第5章
預言が失敗するとき
ものみの塔に期待したあとの挫折に関する社会学的考え
外部の観察者にとって、エホバの証人の宗教運動のものの見方の中には、この世の終わりの叙述そのものよりも、もっと興味をそそるものがいくつかある。宗教運動を支持して生きる生涯の中では、彼らの予言自体、深みのある流れの川の表に見られるさざなみ、そのものである。預言が成員にどのような影響を与えたか、預言に対する信念がどのように強まったのか、成員がどのように幻滅と闘ったか、結局はどのようにしてよりかたくなに練り直したのか、‥‥‥それは深く考えさせられる材料である。
キリストの時代以来、終わりの時を研究した台本はふんだんにあった。西暦二世紀になるや、カリスマ的指導者モンタナスは、「主」の再臨が間近に迫っている、それは「新しい預言」に従って、ある特定の場所で起きるだろうとする信念に基づいており、支持者を獲得した。ハロルド・O・J・ブラウンは次のように言う。
この時代の終わりが目の前にあるとするモンタナスの確信は、結婚を差し控えたり、すでに結んだ婚約を解消して天の町の降下を待ち望むにふさわしい場所に集まるようにといったクリスチャンへの召しに進化した。天の町は期待された時には降下しなかった。従ってモンタナスとその支持者たちは妥協しなければならなかった。教会全体がキリストの再臨の延期をテーマに学びをしなければならなかったからだ。
興味深いことには、モンタナス主義者たちがすぐには野たれ死にをしなかった。小アジアのフリジアで数百年間、小さなカルトとして存続し続けた。
レオン・フェスティンガーの学説
この異常な現象を研究する上には、『預言が失敗するとき』で論を進め「認識ある非現実化の理論」を唱えたレオン・フェスティンガーには、信頼が置ける。その書の初版は、1956年に出版され、フェスティンガー、ヘンリー・リッケン、スタンレー・シャフターとの共著である。執筆者は、マリアン・キーチの小さなカルト信者の研究を指揮したチームから構成された。キーチは、自動タイプライタを通して宇宙人からたよりを受けていると主張した主婦であった。宇宙人からのたよりによれば、地球規模の大変動が到来するのであった。しかし、キーチとそのほかの選ばれた霊媒に耳を傾ける選民には、生き延びる希望があった。フェスティンガーらが出した結論は、預言が失敗しても普通の人たちが期待するのとは逆の影響が頻繁にあったという事実だった。カルトの信者たちは、しばしば、絆がいっそう強固にし、成員は自分らの行動や信念により一層の真理の確信を持ったのだ。この文章においては、この類まれなパラドックスにこそ、注意が向けられる。後半では、それを特にエホバの証人宗教運動に当てはめてみよう。フェスティンガーは、こう観察している。
確信を持つ人を変えるのは難しい。その人に賛成できませんと言えば、彼は顔を背ける。事実や数字を見せれば、その人はその情報はどこから手に入れたのかと尋ねる。道理に訴えれば、その人は要点を見ようとしない。
私たちは、全員、強い信念を変えようとしても、そのむなしさを経験した。特に強い確信を持つ人がその信念に賭けているときは、なおさらそうだ。私たちはもっともてごわい攻撃からは確信を無傷に保とうとして、巧妙にその確信を防護するすべを、色々とよく知っている。
しかし情報源が豊富であるなら、単なる信念を守るとは限らない。その人が心から信じていると仮定してみなさい。その人は一層、自分の信念に関心を持つ、そのために不合理な行動をする、そして最後にその信念は誤りであるとする証拠、それも明白な否定できない証拠を突きつけられたと仮定してみなさい。
そこで何が起こるだろうか。動揺しないどころか、たいていは、以前よりももっと信念の確かさを確信する。実際、彼は確信を強めてさらにほかの人たちをも自分の考えに転換させようとする新しい熱情に進んでしまうかもしれない。
『預言が失敗するとき』には、フェスティンガーが「非現実化」と定義した、現実に実現するはずだった預言の失敗と、それに伴うそのエネルギーの再編と、「聖なる導き」の情報源への信仰に注目をしている。フェスティンガーの理論は、次のような特有の特徴を持っているカルトを前提にしている。a)行動を伴う強い確信によって保たれた信念。b)特に現実と一致しなかった(実際には起こらなかった事柄)信念あるいは予言。c)信者は、お互いに支え合い、転回さえをするような似たような性格の信者の集団の一員である。こうした特性は全て、UFOカルトには生じている。
フェスティンガーの本の中で特に興味を引くのは、キーチ夫人の信者がどのようにしてそれぞれの現実との不一致(間違っていた日付)に反応したかである。失敗を否定しようとする試みはほとんど見られなかった。運動の中に居続けるしたたかさは鍛えられた。その多くは、合理化から生じるのではなく、集団自体の類いまれなエネルギーと宗教運動への献身性から生じる。方針の転回がなぜ、後になって集団の衰える信条体系をうまく補強するのか、ここから説明がつく。フェスティンガーはこう、書いている
しかしどんなに説明と尽くそうがそれだけでは十分ではない。現実との不一致も大事なのである。彼らが自分たちからさえも、それを隠そうとしても、その予言が嘘であり、彼らの備えが無駄だったことを当の信者さえも知っている。現実との不一致は、その事実を否定したり、それを合理化しても完全には除去されない。残された不一致を減らせる可能性のある方法はあるにはある。人々がその宗教体制は正しいと納得すればするほど、その体制はすべからく、明確に正されるはずだ。極端な例を考えてみよう。もし世界中のすべての人が何かを信じるなら、誰もその信仰の有効性には疑問の余地がない。現実との不一致のあと、方針の転回増加するのは、そのせいである。もし転回が成功をおさめるなら、効果的に味方をおおぜい集め、より多くの支持者が結集し、信者は現実との不一致を抱きながらも、そこに生きる道を得られるレベルまで下げられる。
結局のところ、UFOカルトの成員は、新しい世界を約束する外の空間からの守護神の信仰を捨てなかった。数々の預言と多くの人たちの犠牲によってその失望が強められたにもかかわらず、その集団の強靱さは変わらなかった。UFOカルトの最後の段階を要約してフェスティンガーはこう語っている。
預言の非現実化が集団の成員の確信にどんな効果を及ぼしたか、その形跡を要約する。疑う余地のない非現実化に直面したレイクシティの11人の成員のうち、クート・フロードとオーサー・ベルゲンの二人だけがキーチの本に書かれていた信仰を完全に放棄した。二人とも活動歴は浅かった。集団の5人の成員、ポスト夫妻とアームストロング夫妻とキーチ夫人(全員、大変革の前に入った者たちで、強い確信を持ち、深く関与していた)は、信仰の強さとゆるぎなさと運動を持続する意志を持っていて、預言が非現実化する時期、事件の余震の期間を潜り抜けた。クレオ・アームストロングとボブ・イーストマン(深い関係のあるレイクシティに来たのがが、エラ・ロウェルから与えられた強い確信を持っていた)は、12月21日に預言が非現実化する前よりも、いっそう強い確信が生じた‥‥‥‥。
ものみの塔に当てはめると
フェスティンガーとその協力者たちは、歴史上見られた千年王国の運動をいくつか見直している。その中にはミラー説信奉者もいた。ウィリアム・ミラーが教えたような、来たるべき1843年には、世界の終わりが到来するといった希望を中心に据えたカルトだった。1843年の預言が過ぎ去った後、ミラー説信奉者の運動に加わった人たちがどんな感情を持ったか、それはF・D・ニコルの回顧録に書いてある(彼は否定された日が過ぎても、ウィリアム・ミラーの弁護を続けた)。
私どものもっともたわいのない希望と期待は消し飛んだ。私がかつて経験したことのない嘆きの霊が襲ってきた。この世のすべての友人を失うことは、ほかに比べようのない悲劇のように思えた。日が落ちるまで泣き続けた。再臨の経験は、私のすべてのクリスチャンの経験の中でもっとも豊かでもっとも輝かしいのだと、心の底で瞑想していた。これがもし間違いであることが証明されるなら、価値のあるクリスチャンの経験はほかに残されているだろうか。それは間違いだったと聖書が証明してくれるのか。神はいないのか、天の国はないのか、黄金の故郷はないのか、楽園はないのか。これらすべて、巧妙に仕組まれた神話なのか。たわいもなくこうした事柄を望んだり、期待するのは現実性が無いのか。私たちのたわいもない希望が無くなってしまえべ、嘆いたり、涙を流すしかなかった。繰り返しになるが、私たちは日が暮れるまで泣いた。
興味あることに、フェスティンガーはその時代のいくつかの千年王国理論を幅広く剽窃していた国際聖書研究生(のちにエホバの証人として知られる)を論じようとはしなかった。1876年1月、ラッセルは元ミラー説信奉者のネルソン・バーバーと協力関係に入った。彼は1873年が人間の6千年の歴史の終わりの年として特筆されるとする。ラッセルにそれに確信を持った。
歴史家、ジェイムス・ペントンは、「バーバーがウェンデルたちと仲違いになった」と伝えている。「ウェンデルは、初め、1873年が再臨の年であり、地上が火で焼き尽くされるのを見ると信じた。その年に何事も見えなかったとき、初めは、非常にうろたえてしまった。それは「ヘラルド」の一読者、キースがベンジャミン・ウィルソンがparousiaを「臨在」と訳したことを発見したところまでだった。そしてラッセルと同じく、バーバーもペントンも、目に見えないキリストの臨在の考えを信じ始めた。彼らの考えた臨在は、その予定表の上では1874年に始まった」。
ものみの塔の歴史学者であり、、その宗教運動を批判したペントンは、ラッセルの預言に関して詳しい情報を伝える。
代表的なクリスチャンの宗教運動の中で、エホバの証人ほど、はっきりした方法と特別の日付を用いて、この世の終わりを預言することに熱中した団体はほかになかった。少なくとも、それは証人の千年王国の直の先達であった19世紀のミラー説信奉者やセカンド・アドペンチスト以来である。証人の歴史が浅いうちには、明確な終末のしるしとして、1874年、1878年、1881年、1910年、1914年、1918年、1920年、1925年などといった特定の日付に執着していた。これらの預言がことごとく失敗したとき、彼らは解釈し直したり、霊的な意味にしたり、あるときには最終的に放棄しなければならなかった。だからといって、ラッセルとその追従者は新しい日付を定めたり、あるいはばっさりとこの世の終わり、この事物の体制の終わりまで数年しかない、あるいは数ヶ月しか残されていない決めつけた。
預言が実現しなかったとき、ものみの塔に何が起きたか、後になってものみの塔自身が認めた。
「ものみの塔」と協会の同類の出版物は40年にわたり、1914年が神の王国の設立と教会の完全な栄化を証しする年であると強調した。その40年間、地上の神の民は証しの活動を営んできた。その活動はエリシヤとバブテスマのヨハネから予兆されていた。「主」の民はすべて、喜びあふれる期待感を持って、1914年を待ちに待った。その年を迎え、その年が過ぎ去ったとき、失望と無念と嘆きがあふれた。「主」の民ははなはだしい非難を受けた。彼らは聖職者とその関係筋からあざけりを受け、軽蔑を持って指差された。彼らは1914年を大げさに騒ぎ立て、その年が何事もなく過ぎ去り、彼らの「預言」が成就しなかったからである(『光』1930年。194頁)。
1914年は実現しなかったが、ほとんどの「聖書研究生」はあきらめなかった。1914/12/15号の「Watchtower」のように、ラッセルには、彼らの精神を新しい熱狂と希望で奮い立たせる能力があった。
神はその真の子どもたちに定められた時に光を与えるであろう、ふさわしい季節に「神のご計画」を理解する喜びを持つと約束された。‥‥‥たとえ変革の時が十年以内に来なくとも、それ以上何も聞く必要はない。私たちは、祝福された民、幸福な民ではないのか。私たちの神は忠実ではないのか。それ以上を知っているという者がいるなら、その者に解釈させよう。あなたがたのうちに、これ以上知っている者がいるのなら、あなたがたに教えてもらおう。「神のみことば」の中に見られるものごと以上にすばらしいものはないし、どれもがその半分にも足りないことが分かっている。
ラッセルはその年代学を再編し、世界の終わりの日付を1915年に移した。1915年、それが現実とならなかった末に、その終わりの日は、1918年と定められた。そのとき、「神が教会と数百万の教会員をことごとく滅ぼす」。
1916年、ラッセルが死んだ後、「現存する百万人は死することなし!」と題する書籍と同じ名の講演の中でラザフォードが「預言者」の役目を引き継いだと主張した。彼はアブラハム、イサク、ダビデなどのような、古代の神の子たちが1925年に地上に復活すると主張して新しい終わりの日を定めた。確かに、その中で次のように語っている。
私たちには、1925年に完全なる人間の状態でアブラハム、イサク、ヤコブたち、古代の信仰厚い預言者(特にヘブル11章で使徒たちが名を上げている者たち)が再来するしるしとなることを確信を持って期待できる。
1925年の日付は1914年よりも聖書にはっきりと示されてさえいる(「Watchtower 1922/9/1 P.262 )。
私たちの考えでは、1925年は明らかに聖書によって定められている。ノアと同じように、現代のクリスチャンは、ノアが来たるべき大洪水を信じる根拠に持っていた以上に確かなその根拠を持っている(「Watchtower」 1923/4/1 P.106 )。
ラザフォードはこれらの古代の君子のためにサンディエゴに一軒の邸宅を建てた。それは現実に完成されたのだ。預言が実現しなかった事態を乗り越えるため、証人の能力を試すかのように、その預言とその建物は1943年まで保存された。その年になって突然売却された。現代の証人は、「その建物はラザフォード兄弟のために建てられた」と教えられている。
ラザフォードは30年間、証人を改宗させるために心砕いた。UFOカルトと同じく、実現しなかった預言には失望の内にも重大なしるしがある、その日付は大事なものであると言い始めたけれど、またもや日付の設置を決断した。
1914年、1918年、1925年に関して地上のエホバの忠実な民には失望がある。束の間だけの失望である。この日付は聖書にはっきりと定められていると忠節な者は学んできた。将来、日付設定をやめること、特定の日に起きる事態の予告をやめることを学んだ。(「擁護」1931.P338,9)
ところが、その失望は長くは続かなかった。第二次世界大戦の勃発がハルマゲドンの幕開けだと考えられた。1940年のものみの塔の内部文書にはこう書かれている。
「Watchtower」 1941/9/15号の288 頁では、「私たちには、ハルマゲドンまで数ヶ月しか残されていない」とさえ述べていた。ハルマゲドンを待ち望む熱気はいつも高潮していた。ものみの塔の元ベテルファミリー、バーバラ・グリゾッティ・ハリソンは、待ち望む雰囲気を一瞥して、こう語っている。
1944年には、神の新しい世の再創造を見るまでには、自分の体のケアを先送りして、奥歯の治療を避けていた者が本当にいたのだと、エホバの証人は固く信じている(エホバが新しい体、完全な体を与えるまではもうすぐだ。だから、歯科医の診療を受けたくなかったから、痛む奥歯の痛みを軽くするために丁子の木を持ち歩いていた仕事熱心な証人を知っている。何年も経ってはいるが今でも私は艱難の切迫感といえば、丁子の木の香りを連想する)「栄光の展望」1978年。
新しい日付‥‥‥1975年
1942年、ラザフォードに終わりの日のお迎えが来て彼が過ぎ去ってしまうと、預言者のたよりを証人に与えるため、N・H・ノアが「「忠実で思慮深い奴隷」の主要メンバとしてその地位を受け継いだ。しかし彼よりももっと「評判が高かった」のは、副会長フレデリック・フランズである。『神の自由の子となってうける永遠の命』(1966年)に初めて表わされた1975年の予言のためである。この新しい日付は明確な終わりであろうと述べて注意を促し、(公的な講演やものみの塔の文書を通して)「信頼できるこの年表に従って言えば、人間創造以来6千年になるのは1975年のことです。そして人類歴史の第七の千年区分は、西暦1975年の秋に始まります」といった言葉を語った(『神の自由の子となってうける永遠の命』(1967年)29頁)。どんなエホバの証人であれ、六千年の終わりがキリストの統治する千年期の始まりを意味することを知っていた。「Awake!」 1968/10/8では、「人間の統治する六千年の後、人類がたどった苦難を終わらせ、千年間の栄光ある王国の統治がそれに続くのですから、それはどれほど神に一致していることでしょう」(14頁)。
ニューヨークの本部職員を前にして話した講演の中では、(終わりの日に関して)2千人の証人の群れの前には「何週間残されているのか、何か月残されているのか分からない」とフランズは述べた。このほかにも多くの言述があり、それは印刷された。ある旅行する監督は、終わりの日の1975年を疑うことは、信仰が全体的に不足しているのだと、公の席で示してさえいた。一年後フランズはものみの塔の四代目の会長になった。
UFOカルトやミラー説信奉者と異なっているのは、ものみの塔は、「熱狂的な兄弟たち」に責任を転嫁して、初めのうちは預言の非現実化の責任を不本意ながらも受け入れなかった。しかし多くの証人たちは憤慨したのでしまいには、ものみの塔が公然と責任をだいぶ受け入れた。
エホバの証人であった友人たちは、しばしば1975年が近づいた時の生活の変化を記していた。ジャニス・グッドラブは、身内のエホバの証人の兄弟・姉妹について、こう語っている。
1975年が近づくと緊張の兆しが増えた。家族内の空気の中でのどんなささいなこと、奇妙なことにも注意を引くようになった。秋に集団を作る鳥の群れには、ほとんど病的な魅力を感じた。「もうこれは必要ないでしょう」と、缶詰めになった食品がすべて開けられた。出入口の扉は洗濯機の後ろの壁にばらばらになっていたし、その当時5才と3才だった男の子たちは悲鳴を聞いたら台所に走って隠れるように教えられた。ビルは1975年の失敗にたいそう失望した。自殺しようとした。ビルの病室のベットに残してきたパンフレットが読まれることはなく、その家族は組織に残った。
現在のところ、1975年は無視されているが、預言の非現実化に対して正式な理由は与えられていない。枠組みとなる公式の日付も、もはや存在しない。最近の新入りの信者の中には、待ち望まれた1975年に気づいていない者さえいる。
将来に対するパターン
私たちがそれぞれの預言の非現実化の前後の数的成長を調べてみると、一つのパターンが浮かび上がってくる。おしなべて、預言の日付の前、少なくとも2年間には数字の上で急激な成長があった。いくらか衰退する道がそれに続き(不忠実な組織の「浄化」と見なされる)、そして新しく福音主義への強調があり、別な成長が唱えられる。
それぞれの預言の失敗に関わってきたのに、証人がどんなにそれを無視できたか、まともではないと思われるかもしれない。度重なる失敗の後、組織を離脱しないことは、証人に常識が欠けていると、外部の者は眺める。彼らはカルトが用いた動的なマインドコントロールを理解しない。大部分の元証人も、1914年と大事な「この世代」が食い違っているのに、ものみの塔の信者の増加率に深刻な影響を与えないことや、会長F・W・フランズの死亡を理解していない。マインドコントロールを受け、と疑問を持たないで服従する結果、現在でもラッセルの時代にあったと同じ効果が及ぶだろう。ラッセルの見解は「ほかに行くところがあるのでしょうか」だった。この態度をハリソンはこう書いている。
もちろん、それは柔軟な神秘主義や、栄光に満たされているという考え方、世俗からの離反を基礎にしたラッ セルの組織が生き延びるための鍵だった。証人たちはほかに行くところがなかった。彼らの宗教との関係は全体的であり、組織を離れることは霊的な破滅であり、感情的には滅びを意味している。彼らは確信を持たぜにはこの世で生きていく備えはなかった。それが彼らの生涯だ。組織を離れると死ぬ。
こうした、死ぬまでの隷属は世界中の数千のカルトに同じように働いている。人々はジョーンズタウンに驚愕した。「彼らはジム・ジョーンズがやっていることを知ったとき、なぜ脱会しなかったのだろうか」。ジョーンズタウンの人々は行動でそれに答えた。「ほかに行くところがあるのですか」。死ぬまでメシアに従うためにこの世との橋を焼いた。
110年以上を過ぎ、預言が失敗した後、ものみの塔運動は、失敗した予言がカルト信者の分解を意味するものではないと、十分に証明している。1975年の失敗でも、証人は2%以下の減少にとどまった。組織の歴史の記録文書に見られるように、ものみの塔は日付変更に関し、賢明な合理化をいつでも進められる。ものみの塔は世界中で約5%の率で増加を示し、ドアを叩く者は四百万人以上に上り、その同調者は一千万を超える。
ものみの塔運動の解散が来るとき(避けられないとき)それは預言の非現実化からではなく、内部からの反対からに、当然なるだろう。その日まで多くの証人の目が開かれることを望み、祈ろう。
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