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第1章
ものみの塔のマインドコントロールの理解
エホバの証人の親族や友人がものみの塔の誤りをエホバの証人に語りかけようとしても、ほぼ間違いなく、ひとつとして証人に話せなくなることが、私には分かってきた。親族たちはものみの 塔の神学をよく知っているかもしれない。だが、真実をひとたび見せつければ証人は光を見い出して組織 を離れるだろうと無邪気にも仮定して、証人は現実的な材料に欠けているかのように考えている。事はそう簡単には運ばない。
そのようなやり方の基礎となっている前提を考えると次の通りになるであろう。
(1)その人は単に正確な情報が欠けているだけだ。(2)ひとたび真実を見せてもものみの塔を離れる知的な決断を下すことは大いに「やっかい」なのだ。これ だと大概、二つの間違った前提が作られている……一つ目はその人がものみの塔に批判的な情報 を聞いていないこと。二つ目は証人自身が、客観的にものみの塔の真理性を重視して いることである。
ものみの塔の不正直さを暴いている情報を見たり聞いたりしていない証人を探 すことは並大抵のことではない。なぜ証人は問題を分かろうとしないのか。明らかに、何らか事情で実際の情報を客観的に分析することが妨害させられてきた。証人たちの心は、組織へを疑問を素早く切り上げるように訓練させられている。どこからか、「遠くに行ってもいいけど、そんなに遠くに行かないよう」、効果的に耳に届き、壁が そびえ立つ。その人はマインドコントロールの被害者であり、またものみの塔がエホ バの証人の心に植えつけた偏見や憶測はことごとく、実際に物事を客観的に見な いようにさせる。証人の友人も親族たちも、それが十分、分かっていない。
心から愛している母親が法廷で第一級殺人犯の尋問に立たされているのを目の当りにする子供の姿にだぶらせる人もいるかもしれない。人間の性格と個性の複雑さを理解しうるほどには成熟していないのだから、その子供は圧倒的な力で母 親に対する思いに沿って動かされるだろうし、母親が殺人犯だと納得させようとしても、間 違いなく拒絶する(実際にその根拠もなくても)。
下に書かれたイラストは、実際にエホバの証人の心の中で起きているとそれほどかけ離れ
てはいない。エホバの証人は組織が「母」であり、エホバが「父」であると教えられている。エホバは直接、エホバの証人には語りかけないのだから、証人は導きと指図を求めて組織に依存しなければならない。エホバの証人はどれほど「母」に信頼
が置けるか、母親がいなければ暮らしていけだろうか、繰り返し、繰り返し、記憶させられる。エホバの証人に手を差し伸べようとする外部の者は、悪魔とみなさ
れ、危険人物と思われる。エホバの証人は、ふつう考えられるほどの兄弟関係と集い(週5回の集会)を持つ同じ家族の一員であり、安心していられ、かつ「愛
されている」という感情を持つと、「母」のことばが強化される。サタンの本だからと言って、「母」はエホバの証人の客観的な思考を妨害
し、どんなものであれ自分に批判的な本を読まないよう、証人に教えてきた。そうした書物は証
人に強烈な反応を生じさせる。エホバの証人は、「母」の動機や真実性を疑わな
いだけだ。実際、それに挑戦しないとは思わない。母の養育能力やその主張を信頼しなく
なるなら(そして感情的なつながりを断ち切って)、客観的に考え始めるだろう。
母なる組織……彼らの心に届くのがなぜそんなに困難なのか
実際には何が働いているのか
どうすれば証人の心の中にものみの塔の真実性と養育能力についての疑問を植えつけ られるのだろうか。聖書のギリシア語本文が実際に述べている内容を示したり、 どうやって組織が何年にもわたって解釈を変えてきたかを示したり、ものみの塔が誤って解釈している聖句を用いて疑いを植えつけようと考えてきた人もいる。しかしながら、この方法には2つの落とし穴がある。その1つは、会話の中でいかなる疑問が出現しようと、事実上、ものみの塔はその答えを持っていることを証人 は知っている。その組織の教えの正当性を疑うようには訓練されていないし、「 母」が答えを持っていることで満足するように訓練させられているだけだ。だか ら、たとえ証人が玄関口で迷っても、書籍と雑誌を取りに戻れば助けが得られると分かっている。そうしてその場で答えがないために生じる不快感から抜け出せる。 実際、自発的に答えを携えて戻ることがしばしばある。話の合間にものみの塔に挑 戦してくる人は本当は真理に興味があるのではなく、本当のところ「真理の反対者」で あると、ほかの証人が彼を説得にかかるだろう。そして、実際に、ものみの塔の批判やその解釈への質問に答えようと家に戻る証人はほとんどいない。
証人が聖書を客観的に論じる用意があると感じられるまで、事実上、証人に対 して全く聖書を用いない立場を採用する人もいる。大勢のクリスチャンにすれば それは驚きであろうが、一旦、証人のマインドコントロールの複雑さを理解すれ ばそれは大きな意味を持ってくる。
ものみの塔の嘘預言を指摘してものみの塔組織の「母親性」について疑いの種を植えつけようとする人たちもいた。一般的には、ある事柄について述べている古いものみの塔の書籍を証人たちに示した上で、現在のものみの塔組織が述べていることと比較する形が取られる。あるいは、ものみの塔の政策の変わりやすさを指摘することも含まれる。メキシコでエホバの証人が行った贈賄と軍務の黙認と、数年前にアフリカのマラウィで行れた1万人の証人の財産と生命の喪失の黙認(なぜなら25セントの政党証を購入しなかったから)を比べることなど。
証拠としてあなたが用いるものを本当に喜んで調べる状況にあるな ら、「彼らに彼ら自身の書籍を用いる」方法は採用できるが、多くのエホバの証人 はものみの塔に批判的なものは調べないだろう。そして多くの場合、このやり方はその効果が証明されていない。ものみの塔の古い書籍を用いて成功するのは、たいていの場合、証人の心が開かれていて、すでに客観的な尺度を身に付けている時に限る。そうした時にはどんなものでも用いなさい。重要な障害物は打ち倒されている。
しかし、大勢の人には分かるだろう……肯定的な耳を持たない限 り、証人との会話には、直接、『ものみの塔』が含まれていてはならない。そうしなければずーっとあなたに耳を貸さないはずだ。それなら、我々には何ができるのだろう。
議論によって閉ざされた心を開く
偏向した人の心に届いてその偏向を穏やかにさらす最も良い方法は(その人の エゴを攻撃しないで)、ものみの塔製のマインドコントロールときわ めて類似した例について論じることである。特別に関心を持たな い不名誉な評判についてである。たとえばエホバの証人はモルモンや統一教会をカルトと 考える。それも、その方法論よりもむしろ彼らの教義の根拠に対してである。エ ホバの証人たちはカルトの用いるマインドコントロールに詳しくはない。 それを言って見なさい。統一協会のやり方を教えると驚きの目で迎えられるだろう。統一 教会の成員に対する協会の思考統制、感情統制、欲望と情報に対する統制といったマインドコントロールの四つの影響を論じると、証人は魅せられた聴衆に過ぎないの が見えてくるかもしれない。あなたはエホバの証人や組織を脅してはいない。全 くそんなことはない。しかし、もし彼らがあなたを怪しむとすると、それはあなたがものみの塔も統一協会と一緒だと言おうとしているときだ。
従って、エホバの証人に対するときときは、できるだけさりげなく装い、 攻撃的になってはならないことが大切だ。エホバの証人は、 ものみの塔に批判的なものに抵抗するよう訓練しているから、彼らの心の中に平行したものを引き出そうとするとき、ものみの塔を俎上に乗せないようにしなければならない。たとえば、もし統一協会が用いる情報統制を説明しようとするなら、ものみの塔と 比較しようとしてはならない。エホバの証人に結論を出させよう。段々と類似性 を十分に感じとれるなんてすごいですねと、疑問から生じる利益を差し上げなさい。彼らには時間が必要だ。経験から言って、証人が問題を把握し始める前であっても、マインドコントロール手法を論じる、肩肘張らないリラックスした話し合いの時間を設けても良い。マインドコントロールを主題とした映画を一緒に見なさい。彼 らに猶予を与え、自分の結論を出させなさい。
会話のきっかけ
カルトのメンバーを専門とする救出カウンセラーが用いている、実証済みの方法は、うまく計画してエホバの証人との会話を設定することである。そうすれば 証人は脅かされるとは思わない。会話がさりげなく始められるなら、たとえばバス停や飛行機の中、あるいは行列待ち、あるいは雑貨店の中でエホバの証人の隣に誰かが座ってもそこに居る人を怖がったりはしない。
その一例。奥さんがエホバの証人だったとする。夫は、妻との論争が意味のないことであり、偽預言に映るものみの塔の古い資料を見せることも価値のないと分かっている。旅行の途中に妻の隣に座るよう元モルモン信者あるいは元統一教会の元メンバーと取り決める。元信者は彼らの経験について、さりげなく会話を始める。その時、証人に対してたくさん質問をしたり、大げさに奇妙なことを尋ねないように取り決める。
うまく計画されたこの種の会話は、緊張した話し合いのための土壌を用意するかもし れない。それも前もって計画される。証人の家族あるいはものみの塔からエホバの証人を救出しようとするクリスチャンは、元カルトのメンバー(元エホバの証人ではなく)と親交 を持ち、食事に招く。エホバの証人が脅かされないことが大切である。だから伝道はしないこと。会話は次のような目標に向けて演出されること。
・以前属していた宗派で用いられている操りの技巧。
・彼らにとっては、なぜ「真理」と思われたか。
・コントロールを受けていたと、どうして気がついたのか(宗教上の議論を避けなさい)
・元信者はどのようにそれに対処したか。なぜそれが背教だと思えたか。
・属していたグループはどのように教義を変えたか。
またなぜ、偽預言をしたか(もう一度言う……聖書の議論を避けなさい)
・カルトが進めた恐怖と罪。
・カルトで吹き込まれた偽りの信頼感。
・カルトで育まれた巧妙な自己義認。
・キリスト教の歴史に関するカルトの無知。
読者は、はじめから聖書を用いない考え方にとまどうかもしれない。聖書を取 り上げると、証人の思考「様式」に火を付けてしまうことを理解しないといけな い。本当のところ、エホバの証人は文脈の上で聖書をよく知らないけれども、そうした議論に居心地の良さを感じている。目標は居心地の悪い領域に引き込むことであり、それも無意識のうちに足を踏み入れない考えの領域に、である。彼らが都合よく無視し、決して考えることのない問題についての考えを進めているのだ。不都合なときに聖書を持ち出 すと、彼らの感傷的な思慮深さ(あなたが骨折って作ってきたもの)に釘を差すだけではなく、彼らだけが聖書をすべて知っており、あなたが「真理」の外にいる とする十分な自信を回復させるだけである。彼らに教えようとする役目は終わってしまう。たいていは、クリスチャンは証人を「聖書論議」に引き入れようとする努力 を難破させてきた。悲しいことに、実際、クリスチャンは証人が答えられない聖句や明確な論点を持ち出して証人と意志を交わそう とする。実際の結果は、エホバの証人が二度と話しをしなくなったときにはっきりしてくる。そうした場合、勝負はついてしまっている。いまだに「証人が聖書を知っていて、真理 を持っている」と、信じている。
エホバの証人の胸の内 証人にとって批判的な調査をするといった「危険水域」に入るのを妨げる強力な動機にはどのいったものが考えられるだろうか……ずばり、動機は「恐れ」からである。心の中に横たわっている疑問は、保身に置き換えられる。超自然の「神」を信じるクリスチャンの概念は、比較的目に見える象徴、文字通りの組織(「神」の組織)に置き換えられる。組織に奉仕 することは「神」に奉仕するに等しいと、証人は学んでいる。組織は「母」 であり、「神」は「父」である。証人は「二人の親」に従うべきである。証人は「神」との本当の相互の関係を分からないし、経験できないから、証人と「神」との唯一の結 びつきは、目に見える組織を通してである。だから、それが証人にとっ ての「神」になってしまう(しかし証人はそれを認めないし、それに気づいていない)。もし実際に組織が神から命令されていないなら、証人はほかに進むべき具体的な安全策を持たない。証人は「ほかに行くところがあるだろうか」と問う。ものみの塔体制全体の墓穴を掘っているおびただしい量の実際の情報を無視し続けながら、歳を重ねるほど、塔の体制にしがみ続ける。現実を無視すればするほど、証人の世界は狭くなる。絶対に変わるものかとかたくなになり、真理を持っていると、以前よりも確信を強める。証人は敵に対抗してあらゆる種類の精神的バリケードをそびえ立たせて(それは虚構 ではあるが)自ら塹壕の中に身を沈める。現実の世界を用いて証人に近づこうとする人には信じられないだろうが、それは安全の感覚を失うようなトラウマから遠ざかるための保護回路になる。偽預言と組織の首尾一貫性のなさを合理的するためには、証人は本当に組織の中には矛盾がないと、自分を偽らないといけなくなる。 |
背教の恐怖
背教徒はしばしば利己心に訴え、聖書を自分なりに解釈する自由を含め、幾つもの自由が奪われてきた、と主張します。(創世記3:1−5と比較してください。)汚れをもたらそうとするそれらの人たちが提唱しているのは、実際には「大いなるバビロン」の、胸の悪くなるような教えに戻ることにほかなりません。(啓示17:5。ペテロ第二2:19−22)肉に訴え、家から家を回って証言するつまらない仕事は「不要である」、もしくは「聖書的な根拠がない」ので、”のんきにやる”ことを以前の友に勧める人たちもいます。(マタイ16:22、23と比較してください。)確かに、滑らかな話し方をするそのような人たちは、表向きは身体的にも道徳的にも清く見えるかもしれませんが、内面では誇り高い独立的な考えに屈し、霊的に汚れています。彼らはエホバについて、………学んだ事柄をすべて忘れてしまいました。
元エホバの証人なら、上に引用した雑誌「ものみの塔」1987/11/1号 P.19,20 の引用をこう評するだろう。……「雑誌『ものみの塔』のページに見られる典型的なものの言い方だ」。「中傷、あてこすり」はまったくのところ、偏見と閉鎖的な精神の特徴である。ものみの塔組織を離れる決心をしたエホバの証人たったら、なぜ人が組織を離れるのか、その問題は何であるかについて、嘘の情報をでっち上げる証
人が会衆内にいるのがほとんどだ。去る者は、確かに誇り高かったり、戸別訪問を軽蔑したり、ホモだったり、売春婦だと考えて自分を慰めているはずだ。素直に口に出す者もいる。「この組織のほかには、尊敬すべき道はない」。
ものみの塔の執筆委員会がその年代計算にひび割れを発見したという噂が外に漏れたとき、
即ち、1979年から1980年にかけて、私は、統治体のあるブルックリン本部で明らかになっていた風潮が忘れられない。それこそ、それはラップに隠された情報だっ
た。………それを口に出せば、兄弟たちの心に嘘を吹き込むことになると言われていた。時々、工場監督から次のようなことばを聞いた。……「君たちは兄弟たちを信頼でき
ないはずだ」。職場を捨てる恐れがあるから、彼らは監視され、治安維持活動の対象になっていたはずだ。情報の流れは統制を受けるはずだった。彼らのちっぽけな心がその情報を誤解したり、肉体的に新しい自由を発展させるといけないから制限を受けるはずだった。ものみの塔の三代目会長ノーザン・ノアが何年間にもわたって、土曜日ごとにその半日をベテル奉仕に費やしていたことが忘れられない。なぜなら一度、3人か4人の兄弟たちが長い週末の旅の途中、交通事故で亡くなることがあったからだ。
何年もベテルで生活すると居心地がよくなっていたけれども、一方、すべての証人に対する生活様式へ統制は厳しくなっていた。証人たちは自分たちで大きなパーティや特別な会合を開いたり、公然たる話し合
いを始めたり、現代のものみの塔の代弁者としての活動をしてはならなかった。常に増し加わえられるしめつけは、ものみの塔が信者を徐々に信頼しなくなっていることを物語っている。どうしてこうなったのか。
似たような性質が拡散する
聖書を基礎にするカルトは、その大部分が似たような変転の段階を経験する。 彼らは従来の教会の伝統や偽りの教義、偽善からの解放を約束してスタートする。時が過ぎるにつれ、その預言は失敗して、人心は離れる。体制は新しい規律と新しい要求を用いて維持される(それは集団のエリート的な状態を要塞化するために設計される)。結局は、唯一の真のクリスチャンになるためには、格好良さが求められる。その 階級の理想主義が減退すると、律法主義と共同体精神に置き換えられねばならない。結局、人々を繋ぎ止める動機付けとして、恐怖が用いられるはずだ。悪魔、未信者、 宗教的な表象物、祝日、メディアの番組、集団外の者、特に元証人が恐怖の的にな る。「背教者」は、メンバーの心の中に恐怖を呼び起こすことばだ。ハルマゲドンの 死、地獄への墜落、そのほかの恐ろしい運命が待ち受けていると言われるからだ。聖書では「背教者」とはいわゆる別の「真理」のためにキリストの教えを離れることを意味するけれども(2ヨハネ:9、10)、カルトにおいては、その集団の出版物の中で明確に示されるように、複数のカルトの教えのいずれかを放棄する意味にゆがめられる。統一教会やアームストロング主義者たちもそうだが、疑いを差し挟む証人は、疑いを抱えている数千人のモルモン派に気づいていない(同じ理由から、彼らは不具にされる恐怖と格闘している)。自分たちだけが唯一の真の宗教であるとカルトは信じているから、組織からの離脱は、神自体から離れるに等しいと思われている。その宗教を去る者を神は見捨てないと彼らに希望を伝えることはこうした事情から重要になってくる。