疎甲第二号証 陳述書
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甲第二号証
陳 述 書
私は、今回仮処分申立を行った土地の所有者です。
私は、一九九四年六月一日、前所有者の父知花昌助から贈与によってこの土地を取得し
たものです。
この土地は、叔父の知花平次郎という人の土地でした。屋号を牛知花(ウサーチバ
ナ)といいます。この方は、沖縄戦で死亡し、家督を相続する人がいなくなったことから
私の父がこれを相続することになったのです。知花平次郎さんは、沖縄戦で死亡しまし
たが、上陸した米軍に竹槍で抵抗して殺されたと聞いています。四月一日は叔父の命日に
あたります。
この土地は、米軍の上陸と同時にアメリカにより接収されてしまいます。当初は工作物
はなく、言わば黙認耕作地として、畑を作ることも出来ていました。しかし、一九五二年
ころに、象のオリが出来てからは、全く土地に立ち入ることは出来なくなりました。
父は一九七二年に沖縄の施政権が返還された後も、軍用地に土地を提供することは出来
ないとして、土地の返還を求め、契約を拒否していました。
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当時、読谷村には、契約拒否地主が約一〇〇〇名程度いました。私の住所地である波平
も六〇名の契約拒否地主がいました。読谷村は全員が一体となって、土地の返還を求め
軍用地への土地の提供を拒否していたといっても過言ではありませんでした。
しかし、防衛施設局は、様々な圧力を加えてその切り崩しを行ってきました。まず、細
切れ返還を提示してきました。それも、契約拒否地主の周辺地に対して契約拒否者がいる
ので、周辺地も併せて返還しなければならなくなったと言って脅しと騙し打ちを操り返し
ていったのです。細切れに返還され、公道に通じない、袋地状態で返還されてしまえば、
土地は利用することができず、補償金も入らない状態となり、事実上、土地は死んだ状態
になります。他の地域で細切れ返還をした例を持ち出して、読谷村内の契約拒否地主の幹
部に対して圧力を加えました。それでも折れないと、今度は、契約拒否地主の周辺地主に
対して圧力を加え、地主同士の中に分裂の種を蒔いていったのです。周辺地主から、契約
拒否地主に対して、自分の土地にまで不利益を及ぼすことになる契約拒否はやめろという
圧力を加え、村内に対立を生み出し、幹部に対する圧力を加えていったのです。
村内の契約拒否地主は、それでも頑張っていましたが、村内を分断するような状況にな
り、地域の生活が破壊され、地域行事も行えないような感情的対立までエスカレートする
ことは避けなければならないとの考えから、止むなく、全員が一致して契約をせざるを
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得ないとの結論になったのです。
波平在住の契約拒否地主は、昔からの古い共同体が、内部の感情的対立を原因として破
壌されることを回避するために、不本意ではあるけれども全員が契約をすることになりま
した。しかし、当初から契約した地主とは違うという意識から、波平軍用地主会を作り、
他の地主会とは独立して、独自の交渉力を持つことになりました。
私の父は不本意ではあるが、部落共同体に対立が生じないように契約をしましたが、今
後さらに契約を継続することになると、半ば永久に自分の土地に帰れないことになってし
まうという事から、契約更新には消極的でした。
そのよな状況の中で、私は、父昌助からこの土地を譲り受けることになりましたが、父
は私が契約更新を拒絶することを了解して、私にこの土地を譲り渡してくれました。
父は現在七九才です。契約更新して、さらに二〇年は返ってこないということになれば、
父は九九才です。父が元気なうちに、土地に返りたいというのが一番の願いです。これ
は私の家族全員の願いです。
本件土地がある地域は、波平の前島(メージマ)といわれる場所であって、波平のはず
れに位置している土地です。波平の次男、三男は、この地域に家を建てて分家し、部落は
広がっていきました。ところが、前島(メー島)が基地に取られたため、この地域には
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家を建てることができず、基地を挟んだ大当(ウフドウ)地区に家をたてて部落は広がっ
ていかざるを得ませんでした。波平部落は、基地によって分断されてしまったのです。
父も元気なうちにこの土地に入りたいと願っています。私は、父の願いを叶えてあげた
い。私は家族とともに、この土地が返ってくれば、土地に入ってお祝いをしようと考えて
いました。所有者である私が、自分の土地に入る事ができないなどということは考えても
いませんでした。
しかし、国は、本件土地のある楚辺通信所の周辺に冊を作り、地主の私も入れないと言
っています。国であれば、どのような違法なことも行えるのでしょうか。
私はこの土地を返還してもらえば、家を作ることも出来るし、農地として使用すること
もできます。
電気ガス水道などの生活に必須の設備をひくことも国は妨害するのでしょうが、とにか
く土地を返してもらいたい。
そして、国は何らの権限もなくなり、違法に私の土地を使っているのだから、まず、私
が土地に立ち入って、土地がどのようになっているのかを確認させるべきです。
私は私の父母、妻、子どもたちとこの土地に入り、私の土地がどのようになっているの
かこの目で見たいし、七九才の父にも元気なうちに土地を見せてあげたいと思います。
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私は、私の土地が戦争に繋がる、人殺しの基地として利用されることを認めるわけには
いきません。また、象のオリは、電波傍受を目的としているので、戦争の耳のような施設
です。戦争になれば、真先に攻撃目標にされる施設です。沖縄戦は、兵隊は住民の守らな
いだけではなく、邪魔になれば虐殺してでも、自分たちだけ生き残ろうとする集団である
ことを明かにしました。軍隊がいる所では大量虐殺がおこりましたが、逆に軍隊のいない
所では住民は命を守ことが出来ました。
読谷村でも、住民が「集団自決」を強要されたチビチリガマと、住民が命を守ったシム
クガマと典型的な令があります。私たちは、軍隊とは共存できない。
四月一日は、沖縄戦で米軍が沖縄本島、読谷村渡具知海岸に上陸した日です。この日か
ら沖縄本島は未曾有の惨劇が繰り返されたのです。
同じ四月一日に、私の土地は再ぴ、日本政府と米軍によって強奪されました。しかも、
戦争でもない時代に、法的な根拠もなく、強奪されたのです。
私は、七九才の父、母、私、妻、そして一〇才の長女、八才と六才の長男、次男と家族
でこの土地に入りたいと考えています。ところが、国は、象のオリのまわりにフエンスを
二重に張りめぐらし、機動隊を動員して立ち入りが出来ない状態を作っています。
誰のために、何から、何を守ろうとしているのでしょうか。私の土地を使用する権限は
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国にはありませんし、私は使用することを許可したこともありません。
私の父母、家族らが土地に帰れるように、また、戦争のための資材を私の土地からすぐ
に撤去するようにしてください。
一九九六年三月二四日
弁 護 士
伊 志 嶺 善 三 様
知 花 昌 一