設・区域の約七五パーセントが沖縄
県に集中していることを反映し、県道一○四号線越え実弾砲撃演習や読谷補
助飛行場でのパラシュート降下訓練等の演習及び米軍基地に派生する事件・
事故の度に現地調査や那覇防衛施設局、米軍当局への抗議申し入れを行うな
どその対応に忙殺されている。
(二)臨時議会の開催状況(米軍関係)
米軍基地等に起因する事件・事故等に係る沖縄県議会の臨時議会は、一九
七九年度の五回、一九九四、一九九五年度の各四回など復帰後一九九六年六
月末までに、五五回を数え、臨時議会で為された抗議決議等は六七件に及ぶ。
これら抗議決議は、その都度外務省を始め防衛施設庁、駐日米国大使館な
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ど日米両政府の関係要路へ直接出向いて手渡し、抗議・要請を繰り返して
いるものの、目に見える形での解決、改善の跡が見られない。
2 市町村の場合
(一)基地関係担当主管課
米軍基地が所在する市町村は、現在二五団体である。そのうち米軍基地関
係の主管課(係)を置いている団体が九団体である。
米軍基地関連業務は、主管課を置いている団体では、主管課において、そ
の他の団体では、総務課、企画課、経済課等において所管している。
ただし、事件・事故によっては、一課で対応ができない場合がある。その
場合は、関係課の連携により、対応している。
(二)米軍基地担当職員
米軍基地が所在する二五市町村で、専任又は兼任の形で米軍基地関連の業
務を担当する職員は、合計五二人である。そのうち、専任職員は、一〇人で
ある。
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団体間で米軍基地関連業務の質・量に差があるが、米軍基地関連業務が地
方公共団体の加重な負担になっていることは否定できない。
(三)米軍基地問題に関連する臨時議会の開催状況
米軍基地が所在する市町村二五団体における米軍基地問題に関連する臨時
議会の開催状況は、過去一〇年間(一九八六年から一九九五年一二月一日ま
で)に、当該市町村二五団体の合計で二二九回である。年四回以内の定例議
会の開催が法定されていることを考慮した場合、このような臨時議会の開催
状況は、関係地方公共団体の負担となっていることが明らかである。
(四)米軍基地から派生する諸問題に関連する要請活動
米軍基地が所在する市町村二五団体は、基地から派生する諸問題の解決の
ために、米軍、国、県に対する要請活動を行っている。
最近の一〇年間の要請活動は当該市町村二五団体の合計で、五〇八件であ
る。
過去一〇年間(一九八六年から一九九五年一二月一日まで)の要請活動の
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多い上位一〇団体を取り出してみると、合計で四五二件となる。
要請数が一番多い団体では、実に一二四件の要請活動を行っている。
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第五 米軍基地、代理署名訴訟判決等に対する県民及び国民の世論
一 はじめに
本件訴訟において、県民及び国民が最も注目している点は、裁判所が、沖縄の
米軍基地の実態を通して、機関委任事務と地方自治の本旨との関係、平和的生存
権、財産権や平等原則についての憲法上の問題そして「公益論」についてどのよ
うに評価し、判断を示すかである。
代理署名訴訟において、福岡高等裁判所那覇支部は、一九九六年三月二五日、
国側の一方的な主張を受け、法解釈の技術を駆使し、右の評価・判断を回避する
判決(以下「高裁判決」という。)を下した。
高裁判決は、職務執行命令裁判の基本構造を正しく理解せず、国民が司法に期
待する中心的課題に真正面から答えずそれを回避したため、不当な判決として、
世論から厳しい批判を受けた。
ここでは、「立会・署名」の代行拒否に引き続き、今回、「公告・縦覧」の代
---------- 改ページ--------179
行を拒否する被告の行為が、いかに正当なものとして、沖縄県民及び国民の圧倒
的な支持を得ているかについて、在沖米軍基地、高裁判決等に対する県民及び国
民世論の観点から、沖縄県、NHK沖縄放送局、朝日新聞、毎日新聞、沖縄タイ
ムス及び琉球新報の調査資料を用いて考察することにする。
二 政治意識調査
1 日米安保条約の有用性について
戦後日本の防衛政策を特徴づけてきたのは、日米安保条約と、自衛隊の存在
である。一九五二年四月に発行したサンフランシスコ講和条約と、日米安保条
約は、戦後の日本の進路を決定づけたものであった。それはまた、沖縄の特異
な政治的、軍事的環境を決定づける源であり、それ以後、戦後の沖縄の苦難な
歴史が始まったことを意味する。
一九七二年五月、沖縄は本土に復帰したが、それはまた、米国が本土の米軍
基地を「沖縄並み」に使用できる権利を獲得し、日本が極東地域での米国との
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共同防衛体制下に入ったことを意味していた。
一九九一年一月、国連多国籍軍のイラク侵攻に際して、沖縄の米軍基地は、
緊急作戦基地として展開された。現在、沖縄の米軍基地は、世界各地で勃発す
る地域紛争と民族紛争に対して、文字通り、緊急作戦基地として利用されてお
り、日米安保条約は、米軍のアジア地域における広範囲な軍事作戦を保障する
源となっている。日米安保条約は、米国にとって、米軍の沖縄駐留を国際条約
上も保障し、アジアのキーストンたることを確約する最重要条約となっている。
図1は、日米安保条約が、日本の安全に役立っているかどうかについて、県
民の評価を時系列的に比較したものである。
「沖縄タイムス」「朝日新聞」では、過去一〇回にわたり同種の調査を行っ
ている。一九六九年から同七一年の復帰前の調査では、数値にかなりの変動が
あるが、復帰後の調査では、「役立つ、必要」が「役立たない、不必要、危険」
を数パーセント上回り、数値は比較的安定していた。それが、一九九五年一〇
---------- 改ページ--------181
月の調査では、これまでと異なり逆転現象が生じ、「役立たない、不必要、危
険」が三八パーセントで、「役立つ、必要」の二三パーセント、「どちらとも
いえない」の三一パーセントを上回っている。
これは、直接的には、一九九五年九月に発生した少女乱暴事件が契機となっ
たものであるが、その犯人引渡に関わる不平等な日米地位協定への反発、基地
被害・公害への不安要素等が影響を与えたものであろう。一般に、日米安保条
約の評価は、基地と生活との関係に影響されることが多いが、県民の多くは、
日米安保条約、日米地位協定のもつ不平等性に着目し、その有用性を認めなかっ
たものといえよう。
---------- 改ページ--------182
(図1)
---------- 改ページ--------183
2 米軍基地に対する不安感について
図2は、沖縄県民の米軍基地に対する「不安感」について調査したものであ
る。
世論調査が開始された一九六七年の調査から、一九九二年の最終の調査まで、
「不安だ」が、「不安を感じない」を一貫して上回っている。それは、沖縄県
民の信念にもなっているといえる。
一九七二年の復帰前後に見せた高い水準の基地不安は、米統括下での住民無
視の演習や基地公害、基地関連事故、さらに治外法権のもとに多発した米人
(米軍人、軍属、家族等)の犯罪と、人権侵害がその根底にあったといえよう。
一九七四年には、基地不安がやや下降ぎみにはなるが、八〇年代に入ると、
再上昇している。これは一九八〇年のソ連のアフガニスタン侵攻やイランの米
大使館員人質事件等により、国際的な緊張が高まり、沖縄の米軍基地もこれら
の外部要因に連動するかのように活発な米軍演習が展開されたという背景によ
るものと思われる。
一九九一年一二月の調査では、基地不安は一時的に下降している。これは、
一九八九年一一月のベルリンの壁崩壊、翌九〇年の東西ドイツの統一、翌九一
年八月のソ連の崩壊とロシア共和国への移行等、世界の緊張緩和のムードを受
けたことによるものと思われる。
結局、県民の基地に対する「不安」の基底には、米軍基地そのものへの不安
と、米軍基地が海外での戦争、紛争へと直結している不安があり、これらの要
因が相乗効果をもち、国際的緊張の進展とともに県民の不安もまた増加してい
くという傾向がうかがわれる。
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(図2)
---------- 改ページ--------186
県民の米軍基地に対する不安感の中には、基地関係から派生する事件・環境
破壊・演習被害等も大きな影響を与えている。
表1は、復帰後の米軍基地関係事故等の発生状況を表したものである。目立
つのは、航空機関連の事故の多さである(一〇二件)。基地と隣接して生活し
ている県民の生命を奪ってしまう危険性の高い航空機関連の事故が、毎年、相
当数発生しているが、それは、県民に強い衝撃と不安を与えている。
その他、水源地の汚染、赤土の流出事故、廃油による海域汚染、基地内工事
や演習等による自然破壊等、恒常的な基地被害は、県民の生命・財産の全てに
及んでおり、基地不安の大きな要因となっている。
---------- 改ページ--------187
(表1)
---------- 改ページ--------188
さらに、基地あるがゆえの「基地犯罪」も、恒常的に高い数値を示している
が、これも基地不安の大きな要因を示している。表2、表3は、一九七二年か
ら一九九四年までの米軍構成員(軍人、軍属、家族)による犯罪件数と、検挙
人員を表したものである。
これによると、一九七七年をピークに犯罪件数、検挙とも減少傾向にあると
いえるが、統計上の数値とは別に、米軍による凶悪犯罪は後を絶たない。特に、
米兵による女性暴行事件は、沖縄県警が把握しただけでも、復帰後一一〇件を
超えている。基地下での性暴力は、「アンガー・レイプ」とも呼ばれ、軍隊と
いうシステムで去勢された部分を回復するため、より弱いと想定した相手に対
して加えられる暴力である。これは、県民にとって容認できない犯罪であり、
米軍基地がある限り、女性、女児にとって誰が犠牲になってもおかしくない犯
罪である。
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(表2)
---------- 改ページ--------190
(表3)
---------- 改ページ--------191
3 米軍基地に対する態度について
図3は、県民の米軍基地に対する態度を示したものである。
復帰前後から、現在まで、「基地は不要」が「基地が必要」を一貫して上回っ
ている。
復帰を願望した沖縄の理念と主張は、異民族支配からの脱却(復帰)、人権
の回復、反戦・平和の希求の三つに集約できる。特に、沖縄は、第二次世界大
戦で、日本国内で住民を巻き込んだ唯一の地上戦がおこなわれただけに、県民
の平和に寄せる期待は特に強いものがある。米軍の基地建設と共に開始された
沖縄の戦後、復帰しても「本土並」には整理・縮小されない米軍基地、その歴
史の中で、住民の眼前に大きく横たわる米軍基地に対して、県民は、一貫して
「不必要」といっているわけである。
---------- 改ページ--------192
(図3)
---------- 改ページ--------193
4 米軍基地の現状と将来について
復帰前の沖縄の米軍基地は、「太平洋の要石」といわれたが、復帰後も、米
軍の西太平洋における最大戦略拠点であることに変化はない。この米軍基地は、
日米安保再定義により、その機能を更に強化し、役割が固定化されようとして
いる。
図4は、その米軍基地の現状と将来に関する県民の世論を調査したものであ
る。復帰をはさんで、県民の世論は、「撤去」「早期返還」に傾斜していたが、
一九八〇年代に入ると、「縮小」を求める世論が大勢を占めるようになってい
る。
これは、沖縄県内の政治土壌の変化が大きな原因だと考えられるが、それと
ともに、米軍基地の整理、移転や軍用地の跡地利用計画が自治体等において、
独自に計画されるなど、より具体的な基地問題解決の方策がいわれるようになっ
たからだと思われる。
とりわけ、一九九五年一〇月の調査では、実に七二パーセントの県民が、基
地の「縮小」を求めており、基地禍にさらされている県民の願いは「目に見え
る形での基地縮小」であることが判然とする。
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(図4)
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「沖縄タイムス」「朝日新聞」の一九九五年一〇月の調査によると、沖縄の
基地を整理、縮小して、一部を国内の他地域へ移設するに際して、沖縄では六
一パーセントが賛成するが、本土では二八パーセントしか賛成しない。すなわ
ち受け入れを容認しない。沖縄の米軍基地の対応について、本土政府と沖縄県
との間にかなりの温度差のあることが指摘されているが、それと同様に、本土
に住む日本人と、沖縄に住む日本人との間にもかなりの温度差が感じられるも
のといえよう。
NHK沖縄放送局が、一九九五年四月に実施した戦後「五十年 沖縄」の
調査によれば、米軍基地について、「移転」(二一パーセント)よりも、「撤
去」(三三パーセント)を求める県民の意見が多いが、その移転先について、
「本土に移転」とするのは三三パーセントしかいなかった。「県内移転」に賛
成するのは一八パーセントいるが、四〇パーセントは「わからない」として判
断に窮している。
そこには、基地が移転されたならば、不安が除去されるという安心感のほか
に、仮に、基地が移転されたならば、今度はそこの住民が基地被害に苦しむだ
ろうとの苦渋の判断が込められているといえる。
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5 政府の対応、沖縄県知事の姿勢について
NHK沖縄放送局が、一九九五年四月に実施した前述の調査によれば、沖縄
の米軍基地返還に対する日本政府の姿勢は、「県民の立場に立ち交渉している」
とみるのは一五パーセント、これに対して「県民の立場に立って交渉していな
い」とみるのは五九パーセントにものぼっている。同様な調査結果は「沖縄タ
イムス」「朝日新聞」が実施した一九九五年五月の調査でも、沖縄の米軍基地
の整理・縮小の遅延と原因として「政府の取り組みが弱い」が六七パーセント
と圧倒的に高い数値を示している。
一方、一九九二年五月に、「沖縄タイムス」「朝日新聞」が実施した「復帰
二〇周年」の県民を対象とした調査では、米軍用地の強制収用に「賛成」が九
パーセント、「反対」が六一パーセント、「やむを得ない」が一六パーセント
という結果になっている。
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さらに、一九九五年一〇月の『沖縄タイムス』『朝日新聞』調査では、知事
の米軍用地強制使用問題に対する姿勢の是非を問うているが、「立会・署名」
の代行を拒否する知事の姿勢を「評価する」と回答したのは、沖縄県で八九パー
セント、本土でも六八パーセントと、県民・国民の圧倒的多数が支持している。
これに対して、「評価しない」と回答したのは、沖縄県で八パーセント、本土
では一六パーセントあるのみである。
数字から判断する限り、知事の「立会・署名」の代行の拒否に引き続き、
「公告・縦覧」の代行の拒否を支持する人々の顕在的意識(世論)は、すでに
一九九二年当時から潜在的世論となって県民の中に沈潜化していたともいえよ
う。
6 高裁判決について
高裁判決は、沖縄県知事の、平和的生存権、財産権、法の下の平等及び地方
自治に根ざした「公益」の主張をことごとく退け、「県側敗訴」の判決を下し
たものである。
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これに対し、「琉球新報」は、本判決は「一連の訴訟手続にみられた裁判所
と国の二人三脚ともいえる姿勢から、予想された判決である。」としながら、
裁判で裁かれたのは「国側の政治的言い分を限りなく取り入れる形で、自らの
権限を放棄した観のある司法そのものである。」と強い調子で司法批判を行っ
ている。さらに「この訴訟で国の主張、そして裁判所の訴訟指揮の柱として一
貫していたのは国益(公益)としての日米安保条約の履行、その体制維持」で
あるとしつつ、「しかし、いかに国策といえども、一人沖縄県民に犠牲を強い
ることは許されない。(それは)民主国家の否定になる。」と結んでいる(一
九九六年三月二六日朝刊社説)。
また、「沖縄タイムス」も、「福岡高裁那覇支部が下した判決は、正直いっ
て戦後五〇年余の苦渋への配慮は何ら感じられない。裁判になった原因がどこ
にあるかを問わず、実質審理を避けた結果であろう。」として、「判決全体か
ら感じ取れるのは、国側と同じように安保重視に偏りすぎる、という点だ。」
と指摘し、さらにまた、高裁判決は世論に背を向けたものであり、「県民の側
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からみて、とうてい容認できない。」と激しく裁判所を批判している(一九九
六年三月二六日付社説)。
また、「朝日新聞」は、「沖縄県民を失望させたのは、判決の結論だけでは
ない。審理を通じて、政府ばかりか、裁判所もまた、沖縄の米軍基地問題に正
面から取り組む意思と力を持ち合わせていなかったことを見てとったのではな
いか。裁判は、この問題を巡る沖縄と本土、日本政府や司法の間に横たわって
いる意識の溝の深さをさらけ出した。」と指摘し、「平和で人間らしい生活を
取り戻そうという県民の立場に立つことは、選挙で選ばれた知事の当然の責務
である。その役目を果たすため代理署名を拒否することが、なぜ違法とされる
のか。裁判所は、知事側のこうした声に耳を傾けようとしなかった。」と述べ
つつ、「沖縄の声は、生活に根ざした人権救済の要求である。大塚一郎裁判長
は、判決理由に沖縄への同情を付け足すことよりも、基地の現状が憲法の理念
に反しないかどうかに答えるべきであった。」と裁判所の批判をおこなってい
る(一九九六年三月二六日朝刊社説)。
一方、「毎日新聞」も、「証人調べなどの実質審理を回避し、結論を急いだ
結果がこれか。」と述べ、本判決に対し「沖縄県民は怒りや悔しさを強めてい
るのではないか。」と述べている。その上で、「今回の訴訟は、昨年の小学女
児暴行事件をきっかけにして、米軍基地の整理・縮小を求める県民世論が高ま
る中で行われた。被告は県側であったが、実際に裁かれたのは、復帰から四半
世紀になるというのに、基地集中に伴う騒音被害や米兵による犯罪などを放置
してきた国、そして安保体制のひずみだった。その意味からも、もっと踏み込
んだ判決をしてほしかったが、判決は行政機関相互間の権限行使に関する形式
的審査の範囲内にとどまり、地方自治の本旨や公益論などの憲法論争を回避し
た。残念と言わざるをえない。」と、これもまた、裁判所を強く批判する内容
となっている(一九九六年三月二六日朝刊社説)。
以上みてきたように、世論の代弁機関であるマスコミの論調は、在沖縄米軍
基地の実態などに関する実質審理もなく、国の主張を一方的に採り入れた高裁
判決に対し、それは、裁判所の本来の責務を完全に放棄したと指摘し、強い怒
りを込めて批判を加えている。
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今、裁判所に求められているのは、職務執行命令訴訟にまでいたる根本的原
因がどこにあるかを正しく受け止め、「県民の命とくらしを守る」という観点
から、「立会・署名」の代行に引き続き、「公告・縦覧」の代行をも拒否する
という沖縄県知事の主張が、果して「公益」に合致しないのか、真正面から審
理し、判断を示すことである。
7 沖縄県知事の最高裁上告について
沖縄県知事は、一九九六年四月一日、形式判断に終始した高裁判決を、「実
質審理を尽くすこともなく、基地の重圧に苦しむ沖縄の過去、現在を考慮せず、
未来に向けた基地問題の展望に欠ける」と批判するとともに、「憲法、地方自
治に関わる本質的な問題を最高裁に判断を仰ぐため」、最高裁に上告した。
これに関連し、「琉球新報」は、「福岡高等裁判所那覇支部の取った訴訟指
揮、そして判決は、政府と二人三脚の、司法権の独立とは程遠い政治的判断と
いえるものである。三権分立の民主主義のチェック機能の崩壊さえ感じさせる
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ものである。」と論じ、さらに「県の最高裁への上告は当然のことだと考える。
最高裁には、法治国家として、その基盤として輝いている憲法の光を沖縄の現
状に照射することを重ねて望みたい。」と最高裁への要望を述べている。その
うえ、更に「法治国家の危機である。司法の尊厳をかけた最後の踏ん張りを期
待したい。」と結んである(一九九六年四月二日朝刊社説)。
これは、最高裁判所に対し、司法本来の名誉と尊厳とにかけて、代理署名訴
訟にまでいたる国と県の紛争の根本的原因の解明に真正面から立ち向かい、沖
縄の米軍基地問題等について実質審理をし、判断を示す責務があり、それを強
く要望したものである。
最高裁第三小法廷に継続した代理署名訴訟は、一九九六年六月、大法廷に回
付され、同年七月一〇日、大法廷で弁論が行われ、被告が意見陳述を行った。
意見陳述の中で、被告は、「沖縄には一二七万人もの国民が生活しておりま
す。この度の職務執行命令訴訟においては、憲法が国民に保障する財産権、平
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和的財産権などの基本的人権の問題や地方自治のありようが問われていると思
います。この様な意味から、沖縄の基地問題を全国民が自らの基本的人権の保
障に関わる問題として、主体的に取り組む必要があります。」と述べ、「沖縄
の基地問題は、単に一地方の問題ではなく、すぐれて日本全体の問題である。」
と訴えた。
また、「立会・署名」代行拒否の「決断は、県民から負託を受け、県民の命
と暮らしを守る行政の責任者としてやむを得ない選択であった。」と、基地の
重圧の中、行政の最高責任者としての立場を明確にした。
被告の意見陳述に対し、全国のマスコミは大きな関心を示した。それは、沖
縄の米軍基地の実態を全国民に知らしめる契機となったのみならず、これによっ
て、これまで沖縄の米軍基地問題は一地方の問題またはやや特殊な内国的関心
事と理解される傾向にあったが、その問題の本質は、日本の民主主義の程度が
問われている、全国的・全国民的な論議が必要な最重要課題であることを、全
国・全国民に認識させるにいたった。
被告の意見陳述に対し、「沖縄タイムス」は、「過重な基地に負担を強いら
れてきた沖縄の歩みを凝縮した意見陳述の重みを、最高裁がどれだけ理解を示
し、県民が望んだ実質審理を避け、世論を一蹴した高裁判決を差し戻すのかを
見守りたい」と裁判の行く手に大きな期待をかけている。その上で、「日本国
憲法の歴史上画期的な訴訟の一つであり全国民が注目している『歴史的な裁判』
の判決は秋にも下される。『歴史に堪えうる判決』で法治国家としての司法の
砦を守ってほしい。」と最高裁に訴えた(一九九六年七月一一日朝刊社説)。
他方、「琉球新報」も、「司法の最後の良識を期待」との社説の中で、
「(沖縄県民は)安保の負担を一身に背負わされ、本土と比べ、既に違憲といっ
てもいいような状態のなかで生活を余儀なくされている。この現実を県民が
『差別的処遇』と受け取ってもなんら不思議ではないし、これに対し、なんら
適切な対応策を示し得なかった政府にこそ問題がある。繰り返し言うが、最高
裁は、沖縄の現実をしっかり見据えたうえで、判決を下してもらいたい。」と
同じく裁判所への期待を表明している(一九九六年七月一一日朝刊)。
---------- 改ページ--------205
「朝日新聞」も、「沖縄の県民世論を支えに知事が投げかけた問いに対し、
最高裁は時代に則した判断の枠組みを示すことが求められている。大法廷の判
決は、今後も繰り返されそうな職務執行命令訴訟や政府・与党の沖縄政策に影
響を与えるばかりでなく、国と地方との関係についても最高裁の見識を問うも
のとなりそうである。」と言及している(一九九六年七月一一日朝刊、三八面
の解説記事)。
沖縄の基地問題の解決の糸口を裁判所の判断に頼らざるをえないという厳し
い現実の前にあって、裁判所は、憲法の番人として、沖縄の米軍基地の実態を
直視し、適切・妥当な判断を下す責務を有し、国民も、そこにまた期待を寄せ
ているのである。
8 高裁判決後の政府の対応について
一九九六年四月一二日、橋本総理とモンデール駐日米国大使は、宜野湾市に
ある普天間飛行場の全面返還を打ちだし、それが、五日後の、橋本ークリント
---------- 改ページ--------206
ン米国大統領の会談において再確認された。
「琉球新報」では、直ちに、「日米首脳会談・緊急世論調査」を実施し、
「普天間基地返還問題」「代理署名問題」について県民世論を問うている(一
九九六年四月二一日朝刊)。
その中で、「沖縄の米軍基地の整理・縮小問題」について、「関心がある」
と答えたものが八六パーセントで、「関心がない」の九パーセントを大きく凌
いでいる。また、「軍用地強制使用問題で、今後大田知事はどうすべきか」と
いう問いでは、「軍用地契約手続の署名・代行拒否を貫くべきだ」とするのが
六三パーセント、「応じるべきだ」とするのは一八パーセント、「その他・わ
からない」が一八パーセントという結果になっている(四月二一日朝刊)。こ
れは、「立会・署名」代行の拒否の後に控える「公告・縦覧」代行問題でも、
県民世論は依然として、沖縄県知事は「拒否を貫くべきだ」と判断するのが全
体の六割を超えることを意味するものである。
---------- 改ページ--------207
本調査は、普天間基地の返還に伴う、嘉手納基地への基地機能移設の問題を
中心に、県民の判断を仰いだものであるが、県民は、基地の返還・移設は、基
地の新たなる増強と変容とが抱き合わされたものであり、日米間の「取り引き」
の一端とみなしたと考えられる。とりわけ、「普天間基地返還」以後の米軍基
地の移設等に伴う新規建設は、将来にわたる沖縄の米軍基地の維持・固定化、
さらに強化につながるものであることを敏感に受け止めた結果だと考えられる。
また、「公告・縦覧」代行の拒否を支持する世論の趨勢には、沖縄では憲法
がないがしろにされ、地方自治が危機にさらされていると感じるという県民の
意思の潮流が認められる。
これらを総合判断すると、沖縄県民は、「立会・署名」の代行の拒否に引き
続き、「公告・縦覧」の代行を拒否する被告を、一貫して強く支持していると
いえる。
三 まとめ
以上みてきたように、県内外の世論動向、マスコミ論調からみて、県民及び国
---------- 改ページ--------208
民の世論は、もしも日米安保条約が日本の平和・安全の為に必要というならば、
もうこれ以上沖縄県のみに米軍基地・安保の歪みを押しつけるべきではなく、目
に見える形で在沖米軍基地の整理・縮小を図るべきだとういう点で、意見が一致
している。
被告は、最高裁大法廷の弁論において、「基地を平和と人間の幸せに結びつく
生産の場に変え、本県を地域的特性とアジア太平洋諸国との長く友好的な交流の
歴史を活かし、日本とアジア、そして世界を結ぶ平和の交流拠点となる国際都市
の形成に、沖縄の未来を託したい。」と意見陳述した。県民が寄せる期待も、そ
の一言に尽きよう。
地方自治体の長は、地方自治の本旨に基づいて、地方自治体の行政を執行しな
ければならないが、それが、地域住民の意思・世論に支えられたとき、住民自治・
団体自治を内容とする地方自治の本旨の実現はより現実的なものとなる。
被告は、「県民の命と暮らしを守る」という視点から、「立会・署名」の代行
の拒否に引き続き、「公告・縦覧」の代行を拒否したが、それは、沖縄県民のみ
ならず国民の共感と圧倒的支持を得ているものである。
---------- 改ページ--------209
第六 米軍基地問題に対する県の対応と二一世紀への展望
一 日米両国政府等に対する基地整理・縮小等の要請
被告知事は就任以来、人類が国境を越えて普遍的に共有しなければならない崇
高な願いである反戦・平和の願いを実現するため、基地問題の解決を県政の最重
要課題に位置づけ、来る二一世紀に向けて若い世代が夢と希望の抱ける「基地の
ない平和な沖縄」をめざし、米軍基地の整理・縮小を促進している。
沖縄は、太平洋戦争・沖縄戦で「鉄の暴風」と形容される熾烈な我が国唯一の
一般住民を巻き込んだ地上戦が行われた地であり、二〇万人余の尊い生命とかけ
がえのない文化遺産、生産施設、公共施設、住居や緑をことごとく失い、文字ど
おり焦土と化した。
県民一人一人は戦禍をとおして、戦争を憎み、平和を希求し、共に助けあって
生きるという「沖縄のこころ」を身をもって体験・体得した。そして、戦争の深
い反省に立って、改めて戦争の悲惨さと平和の尊さを正しく次の世代に伝え、軍
---------- 改ページ--------210
事基地をはじめ戦争に結びつく一切のものを拒否しなければならないとの決意を
新たにした。
この県民の反戦・平和の願いは、県民の過去の戦争体験と生活実感をとおして
感得したこころからの叫びであり、未来にわたって人間的生き方を求めてやまな
い切実な願いなのである。
住民は二七年間も米国の統治下におかれ、平和憲法のもとに復帰して二三年余
を経た今もなお、広大で過密な米軍基地と隣り合わせの生活を余儀なくされその
重圧に苦悩している。
沖縄の米軍基地の存在は、県民自らが進んで選択したものではない。米軍の沖
縄占領後に米軍の軍事力によって一方的に囲い込まれたものであり、また一九五
二年の対日平和条約の発効により占領状態が終了した後は、米軍統治下の布令・
布告により地主の同意を得ずに、いわゆる銃剣とブルドーザーによって強権的に
接収され構築されてきたものである。軍用地として接収された土地は、その大部
分が農耕地や宅地であった。住民は残された荒蕪地に移住し、生活と生産の場を
求めざるを得なかった。
---------- 改ページ--------211
県民は、一九七二年の日本復帰に際して、米軍基地が大幅に整理縮小され、土
地が自分の手に戻るものと期待したが、その期待は大きく裏切られた。
「本土並み」といわれながら、沖縄返還協定によりそのままの状態で日米安保
条約及び地位協定に基づく米軍基地として提供されたのである。
祖先崇拝の念の強い沖縄では、土地はたんに作物を作る土壌とか売買の対象と
なる物品ではない。祖先が残してくれたかけがえのない遺産であり、祖先と自分
を結びつけてくれる心の紐帯ー精神的な絆となるものである。
しかし、県民の強い願いにもかかわらず、日本復帰後一九九四年三月末までに
返還された米軍基地は、全面積のわずか一四・九パーセントにすぎない。この数
字は、日本本土での返還率五九・一パーセントに比べあまりにも少ない。
地位協定二条は、日米安保条約に基づき日本国内のどこでも基地を置くことが
許される旨規定している。このいわゆる全土基地方式は、沖縄を標的とし、沖縄
に基地を置くことに限定しているわけではない。
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このように全土基地方式でありながら、国土面積の〇・六パーセントにすぎな
い沖縄だけに、在日米軍専用施設の七五パーセントが集中しているというのが現
実なのである。「日米安保条約が重要というのであれば、全国で全国民が等しく
その責任と負担を負うべきではないのか。なぜ、沖縄だけに過重な負担を押しつ
けるのか」、と県民は心の底から訴えている。
米軍基地は、戦後五〇年余を経ても相も変わらず、沖縄本島の約二〇%を占め、
とりわけ人口や産業が集積している沖縄本島中部地域に集中し、計画的な都市づ
くりや道路網の整備、産業用地の確保など沖縄の振興開発を進めるうえで大きな
制約となっている。
また、水域二九箇所・空域一五箇所にも米軍の管理権が設定されており、産業
振興を図るための埋立計画や民間航空路の円滑な運用に支障をきたしている。
たとえば、那覇港湾施設内の自由貿易地域の場合、入居企業の事業を拡大し、
新規企業を導入し、その活性化を図ろうにも、面積が狭あいのためそれができな
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い状況にある。埋立などによって水域を活用し、拡充する途があるのであるが、
米軍の訓練のための水域であるため、それができない。あるいは、今後建設を計
画している伊平屋空港の場合、その空路が伊江島訓練空域と重なるため、円滑な
運行の確保に支障をきたすことが懸念されている。
さらに、住民地域と隣接する嘉手納飛行場や普天間飛行場から発生する騒音は、
地域住民の日常生活や教育環境にも悪影響を与え、県道一〇四号線越え実弾砲撃
演習による着弾地周辺の環境破壊は看過できない状況にある。
そればかりでなく、米軍基地に起因する水質汚濁や土壌汚染などの環境破壊、
米軍人軍属による事件、航空機墜落等の事故は跡を絶たない。
特に、市街地の中央部に位置する普天間飛行場では、一九七二年の日本復帰以
来、これまで五五件もの不時着や墜落等の事故が起こっており、存在そのものの
危険性が強く指摘されている。
キャンプハンセン演習場では、県道一〇四号線を封鎖し実弾砲撃演習が実施さ
---------- 改ページ--------214
れているが、一九九一年から一九九四年までの四年間だけでも約二万発が恩納連
山に打ち込まれている。この演習は、狭い地域で、しかも住宅や学校、病院など
が近接しているため極めて危険である。
読谷補助飛行場ではパラシュート降下訓練が行われているが、施設周辺の民間
地域に訓練兵が降下するなどの事故が一九五〇年八月の訓練開始以来一九九五年
一一月末までに二九件も発生している。
沖縄県は、事件・事故が起こるたびに、再発防止や隊員の網紀粛正を申し入れ
ているがいっこうに改善されていない。
沖縄県はこのような沖縄が置かれている厳しい状況を踏まえ、県民の基本的人
権や生命、財産を守り、沖縄の地域特性を活かした振興開発により自立的発展を
図るため、これまで七回(うち五回は大田知事)の訪米をはじめ、機会あるごと
に日本政府、米国政府・連邦議会・軍関係者に直接米軍基地の整理・縮小などを
繰り返し訴えてきた。沖縄県が一九七二年の日本復帰以降日米両国政府等に対し
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行った要請等は、実に四六〇回(うち大田県政二二〇回)をかぞえ、沖縄県議会
の行った決議等も一二七回に及んでいる。
知事は、今年の六月一四日から二〇日まで、次のような目的で訪米し、ペリー
国防長官や学識経験者等と会談した。
一 「沖縄における施設及び区域に関する特別行動委員会」の中間報告で普天間
飛行場を始めとして一一施設の返還が発表されたように沖縄の米軍基地問題に
一定の前進が見られるが、しかしながら、今回の報告によって返還される米軍
基地の多くが県内の他の施設への移設を条件としているため、必ずしも県民が
十分に納得できる内容となっていないことを米国側に説明し、理解と協力を求
める。
二 現在、策定をすすめている「国際都市形成構想」とそれに付随する「基地返
還アクションプログラム」を説明し、理解と協力を求める。
三 沖縄を国際的な交流の拠点として形成するため、また広大な米軍基地の跡地
利用の一環として、日米両国の共同プロジェクトの誘致の推進を図るため、日
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米連合大学院大学の必要性について説明し、米国側の理解と協力を求める。
四 国際都市形成構想における主要プロジェクトとの関連で、米国の企業や国連
等の国際機関の誘致の可能性について意見交換を行う。
また、沖縄県は、米軍提供施設等が所在する一四都道県で構成する「渉外関
係主要都道県知事連絡協議会」を通じて、米軍基地の整理・縮小、事件・事故
の未然防止などその解決促進を政府関係省庁に強く要望している。さらに、米
軍基地から派生する諸問題のうち、現地レベルで解決可能なものは、三者連絡
協議会(知事、那覇防衛施設局長、在沖米軍四軍調整官、各軍司令官、オブザー
バーとして在沖米国総領事で構成)の場において、早期解決を図るよう強く働
きかけてきた。そして、一九九三年度からは新しい試みとして米国のワシント
ンポスト紙、ニューヨークタイムズ紙などに沖縄の米軍基地の現状等を紹介し、
マスコミを通じて広く米国民に対し、沖縄の基地問題への理解を求めている。
昨年、沖縄の米軍基地の整理・縮小などを促進するため、日米両国間に「沖
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縄における施設及び区域に関する特別行動委員会」が設置され、また国と県で
構成する「沖縄米軍基地問題協議会」が設置されるなど、明るいきざしもみえ
る。しかし、戦後五〇年の節目に県民の目に見える形での解決を目指し、一九
九四年の訪米の時米国政府・連邦議会に要請したいわゆる三事案のうち、那覇
港湾施設の返還と読谷補助飛行場におけるパラシュート降下訓練の廃止及び同
飛行場の返還については、日本政府から県内移設による解決案が提示されたが、
移設先の地元自治体や地域住民の反対が根強く、その解決は未だ見通しが立っ
ていない。また、残る県道一〇四号線越え実弾砲撃演習の廃止についても、そ
の全面廃止の見通しが立たない実情である。
このような中で、今年四月一五日に発表された「沖縄における施設及び区域
に関する特別行動委員会」の中間報告で、普天間飛行場を始めとして一一施設
の返還が発表され、沖縄の米軍基地問題に一定の前進が見られた。しかし、提
示された施設のほとんどが県内の他の施設への移設を条件としているため、県
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内自治体等から強い反発があがっており、今回の中間報告も県民が十分に納得
できる内容とはなっていない。
二 二一世紀への展望と行動―――国際都市を目指して
1 国際環境変化の中の沖縄の位置と期待される役割
沖縄は、日本の最南端・最西端に位置し、東西約一、〇〇〇キロメートル、
南北約四〇〇キロメートルの海域に広がる、五〇の有人島を含む一六〇の島々
からなる。
県都那覇市を中心に半径約三、〇〇〇キロメートルの円を描くと、その内側
には東京をはじめ北京、ソウル、上海、台北、マニラ等の主要な都市がすっぽ
り納まる。
沖縄の先人たちは、一四世紀から一六世紀にかけて、このような地理的特性
を活かし、「平和愛好の民」としてこれらの国々と盛んに友好的な交易を行い、
独自の文化を有する琉球王国を築き上げた。
沖縄の将来像は、このような先人たちの歴史的蓄積を抜きにしては語れない。
近年、アジア各地には、新たな経済圏が台頭してきている。
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この経済圏の中には、中国とアジアNIESが結び付いたもので香港と広東
省が一体化した香港・広東経済圏がある。また、台湾海峡と福建省とで構成さ
れる両岸経済圏も著しい発展が見られ、これらの経済圏はいわゆる華南経済圏
へと発展している。沖縄の身近にはこのように無尽蔵と見られる文化経済交流
圏が存在している。沖縄は、中国、韓国等の東アジア、フィリピン、タイ等の
東南アジアと日本本土との結節点に位置し、我が国の中でもこれらの国々と豊
富で最も長い国際交流の歴史を有している。加えて、我が国で唯一、亜熱帯性
気候に属し最も「アジア的」な文化が根付いており、また、県民性でも平和を
希求し共に助け合う「共生」のこころが強いことなど、アジアと日本との国際
交流・協力を深める上で必須の条件を備えている。
このような中で、今後、沖縄がその歴史的蓄積と地理的特性などを活かした
期待される役割は、アジアの国々と我が国の多面的な交流の「架け橋」として
(1) 経済・文化交流、(2) 平和貢献、(3) 国際技術協力の三つの視点から国際
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的な貢献を行い、アジア太平洋地域の平和と安定に寄与することである。
2 国際都市形成構想
一 構想の背景
第四次全国総合開発計画(以下、四全総という)は、その第X章第2ブロッ
ク別整備の基本方向において、(一〇)沖縄地方整備の基本方向として「・
・・東南アジアをはじめとする諸外国との交流拠点の形成」等によって、地
域特性を活かした沖縄の自立的発展を図ると位置付けている。
この四全総を上位計画として一九九二年九月に、国において策定された第
三次沖縄振興開発計画は、第一次、第二次の計画の基本目標であった「本土
との格差是正」と「自立的発展の基礎条件の整備」に加え、新たに「広く我
が国の経済社会及び文化の発展に寄与する特色ある地域」づくりを掲げてい
る。
そして、その具体的方向として振興開発の基本方向や部門別の推進方針の
中で、四全総で位置付けられた「南の国際交流拠点の形成」を強く打ち出し
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ている。さらに第四章「圏域別開発の方向」では、一〇〇万人余の人口を有
し、産業が集積する中南部都市圏の開発の方向として「沖縄の中核都市及び
特色ある歴史文化を反映した個性豊かな国際都市として整備するため、国際
交流、情報、研究開発等高次の都市機能の集積を図るとともに、県内、県外
及び外国との有機的な結合と円滑な交流を促進し、我が国の南における交流
拠点の形成を図る」としている。
沖縄県では、平成四年度から「国際都市形成整備構想調査」を実施し、平
成六年度には「亜熱帯交流圏における国際貢献拠点地域形成調査」を実施し
たほか、国際的ハブ機能の導入をめざした「那覇空港国際機能等整備拡充調
査」、都市モノレール建設と連動してその周辺整備をめざした「国際都市モ
ノレール地区形成調査」を実施している。
このような第三次沖縄振興開発計画や各種の調査を踏まえ、我が国を取り
巻く国際化の時代の潮流のなかで、二一世紀に向けて沖縄が進むべき道を模
索してきた中から生まれてきたのが、「国際都市形成構想」である。
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国際都市形成構想は、これまでの戦後五〇年にわたる極東アジアの軍事拠
点としての沖縄から、平和の研究や情報の発信拠点、国際的な学術研究・会
議の拠点、地球環境等の技術協力の拠点、NGO等の活動拠点など国際的な
貢献拠点へと方向転換を図り、二一世紀の成長センターといわれているアジ
アの国々と我が国の″架け橋″となることをめざしている。
二 国際都市像と基本方針
国際都市形成構想は、「経済・文化交流」、「平和貢献」、「国際技術協
力」を軸として、二一世紀に向けた沖縄の振興開発のあるべき姿ー国際都市
像を具体的に示したグランドデザインである。
この国際都市像を実現するため、以下の七つの基本方針を設定している。
(1) 基本方針1ー南北交流拠点としての「場」の形成
これを実現するためのプロジェクトとしては、迎賓館の設置、国際機関
の誘致、国際協力のための基幹的施設・機関の誘致、国際的物流機能・国
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際交易機能の整備、人材・組織の育成と活用等である。
(2) 基本方針2ー我が国の「南の地域連携軸」の形成
沖縄は、アジアと日本本土との結節点としての位置にあることから、交
流拠点としての役割を果たすと同時に、従来の境界を越えて連携・発展し
ていくため、これまで以上に地域連携を強化する。
(3) 基本方針3ー環境共生モデル地域の形成とアジアへの環境情報の発信地
球環境問題が深刻化する中で、地域開発においても環境との共生が大きな
テーマである。
沖縄では、我が国唯一の亜熱帯気候の自然環境を活かし、バイオ技術や
農業技術の面で独自の環境共生型の研究開発が進められている。これは、
今後大きな課題となるであろう発展途上国における、環境共生型の地域開
発の一つのモデルとして注目される。
沖縄が生み出した地域開発の考え方や手法を世界に向けて発信する。
(4) 基本方針4ー「国際保養リゾート」の形成と国際会議の誘致
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本格的な高齢化社会、余暇社会の到来を前にして、「健康」「ゆとり」
を一層重視した新しい観光・保養ニーズが高まってきている。
地域に根付いた魅力ある国際健康保養リゾート地域の形成を図り、地域
のニーズに沿った自立型地域振興をめざす。
(5) 基本方針5ー開発拠点地域の設定と基幹的インフラの戦略的整備
国際都市形成のための拠点整備地域を設定し、那覇空港や都市モノレー
ルなどの基幹的な都市基盤を重要プロジェクトとして国際都市にふさわし
く整備促進する。
(6) 基本方針6ー各地域の機能分担による質の高い潤いに満ちた生活空間の
形成
世界各国からの訪問客、滞在者を受け入れるため、魅力のある顔づくり
と都市生活機能の質的向上と併せて、沖縄らしさを積極的に保全し、ある
いは作り出す。
(7) 基本方針7ー地域の自主主体性を尊重した新たな行政体制等の確立
国際都市形成の推進には、地域の独自性、地域アイデンティティの確立
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が不可欠である。
地方分権は時代の潮流であり、「地方公共団体の自主性及び自立性を高め、
個性豊かで活力に満ちた地域社会の実現を図ること」として、平成七年五月
には『地方分権推進法』が制定されたところである。
沖縄の地理的、歴史的、文化的特性を活かした我が国の「南の交流拠点」
を形成するためにも、今後、さらに地方分権を進め、新たな時代に即応した
行政体制等を確立する。
以上の基本方針を踏まえ、「国際都市」形成を具体的に整備するため、付
図1に示すように、以下のような拠点を設定する。
(1) 国際交通・物流ネットワーク拠点
航空拠点地区、港湾拠点地区、拡大自由貿易地区
(2) 国際協力交流拠点
国際学園都市、外交都市、コンベンションシティ
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(3) 国際エアロネットワーク拠点
(4) 国際ビジネス拠点
(5) 国際平和交流拠点
平和創造の杜構想
(6) 国際ヘルシーリゾート開発拠点
(7) 国際産業技術研究開発拠点
国際技術開発支援地区、
(8) 国際亜熱帯農業・水産技術研究開発拠点
先端農業開発地区
(9) 国際学術交流拠点
(10)国際リゾート開発拠点
(11)国際亜熱帯自然環境保全・技術開発交流拠点
(12)亜熱帯森林修復技術研究開発拠点
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三 国際都市形成へ向けた基地返還アクションプログラム
1 国際都市形成と米軍基地
国際都市形成構想は、基地のない平和な沖縄をめざす県民の壮大なロマンで
あり、目標であり、二一世紀に向けて沖縄が進むべき方向を提示した振興開発
のグランドデザインである。
しかし、沖縄本島はその約二〇パーセントが米軍基地で占められている。都
市機能の基盤となる道路などを整備し、緑あふれるまちづくりを進め、新たな
産業を興し、雇用問題の解決を図ろうにも、米軍基地は県民の前に大きな壁と
なって立ちはだかっている。
特に、人口や産業が集積している中南部地域は、広大で過密な米軍基地の重
圧に呻吟している。中でも嘉手納町は町面積の実に八三%が米軍基地であり、
北谷町は五七%、読谷村は四七%、沖縄市は三七%、宜野湾市は三三%である。
この五市町村を平均すると、なんと五一%が米軍基地に占められている。中南
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部地域では米軍基地の広大・過密さゆえに、多くの自然緑地帯が失われ、新た
な産業用地は、海面を埋め立てることによりつくり出さざるを得ない状況にあ
り、沖縄の重要な環境資源である水際線の崩壊など海洋環境の改変を引きおこ
している。また、都市の中心に米軍基地が位置している所もあり、都市の連担
化を阻害し、さらには交通網のロスを生んでいる。日本本土の他都道府県では
とうてい考えられない厳しい沖縄の現実である。
沖縄本島中南部地域は、県都那覇市の都市圏の拡大に伴って、糸満市から石
川市までの約五〇キロメートルにわたる都市圏を形成しつつある。
中南部地域の市街地は、戦後、米軍基地の構築のため土地を接収され、追い
出された行き場のない住民がやむなく米軍基地を取り巻く形で、限られた地域
に集中して形成されてきたものである。これらの米軍基地の位置は、地形や交
通など最高の条件の地にあり、都市開発の潜在的可能性が極めて高い地域であ
る。人間のからだにたとえて言えば背骨の位置にあり、都市形成を図るうえで
大きな制約・障害となっている。
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2 基地返還アクションプログラム
沖縄を国際都市として、我が国の南の国際交流拠点として形成するには、必
要な諸機能をそれぞれにふさわしい拠点に適正に配置し、都市基盤の整備を通
じた相互の有機的連携によって効率的で均整のとれた、環境と共生した新しい
都市圏をつくらなければならない。
そのためには、付図2に示すように、中南部地域に広大な面積を有する米軍
基地はもとより、沖縄の米軍基地を整理・縮小、撤去し、その平和転用を図る
必要がある。
基地返還アクションプログラムは、このような国際都市形成構想の進捗と、
これまでの返還要望の実情、市町村の跡地利用計画の熟度、市町村の意向等を
勘案しながら、同構想の実現目標年次である二〇一五年を目途に、日本政府に
対し、米軍基地の計画的かつ段階的返還を県民の目に見える形で求める沖縄県
の行動計画である。
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基地返還アクションプログラムは、沖縄県に存在するすべての米軍基地(四
〇箇所)を対象とし、国際都市形成構想における優先度、緊急度に応じて、返
還目標期間を第T期から第V期の三段階に区分し、当該期間内で跡地利用計画
に基づく事業着手のめど付けができるよう返還を求めるものである。各期間設
定の考え方、対象となる施設・区域、国際都市形成構想における位置づけは以
下のとおりである。
第T期
第三次沖縄振興開発計画が終了する二〇〇一年を目途に、早期に返還を求め、
整備を図る必要があるもの。
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┌────────────┬─────────────────────┐
│那覇港湾施設 │国際交通・物流ネットワーク拠点 │
│ │国際ビジネス拠点 │
├────────────┼─────────────────────┤
│普天間飛行場 │国際協力交流拠点 │
│工兵隊事務所 │ │
├────────────┼─────────────────────┤
│キャンプ桑江(一部) │国際エアロネットワーク拠点 │
│知花サイト │ │
├────────────┼─────────────────────┤
│読谷補助飛行場 │国際亜熱帯農業・水産技術研究開発拠点 │
├────────────┼─────────────────────┤
│天願浅橋 │国際リゾート開発拠点 │
│ギンバル訓練場 │ │
│金武ブルービーチ訓練場 │ │
│奧間レストセンター │ │
└────────────┴─────────────────────┘
---------- 改ページ--------232
(白紙)
---------- 改ページ--------233
第U期
第四次全国総合開発計画後の第五次計画の終期が二〇一〇年と想定されるこ
とから、それまでに返還を求め、整備を図る必要があるもの。
---------- 改ページ--------234
┌────────────┬─────────────────────┐
│牧港補給地区 │国際交通・物流ネットワーク拠点 │
├────────────┼─────────────────────┤
│キャンプ瑞慶覧 │国際協力交流拠点 │
│キャンプ桑江 │ │
├────────────┼─────────────────────┤
│泡瀬通信施設 │国際産業技術研究開発拠点 │
├────────────┼─────────────────────┤
│楚辺通信所 │亜熱帯農業・水産技術研究開発拠点 │
│トリイ通信施設 │ │
│瀬名波通信施設 │ │
├────────────┼─────────────────────┤
│辺野古弾薬庫 │国際学術交流拠点 │
│慶佐次通信所 │ │
├────────────┼─────────────────────┤
│キャンプコートニー │国際リゾート開発拠点 │
│キャンプ・マクトリアス │ │
│八重岳通信所 │ │
├────────────┼─────────────────────┤
│安波訓練場 │国際亜熱帯自然環境保全・技術開発交流拠点 │
│北部訓練場 │ │
└────────────┴─────────────────────┘
---------- 改ページ--------235
第V期
国際都市形成構想の最終年次である二〇一五年までに返還を求め、整備を図る
必要があるもの。
┌────────────┬─────────────────────┐
│嘉手納飛行場 │国際エアロネットワーク拠点 │
│嘉手納弾薬庫地区 │ │
│キャンプ・シールズ │ │
│陸軍貯油施設 │ │
├────────────┼─────────────────────┤
---------- 改ページ--------236
│キャンプ・シュワブ │国際学術交流拠点 │
│ │亜熱帯森林修復技術研究開発拠点 │
├────────────┼─────────────────────┤
│キャンプ・ハンセン │亜熱帯森林修復技術研究開発拠点 │
│ │国際リゾート開発拠点 │
├────────────┼─────────────────────┤
│伊江島補助飛行場 │国際リゾート開発拠点 │
│金武レッドビーチ訓練場 │ │
│ホワイトビーチ地区 │ │
│浮原島訓練場 │ │
│津堅島訓練場 │ │
├────────────┼─────────────────────┤
│鳥島射爆撃場 │ │
│他五射爆撃場 │ │
└────────────┴─────────────────────┘
---------- 改ページ--------
付図−1 沖縄国際都市形成マスタープラン(素案)
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付図−2 沖縄国際都市形成マスタープラン(素案)と駐留軍用地
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